Chapter1.Rosicrucian Ink

1-1 ジェフリー・バックマン

 フロンティア合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス


 ロサンゼルス群――引いては州最大の都市であるこの街は、昼間ならばビジネスマンに観光客と、多くの人で溢れかえっているはずであった。


 しかし、今は人っ子ひとりいない。代わりにハトやカラスが痙攣して地面に伏している。

 そんな異常事態の街の一角、ダウンタウンのビルの壁面をなぞるように、一人の少年が落下していた。


(死んだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! これ絶対僕死んだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!)


 心中で絶叫を上げ、今まさにコンクリートのシミと肉塊にその身を変えようとしているのは、ジェフリー・バックマン。とある事情でロサンゼルスに本社を置く民間魔術会社、ロージクルージアン株式会社――通称RCIに身を置く十五歳の少年だ。


 その腕には、黒い体に大きな目をした爬虫類、バジリスクが抱かれていた。


 事の発端は数時間前。動物園からバジリスクが脱走したことに端を発する。


 ジェフと彼の師匠は、動物園と会社が顧問契約を結ぶロサンゼルス市警の要請を受け、その捕獲任務に当たっていた。


 バジリスクといえば、その目に大きな呪いを孕んでおり、目があった者の体の自由を奪い、そのまま放置すれば自律神経が停止し、死に至る。もしも幹線道路やダウンタウンに逃げ込めば、大惨事は免れない。


 市は第三種魔術災害警報――都市の機器であると判断し、住人に避難勧告を出した。


 無人の街の中、バジリスクはダウンタウンに現れ、ジェフはそれを発見した。


 オフィスビルの屋上まで追い詰めたところで、標的を捕獲した――ところまでは良かった。


 しかし、バジリスクが屋上の縁にいたこと、ビル風が吹き荒れていたのが良くなかった。


 ジェフは確保した瞬間に、支給されていた邪視よけのサングラスを風に飛ばされ、バジリスクと目をあわせてしまった。硬直した体はバランスを崩し、捕獲用のケージを取り落としたのに続いて、地面に向かってダイブを始めた。


 それが、三秒前。


 意外なほど長い自由落下時間に、ジェフは取り乱した心が妙に落ち着いていくのを感じていた。


(ああ、もうダメだ。死ぬんだ・・・・・・。でもまあ、いいか。これでこれ以上、誰かに迷惑をかけることもないし・・・・・・)


 それを察したのか、ジェフの視線の先では、バジリスクが急に怯えた様子でもがき始めた。

(巻き込んでごめんよ・・・・・・)


 バジリスクに謝ったところで、破裂音のような轟音が耳を響く。小さい頃、海軍特殊部隊にいる両親に連れられて見学した基地で、似たような音を聞いた気がした。あれは確か艦艇の砲撃演習だったか。


 しかし、飛んできたのは、砲弾では無い――人間だ。長身に筋骨隆々の黒人男性が、文字通り横っ飛びに猛スピードでこちらに突っ込んできた。


(あれは――師匠?)


 彼の師匠、ウィラード・ハンコックは、両手を伸ばして、ジェフを抱えると、勢いをそのままに高度を落とす。やがて、両足を伸ばして着地。アスファルトをえぐりながらその勢いを殺し、停止した。


 そのまま、ジェフの懐に抱えられたバジリスクを奪うと、恐怖に固まっていたその体を腰に下げていた小型のケージにしまい込む。すると、バジリスクは、ケージに施された眠りの魔術の効果により、安らかに目蓋を閉じた。


「これでよし、だな」


 言いながら、ハンコックはサングラスをずり上げ、固まったまま抱えられる弟子を見下ろす。


「んで、ジェフ。お前、何してんだ?」


 心から困惑した表情でいうハンコックに応えたいものの、邪視の影響を受けてまばたき一つもできない今、事情を説明することはできない。


「ああ、そうか。邪視食らったのか。てっきりびびって動けなくなったもんかと・・・・・・。ちょっと待ってろ」


 ハンコックはポケットから邪視避けのサングラスと合わせて支給された、解呪効果のある薬品の入った小瓶を取り出すと、器用に片手で蓋を外して、ジェフの頭に中身を振りかけてやる。


 すると、効果はすぐに現れた。


「ぶはぁ!」


 溺れているところを引き上げられたかのように、大きく息を吸い込み――


「あああああああああああああ! 目ん玉痛いいいいいいいいいいいいいい!」


 両手で目を覆って、ハンコックの腕の中で身をよじり始めた。落下している間も邪視の影響で目を閉じられなかったせいなのだが、それを見るハンコックの目は、悍ましいモノを見るかのように歪んでいる。


「えい」


「ぶぎゃ!」


 ハンコックが腕を下ろして、ジェフはモロに背中からアスファルトに叩きつけられる。


「なにすんですか・・・・・・」


 背中と目の痛みで、両眼を覆ったまま脳天を支点にブリッジするジェフの姿は、なんとも名状し難く冒涜的だ。


「いや、悪い。なんか気持ち悪くて。人間サイズの芋虫抱えてるみたいでさ・・・・・・。昔そんなのとやりあったの思い出して・・・・・・」


 流石にやりすぎたと思ったのか、あるいは悍ましい過去を思い出しているのか、ハンコックの語り口は、苦虫を噛み潰したようだ。


 ジェフが立ち上がるのを待って、ハンコックは背中の汚れを払ってやりながら尋ねる。


「んで、なにがあったんだ? 死にかかっちゃいるけど、バジリスクは確保してたっていうのは、俺としては褒めていいのか叱りゃいいのかわかんねえ」


「それは、その・・・・・・。えーっと――」


 ジェフは、ことのあらましを正直話した。


「そうか――」


 聞いたハンコックのリアクションは、淡々としていた。しかし、それはすぐに取り繕っているにすぎないと分かった。肩は震え、必死に唇を結んでいる。あまつさえ、


「ブフッ!」


 とっさに押さえた口から、笑い声が漏れた。


「――ブッ・・・・・・アハハハハハハハハハハハハハハ! 無理だわ! 笑うわこんなん! お前マジ? ビル風? ビル風にやられたの? アハハハハハハハハハハハハハハ! もー腹痛てぇ! 笑い死にさせるつもりかよ!」


 とうとう堪えきれなくなったハンコックは、文字通り腹を抱えての大笑いを始める。

 こういう時、いっそ怒鳴りつけるタイプの人間が師匠なら楽だったのだろうかと思う。どうも、このおっさんは、「笑って許す」という言葉の意味を履き違えている気がしてならない。


 話題を変えるべく、ジェフはハンコックに尋ねる。


「それで、あの、師匠。どうやってここが?」


「ああ、俺か? 情報部からお前がビルから落ちたって聞いてさ、ちょうど同じ道の突き当たりにいたし、いい感じの廃ビルがあったから、足場にしてな」


 ハンコックが指差す先は、数百メートルは離れた、こちらからではほとんど豆粒にしか見えないビルだ。解体業者がフェンスで周囲を囲んでいるのが辛うじて見えはするが、向こうに人が立っていても、こちらからはわからないだろう。ましてや、そのビルの外壁を蹴ってこちらに飛んでくるなど、並の魔術師ではまずあり得ない。それをなすのは、ましてや、事もなげに話すことができるのは、ハンコックが身体強化魔術において達人級の実力であることに他ならない。


 ジェフが唖然としていると、ハンコックの指の先で異変が現れる。


「あれ?」


「どうしたよ?」


「いや、ビルが歪んだような気がして・・・・・・」


「おいおい、大丈夫か? 邪視の魔力が脳に回っちまったってなるとやっかいだな。お前を先に病院に――」


 今度はハンコックの言葉が止まる。強化された感覚神経が何か異変を捉えたのだろう。廃ビルの方へ振り返る。ずっとそっちに目を向けていたジェフも、同じものを捉えていた。


 廃ビルは、こちらから見ても明らかなほど全身にヒビが入り――いや、今なおヒビを広げている。そして、ハンコックが振り返ってからきっかり三秒半後、轟音と共に噴煙を撒き散らし、廃ビルは崩れ去った。


「・・・・・・よし、逃げるぞ!」


 ハンコックは、言うや否やバジリスクの入ったケージをジェフに放り投げ、RCI本社に向かって走り出す。もっとも、足跡がアスファルトに残っていないし、ジェフが慌てて走り出して追いつけるくらいのなので、魔術は使っていないようだ。


「ちょ、師匠? この子、市警に渡さなきゃ!」


「んなもん、情報部にやらせりゃいいんだよ! もしくは動物園に直接返すかな!」


「うわっ! 最低だこの人!」


 ダッシュする二人の後ろで巻き上がった噴煙は、ダウンタウンの一角を完全に埋め尽くしていた。

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