第一章 香り袋と桜餅、秘密入り。②
『──ねえ、どうして、学校に行けなくなったの? あなたはあんなに明るくて元気な子だったじゃない。学校も楽しいって言ってたじゃない』
『一体何があったんだ? 言ってくれないと、何も分からないぞ』
何度も何度も、繰り返し同じように聞かれたその言葉。
私のことを心配してくれているのは、よく分かっていた。
それでも理由を言えない以上、何度も同じことを問い
──そうだよ、学校は楽しかった。
目を
少し急いだように机につくクラスメイトたち。
黒板にチョークを走らせる音も、固い椅子の感触も。
私は、ごく普通の女子中学生だった。
『ねえ、小春は進路決めた?』
『うん、親や先生と相談して私立の大学付属T高にチャレンジしてみることにしたの』
『付属T高って、たしかうちの学校からは十人しか受けられなかったよね? すごいじゃん、小春は成績いいもんね』
『そんなことないよ』と、
たった十五歳だったけれど、順風満帆な人生だと思っていた。
一人っ子ということもあって、親が教育にお金をかけてくれたことから、学校での成績はそこそこ良かったし、友だちも多かった。
少し気難しい父と神経質な母だったけれど、両親は仲が良くて、家もとびきり裕福ではないけれど両親が共働きなことから、それなりに余裕があるように見えた。
自分はとても幸せで、恵まれてもいると思っていた。
だけど、そのすべては手にしていたグラスが床に落ちてしまったかのように、突然一変した。
自分が、変わってしまった。
最初は『気のせいだ。そんなことはない』と自分を誤魔化して、がんばって普通に生活を送っていた。
──だけど、すぐに限界は来た。
やがて、私は部屋からも、出られなくなった。
それは多分、世間一般的に言われる『引きこもり』とは、少し違ったと思う。
誰かと顔さえ合わせずに済むならば、外にも出られたから。
私はただ、『自分を知る人』に会うのが怖かっただけだ。
『どうしてなの? どうしてなの?』
泣きながら、ドアを
『お前が家にいないから、こんなことになるんだ』母を責める父。
私のせいで、家庭が壊れていくのが分かっていた。
だけど、どうしようもなかった。
私の両親は、『人と違っている』ことをとても嫌っていた。
異端な者に向ける両親の拒否反応を見てきたから、どうしても言えなかった。
言ったところで、信じてもらえないだろうし、嫌悪の目を向けられるのが分かっていたから。病院に連れて行かれるに違いないと確信していた。
『もう、いいかげんにして! お父さんとお母さんのそういうところ、そういうふうに人のせいにして責めるところが、嫌なの! 話もしたくないし、顔も見たくない!』
ドアを隔てた状態で、
その場が、しんと静まり返る。
あれから、両親は何も言ってこなくなった。
あの時、二人はどんな顔をしていたのだろう?
──あんなに心配してくれていたのに、私のことを思ってくれてのことだったのに、私は全部両親のせいにして、泣きながら怒鳴ったんだ。
あの時の沈黙が……忘れられない。
小春が苦しさに
「小春、店の前を掃いてきてくれへん?」吉乃の声に、顔を上げた。
「う、うん」
そそくさと、店の外に出る。
ガラリと引き戸を開けると、朝陽が
今日もいい天気だ。
家に居た時は、誰にも会いたくなくて、責められたくなくて、ずっと部屋にこもっていて、朝も夜もないような生活をしていた。
そんな自分だからこそ、朝陽を浴びることの大切さを強く感じる。
チュンチュンと雀たちの可愛らしい声も聞こえた。
軒を連ねる京町家は、まだどこもしっかりと雨戸が締められている。
いつも
朝と夜とでは、まるで別世界だ。
よし、今日もがんばろう。
小春は、うん、と体を伸ばし、立て掛けている
四
──ちなみに和雑貨店『さくら庵』の一日は、こうだった。
六時起床。
七時半から、家と店の掃除、品出し。
八時半、宗次朗さんの作った和菓子の品出しと開店準備。
九時、開店──。
小春が驚いたのは、思ったよりも宗次朗の和菓子を買いに来る客が多いこと。
客層は主に年配者で、祇園
職人である宗次朗は二階にこもって作業しているので、売子にはならない。
ちなみに、宗次朗が作業している時に、キッチンのことをそのまま『キッチン』というと、『今ここは
実際は、キッチンでも厨房でもなく『台所』という言葉がピッタリと当てはまるのだが──。
そんな宗次朗が一階に下りてくるのは、出来上がった和菓子を運ぶときだけだ。
和菓子は、店内の小さなショーケースに並べられる。
それを売るのは、主に小春の仕事だった。
和菓子の種類はさほど多くない。
今は『春のラインナップ』ということで、薄紅色の生菓子に
そして──。
「
「桜餅四つ、頼むわ」
やはり、人気は桜餅。今日も次々にお客さんが訪れる。
「あ、ありがとうございます」
小春はぎこちなく応対しつつ、それでも丁寧に桜柄の紙袋に入れていく。
「そやそや、和風マカロンもお願い」
宗次朗は抹茶や和三盆、
「……ほんまに、あの子の作るもんは邪道やで」
なんて、吉乃は肩をすくめながらも、好評なのが少し
忙しいシーズンは、閉店時間の夕方六時まで絶えずお客さんが訪れる。
一日中ずっと忙しいかと思えば、不思議なものでまるで潮が引けるように、急に店がすくこともある。
噓のような静寂に、気が抜けたような気持ちになるものだった。
今日も午後からぱたりと客足が途絶えて、一息ついていると、まるで見計らっていたかのように、吉乃の顔見知りと思われる年配の女性客が訪れた。
「──吉乃さん、こんにちは。
柔らかな笑みを
吉乃と同世代だろう。
「こんにちは、
彼女の名前は、『弥生』というらしい。
「愛宕さんもええけど、なかなか行かれへんし、吉乃さんに頼んでも間違いないやろ」
弥生は、そそくさとレジカウンター前の丸椅子に腰を下ろした。
「また、そんなお上手言うて」
吉乃は
「そやけど、なんでまた、突然『火除け』なん?」
「それがな、昨日家がボウボウに燃える夢を見てん。なんや怖なって」
「火事の夢は、ええんやで。近いうちにええことあるわ、問題解決の暗示やで」
「そら、嬉しいわ。ほんでも、一応書いてもらお思うて」
「おおきに。ちょっと待っててな」
そう言って、その箱と短冊を手に、店の奥の和室へと下がっていった。
「…………?」
思えば先日も、『吉乃さん、書いて』って、お客さんが来ていた。
一体、なんなんだろう、それに、『あたごさん』とはなんのことなのか。
小春は首を
「できましたえ」
吉乃が奥の部屋から、桜柄の封筒を手に戻ってきた。
その封筒の中に、短冊が入っているようだ。
「これで安心やね」と、弥生は、吉乃に白い封筒を差し出す。
こちらには、どうやら謝礼が入っているのだろう。
「こちらこそ、毎度、おおきに」
「ほんなら、そろそろ戻るわ。おおきに」
弥生は、桜柄の封筒を大事そうに手にしながら店を出て行った。
再び、静かになった店内。
いつもはあまり聴こえない、琴のBGMが静かに流れている。
「──ねぇ、お
いつも何を書いているの? そう続けようと、小春が振り返った時、
「かんにん、小春。なんやまた落ち葉が
吉乃は申し訳なさそうに
「あ、うん」と、小春も店の前に目を向ける。
吉乃が言うほど、落ち葉は溜まっていなかった。
それでも、小春は言われた通り、店の外に出て竹箒を手にする。
……気のせいかな。
なんだか、今お祖母ちゃん、私の質問を回避したような気がする。
ここに来て一週間。不思議に思うことがいくつかあった。
今のように『書いてほしい』とくる客や、家の間取りを広げて、『見てほしい』と言い出す客。さらには、『今度住む家を見てほしい』と吉乃を連れて行ってしまったこともあった。
それに対して、問おうとした時、吉乃はいつも話をそらす。
どうして、聞かれたくないんだろう?
そこまで思い、『どうして?』と、何度も自分に問うてきた両親の顔が
……うん。誰だって、人にあまり話したくないことはあるよね。
私だって──ううん、私こそ、そうだ。
お祖母ちゃんが話したくないなら、聞くのはやめることにしよう。
ある程度、集まったことを確認し、
「こんにちは」と背後で男の人の声がした。
京都ならではの独特のイントネーションの『こんにちは』。
──誰?
戸惑いながら振り返ると、そこには、ちょうど一週間前、この店で会った澪人が、柔らかな笑みを浮かべていた。
その存在にも驚いたが、今回は羽織に
「れ、澪人さん」
慌てて立ち上がって、小春はぺこりと頭を下げた。
「元気そうやね。店にはよう慣れた?」
澪人はのんびりとした口調で言って、にこりと微笑む。
「い、いえ」まだ、慣れたというほどでは……、と心で付け足す。
やはり
小春はぎこちなく目をそらして、彼の着ている着物に視線を移した。
薄墨色の、紋付羽織に袴。
京都の男子は、こうして普段から着物を着ているものなんだろうか?
いやいや、それはないよね。
「……えっと、その格好は?」結婚式に出席していたんだろうか?
着物に目を向けたまま尋ねると、彼は小さく笑って首を振った。
「ああ、今日はおとんの代理で祇園の茶会に参加して、その帰りなんよ。茶会では着流しもNGやし、少し仰々しいやろ」
「あ、いえ、そんな」
とてもよくお似合いです、と小春は心で付け足した。
父親の代理で『お茶会』に参加するなんて、さすが京都の男子は違う。
何より、なんて和服が似合うんだろう。
「……お茶会には、よく?」
「たまにやね。おとんが忙しい人やし、気ままな大学生の僕が代理をさせられるんよ」
「大学生、なんですね」
「そやねん。大学二年生の十九歳、一番気ままな時やろ?」
返事に困って、小春は
「あの、それで澪人さんは、お祖母ちゃんに会いに来たんですか?」
「そやね。店に用もあったんやけど、今日は十五日やし、祇園さんを
「祇園さん……?」
「八坂さんのことやで」
『八坂さん』は言わずもがな、八坂神社のことだ。
京都の人は神社のことを、『○○さん』という傾向がある。
いや、神社に限らず、なんでも『さん』をつけているところもあるかもしれない。
先日、吉乃が地面にごろんと転がっている犬を見て、『犬さん、寝てはるわ』と言っていたことを小春は思い出した。
『○○してはる』は、基本的に敬語だと思っていたが、犬や猫にまで使うこともあり、もはや敬語限定というわけではなさそうだった。
……八坂神社か。そういえば、京都に来た日に荷物が多いから、その内にと思いつつ、まだお詣りに行ってなかったな、と小春は肩をすくめた。
「良かったら、小春ちゃんも一緒に行かへん?」
そう続けられて、小春は
「え、えっと、私はまだ、店の手伝いがあって……」小声でそう告げる。
店は普段、夕方六時まで営業していて、今はまだ二時過ぎだ。
それに休憩も取ったばかり。
「ええやん、吉乃さんには僕からお願いするし」
「えっ?」
小春の戸惑いを
「吉乃さん、小春ちゃん、借りてもええ? 祇園さん行ってくるわ」
そんな澪人に、吉乃は
「ええよ。小春、ずっとがんばって仕事手伝ってくれて、ろくに遊んでへんから連れてったって」
「おおきに。ほな、小春ちゃん、行こか」と、そのまま歩き出す。
「あ、あの、でも、私は作務衣にエプロン姿で……」
「かまへんよ。京都にはいろんな格好の人がおるし気にせんとき。それに可愛らしいで」
サラリとそんなことを言う彼に、小春の頰が赤くなった。
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