2 人の金で食べる焼肉の美味しさを教えてやるよ

 タイムマシン『Noah's Ark』は、目的地の駅前から少し離れた自然公園に着陸した。

 緩やかな丘の連なりには、煉瓦造りのアーチが架かり、雑草が繁茂する真下は誰も寄りつかない。時間管理事務局が指定した座標通りだ。モニターで外の様子を観察してから、美奈子はハッチを開けて外に出た。

 操作マニュアルに従ってリモコンを操作すると、迷彩機能が搭載とうさいされた銀色のボディはぐにゃぐにゃと歪み、雑草に紛れて見えなくなった。何もない空間をノックすると、コンと音が返ってくる。消えたわけではないらしい。二時間以内であれば、ここには誰も来ないと約束されている。ただし、その後は保証されていない。

 腕時計を確認すると、午前十一時。タイムリミットは、二時間後の午後一時。必ず時間内に戻ると肝に銘じて、美奈子は自然公園をあとにした。

 快晴の空は清々しい青色で、銀杏いちょう並木の黄色がよく映える。十一月の冷気を楽しみながら歩いていると、通行人の視線をちらちらと浴びた。美奈子の出で立ちの所為だろう。目が合った相手にニッコリと笑いかけると、そそくさと目を逸らされた。堂々としていれば、視線なんていくらでもかわせるのだ。この六年でつちかった処世術を、これから会いにいく『美奈子』はまだ知らないはずだ。

 商業施設が密集した区域に到着すると、目指す図書館が入ったビルが見えてきて、エントランスの看板に出迎えられた。色画用紙で作られた矢印が、図書館の入り口を指している。因縁の思い出が蘇って舌打ちしたくなったが、なんとか口角を上げて堪えると、人の熱気がこもった図書館に入り、今度は本心から微笑んだ。

 ――受付カウンターに、美奈子がさがしていた若手の女性スタッフは座っていた。黒髪をポニーテールに結っていて、白シャツと黒いパンツスタイルに紺色のエプロンを合わせている。二十二歳の肌はゆで卵のようにつるつるしていて羨ましいが、目の下にはくまがあった。パソコンを操作する手つきは危うさを感じるほど忙しなく、隣の貸出・返却カウンターに利用者が並ぶと、急いで立ち上がって対応している。一人で業務を回す女性の胸元には、『鳥居』のネームプレートが留められていた。

 ――間違いない。いや、間違えようがない。女性スタッフがよろよろと貸出・返却カウンターから戻った頃合いを見計らって、美奈子はフラットシューズを履いた足を受付カウンターまで進めると、かつての自分を見下ろした。

「やっと会えたね、六年前の私」

 女性スタッフは、呆けた顔で美奈子を見上げた。美奈子は構わず、かつての自分の手を取ると、ぐいと無理やり立ち上がらせて、囁いた。

「一緒に逃げよう」

「……は?」

「あんた、今日は休日出勤でしょ。出勤予定だった上司が仮病を使って、彼氏とテーマパークに出かけたことだって、SNSを見て知ってるんでしょ?」

 女性スタッフ――二十二歳の美奈子の顔色が、はっきりと変わった。驚愕を瞳に湛えた〝過去〟の自分へ、美奈子は悠々と畳みかける。

「他のスタッフも、貧乏くじなんか引きたくないからとっくに逃げたし、どんなに館内が混んできても、後ろの事務所から雇われ館長は出てこない。仕事の大半は『下っ端にやらせる』って豪語していて、一番の若手のあんた任せ……はっきり言って、異常だよ。この超ブラックな職場から、私があんたを連れ出してあげる」

 二十二歳の美奈子は、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせている。「どうして、それを」と口走り、美奈子の手を振り解こうとした。

「あなた、誰ですかっ? なんで、私たちのことを知って……」

「騒がないの。まだ私のことが分からないの?」

 小声で言い返したが、確かに〝過去〟の自分といえど、気づけなくても無理はない。何しろ今の美奈子は、冗談みたいに分厚いヒョウ柄のロングコートとサングラスで変装していて、セミロングの茶髪も黒い帽子に押し込んでいた。シンプルな服装を好んでいた普段の美奈子のセンスから、あまりにもかけ離れたコーディネートだ。「これなら信じる?」と言った美奈子は、帽子を脱いでサングラスを外した。

「私は美奈子。六年後のあんたよ。タイムマシンでここに来たの」

 二十二歳の美奈子は、たっぷり十秒ほど沈黙してから、「ギャアッ」と潰れたカエルのような奇声を上げて仰け反った。館内の利用者たちの注目を集めたので、美奈子は再びサングラスを装着すると、ひらりと優雅に手を振った。

「私、この子の親戚なんです。美奈子がいつもお世話になっております」

「なっ、何をいけしゃあしゃあと……! それに、逃げようって何!」

「言葉通りよ。あんたは今からここを出て、私とランチに行くの。ちなみに焼肉ね」

「焼肉っ? なんで!」

「だって、約束したんだもん。六年前に、未来から来た私とね」

 声を潜めて微笑むと、二十二歳の美奈子はたじろいだ。「本当に、私なの……?」と訊ねる小声は、混乱と葛藤で揺れている。その時、カウンター奥の扉がようやく開き、壮年の男が現れた。半年前に配属された雇われ館長で、見るからに気が小さそうな性格が滲む顔を大仰に顰めて「なんの騒ぎだ!」とふてぶてしく叫んでいる。

「館長、えっと……」

「鳥居っ、カウンターが空いてきたなら、早く返却台の本を片付けてこい!」

 肩を震わせた二十二歳の美奈子が、唇を噛んで頷こうとする。その前に「いいえ。その必要はありません」と美奈子が口を挟み、怪訝な顔をする雇われ館長という仇敵へ、慇懃無礼いんぎんぶれいな笑みで挨拶した。

「こんにちは。私は鳥居美奈子の親戚です。この子を迎えに来ました」

「はい? 迎え?」

「ええ。美奈子は用事があるんです。そもそも美奈子は、今日は休日ですよね? しかも、今日で十三連勤だと聞いておりますが?」

「ああ、それは……ええと……」

 雇われ館長は、露骨に言い淀んだ。そして部下の告げ口を疑ったのか、親戚を名乗る美奈子がいるにもかかわらず、ぎろりと二十二歳の美奈子を睨みつけると、「鳥居、困るじゃないか!」と責任転嫁して怒鳴り始めた。

「事務所にはまだ、未処理の業務が山ほどあるんだぞ! 鳥居までここを離れたら、誰が仕事を回すんだ!」

 反吐が出そうな言い分を聞いた瞬間、当時のルーティンワークが走馬灯のように脳裏を駆け巡った。――利用者へのレファレンス対応、本の貸出・返却業務、返却された大量の本を書架に戻し、予約された本を書架から回収、事務所に戻れば新刊・雑誌の受け入れ業務に、他都市から本を取り寄せる相互貸借の手続き、予約本が用意できた旨を一件ずつ利用者に電話で連絡し、月に四回以上あるイベントに備えて掲示物を作製し、絵本の読み聞かせを練習する傍ら、汚損された本の修繕を一冊でも多くこなしつつ、さらには常連と化したクレーマーと対決、最悪の場合は警察署への通報、引き渡し、同伴まで……一人で、一人で、一人で。にっこりと微笑んだ美奈子は、迷わず答えた。

「知らんわ」

 雇われ館長は、口をアルファベットのオーの字に開けた。二十二歳の美奈子も、似たり寄ったりの表情で固まっている。己の間抜け面と向き合うという稀有けうな体験を楽しんでいる暇もないので、美奈子は六年もの間ワインのように熟成させた文句を解き放った。

「明らかに一人でさばく仕事量じゃない。今の給料の二倍積まれても願い下げだわ。司書を続けるなら違う図書館を探すし、少なくともここにいるのは絶対に嫌」

「なっ、あんた、何を言って……」

「常識を語ってるだけよ。館長さん、この子を休日出勤させるのではなく、今日ズル休みをしたスタッフを呼んだらどうですか? まさか、自分の言うことをきかないトラブルメーカーのスタッフを説得するよりも、従順な鳥居に尻拭いをさせるほうが楽だなんて考えたわけじゃありませんよね?」

 館内がざわつき始め、利用者たちが雇われ館長を白い目で見始めた。陰口に敏感な館長が「ち、違う! 出鱈目だ!」と見苦しい言い訳を始めたが、一刻も早くここを出たい美奈子は、聞く耳を一切持たなかった。

「ズル休みのスタッフを呼び戻してください。その程度のこともできないなら、責任者のあなたが現場に立つべきです。下っ端にもできる仕事だって豪語するなら、できますよね? あと、この件は然るべき場所へ報告させていただきますので、悪しからず」

 雇われ館長の顔が、青ざめた。二十二歳の美奈子も、茫然とこちらを見つめている。

「あなた、何者なの……?」

「自己紹介は、さっきしたけど? 早く行くよ」

 二十二歳の美奈子を受付カウンターから強引に引っ張り出すと、「でもっ」とまだ何かを言っていたが、美奈子は「しつこい!」と一喝いっかつして黙らせた。

「私についてきなさい。人の金で食べる焼肉の美味しさを教えてやるよ」

 本当は自分のお金なんだけどね、と心の中でうそぶきながら、美奈子は〝過去〟の自分を連れ出して、利用者たちの拍手と口笛を背に受けながら、まんまとかつてのブラックな職場から逃げおおせたのだった。

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