春を待つ人

さくらみお

春を待つ人


「――君っておかしいね。こんな何も無い所で何を待っているの?」


 私の足元から声がした。


 空を見上げていた私が下を見れば、そこには薄茶色の犬が私を見上げていた。


 私はこの犬は知っている。

 近所の柴犬、小太郎だ。


 傍から見れば、小さな舌をチロリと出して、ハッハッハと荒い息遣い音しか聞こえないだろう。

 しかし私は不思議な能力があり、生き物の考えている言葉が分かるのだ。



「ええ、待っているの。梅が咲きだしたでしょう? だから、もうすぐ来るのよ」


 小太郎は好奇心旺盛に私を見上げ、足元でお座りをする。


「うめ? それって何? 美味しいの?」

「犬の小太郎君には分からないか。木に咲くお花の事だよ」


「ふーん。全然分からないや。僕は地面ばっかり見ているからね。黄色くて綿毛になる花とかなら、知っているけれどね」


 ふんふん、と地面を嗅ぐ仕草をする小太郎。


「ところで、何を待っているの?」

「春になると来る人を待っているのよ」

「大切な人なの?」


「そうね、大切だわ」

「大切なら、会いに行けば良いんだよ! 僕は散歩がしたい時は自分からリードを持って行くんだ」


 そう言いながら、ご自慢の赤いリードは飼い主も無く、地面に空しく引きずられている。

 きっと老いた飼い主をどこかで置いてきた様だ。実にイタズラ者の犬だ。


「ふふ、そうね。でも、いつ来るか分からないし、私はもう88歳だから動くのも大変なのよ」

「そうなの~? 君っておばあちゃんだったんだ~?」


 柴犬の小太郎は、年齢の感覚が分からないらしい。

 私はそんな幼い小太郎にくすりと笑った。


 だから私は言いたくなった。


 本当は怖くて、辛くて、誰にも言えなかった話。

 小太郎なら……物事が良く分からない小太郎なら、きっと首を傾げて「ふーん」って聞いてくれる。だから、私は小太郎に言った。



「あのね、私、もうすぐ死にそうなの」


「……え、おばあちゃん、死ぬの?」


「そうなの、その人が来る前に死んでしまいそうなの。でも……もう一度会いたいの。たった一週間。一週間だけ来てくれるあの人に」


「一週間ってどのくらい?」

「そうね、小太郎君が欠伸あくびをする時間くらい短いかな」

「へえ~! そんなに短い時間しか来ないのに、会いたいんだ」


「そうよ。私が生まれた時から毎年来てくれた人。春になると来るの。でも、今年は会えそうに無い……。私……自分で分かるの。数日後には、私はもうあの空の向こうへ行きそうなのよ」


 小太郎も私につられて青い空を見上げた。

 無垢な黒目が醜い私を見ていないから、私は言えた。


「……怖い。すごく怖いわ。去年はあの人に会えなくなるなんて思っていなかった。自分の寿命を分かっていたら、お別れを言いたかった。だから、悔しいの。あの人に会えずに逝ってしまう自分が……」


 すると、思っていたよりも大人だった小太郎は言った。



「……僕が連れてくるよ」


「……え?」


「僕はお散歩で町中の事が詳しいし、走り回るのが得意なんだ! だから、君の会いたい人をすぐに連れて来てあげる!」


 と、尻尾をふりふりする小太郎。

 私はそんないじらしい小太郎に心を打たれながらも応えた。


「無理よ……。だって小太郎君は飼い犬でしょう? 飼い主さんが心配するわ」

「平気平気! 僕、脱走するのしょっちゅうだもの。三日後までには連れて来るよ。だから、その人の名前と特徴を教えて!」


 絶対無理だと思った。


 しかし心優しい小太郎は、私の最後の願いを叶えてあげようと目はキラキラと輝き、意欲に満ちていた。

 無謀だと思いながらも、私はその人の名前を告げた。


 物覚えの悪い小太郎は、その人の名を何度も練習し、やっと覚えると身軽な体を半回転させ、


「分かった! 三日後までには絶対に連れて来るから、おばあちゃん待っていて!」


 と、私に言うと、ピョンピョンと若草の茂る野原を軽やかに駆けて行った。







 翌日は、寒い日だった。

 私は凍える体をさすりながら一日中、同じ場所で小太郎の帰りを待ったが来なかった。


 いや、来る訳がない。

 だって、小太郎は柴犬なのだ。

 犬のあの仔が、あの人を連れて来れる訳が無いのだ。

 それを知っていて……でも、もう動けなくなった私は小太郎に奇跡を願ったのだ。


 私の人生は、あの人に会うための生涯だった。

 あの人は、私がこんなにも待ちわびて恋焦がれているのに、僅かな時間しか人生を共にしてくれなかった。


 88年で、たった数時間の逢瀬。

 でも幸せだった。

 愛していた。


 最後に、会いたい……。






 時間は無情に過ぎて、三日目がやって来た。

 昨日までの寒さが嘘の様に暖かい。


 柔らかい日差しに私は照らされて、期待をした。


 ――もしかしたら、小太郎が連れて来なくても、あの人が自ら来てくれるのでは無いかと。


 暖かさに私の足元には蟻が動き出し、一昨日まで見えなかった小さな小花が咲きだした。


 来る。

 あの人はきっと来てくれる。


 最後の奇跡を起こして。

 ――お願い!












 私は待った。


 太陽は私の真上に来て、やがて傾き始め、気が付けば夕焼け空になっていた。


 私は紅色に染まる見上げ、大きくため息をつく。


 ――来なかった。

 でも、きっと明日なら……。



 そう自分の落ち込む気持ちを慰め、固まっていた体を少し動かした時、体がビキッと軋むのを感じた。

 そして、その軋みは心臓に刺さり激しい痛みが走った。


「……!」





 ……うそ……。


 ……私、死ぬの?


 苦しい。息が出来ない。

 世界が、歪んていく。

 私、このまま誰にも知られず、ひっそりと死んでしまうの……?


 嫌だ!

 死ぬのが怖い!

 一人で死ぬのが怖い!


 あの人の顔を見てから……死にたかった!




 意識が朦朧とする中、私の元へ一目散に駆けてくる茶色いシルエットが見えた。



「――おばあちゃん!!」



 小太郎だった。

 小太郎は一匹――あの人を見つけられずに、たった一匹で戻って来たのだ。


 倒れた私に小太郎は縋りついた。


「おばあちゃん!! おばあちゃん! !しっかりして!!」


「……小太郎……おかえり……」


 私が無理やり笑顔を作り、そう言うと小太郎の大きな黒目から涙がボタボタと零れた。


「おばあちゃん、居なかった! 居なかったよぉ! おばあちゃんの凄く会いたかった桜前線は居なかったんだよ!……僕、町中を探したけど……たくさん走ったけど……どこにも居なかったんだよう……」


 綺麗な茶色の毛並みがボサボサとなって、野良犬の様な小太郎。

 色んな所を探してくれたんだろう。体中にゴミや蔦が絡まっている。


「……ごめんね、小太郎……桜前線は、南の空からやって来るから……犬のお前には見つけられないのよ……」


「そんな! じゃあ、おばあちゃんはこのまま死んじゃうの?!」


 小太郎は桜の木である私を見つめ、私の根っこを揺する。


「……最後に私の花を小太郎に見せたかったな。綺麗な貝殻みたいなピンク色。でも、無理みたい……おばあちゃんは一人では桜は咲かせられないの。桜前線が来て、あの人と一緒に咲かせていたから……」


「僕、頑張ってあの山まで登って、高い所から桜前線さんに来てもらえる様に叫んでみるよ!」


 小太郎は私が生えている裏山を見上げた。

 しかし、私は首を振った。


「もう、無理よ。それよりも此処にいて」


 小太郎は何も出来なくて、何もする事が出来なくて、ウロウロと私の足元をうろついた。そんな小太郎に罪悪感と感謝の気持ちが浮かぶ。


「小太郎、良いのよ。貴方が傍に居てくれるだけで、私は寂しくないから」


 小太郎はそう言ってもまだクルクルと回り、自分に出来る事が無いか考えている。


 ……優しい仔。

 鼻をピスピスさせて、息絶え絶えの私を見守っている。


 その時――私は小太郎の尻尾を見て驚く。



「――小太郎、その尻尾」



 くるんとした薄茶と白の小太郎の尻尾。


 その尻尾の先には、どこから持って来たか分からない、ピンクの桜の花が付いていた。


「あ? あれ?」


 小太郎も気が付かなかった様だ。

 自分の尻尾を見て、ピンク色の花が付いている事に今気が付いた様だ。


「それが桜よ。その花が桜の花なのよ……」


「これが、おばあちゃんの花……」


 小太郎が自分の尻尾をまじまじと見つめる。

 

 その時、ふわりと暖かい風が吹いた。

 咽返むせかえる様な甘酸っぱい花の匂い。


 私はその懐かしい匂いに思わず空を見上げる。


「お、おばあちゃん! おばあちゃん!! あそこ! あそこに人が居る!」


 ピンク色のヴェールを纏った美しい女神。

 女神は私に微笑むと、そのヴェールを優しく揺らした。


 踊り出す女神。

 私が元気だったら、この踊りに合わせて身を揺らし、命の喜びに感謝し、桜の花を咲かせていた。

 

 ――でも、今の私にそれをする力は残っていない。


 降り注ぐ風。


 暖かい風に、小太郎の毛並みは靡き、尻尾についた桜の花が宙に舞う。



 ……良かった。


 最期に会えて――。



 その桃色の風に……懐かしいあの人に、私は満たされて目を瞑った。




「……おばあちゃん……あの人が、桜前線……?」


 小太郎がそう尋ねた時、私はもう返事は出来なかった。


「……おばあちゃん?」


 返事の無い私にあどけない黒目が覗く。


 そして、ふと空を見上げて「あ」と呟いた。


 咲くことの出来無かった桜の木の枝に、ポツンと小太郎の尻尾に付いて来た桜の花が付いている事を。



「……おばあちゃん。僕も、桜前線になれたかな」



 小太郎はそう呟くと、もう喋らない桜の木に寄り添い、桜前線の舞う春の空を、眩しそうにずっとずっと見上げていた。




ー完ー



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