第一章 香り袋と桜餅、秘密入り。④

    六


「それでは、桜餅、二十個になります」

 小春は、取り置きしていた桜餅二十個入りの紙袋を澪人に差し出した。

 宗次朗に驚かされ、一度大きな声が出たためか、今までより楽に声が出た。

「おおきに」

 その形の良い目を弓なりに細めて、澪人は紙袋を受け取る。

 散々失礼なことを言っていたのに、不快さをじんも出さずに、こんなふうに笑顔で桜餅を二十個も買ってくれるなんて、良い人だな。

 小春は胸を熱くさせながらそう思い、しかし、一方のこの人は──、と隣に立つ宗次朗を見やった。

「サンキューな。もう日も暮れるし、早くいずみかわにお帰りよ、カモさん」

 バイバイと手を振る宗次朗に、小春は「もう」と声を上げた。

「さっきから失礼すぎるよ。それに、どうして澪人さんがカモさんなの?」

 その言葉に宗次朗はおろか澪人も「えっ?」という様子で、目を開く。

 そんな二人の様子に、今度は小春が驚いた。

「わ、私、なにか変なことを?」

「……いや、っていうか、小春は、ばーさんの旧姓を知らないのか?」

「お祖母ちゃんの旧姓?」

 祖母の名前は、櫻井吉乃。

 それはもちろん、結婚後の名前だ。

 小春は、祖母の旧姓を知らなかったことに今気が付いた。

「お、思えば、知らなかった、お祖母ちゃんの旧姓」

「小春ちゃん、僕のみようは『』いうんです。賀茂澪人。そして吉乃さんは元々、『賀茂吉乃』いうたんよ」と、澪人は胸に手を当てた。

「……あ、それで。澪人さんのことを『カモさん』って」

 苗字をいったわけで、鳥の鴨のことを言ってたんじゃなかったんだ。

「ほんでも、宗次朗さんは鳥の鴨に掛けて言うてましたけど。『泉川が待ってる』言わはったし」

「泉川って?」

「下鴨神社境内を流れてる小川の名前だよ」

「……な、なるほど」

 下鴨に住んでいるカモさんだから、『泉川にお帰り』って言ったわけだ。

 ちょっと上手うまいことを言う、と一瞬感心したことに小春は苦笑した。

「ほんまにおおきに。小春ちゃん、今度はやかましい『お父さん』のおらん時に顔出すわ、また」澪人は片手を上げて、ふっ、と笑う。

「は、はい、さよなら」

 すっ、と店から出ていく。

 彼の姿がなくなった後も、ほのかに梅花の香りが漂っていた。

 やっぱり、みやびで素敵な人だ。

 どうしてもうっとりしてしまうことを感じていると、

「……小春、塩をけ」

 ポツリとらした宗次朗に、小春は息をついた。

「宗次朗さんは、どうして澪人さんを毛嫌いするの?」

「毛嫌いなんかしてねぇよ。いいか、小春、お前が誰に恋をしようと、お前の勝手だし、俺は何も口出すつもりはない。だが、あいつだけは駄目だ、絶対に」

「そ、そんな、別に……恋だなんて。そもそも、恋なんて、もういいし」

 宗次朗は「ん?」とまゆを寄せた。

「もしかして、お前、彼氏がいたんだ?」

 意外そうに問われて、小春は苦笑した。

「……彼氏なんて、いないよ」

 いいなと思っていた人がいただけだ。それは、きっと『恋』といえるものではあったと思う。

 だけど、すぐに終わってしまった。

 学校に行けなくなってしまったんだから。

 ……委員で一緒だった、どう君。

 明るくてさわやかで、私だけじゃなく彼にあこがれている人も多かった。

『櫻井も付属T高、受けるんだって?』

『工藤君も?』

『ああ、十人になんとか滑り込めた。一緒にがんばろうな』

『う、うん!』

 志望校への受験資格を獲得して憧れていた人と少し近付けて、明るい未来に胸を弾ませていたんだ──突然起こった、あの日までは……。



 ふと、過去の出来事がよぎったことで胸がずきんと痛み、小春はうつむいてギュッと目を閉じたその時──勢いよく年配の女性が駆け込んで来た。

「よ、吉乃さんおる?」

 先ほど『け札』を頼んで来た弥生だった。

 今までレジカウンターでまったりと少したのしそうに若い三人のやりとりを傍観していただけの吉乃は、弥生のただならぬ様子にすぐに立ち上がった。

「どないしたん」

「そこで観光客がうずくまってて。ほら、こっちやで」

 弥生は、その道で蹲っていたという観光客を手招きで呼んだ。

 その人は、澪人と祇園商店街を歩いている時に見掛けた女性だった。

 年齢は多分、二十代前半。

 顔はあの時よりも青くて、今にもおうしそうな雰囲気だ。

 その女性は店に一歩入るなり、床にひざをついた。

 一緒だった友達の姿はない。

 彼を呼ぶとか言ってたから、呼びに行ったんだろうか?

 小春がげんに思っていると、

「こら、ひどいわ。どこに行ったん」

 吉乃は眉根を寄せて歩み寄った。

「それがな、苦しそうにするだけで、なんにも話してくれへんねん」

「大丈夫かいな? 呼吸できとる?」

 その場に蹲る彼女の背をでる。

 彼女はとても苦しそうに、涙目を見せた。

「とりあえず、介抱するえ。宗次朗、店の奥の部屋に運んだげて」

 宗次朗はすぐに「ああ」と頷いて、

「すみません、失礼しますね」

 宗次朗は、彼女の体をひょいと抱き上げて、店の奥の和室へと運んだ。

「弥生さん、申し訳ないけど、暖簾のれん、仕舞といてくれへん」

 早口で言って、すぐに奥の和室に向かう吉乃に、「了解やで」と弥生は意外にも手慣れた様子で暖簾を片付ける。

「小春はコップに水と酒を用意して持ってきてんか」

 奥の部屋から声を上げる吉乃に、

「は、はい」

 小春はよく分からないまま、水と酒をコップに用意した。

 奥の部屋に足を踏み入れると彼女は六畳の和室の中心で畳に手をついて、はあはあと苦しそうにしていた。

「これ、取りかれとるやろ」

 恐々と尋ねる弥生さんに、『取り憑かれている?』と小春はギョッとした。

「うーん、ちょっとちゃうなぁ。なんや、もろうてるみたいやけど、これ、なんやろ。言うてくれへんかったら、分からへんわ。なぁ、あんたはどこで何をしたん? 突然、こないになったんか?」

 背中を摩りながら優しく問う吉乃に、彼女は震える手でバッグの中から観光マップを取り出して、『やすこん宮』を指した。

「安井のこんぴらさんか……」

『安井金毘羅宮』は、小春も知っていた。

 そこは悪縁を断ち切り、良縁を結ぶことで知られる神社だ。

 そこには、『縁切り縁結びのいし』という中央に穴があいたトンネル状の石がある。

 中央の穴を表から裏にくぐると縁切りができて、その後に再び反対側からくぐると、良縁を結べるというもの。断ち切りたい悪縁がある人に効果が絶大らしく、わざわざ遠くから参拝に来る人も多いそうだ。

「……あそこに行って、それで、こないなことにはならへんやろ」

 解せないように首をひねる吉乃に、宗次朗が面倒くさそうに髪をかき上げた。

「もう、なんでもいいから、はらったらどうだよ」

 すぐにパンッと両手を合わせる宗次朗に、吉乃は勢いよく顔を上げた。

「あかんよ、宗次朗! それで楽になっても一時的なもんや。ちゃんと事情が分からへんと、後々おかしなことになるんや。こういうのは病気と一緒で、あさってな薬を処方するのはあかん」

 ぴしゃりと言う吉乃に、宗次朗は肩をすくめた。

「……なぁ、あんた、少しでもしやべられへんか?」

 再び優しく問う吉乃に、彼女は震えるように顔を上げた。

 口を動かしているものの、声は出ない。

「ほんまにひどいわ。けど、不思議なんは、こうしてると、なんや大きなモノが憑いてるいう感じもせえへんし、ほんまに奇妙やで」

 まったく状況がつかめなかったが、彼女がこんなふうになった『原因』を知りたいことだけは小春にも分かった。

 その原因を知った上で、それなりの措置を取りたいと思っていることも。

「もういいって。とりあえず楽にしてやれよ」

 宗次朗が前に出ようとしたその時、小春はぐっとこぶしを握った。

「あ、あのね……」

 そっと、口を開いた小春に、吉乃と宗次朗が振り返った。

 こんなことを言っていいものか、ばくばくと鼓動が鳴る。

「こ、この人ね、もしかしたらなんだけど、安井の金毘羅宮で……記念にって、『縁きり碑』に抱き着いてしまったんじゃ……ないかな?」

 静まり返った部屋。

 皆はぼうぜんと小春を見たままだった。

「や、その……」私はなんとなく思っただけで、と慌てて訂正しようと首を振っていると、彼女はこくりと深くうなずいた。

「ほんまかいな! あれに抱き着いたんか。そら、あれに抱き着いたらあかんわ」

「……ああ、俺なら、頼まれても抱き着きたくねぇ」

 弥生と宗次朗はそう言って、苦い表情を浮かべた。

 安井金毘羅宮の悪縁を断ち切り良縁を結ぶ『縁切り縁結びの碑』には、おびただしい程の白い札が貼られている。

 小春が初めてその碑を見た時は、一瞬ひるんでしまったほどのものだった。

 人の縁を断ち切るくらいの石。

 くぐるのはさておき、抱き着くなんて、正直考えられない。

「──あれに抱き着いたら、そら、もらうわな。ほんで、大きなモノは憑いてへんけど、症状がひどいわけや。背中が苦しいやろ」

「吉乃さん、ほな、やっぱり、取り憑かれたん?」

「ちゃうで、取り憑かれたいうほどのものでもないねん。あそこにめに溜めこまれた『負の念』をもらったんやな。ほんで、経穴が詰まってしもたんや」

 吉乃はそう言いながら、彼女の肩や背中を手で払っていく。

「なるほどな。ただのほこりも、大量に吸い込めば病気を引き起こす害になるってやつだ」

「そやね。そやけど、事情が分かれば簡単やで。詰まった埃を掃除や」

 吉乃は、彼女の前に正座して座り、両手を合わせた。

「吉乃さん、何か手伝うことある?」目を輝かせながら、身を乗り出す弥生。

「そやね、ほんなら、棚の上に香があるから、いてもろうてええ?」

「了解やで」

 と、香に火をつける弥生さん。

「あと、小春、引き出しに白い包みがあるから、五個出しといてや」

「は、はい」

 小春は言われた通り、引き出しから白い包みを取り、差し出した。

「はい、これ。って、お祖母ちゃん、これは何?」

「粗塩やで」

 吉乃は彼女を仰向けにさせて、粗塩が入った白い包みをうなじに当て、次に両脇に挟み、そして腹の上、腰の下にと手際よく入れていく。

 再び彼女の前に正座し、パンッと大きな音が出るほどに、手を合わせた。

「ええか、あんたは今、たくさんの人の『負』の念を受け取ってしもて、それがあんたの毛穴にまで詰まってる状態やで。それを今から祓うたげるけど、あんた自身も、頭の中で良くないものを祓いけるイメージを持ってな。なんやろ、シャンプーした後の犬さんが水切りするようなイメージでええねん。体にまとった良くないものを勢いよく払うイメージを頭に強く持ってな」

 優しく強くそう言う吉乃に、彼女は涙目でこくりと頷いた。

「それじゃあ」と吉乃は息を吸った。

「──天清浄地清浄内外清浄六根清浄とはらいたまう──天清浄とは天の七曜九曜二十八宿を清め地清浄とは──地の神三十六神を清め内外清浄とは、家内さんぽうだいこうじんを清め、六根清浄とはその身其體のけがれを祓給清め給ふ事の由を八百やおよろずの神等諸共に小男鹿の八の御耳を振立て聞し食と申す──」

 小春には、何を言っているのかさっぱり分からない。

 吉乃はまじないのようなものを唱えた後、再びパンッと手を打った。

 ──しん、とした静けさが部屋を襲う。

「はい、大きく息を吸い込んで、それから吐いてや」

 吉乃の指示に従い、彼女はスゥッと吸い込んで、フーッと吐きだした。

「はい、体起こしてな」

 彼女の上体を起こし、頭を両手で包むように挟んで、ゆっくりと時計回りに回し、最後にもう一度、肩や背中を払った。

「うん、ええやろ。いきなり、スッキリそうかいにはならへん思うけど、くっついとった良うないもんは、祓えたえ。少しずつ楽になるやろ」

 吉乃はにこりと微笑む。

 その彼女は涙目のまま、ハーッと大きく息を吐きだした。

「──あ、ありがとうございます」

 ようやく声が出た彼女に、皆はホッとして胸に手を当てた。

「本当にすごく楽になりました。さっきまで、のどと胸が苦しくて声は出ないし呼吸も苦しいし、背中の中心が痛いくらい重くて……。今は噓みたいです。あ、ありがとうございます」

「そら、良かったわ。今日はに粗塩と酒を入れて入り。どちらもコップに一杯でええよ。もう、絶対に遊び半分であんなもんに抱き着いたりしたらあかんで」

「は、はい。あの、お祓いのお代は……」

「たいしたことしてへんから、ええよ。引き続き京都を楽しんでいってや」

「で、でも、そんな……」

 突然上がり込んで楽にしてもらったのに、何もせずに帰るのは気が引けるのだろう。

 彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。

 そんな彼女に、見守っていた弥生が口を開いた。

「ほんなら、ここの『香り袋』を買うたらええわ。おすすめやで」

「えっ?」彼女は戸惑った様子で、弥生を見た。

「『祇園の拝み屋』として名高い、この吉乃さんが自ら作った『香り袋』は、けの効果抜群やで」

 弥生は満面の笑みでそう言う。


 ──祇園の拝み屋?


 小春は耳を疑い、瞬いた。

「は、はい、そうします! ありがとうございます!」

「なんや、弥生さん、うちの店の回し者みたいやな」と、吉乃はたのしげに笑う。

 そうして、その彼女は吉乃手製の『香り袋』、ついでに入浴用粗塩に酒までも購入して、何度も礼を言いながら、弥生と共に店を出て行った。

 店の外には、彼女を心配して探していた友人たちの姿があり、無事合流したその姿に、小春はホッと胸をで下ろした。

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