4 六年前の〝過去〟にさよなら

 時間管理事務局の検査済みの財布で会計を済ませると、美奈子たちは焼肉店をあとにした。快晴の青は少しだけ深みを増していて、陽光も先ほどより力強い。

「未来の私、注文し過ぎじゃない? 数か月分の肉を摂取した気がする」

「そう? まだまだいけるよ。私たちは、もっと栄養を取らなきゃね」

「私たち? 私と、未来の私のこと?」

 怪訝そうな声に、美奈子は笑みだけを返した。銀杏いちょうの葉が敷き詰められた黄色い絨毯じゅうたんを歩き出すと、ミーナが「ねえ、未来の私」と呼んできた。

「六年後の私は、どんなふうに生きてるの? 教えてよ。仕事とか、恋愛とか……未来の私は、幸せ?」

「教えない。規則だからね」

 へらっと笑って答えると、ミーナは頬を赤く染めて膨れっ面になった。そして「帰る」とぶっきらぼうに言った。

「今日は休みだし。職場の荷物は、明日取りに行く。その時に……辞めるって伝える。先のことは、まだ考えられないけど……ゆっくりする時間もほしいから」

「うん、それがいいよ」

 美奈子が頷くと、ミーナはまた目を潤ませた。涙を指で拭って、美奈子に笑いかけてくる。我ながら、なかなか可愛い笑みだった。上着を図書館に置いてきた所為で寒そうだが、背筋はぴんと伸びていて、職場にいた時には見られなかった生気が戻っている。

「ありがとう。未来の私。……でも、焼肉はおごりじゃなかったよね? 結局、私が二人分の飲食代を払ってるようなものだよね?」

「バレたか」

「別にいいけど」

「お? いいんだ?」

「まあね。人の金で食べる焼肉は最高だけど、自分の金で食べる焼肉も最高だから」

「でしょ?」

 にっと笑い返してから、はっとした。腕時計が示した時刻は、十二時五十分。ミーナの離職を後押しするという目的は、制限時間内に達成できた。

「あと十分しかないから、私も帰るわ」

「せっかく昔の自分に会えたのに、あっさりしてるよね。タイムトラベラーってそんなものなの? 六年後の世界、本当に大丈夫?」

「さあね。まだまだ規則だらけで不自由だし、誰もがタイムトラベルを楽しむような時代が、私たちが生きている間に来るかどうかも分からないけど、悪くない世界だよ。六年後を楽しみにしてて。じゃあね!」

 踵を返した美奈子は、早歩きで自然公園を目指した。

 その時だった。――秋物コートを着た青年と、すれ違ったのは。

 澄んだ秋風に混じった珈琲コーヒーの香りが鼻孔びこうをくすぐり、目を見開く。意識に稲妻が落ちたような衝撃が走り、美奈子は振り向いた。

 青年は、現在の美奈子より少し年下の二十代半ばだ。優しそうな面立ちに繊細な黒髪と眼鏡が調和していて、温厚な人柄が一目でわかる。銀杏いちょうの葉が降りしきる道を『みやび』に向かって歩いていたようだが、なぜか足を止めていて、さっきまで美奈子がいた方角――ミーナがいる方角を見つめている。

 美奈子はサングラスを装着すると、青年に歩み寄った。

 ――この出会いは、間違いなく運命であり必然だ。

 美奈子が〝未来〟から〝過去〟に来た意味は、この瞬間にこそあったのだ。

「そこのあなた、あの女の子が気になるの?」

「へっ? あ、ああ、えっと」

 青年は、びくっと肩を弾ませた。突然にヒョウ柄ロングコートの怪しい女から話しかけられた驚きか、図星をかれた動揺か、呆れるほど正直に白状した。

「僕は、そこの喫茶店の者で……彼女は近くの図書館の女の子なんだけど、最近は元気がなくて、お店にも来なくなって……心配で……」

 青年は、言葉通り心配そうな眼差しを、遠くのミーナに向けている。ミーナは視線に気づかず歩いていて、青年から徐々に遠ざかっていく。美奈子は、きっぱりと青年に言った。

「追いかけてください」

「え? ぼ、僕がっ?」

「あなた以外に誰がいるんですか。ほら、早く! 二度と会えなくなりますよ! あの子、司書の仕事を辞めるんだから!」

「仕事を? どうしてっ……」

「その先は、本人に直接訊きなさい。早く追いかける!」

 ばしっと背中を叩いて発破はっぱをかけると、青年はたたらを踏んで、狼狽うろたえた顔で美奈子を振り返り、やがて腹を括ったような表情で頷いてから、しっかりとした足取りで走り出した。安堵した美奈子は、はたと気づいた。このままではまずい。何しろミーナは、焼肉を楽しんできたのが丸分かりの幸せな香りを振りまいている。

「待った、『みやび』のお兄さん! 今日だけはパーソナルスペースをおかさないで! できれば二メートルくらいの距離を保って話しかけて! お願い!」

「? は、はあ……」

 青年は不思議そうに目を白黒させていたが、ミーナに追いつくと律儀に約二メートルの距離を保って「あの、待ってください!」と呼びかけた。美奈子は初々しい二人の姿を見届けてから、今度こそ踵を返して六年前の〝過去〟にさよならした。

 目的地は、自然公園に隠したタイムマシン。規則だらけで不自由で、けれど悪くない世界だと即答できる〝未来〟に向かって、美奈子は急ぎ足で帰っていった。

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