僕と祖母の88歳

Tonny Mandalvic

僕と祖母と両親の88歳

 今はこの手記を書くことができるだろう。

 そのうち、僕は手記を書くことができなくなる。

 この手記を書くことができるのはそう長くないだろう。

 後もう何もなくなってきているのだから。


 祖母は、家庭での介護ができなくなって、老人ホームに入れられた。

 幻覚が見えるようになったので、家庭での生活ができなくなったからだ。

 そのあとは特に何もしなかった。

 孫なんて言うのは祖父母に関しては金づるだとしか思っていないので、興味がわかないという人もいるだろう。

 むしろ祖父母について絶対に介護や面倒を見なければならないと強要する人のほうが共感を得ることは難しいと思う。


 両親も、自分が生きるので手いっぱいだったので、介護はしないで、金を払って老人ホームに入れて解決した。

 正直、親を面倒見続けることは難しいだろう。

 40㎏以上の体を清掃したり、トイレの世話をしたりということを自分一人で行うことはできなかった。

 なので金で解決した。

 金で解決しなければ自分の心が壊れてしまうような気がしたからだ。




 そして、母が産んでから88年がたった。

 自分は、甥たちに老人ホームに入れられた。

 老人ホームに入れられるだけ幸せかもしれない。

 老人ホームでは適当に過ごす。

 毎日当然ながら自分より年下の介護師たちが世話をしてくれる。


「藤倉さん。今日も元気ですか。」


 私はうなずき、周りを見る。

 周りの老人たちも適当に過ごしているようだ。


 老人ホームにいればいろんな人間模様が見られる。


 成功者だったもの、私のように敗北者だったもの、すべて平等に老いは訪れる。


 成功者と思われたが人望がないものを見ていると面白いし、逆に幸せな家族を見ていると羨ましくなる。


 結局義務教育を修了した後は自由になっているのだが、生まれた瞬間と同様に死は平等に訪れる。

 老人ホームはその前の幼児期や義務教育期のように保護者が親から子供たちに代わっただけで、制約がある生活となっているように感じる。

 保護者が子供たちなら介護士は教師といったところか。


 働いていた時は自分より年下の人間には敬語を使われていたが、介護士たちは、まるで子供をあやすかのような言葉をかけてくる。

 老人になるともう一度子供になるようである。


 この文章を打っていると、介護士がやってくる。

 朝食の時間となったようだ。

 昔に比べて食べられなくなった。

 生きている中で食事しか楽しみがない。

 それは今も昔も変わらない。

 食事の風景を見ていると面白い。昔はみな自分で食べていたのだが、私のように幸いにして自分で食べられるものもいれば、介護士に乳児のように与えられるもの、

 点滴によって養分を与えられるものもいる。

 朝食が終わると退屈なレクリエーションの時間である。

 周囲ができるものが限られるため、周囲に合わせたレクリエーションをしなければならない。退屈である。

 昔、障害を持つ子供の介護施設に行って体は動かないが頭はしっかりしている子供が、体を動かせないために、障害を持つほかの子供ができないことを退屈に思うという話を思い出した。



 自由時間になる。まだ文章は書けそうだ。



 どんなヒーローも、どんなヒロインも、どんな悪人も、イケメンも美女も不細工も、最期は何も変わらない。

 かわるのは残してきたものだけである。

 私は何も残してこなかった。

 私を記憶するものは死んで数年もすれば忘れてしまうだろう。

 今そばにいる介護士の彼女だって、現在だから私という存在を覚えているだけであって、私が死んだら存在を忘れてしまうであろう。


 



 年を取るとはこのようなことである。

 どうせこのような文書を書いていたって、誰にも読まれない。

 誰にも読まれないということは、この世から私の存在は認識されないということである。

 私の存在は、そのうち消えてなくなるのであろう。



 晩になる。風呂の介助を受ける。

 風呂の介助の際には介護士の手を煩わせることとなる。

 自分の体を他人に見せることは抵抗がないが、汚物を見せているようで、あまり好きではない。




 今日も退屈な一日が終わった。

 後どれだけ正常な知能を保ったまま生活できるだろうか。

 もうあと数年もしたら何も認識できなくなってしまうのではないだろうか。

 何も認識できなくなった自分はどのようになるのだろうか。

 何も表現できなくなった自分はどのようになるのだろうか。


 子供のころは死への恐怖感は非常にあった。

 大人になるにつれて、自死を選ぶことはできないが、あまりに人生が退屈すぎて、死にたくなる日々が続いた。

 一瞬にしてこの世から消えてしまいたいと思う日々が続いた。


 高齢になるにつれて、だんだん何もわからなくなってくる。

 何もわからないということは死ぬということがわからないということである。

 また、人間として感覚をなくしてしまうということである。

 極論を言うとアメーバと同じである。

 自分がアメーバのようになったらどのようになるのだろうか。

 周りの介護士たちはどのようにするのだろうか。

 今周りの介護士たちがほかの認知症の進行した住民のように扱うのだろうか。

 それとも捨てられてしまうのだろうか。


 高齢化する自分の意味のなさを考えながら今日も眠りにつく。

 明日は記憶をなくしているといいな。











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僕と祖母の88歳 Tonny Mandalvic @Tonny-August3

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