第一章 香り袋と桜餅、秘密入り。③

    五


『さくら庵』から、八坂神社までは、歩いて十分もかからない。

 四月中旬の平日の午後。

 祇園商店街を行き交う人は、さほど多くなかった。

 そんな中、薄墨色の着物をまとっている澪人の姿はとても目立ち、通り過ぎる者たちの視線を集めていた。

「──なんや僕、『京都に浮かれた観光客』、思われてそうやなぁ」

 ゆったりとした口調でそう言って、たのしげに口角を上げる。

 まるでまいさんののんびりとした口調を、そのまま男性に変えた感じのみやびさだ。

 小春がジッと見詰めていると、「ん?」と視線を合わせられて、すぐにそらした。

「きょ、今日八坂神社で何かイベントがあるんですか?」

 先ほど『今日は十五日やし』って言っていたから、十五日の今日、何か特別な催しがあるのかもしれない。

「イベントちゃうで。一日と十五日は、特別な日なんよ」

「特別な日?」

「『お朔日ついたち詣り』いうて毎月一日に詣るのがええのと、あと十五日もええねん。神社が力を増す日なんやで。そやから、どうせ参拝するんやったら、一日と十五日がお勧めやな」

「知らなかったです」

 お朔日詣りという言葉自体、はじめて聞いた。

「なんか、すごいですね」

「なんもすごないよ」

「……いえ、さすが、京男子さん」

 思わずそうらした小春に、彼は小さく笑った。

「最近、京男のことを『京男子』いう人らが出てきたみたいやね。でも、宗次朗さんかて、『京男子』やろ?」

「──宗次朗さんが、京男子?」

 時に調理用白衣、もしくは甚平姿で、豪胆に笑う姿しか思い浮かばない。

「……いえ、宗次朗さんは、もはや江戸っ子みたいになってて」真顔で告げた小春に、

「ほんまやな」澪人は口に扇子を当てて、クスクスと笑った。

 その姿も雅で、れてしまう。

 四条通沿いの祇園商店街を東に向かって歩くと、通りの突き当りに八坂神社がある。

 ここから見える門を『西にしろうもん』というらしい。

 朱色をベースに、色鮮やかな巨大な楼門がとても美しかった。

「八坂神社って、本当に立派ですよね」

「ほんまやね。京都のシンボル的な神社やし。小春ちゃんとこやったら氏神さんやね」

「はい、でも、まだ詣ってなかったんですよ。一週間経つのに……」

 うつむきながらぽつりと告げると、澪人は柔らかく微笑んだ。

「まだ一週間やし、こうして来たんやからええやん。思えば、僕も祇園さんを詣るのは久々やな。この辺りにはよう来るんやけど」

 西楼門を仰ぎつつ、階段を上り始める。

 八坂神社のことを『祇園さん』と呼ぶことに、小春は少しの可笑おかしさを感じつつ、ハッとして顔を上げた。

「……あの、澪人さん、『あたごさん』って……ご存じですか?」

「愛宕さん? 知っとるよ。愛宕さんは、京都では右京区にある神社やで」

 神社の名前だったんだ、と小春はあいづちをうった。

「それは、どんな神社なんですか?」

 ちゃんと聞こえるだろうかと自分でも不安になるほどの小さな声で尋ねた小春に、澪人は「そやな」と空を仰いだ。

「一般的に、防火に霊験あらたかな神社として知られとるよ」

「防火……」

「愛宕さんに興味があるん?」

「そ、その、お祖母ばあちゃんとお客さんが『愛宕さん』の話を……」

「ああ、吉乃さん、けの札を頼まれてたん?」

 すぐに察した澪人に驚きつつ、うなずいた。

 どうして、お祖母ちゃんが火除けの札を書くんだろう?

 解せなさにまゆを寄せていると、澪人は目をぱちりと開いた。

「あれ、小春ちゃんは、なんも知らへんの?」

「──えっ?」

「なんで、吉乃さんが、そないなことを頼まれるか知らへんの?」

「は、はい。澪人さんはご存じなんですか?」

「まあ、知っとるけど」

 そう言って口を閉ざした澪人に、小春はそれ以上は追及できずに、目を伏せた。

 本当は聞きたいことがたくさんあるのに、今の私の口はとても重い。

 少し前の自分ならこんなことは、考えられなかった。思ったままのことが、口から出なくなり、考えてから口にしても、すぐ言葉に詰まる。話すことができても、小さな声しか出ない今の自分がとても嫌だ、と小春は苦々しく顔をしかめた。

 なんとなく口を閉ざしたまま、階段を上りきり、境内を進む。

 石階段の両脇にはたくさんの露店が並び、縁日を思わせる。

 なんだか、懐かしい、と小春は微笑んだ。

 八坂神社は久しぶりだ。夏休みや冬休み、お祖母ちゃんの家に来るたびに、ここに遊びにきていた。

 たこ焼き、わたあめ、焼きそばにリンゴあめと、いつもお祭りのようににぎやかで、子ども心に、とても楽しかったのを覚えている。

 やがて、境内奥に本殿が見えてくる。

 大きなほんつぼすずが、一定の間隔を置いて三つ並んでいた。

 久々に来ると、やっぱり大きな神社だとあらためて感じる。

 二人並んでさいせんを入れた後、ガラガラと鈴を鳴らし、二礼、二拍手、

『──お久しぶりです。あいさつが遅くなってごめんなさい。これから、よろしくお願いします』

 小春は辰巳大明神をまいった時と同じように心の中でそう告げて、最後に一礼をした。

「三時前に参拝できて、良かったわ」

 と、澪人は帯から懐中時計を取り出して、笑みを浮かべた。

「ほな、店に戻ろか」

「はい」頷いて、本殿を後にする。

 そのまま境内を抜けて、再び石階段を下りて、祇園商店街を歩いていると、隣を歩く澪人の体から、ふんわりと梅の花のような良い香りが漂ってきた。

 ……そういえば、はじめて会った時も、ほんのり良い香りがするって思ったんだ。

 やっぱりこれは、梅の香りだよね?

 目を細めて、くん、と鼻を鳴らした小春に、澪人は足を止めた。

「なんや、美味おいしそうな匂いでもしてんの? うてあげよか?」

「い、いえ、梅の香りがするって」

 そう言うと彼は、ああ、と頷いて、

「秘密があんねんで」とイタズラな笑みを見せ、「これやねん」そでぐちに手を入れて、スッときんちやく袋を取り出す。

 それは、ちりめんで作られた薄紫色のとても小さな巾着袋。さらに小さな鈴もついている。

 ──見覚えのある、この可愛い巾着袋は……。

「これ、お祖母ちゃんの作った香り袋?」

「そやねん。吉乃さんの香り袋やで。いろんな香りがあるけど、これは梅のええ香りしてはる」

 指先で香り袋を手に、『ほら』と差し出す澪人に、小春はそっと鼻を近付けた。

 柔らかで、甘く、上品な梅の香りがしている。

 まさしくこれは、祖母の作った香り袋だった。

「吉乃さんの香り袋はお勧めやで。ええ香りなだけやなくて、『秘密入り』やし」

 スッと再び、香り袋を袖口に入れる。

 その時、チリンと小さく鈴の音が鳴った。

「秘密入り?」

「それは、手にとってのお楽しみやね」

「あ、はい」私も買ってみようかな、と小春は頷いた。

 澪人の不思議な雰囲気のせいだろうか。ほのかに薫る梅の香りのせいだろうか。

 ふわり、と何かに包まれて、小春の心がほんの少し柔らかくなることを感じた。

 これは、『心を開く』というより、『やくさせられている』という表現の方が合っているのかもしれない。

「あの、澪人さんは、お祖母ちゃんの、よく分からない事情を知っているんですよね?」

 先ほどは、どうしても聞けなかったことを、するりと口にすることができた。

「……そやね、吉乃さんには、香り袋と同じで、ちょっとした『秘密』があるんよ」

 ──秘密。

 少し、ドキドキするのを感じながら、小春は視線を合わせる。

「お、教えてもらえませんか?」

「──そやね。ほんなら、交換条件」

「えっ?」

「小春ちゃんの『秘密』を教えてくれたら、吉乃さんの秘密を教えたるわ」

 そう言ってニッコリと笑った澪人に、どきんと、心臓が嫌な音を立てた。

 ……澪人さんは、私が学校行けなくなったことを知っているんだ。

 そして、学校に行けなくなった理由を誰にも打ち明けていないことも。

 それはそうだろうな。

 私はまだ、十六歳になったばかりの、本当なら高校に通っているはずの女子だ。

 突然、東京から京都にやって来て、祖母の店を手伝うという話を聞いたなら、当然のように不思議に思って、あれこれ聞くのは自然の流れなのかもしれない。

 だけど、私にだって踏み込まれたくない事情がある。

 興味本位で茶化すように、『交換条件』だなんて。

 そんなふうに、心の傷をえぐるようなことを突き付けてくるなんて、信じられない。

 ……澪人さんのことを『素敵だな』って、少しときめいた自分がバカみたいだ。

 小春がグッとこぶしを握りしめて、澪人をにらんだその時、

「かんにん」と、静かにらした。

「えっ?」

「小春ちゃんを茶化したつもりはないんよ。僕らはしんせきやけど、今まで関わりがなかったし、そういう相手の方がなんやサラッと言えて、小春ちゃんが楽になれば思うて。ほんま、かんにんや」

 本当に申し訳なさそうに言う彼の姿に、言葉が詰まった。

 湧き上がっていた怒りがすぐにしぼんでいく。

 それは、澪人が本当に自分に対して、『悪いことをした』と思ってくれているのが、小春には伝わってきたからだった。

「あ、いえ」

「思えば、吉乃さんのことも、僕が言うことちゃうかもしれへんし、知りたかったら吉乃さんから聞いた方がええかもしれへんで」

「……はい」

 自分の秘密は言いたくないけれど、人の秘密は知りたいだなんて……私だって勝手なものだ、と小春は苦い気持ちになった。

 なんとなく訪れた沈黙。

 少し落ち込むことを感じながら祇園商店街を西に向かって歩いていると、近くにいた若い女性が気分悪そうに口に手を当てている姿が目に入った。

 多分観光客だろう。一緒にいる友達らしき女性が、心配そうに背中をさすっている。

「ねぇ、ちょっと大丈夫? ホテル戻る? 彼を呼んでこようか?」

 それに対して、彼女は口に手を当てたまま、無言でうなずいていた。

「…………」大丈夫なんだろうか?

 小春がハラハラしながら彼女たちを目で追いつつ、四条通から北へと曲がった時、隣を歩く澪人が、そっと肩をすくめた。

「あら、あかんわ。あんなにたくさんもろうて。でも、あれは自業自得やなぁ」

 澪人は、やれやれ、という様子で息をつく。

「えっ?」

「……小春ちゃん、あそこに猫さんがたくさんおるで」

 話題をそらすように、澪人は植え込みでくつろぐ数匹の猫たちに視線を移した。

「あ、可愛い」

「小春ちゃん、猫さん、好きなん?」

「はい」猫に限らず、小動物ならなんでも、と心で付け加えた。

「うちは下鴨さんの近くなんやけど、神社の周りにはなんや猫さんがいっぱいおって、うちの庭にもいっぱい来はるで」

「えっ、勝手に入ってくるんですか?」

「そやねん。みんな可愛らしいで。良かったら、近々うちに遊びにきぃひん?」

 そう言って顔をのぞいて来た澪人に、小春の心臓がばくんと跳ねた。

「え、えっと」慌てて顔をそむけた瞬間、

「──おい、下鴨の坊、なにやってんだ?」

 店の前で、宗次朗が仁王立ちしている姿が見えた。

「ああ、宗次朗さん。こんにちは」

 澪人は、にっこりと口角を上げる。

「『こんにちは』じゃねーよ! 勝手にうちの娘を誘惑するな!」

 腕を組み、脅すように言う宗次朗に、小春はギョッとした。

「ゆ、誘惑って、宗次朗さん」

「小春、お前もお前だ! たかが猫ごときで、家に連れ込まれそうになってんなよ、安すぎだろ、お前!」

「つ、連れ込まれって、澪人さんは親戚だよね?」

 いつもは思ったことがそのまま口から出ることはなかったのだが、あまりの動揺と戸惑いからか考える間もなく、自分でも驚くほどの大きな声が小春の口から出た。

 宗次朗は「はっ」と肩を上下させて、澪人を指差す。

「いいか、澪人はお前にとって、『ばーさんの弟の孫』。そんなの、ほとんど他人だろうが!」

「え、ええ?」

「よく聞け、小春! お前は俺の兄貴の娘なんだ! つまりは省略すると俺の娘ってことだ! お父さんの言うことを聞け!」

「はとこが他人で、叔父おじめいは親子に省略って。宗次朗さん乱暴やわ。四捨五入がすぎますやろ」

 澪人は扇子で口元を隠してクスクスと笑う。

 その姿が上品で、小春はついうっとりした目で見てしまう。

「こ、小春、なにをこいつにれてるんだよ! いいか、こいつの外見に惑わされるな、危険だから絶対に近付くなよ!」

 ひたすらムキになっている宗次朗に、小春は困惑した。

「えっと……どこが危険なの?」

「──っ」宗次朗は言葉を詰まらせたかと思うと、

「……それは、知らなくていいとして」と低い声で告げた。

 わけが分からないんだけど、と首をひねる小春に、澪人も頷いた。

「ほんま、わけがわかりませんわ」

「おい、お前は黙れ! 大体、お前も色仕掛けで小春を誘惑すんな!」

「誘惑なんてしてへんで。この子に警戒心を与えんといてください」

 澪人はパタンと扇子を畳んで、冷ややかな目を見せる。

「それに、あなたは人のこと言えないでしょう? 僕の姉を誘惑したやないですか」

「っ!」宗次朗は急に言葉を詰まらせて、目をそらした。

「えっ、宗次朗さんが、澪人さんのお姉さんを誘惑?」

 彼の姉なら、かなりの美人だろう。隅におけないものだ。

「そやで。僕の姉は宗次朗さんに熱を上げて、宗次朗さんを追い掛けて、東京に行ってしもたんや」

「知るか、そんなこと! あいつが勝手に東京にあこがれて、地元を飛び出したんだろ!」

「ほんで、一緒に住んどったんでしょう? いやらしいわ、ほんま」

 澪人は腕を組んで、ふぅ、と息をついた。

「あ、あいつが無理やりうちに転がり込んできただけだ! 親戚同士だし、東京生活が軌道に乗るまで置いてやっただけだよ。ただの同居、ルームメイトだよ!」

「親戚て。姉はあなたにとって、母親の弟の孫で、ほとんど他人ちゃいますの。そんな大人の男女がひとつ屋根の下、ただの同居て」

 澪人は鋭いまなしで、冷笑を浮かべた。

「見ろ、小春、この男はこんな底意地の悪い京都人なんだ! 絶対にたぶらかされるなよ!」

 宗次朗は勢いよく振り返って、小春の両肩に手を乗せた。

「そ、宗次朗さん……」

 頭痛を感じて、小春は額に手を当てる。

「そや、小春ちゃん、そもそも宗次朗さんが、なんで東京に出たか知っとる?」

 今思い出したように言う澪人に、小春は「えっ?」と戸惑った。

「それは……たしか『常に体裁を繕う京都に嫌気が差して飛び出した』って」

「それもあるかもしれへんけど、宗次朗さんは、ア……」

 澪人がそこまで言いかけた時、宗次朗はまるでバスケットボールを持つかのように、その額を勢いよくつかんだ。

「いいか、澪人、それだけは言うな」

 笑みを浮かべたまま、グッと指に力を込める。

「──いややわ、そんな本気のアイアンクローせんと」

 澪人は、怖い怖い、と肩をすくめた。

「ったく、もう、お前はさっさと下鴨に帰れよ。その妙な色香でうちの娘を誘惑するな、この毒花が」

 宗次朗は小春の肩を引き寄せるように抱いて、シッシと手で払う仕草をした。

「も、もう、宗次朗さん……」

 そのあまりにひどい対応に、小春はうろたえ目を泳がせるも、当の澪人は気にも留めない様子で口元に笑みをたたえている。

「なんや、ものすごい言われようやけど。店に用があってん」

「なんだよ、また、ばーさんに用なのか?」

「ちゃいます。宗次朗さんのさくらもち、お取り置きお願いしてるんやけど」

 宗次朗は、ぴたりと動きを止めた。

「……ばーさんが言ってた、二十個の取り置きって、お前か」

「はい。宗次朗さんの桜餅がえらい美味おいしいて評判で、みんな食べたい言わはるし」

 屈託のない笑みを浮かべる澪人に、

「ったく、それじゃあ、しゃあねえな」

 宗次朗は得意そうに腕を組んで、うん、とうなずいた。

 ……宗次朗さん、勝手すぎる。

 小春は顔をしかめて、大きく息を吐いた。

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