3 タン塩、豚トロ塩、ロース、カルビ、ハラミ

 銀杏いちょう並木に挟まれた道を歩くと、懐かしい街並みに目を奪われた。レトロな筆致で『みやび』と刻まれた看板を掲げた喫茶店の前を通った時には、ついステンドグラス風の窓ガラスに目をらして、店内の様子を覗きたくなった。

 だが、時間は有限だ。タイムリミットまで、あと一時間四十五分。『みやび』の前を足早に通過してショッピングモールに入ると、書き入れ時にもかかわらず、飲食店が並んだ一階はシャッターを下ろした店が大半だ。だが、閑散とした肌寒さに抗うように、灯りをけている店もある。そんな店の一つである焼肉店に、美奈子は二十二歳の美奈子を引きずり込んで、一番奥のテーブル席に着いた。そして、年配の女性店主が水を持ってきたタイミングで、メニューも見ずに立て板に水のごとく注文した。

「タン塩、豚トロ塩、ロース、カルビ、ハラミ、キムチ盛り合わせでお願いします。ニンニクのホイル焼きと、ライス小も一つ。お茶碗は二人分で。トッピングのチーズもつけてください」

 注文を終えたところで「そうだ、お酒は飲む?」と対面の席に座らせた二十二歳の美奈子に訊くと、「飲むわけないでしょ!」という悲鳴のような叫びが返ってきた。

「どうするの、お仕事に穴を開けたら、利用者さんが一番困るのに……」

「大丈夫よ。みんな今回の騒動を見て、あんたを応援してたくらいなんだから」

「……そうなの?」

「そうよ。周りを見る余裕もなかったんでしょ? 誰が見てもオーバーワークだし、仕事をしてない雇われ館長と同僚が、当たり前の労働をすればいいだけよ。そもそもあんたは、今日は休み! 休日を搾取されてるのに、なんとも思わないの?」

「それは……思うけど」

 二十二歳の美奈子が口ごもった時、背中を曲げた女性店主が戻ってきた。テーブルの中央に埋め込まれた網に火を点けてから、二十二歳の美奈子を見つめて、人のよさそうな顔をくしゃくしゃにして笑った。

「お嬢ちゃん、うちに来てくれるのは久しぶりだねえ」

「え?」

「学生さんの時は、ご家族で時々来てくれたから、覚えてるよ。今日はゆっくりしていってねえ」

 朗らかな声で言い終えた店主は、テーブル席から離れた厨房へ去っていく。不意を衝かれた顔で黙り込んだ二十二歳の美奈子へ、美奈子はニヤニヤと笑いかけた。

「そろそろ素直になりなよぉ。ここでのんびりランチしたくなったでしょ? アホらしい休日出勤なんかほっぽって、私と焼肉を楽しむべきだってば。それに、地獄みたいな職場に颯爽とヒーローが現れて攫ってくれるなんて、漫画みたいなシチュエーションに、実はわくわくしてたんでしょ?」

「ヒーローは、自分だけキムチとニンニクのホイル焼きを食べたりしない」

 恨めしそうな目で睨んできたので、美奈子は大げさにおどけて見せた。

「え? あんたも食べるんだよ?」

「はあ? 食べられるわけないでしょ! あとで図書館に帰らないといけないのに」

「まだ帰る気でいるの? 義理堅いというか、ただの頑固というか。まあ、食べたくないなら、食べなくてもいいんだよ? 私は食べるけどね!」

 ちょうど運ばれてきたニンニクのホイル焼きを網に載せると、アルミホイルのカップに注がれた胡麻油にふつふつと気泡が立ち上り、香ばしさが柔らかな熱気に乗って拡がった。強情を張っていた二十二歳の美奈子が、ごくりと喉を鳴らした。

「……食べるわよ、食べればいいんでしょ!」

 二十二歳の美奈子は、仕切りがついた薬味皿の片側にコチュジャンを大盛りにして、おろしニンニクも豪快に入れた。往生際が悪かったが、ようやく陥落したようだ。

「ふふ、これで職場には戻れないね。焼肉を楽しんできたのが丸分かりの幸せな香りを振りまきながら、わざわざ休日出勤する度胸があるなら、戻ってもいいけど?」

「それよりも、あなたは本当に私なの? タイムマシンって、今は時間管理事務局が海外の拠点で研究してるものでしょ? 民間人も利用できるようになったの?」

「秘密。歴史が変わっちゃうかもしれないからね。タイムトラベルは二時間限定で貴重だから、他の話をしようよ」

「そんな居酒屋の二時間制みたいなノリで、タイムマシンを使っていいのっ? 六年後の世界、大丈夫?」

「さあね。六年後に、自分の目で確かめてみたら?」

「……。コート、脱がないの?」

 二十二歳の美奈子は、未来人への追及を諦めたらしい。代わりにぼそりと訊ねてきた。「というか、六年後の私のセンス、こんなに変わるの?」と付け足したので、改めてモコモコに膨らんだヒョウ柄コートを見下ろした美奈子は、肩を竦めて笑った。

「未来人は変装必須なの。センスの変化は、未来を楽しむために聞かないほうがいいんじゃない?」

「……お客さんは、他にはいないのに? どうせバレっこないよ」

「お客さんはいなくても、馴染みの店主はいるからね。あんたと顔が似てるねって言われたら、さっきみたいに親戚だって言い張るつもり」

「変装は解かないのに、サングラスは外すんだ?」

「だって、焼肉の湯気と油で、レンズが汚れるじゃん」

「そうだけどさ……」

 二十二歳の美奈子は、腑に落ちない様子だったが、それ以上は何も言ってこなかった。人心地ついたところで、美奈子は素早く提案する。

「まず、あんたの呼び名を決めさせてもらうわ。『二十二歳の美奈子』っていちいち呼ぶのは面倒だから……『ミーナ』でどう? 大学時代の友達に、そう呼ばれてたでしょ?」

「……別にいいけど」

「じゃあ、ミーナ……うわあぁー」

「ちょっと、人のあだ名を呼んでおいて溜息をつくなんて、失礼すぎじゃないっ?」

「だって……ねえ」

 今までに友人から付けられてきた『みなっち』や『焼き鳥』といった学生時代特有のテンションのあだ名や、なぜそのあだ名を採用したのか小一時間問い詰めたくなる呼称に比べたら、『ミーナ』はまだマトモだ。だが、このあだ名で美奈子を呼んだ大学生時代の友人たちとは、バイト代をはたいた海外旅行で、壮絶な喧嘩を繰り広げている。喧嘩の理由は、現地の下調べを一人に丸投げしていたり、外国語で話す場面を美奈子にばかり押し付けてきたり、果ては下着を忘れたので貸してほしいと言われたり、今にして思えばちっぽけなことばかりだったが、当時は一つの出来事によって揺り動かされた感情の色がビビッドで、穏便な解決を選べなかった。その過程で美奈子自身も、彼女たちに失礼な態度を取ったと思う。形ばかりの仲直りは済ませたが、就職後に一人二人と疎遠になり、二十八歳となった現在、交流はついに一人残らず断絶した。溜息を吐いた美奈子は、言いにくさを堪えて「ミーナ」と呼んで、時間管理事務局の規定にぎりぎり抵触しないと審査済みの台詞を選んで、精一杯の忠告をしておいた。

「これだけは言っておくわ。幼馴染の友達を大事にしなさい」

由実ゆみちゃんのこと? 最近は連絡を取れてないけど、そういえばどうしてるのかな。高校時代の漫研メンバーで、去年集まったのが最後だっけ」

 二十二歳の美奈子――ミーナが遠い目をした時、タン塩と豚トロ塩が運ばれてきた。「おまちどおさま」と言ってにっこり笑った店主へ、ミーナはぎこちなく会釈する。その間に美奈子はトングを握り、タン塩を網に並べていった。ジュッと景気のいい音がして、薄くて丸いタン塩のふちが反り返る。排気ダクトに吸い込まれていく煙からは、ちょっとした出来事で透けていきそうな命をうるおす匂いがした。

「あ、私も焼く……」

「いいよ、私がやる。はい、こっちのお皿にレモンを絞ったから。塩も足しておいたよ。ここのタン塩、薄味だもんね」

「あ……ありがと」

 レモンを絞った小皿をミーナに渡して、美奈子は豚トロも網に載せた。細長くカットされた薄桃色に火が通り、艶やかな白に変わっていく。こちらは焦げ目がついてカリカリになるまで気長に育てるので、気前よく全ての豚トロを網に並べた。「タン塩はもういいかな。はい、どうぞ」と言ってトングでミーナの皿に載せてあげると、しばらく黙っていたミーナが、ぽつりと言った。

「どうして、優しくしてくれるの」

「自分に優しくすることって、当たり前のことでしょ? ほら、早く食べなよ。熱々が一番美味しいんだから。……もう、なに泣いてんの。自分の顔で泣かれるの、だいぶ複雑なんだけど」

「だってぇ……」

 タン塩を頬張ったミーナは、箸を握ったまま嗚咽おえつしていた。

「未来の私なら、知ってるでしょ? 自分のことだけじゃなくて、他人のことも引き受けるのが当たり前の毎日だもん……タン塩を焼いてもらったり、レモンを絞ってもらったり、ちょっとしたことかもしれないけどさ、久しぶりに誰かの手を借りられたんだもん……」

「大げさなんだから。肉を焼いてレモンを絞っただけじゃない」

 苦笑した美奈子は、ぐすぐす泣いているミーナの皿へ、焼けたタン塩を追加してあげた。美奈子も自分の分のタン塩をレモンに浸して口に運ぶと、六年前から待ち望んでいた肉の旨味が、爽やかな塩気とともに舌に熱く拡がった。ミーナも泣きながらタン塩を咀嚼すると、小声で言葉を継いでいった。

「仕事、慣れるまでは大変だったけど、最初は楽しいこともあったのに……駅前に時間管理事務局の支部ができることが決まってから、市の再開発の話が一気に進んで……立ち退きで廃業するお店が増えて、街の雰囲気が暗くなって、優しい館長も異動になって……今の館長になってから、毎日がどんどんおかしくなって……」

「うん」

 傾聴けいちょうしていると、残りのメニューも運ばれてきた。ロース、カルビ、ハラミ、アルミホイルのカップに入ったチーズを網に載せてから、一つだけ注文したライスを茶碗で分け合う。この時期のミーナは食が細いから、これくらいの分量でちょうどいい。キムチの盛り合わせを取りやすい位置に置いてあげると、ミーナはまた涙ぐんだ。

「ねえ、未来の私。昼休みに、図書館の近くの喫茶店に通ってたこと、覚えてる?」

「うん。『みやび』でしょ?」

 この焼肉店に来る途中で、美奈子が見かけた喫茶店だ。どんなに街の様子が様変わりしても、あの喫茶店だけは忘れない。ミーナは頷くと「イチジクと胡桃くるみのベーグルサンドが美味しかったよね」と言って、焼き上がったロースをコチュジャンで真っ赤なタレに浸してから、ニンニクのホイル焼きと一緒に白米の頂上に君臨させた。羨ましくなったので、美奈子もさっそく真似をした。ほくほくのニンニクと、こんがり焼けた牛肉と、タレが染みた白米は、きっと世界中の幸福を集めたような味に決まっている。

「『みやび』のマスターは、私より少し年上くらいの男性で、バイトも雇わずに一人で頑張ってるんだけど、忙しさなんか全然感じさせなくて、お店にはいつもゆったりした時間が流れていて……私が席でベーグルを待ってる間に、店内の本を差し入れしてくれたんだ。『よかったらどうぞ』って。あの喫茶店のほうが、今の私たちの職場よりも、ずっと優しくて、温かくて、理想の図書館みたいだった……」

 ミーナは、言葉を詰まらせた。止まりかけていた涙が、せきを切ったように溢れ出す。

「由実ちゃんのことだって、最近は連絡が取れてない、じゃなくて、私が取らなかったんだ。自分のことで、忙しすぎたから。何回か食事に誘ってくれたのに、休みの日はずっと寝てばっかりで……」

「寝ることだって、大事だよ。由実ちゃんも、きっと分かってくれてる。大丈夫、あんたは間違えてないよ。自分にできる範囲で、自分を大事にしようとしてる」

 美奈子はカルビに箸を伸ばすと、アルミホイルのカップの中で溶けてきたチーズに飛び込ませた。しっかりと絡ませてから口に運ぶと、舌を火傷しそうなほどに熱々で、正統派の美味しさとジャンクな風味の最強タッグを楽しめた。自分の好きなものを好きなように選べる幸せは、こんなにも身近でお手軽だ。

「ミーナ。自分を大事にすることって、面倒臭がりな私でもできるくらいに簡単なんだよ。焼肉店に飛び込むだけで、幸福度が少し上がるんだから」

「軽く言わないでよ。出かける気力もなかったら、どうするの」

「その時は、また未来から誘いに来てあげるよ」

 ようやく食べ頃になった豚トロを、美奈子はミーナの皿に載せた。弾力のある歯応えを想像すると、自然と頬が緩む。ミーナは、情けなく眉を下げた。

「タン塩も、豚トロも……全部、私の好きなものばっかり。焼き加減も、トッピングも。せっかくの時間旅行を、こんなことに使っていいの?」

「私のことは、私が一番分かってるからね。それに、こんなことじゃないよ。私が、自分で選んでここに来たの。……だから、ミーナも楽しく生きてよね。好きなことをたくさん選んで、また二人で焼肉を食べようよ。ミーナは、未来から私を救いにくるヒーローなんだから」

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