逮捕された小説家と、その編集者の話

王子

逮捕された小説家と、その編集者の話

「詠士(いいづか)さん、手紙を群青出版社宛に送るのはやめてください」

 ガラス板の向こうで興味深そうに自身の手の傷を眺めていた人物が顔を上げ、首を傾げた。切れ長のクールな目と主張しない唇はパーツで見たら整っているが、少し歪んで出っ張った鼻が顔全体の印象を濁している。

「なぜだい?」

「拘置所からの手紙には、桜の判が押されるでしょう。意外と知らない人の多い知識ですけど、こっちは出版社ですからね。無駄な知識や教養あっての職業です。僕が受け取る前に他の人の目に触れていたら、どうなっていたか」

 僕がそういうと、目の前の彼はわざとらしく大きなため息をつき、また手の傷を見始める。手のひらの中心から手首を通り肘の関節までを一直線に結ぶその傷は、だいぶ塞がってきたとは言え見ているだけで痛い。

「槿花(きんか)くんは相も変わらず細かい事に口煩いな。私が締め切りに間に合わない時もいつもそうだった。計画性を持てだとか集中力が足りないだとか。そんな御託を並べて小説が書けるなら私は今こうなっていないだろう」

「いや、それはどう考えたって締め切りを守らない詠士さんが悪いじゃないですか。そうじゃなくて、失踪中の小説家が実は捕まっていました。今は拘置所にいます。なんて洒落になりませんよ。上とマスコミにどう説明したら良いんですか。ああ、考えただけで胃が痛い」

 少し大袈裟に言ってみたが、なんだか本当に胃が痛くなってきた。この人ならやりかねない。

「問題ないだろう。私の本名を知っているのは世界中に担当編集の君一人だ。天才小説家の『霊界堂侃諤(れいかいどう かんがく)』はスランプに陥り、生きる目的を失って行方をくらませている、という君が流したデマを世の中は信じ切っている筈だ」

「まあ、そう言われればそうなんですけど」

 目の前に座る霊界堂侃諤、もとい詠士四十物谷(いいづか あいものや)が拘置所に入る事になってもう数ヶ月が経った。

 独特な世界観と圧倒的な文才で、デビュー作から近年類を見ないずば抜けた販売部数を記録し、一躍人気小説家になった彼は素性を全く明かさなかった。本名どころか、略歴、生年月日、出身地、性別さえも隠している。その為、彼の殺人がニュースになって「詠士四十物谷」と言う名前が世に出た時も、気に留める物など誰もいなかった。関係ない人から見れば、毎日のニュースの一コーナーに過ぎないのだ。

 彼の罪状は殺人。そしてその動機は「本が読みたかったから」だ。この動機を知っているのも、世界中に僕一人だけ。

「それで、どうですか?拘置所の居心地は」

 そう問いかけると、待ってましたとばかりに目を輝かせて語り始める。

「なかなか悪くないね。今の所、読書に適している環境ランキング二位にランクインしているが、これから時間が経つにつれて一位に昇格する可能性も否めない」

「そうですか。暫定一位はどこでしたっけ」

「精神科病棟だよ。あそこは実に良かった。読書するために作られたようなものだ」

 霊界堂侃諤は、去年から突如スランプに陥っていた。そこから脱出するため、本人は僕にこう提案してきた。「しばらく執筆をやめてひたすら本を読む事にする」と。なぜそんな事をするのか理由を聞いたところ

「私の書いた小説以外でこの世に存在する物は全てクズだ。自分の作品以外は読んだ事もないが、タイトルの時点で面白くもなんとも無い。全くもって読む気すら起こらない。だからこそ、摂取しようかと思ってな。毒をもって毒を制す、と言うやつだ。駄文で私の中の悪いものが取り除けるかもしれん」と言っていた。そこから「まず一番に大事なのは環境だ。ただでさえつまらない文章を読むにはせめて環境を整えなくてはな」と、彼理想の読書環境を探し始める生活が始まったのだ。

 カフェや図書館、公園や河原、最初に思いつくような場所は早い段階で全て周り尽くしていた。他にも、木の上に登ったり、ボートで海に出たり、飛行機に乗ったり、三千メートルを超える山の頂上に行ったり、果てには僕の家にも来たりして、とにかく色々な環境を試した。だが、他人の書く小説を読んだ事のない詠士さんはどうも集中出来ないと言って三十分も絶たずに読むのをやめてしまう。

 すると、こんな事を言い始めたのだ。

「学校をサボった日の読書って、なんだか不思議な背徳感とワクワクがあってえらく集中出来た記憶が無いかい?」

「さあ、僕は学校をサボったことがないので分かりません」

「編集者になるような人間は真面目なんだなあ。あの感覚が分からないようじゃ、君もつまらない小説しか書かないのだろう。私は学生時代によく学校をサボって、自分で書いて製本した小説を読んでいたものだよ」

「サボりを誇らしげに言わないでください。と言うか、自分で書いた小説読むのって、そんなに面白いんですか」

「少なくとも、他の誰かのつまらない小説を読むよりは面白い」

「そう言うものなんですね」

「槿花くん、私は明日から隣町にある通信制高校に通う」

「え?」

「手続きは済んである。二度目の高校生を楽しんでくるよ」

「いや、待ってください。なんでそんな事」

「今言っただろう。学校をサボって読書をする為だ。学校をサボる為には学校に通わないといけない。当たり前のことさ」

 彼は、逆に僕の方が変わった奴だとでも言うような目で見てきた。自分の考えがおかしいはずがないと信じている、素直な眼差し。

 そう言った次の日、彼は本当に高校に行っていた。似合わない制服を着て、何も入っていない空っぽのカバンを持って。

 学校に着くと、一時間目の終わりで教室を抜け出し屋上に寝転んで『僕の映画館』を読破したらしい。『僕の映画館』は群青出版が発行しているベタな青春ストーリーで、十七歳の小説家のデビュー作として一時期少しだけ話題となった。未成年のデビューというインパクトありきな小説、完全に色物扱いで正直内容はあまり面白くない。

「人生で初めて他人の小説を読む事ができた。やはり環境が占めるものは大きい」

「環境環境って、大学受験の時に塾の先生もしつこいくらいに言ってたけど、本当だったんですね。あの時信じていたら良かったなあ」

「何においても、と言うことだな。それにしても君のような真面目人間がそんな事を口にするなんて珍しい。大手出版社の内定を勝ち取った人間も失敗するのかい?」

「失敗したから、改心して今は真面目に生きてるんですよ」

「なるほどな」

 その日の詠士さんは、とても機嫌が良かった。鼻歌なんかも口ずさんでいて、明日は槍が降るだろうと本気で心配だった。

 そして次の週、彼は四十度の熱を出して寝込んでいた。

 二日徹夜した状態で服を着たまま川に飛び込み、それだけでは飽き足らず口の中を噛み切ってそこに公園の泥を塗り込んだりしたらしい。案の定、体が冷えて免疫が落ちたところに変な細菌が入り込んで高熱を出した。意識も朦朧としていただろうに、翌日には『ショートケーキの考察』を読破したと嬉しそうに報告してきた。『ショートケーキの考察』はなんてことないSF小説だ。掴みどころのないストーリーと堅苦しい文体は人を選ぶが、僕は嫌いではない。

「実につまらない小説だったが、案外短時間で読めた。病床は読書に向いているかも知れないな。君もよく、大量の文章を読むのに苦戦しているだろう?参考にしたら良い」

「絶対やらないですよ。命の危機があるような方法を試すのはやめてください」

「それにしても、これはSF小説の最底辺だね。そもそもSFなんてのがクズの集まりだから致し方ない」

 一人の人間としては、彼のことをこの時点で止めるべきだった。しかし当時の僕は、姿を見せない人間嫌いの「霊界堂侃諤」と唯一コミュニケーションが取れるという地位を確立していた。その肩書きは今も変わらないが、とにかく、彼に小説を書かせなくてはいけないと言う使命感にただ燃えていたのだ。

 彼が再び小説を書くならば、死にさえしなければ何をしても構わない。本気でそう思っていた。

 その数週間後、彼は、ナイフを口に咥えて自分の頬を耳まで切り裂き、その後手首を貫通する程に深く刃を突き立てながら通りすがりの知らないマンションを十階まで駆け登り、そこから飛び降りた。全身に酷い骨折と打撲。生きているのが奇跡な状態であった。集中治療室での治療が終わった後、車椅子に乗せられそのまま当然のように精神科に連れて行かれた彼は医者にこう言った。「私が世界を変えるんだ」と。格好良く言ったつもりだったのかも知れないが麻痺で舌があまり回っていなかった。それが演技だったのか本気だったのかは僕でさえ分からないが、ともかく彼は精神科病棟に入院する事になった。

 彼が入院していた二ヶ月間、僕の日課は彼の病棟に本を持っていく事だった。苦痛では無かった。面会の度に読み終わった本のことを語る彼を見ていると、本当にスランプが終わるんじゃないかと言う気がしたのだ。

 僕は『闇番地』のような大ベストセラーから『夏を殺した君を殺す』のような一版しか刷られていないようなマイナーな本まで、編集者としての知識を総動員して色々な本を持って行った。

 その頃の詠士さんは、以前よりだいぶお喋りになっていた。

「先日読んだ『クフクフ、楽』あれは反吐が出るつまらなさだったね。筆者は義務教育履修者か?」

「もう四十九歳になる人です。詠士さんよりだいぶ上ですよ」

「その年で書くのがあの文章なら、世の中に悪影響しかもたらさんな。早いとこ殺しでもした方がよっぽど環境に良い」

「冗談でもやめてください。うちから出版してる本ですよ」

「なるほど、道理でつまらない」

「どう言う意味ですか」

「そのままの意味さ。ああ、そう言えば、私が十階から飛び降りた時、本当は目玉を抉り出そうと思っていたんだ。その状態で『私が世界を変える』と言えばなんだか良い物語が書けそうな気がしたからね。でも、目玉がなくちゃ本が読めないだろう。だから辞めて、こっちにした」

 彼は無表情のまま、ガーゼとテープで分厚く保護されている頬をトン、と包帯まみれの指で叩いた。明らかに上機嫌なゆったりとした語気からして、本当は笑顔を作ろうとしていたのかも知れないが、大きく裂けた顔でそんな事ができるはずもなく、若干口角が引きつるだけだった。

 彼の、綺麗に筋が通って高かった鼻は、真ん中から折れてしまっていた。元の形に戻ることはないらしい。

 僕自身、小説界隈の低迷を身に染みて感じていた。どんなにつまらなくても、大御所が書いた長編ならば出版する。人に媚びる事ばかりを覚えてきた編集者は小説の内容ではなく体裁や面子ばかりを気にする。でも、そんなものは小説のあり方として間違っている。小説は、良い意味でも悪い意味でも読者の心を動かすものでなくてはならない。

「詠士さん、スランプは抜けられそうですか」

 急かすような言い方に聞こえるかも知れないと思ったが、実際に焦ってはいたので素直にそう聞いた。

「そうだな。もう一度くらい、環境を変えて読書に没入すれば良いアイディアが降ってきそうな気もする」

「そうですか。今更何も言いませんが、死なないようにお願いしますね」

「分かっているよ」

 そうして精神科病棟を退院した僅か一週間後、詠士さんは、人を殺した。

 直前に精神科に入院していたこともあって、殺人は心神耗弱と判断され減刑になるかとも思ったがそれは叶わなかった。彼は裁判での受け答えがしっかりし過ぎていたのだ。

 それはそうだろう。彼が精神科に入院した理由も「本が読みたかったから」だ。入院する為にわざと気狂いを演じていたに過ぎない。小説を書くだけの豊富な語彙力と話を組み立てる能力、それは裁判においてとても理性のある加害者として皆の目に映った。

 晴れた平日、都会の交差点で道ゆく人を見境無しに包丁で刺した。ちょうど昼時だった。ランチに出かける会社員があまりに多く歩いていた。刺された十一人の内、三人が死んだ。

 全ての裁判が終わり、ようやく赤の他人である僕も面会ができるようになった。そして今に至るという訳だ。

「ああ、そうだ。槿花くん、次に来る時は、最近君の出版社から出た『躑躅』を持ってきてくれ」

 正直言って、呆れていた。僕は分かるように大袈裟に嫌な顔をしてやった。

「詠士さん、自分の立場分かってますか。あなた、死刑囚なんですよ」

「ああ、そうだが」

 彼は顔色一つ変えない。当然だろうとでも言うようだ。僕が性別を聞かれたら「男です」と言うのと同じような調子で「自分は死刑囚です」と宣言している。三人の罪なき人を殺した。他の何人かも怪我を負った。納得の判決だろう。異を唱える者はいなかった。

「僕は、会社の人になんて説明すれば良いんですか。詠士さんは良いですよね。ここで本を読んで死ぬのを待つだけなんですから。僕は、霊界堂侃諤と繋がっている唯一の人間なんですよ?あなたが失踪した事にしてくれと言ってきた時も、一生分の謝罪を多方面にしてきました。今だって、会社から僕に与えられる仕事はあなたを探してこい、のただ一つ。他の人の編集業はさせてもらえない。減給だってされた。馬鹿みたいですよ。霊界堂侃諤は、詠士四十物谷はここにいるってのに」

 この人に感情的な部分をぶつけたのは初めてだったと思う。今までは、感情論でどうにかなると思っていなかったから。勿論、今だってどうにかなるわけでは無いだろうが、これ以上抑える事もできなかった。限界だ。

「詠士さん、『愛初潮』より良い小説、書けますか?」

「書けないね。少なくとも今は」

「僕、あれが本当に好きでした。読んでいると、良い匂いがするんですよ。女の子特有の良い匂いが。香水とかの作り物の匂いじゃなくて、ほら、あるでしょう。女の子の柔らかくてしっとりした手を握った時とか、隣に座って首をこちらにもたれさせてきた時の髪の靡いた瞬間とか。あれは香水とかシャンプーとかの匂いじゃなくて、僕ら男性の邪な気持ちと彼女たちが本能的に雄に対して発するホルモンがぶつかって弾けて発生してる匂いだと思うんです。胸がドキドキするのはそのせいですよ。発情してるんです。本からそんな匂いがするはずもないので幻臭でしょうけど、僕には本当にしたんです」

「そうか。それは良かった」

「統合失調症患者と同じですよね。思い込んでいただけなんです。でも、詠士さんの小説にはそれだけの力があります。幻臭とか思い込みなんて、病んでる人間じゃないと起こらないじゃないですか。あなたは、人を病ませる事ができるんですよ。自分がおかしいとも気がつけないほどに、深く、徹底的に。そんなの、並の人間にできることじゃない。いや、あなたにしかできないことです」

 詠士さんは何も答えなかった。腕の傷と僕のことを数秒毎にチラチラと見ている。

「デビュー作の『3・1』も大好きでした。テロリスト二人がただひたすら円周率について語りながらマントルに巨大爆弾を埋めこんで地球全体を人質にテロを決行しようとする話。あれ、テロリスト二人はほとんど円周率の数列を言葉にしているだけなのに、なんであんなに面白いんだろうってずっと不思議でした。僕、あれを読んでからずっと、日常に恐怖を感じるんです。今、地球が爆発したらどうしよう。地球に爆弾が埋め込まれていたらどうしようって。変ですよね。僕は、あの話をすっかり現実だと思っていたんです」

 詠士さんはやっぱり何も言わない。手首の傷を反対の指でなぞって、爪を食い込ませたりしている。

「あの、一つ聞いても良いですか」

「構わないよ」

 詠士さんがようやく口を開いた。

「どうして、僕なんですか?もっと優秀な編集者なんていっぱいいるのに。なんで僕を担当に選んだんですか」

「そんなもの、理由なんてないさ。ただの仕事仲間だろう。君はビジネスパートナーを選ぶのに、伴侶を選ぶのと同じくらい思い悩みでもするのかい?そんなの無駄だろ」

 なんの迷いもなくそう答えられた。笑えてくる。僕は我慢する必要も感じられなくて、声を出して笑いながらこう言った。

「ははは、こうやって、あなたみたいにおかしな小説家に目をつけられたばかりに、人生までめちゃくちゃですよ。僕は、勉強して勉強して勉強して群青に就職したんです。知ってますか?今時、こんな大きな出版社は有名大学を出てないと雇ってもらえないんです。学歴で差別しないとか、そんなの綺麗事ですよ。でも僕はそれが悪いことだとは思いません。たかが数十分の就職面接でその人の中身や生活までは分からない。だから学歴で見るしかないんです。学歴は差別ではなく、その人の努力を見る一つの指針ですから。それなのに、あなたみたいな人のせいで」

 一瞬の間があった。

「おかしな小説家とは心外だな。じゃあ何か、君は、つまらない小説を書くけれども平凡な生き方をしていて、編集者の君の言いなりになって、なんなら一緒に食事をしたり愚痴を聞いたりもしてくれる。そんな小説家を求めてると言うのかい。だったら見合いでもしてくれ。きっと見つかるだろうよ」

「そうじゃないですよ……でも、あなたは三人もの人を殺したんです。おかしいじゃないですか、そんなの。たかが小説を書く為に、人の人生を奪うなんて」

「たかが、小説?」

 詠士さんが、珍しく言葉に若干の怒りを含んでいるような気がした。

「よく言うようになったな。君だって、私が倫理的に逸脱した行為をしているのを心の中では分かっていながら、容認していた。いや、見て見ぬ振りをしていたと言った方が正しいかも知れないね。私がどれだけ己を傷つけようが、他人に迷惑をかけようが、全て私がスランプから脱せられたら良いと思って黙って見てたんだ」

 詠士さんのその言葉は、僕の痛い部分を的確に刺してきた。言葉の一つ一つが石になって、僕に投げられる。罪人に石を投げて良いのは罪を犯したことのない者だけだ。でも、お互いに罪人であったらどうなるのだろう。この空間では、一度誰かが石を投げ始めたらもう収集がつかない。

 僕は黙った。何も言い返せない。

 確かに、僕は「詠士四十物谷」と言う人間を見ていなかった。彼の書く小説、それにしか興味がなかったのだ。「死なないで欲しい」と言ったのは、本当に死んで欲しくなかった訳じゃない。小説が産まれなくなるのが怖かっただけだ。

 僕は、詠士さんに殺された三人を可哀想だと言う癖に、一番身近にいる詠士さんの命を軽んじていた。それに気がついてしまった。

 詠士さんに、気がつかされてしまった。

「……すみません。本当ですね。結果的に詠士さんも失う事になったんだから、あの三人、無駄死にですね」

 自分でそう口に出した途端、とてつもない罪悪感が押し寄せてきた。あまりに重いそれに、吐き気を催す。胃液の酸っぱい味が喉の奥に広がったが、すんでの所で飲み込んだ。

 脳内でイメージした。大切な人間が一度に三人消える事を。母と、父と、それから詠士さんが、たった一人の人間の気まぐれで奪われたら、僕はどうなるだろう。

 頭の中を駆け巡る、記憶とイメージ、まるで走馬灯だった。ひょっとしたら、僕は今日死ぬのかも知れない。

「詠士さん、すみませんでした。僕、もう、二度とここには来ません。小説を書かない詠士さんと、編集もしない僕なんて、関わる必要もないでしょうし」

 静かに話を聞いていただけの詠士さんが、初めて動揺の色を見せた。ビルから飛び降りた時も、人を殺した時も、死刑宣告をされた時もなんら変わらず、ただ凛として立っていたあの詠士さんがだ。

「突然何を言い始めるんだ。待ってくれ。もうここには来ないって、じゃあ、一体誰が、私に本を届けてくれるんだ」

「それはわかりません。でも、すみません。僕には無理です。さようなら、詠士さん」

 僕は面会室の椅子から立ち上がる。

 詠士さんは反射的に僕の腕を掴んで引き止めようとしたが、ガラス板がそれを阻む。

 彼の指がゴンと鈍い音を立てたが、そんなことは気にもならないようだった。あの時の酷い骨折で形の歪んでしまった指が、ガラス越しの僕を捕らえようとする。

「待ってくれ、頼む、行かないでくれ。私は死刑囚なんだ。君がいなくなったら、死ぬその瞬間まで、孤独になってしまう。君には分からないだろうが、死刑囚の人生には死と莫大な時間という空間しかないんだ。君は、時間を一本の直線として捉えているだろう。現代人は皆そうだ。ただ永遠に伸び続け、決して縮むことのない直線、それを刻んで生きている。直線のここまでが睡眠だとか仕事だとか。でも、私にとって時間は空間なんだ。目の前に広がる、無限にだだっ広い空間。終わりも始まりも分からない。そんなところに一人ぼっちなんだ。頼む、行かないでくれ。明日も明後日も君が来ない空間でつまらない小説を読むなんて、私にはとても出来ない」

 悲痛な声だった。でも、僕は出口の方を見たまま振り返れない。ここで戻れば、そのまま詠士さんの胎内に引きずり込まれてしまうような気がしたから。

「そうだ、小説を書いたんだ。短いものだけど、しっかりと書いた。頼む、読んでくれ。そして君が出版してくれ」

 絶対に振り返ってはいけない。

 僕はそのまま、泣きそうな呼吸をしている詠士さんを背に、薄暗い面会室を出た。

 絶対に戻らない。もう二度と、詠士さんに会うことも、ここに来ることもない。

 その日の空は気味が悪いくらいの晴天で、雲一つなかった。雲の無い空は遠近感が狂ってそのまま落っこちて来そうな恐怖を感じる。空が落っこちてくる瞬間の人間の阿鼻叫喚と絶望の度合いは地獄に行っても味わえないだろう。人間は空を信用しすぎている。まあ、僕にはもう関係のないことだ。 

 僕は心から、霊界堂侃諤の小説を愛していた。彼のような小説家は、二度として現れることはないと思う。

 彼の小説を読むといつも、脳味噌を直接鷲掴みにされてその皺の一つ一つを撫でられているような、そんな感覚に陥っていた。彼の小説は「読書」ではなく「体験」だ。脳の回路やシナプスを弄られることでそう感じていたのだ。コカインの許されない国で彼の小説が許されるのは一体どういうロジックなのだろうか。考えてもよく分からなかった。

 本当に素晴らしい、素晴らしいとしか言いようがない小説家だった。

 僕は空を見上げ、垂直にまっすぐと手を伸ばし、重力でその不自然なまでの群青を引っ張ろうとしてみた。近い未来で、霊界堂侃諤は神になるだろう。神になるのは案外簡単だ。傷ついた人間の傷口に消毒液をかけるフリをして接着剤で固めたら良いのだから。手を差し伸べるフリ、それが出来れば神になれる。彼は既にそれを達成している。小説を世に出すという、少ない労力で大量のコピーが可能な方法で。

 今日は、何をするにもうってつけの日だ。 

 一人、そう思っていた。


 終


※おことわり


 本書の中には、実在する人物の名前や会社名が登場しますが、あくまでも全てフィクションであることをご承知おき下さい。

 尚、現在行方不明者として警視庁より公開捜査がなされている栄槿花(さかえ きんか)を思わせる人物が登場しますが、それもフィクションであることをご理解ください。不快に思われた方々及び関係者の方々にはお詫び申し上げます。

 本作品を発表する事につきまして、昨年度発生いたしました新宿通り魔事件と酷似した事件の表現を始めとして、不謹慎であると思われかねない部分が複数箇所存在いたしますが、著者が既に故人である等の事情を鑑み、原文通り出版いたしました。

             〈群青文庫〉

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