第9話 幕間の冷やし中華
北別府さんの送別会は、思いのほか荘厳なものになった。と言うのも、あろう事か北別府さんがいわゆる資産家の御令嬢で、更にはプロのオーケストラ奏者だと明かされたからだ。
「ハープなんて初めて見た」
キッチンのテーブルに身を沈めたまま呻くと、それにうんうんと同意しつつも、あまりショックをうけていないように思える兄がいる。
「穂高は知ってたの? 北別府さんのこと」
「バイト先の雑誌で見た」
水を向ければ、楽器店でバイトしている兄は、既にクラシック音楽の情報誌に掲載された北別府さんを見たことがあり、すぐに気付いたらしい。黙ってるなんて人が悪い、とは思うものの、おおっぴらに騒ぐのも可笑しいというのもわかるので、やっぱり不器用に黙ったままでいる。
メイドの佐伯さん(と言っても例の衣装とかは着ていない。普通にスーツ着た丸っこい眼鏡の丸っこいお姉さんだった。)が迎えに来た日、北別府さんがここを出ると知らされた。驚いたし、水臭いとも思った。
出る、と言う割には佐伯さんがものすごく大きな荷物を持って来たので戸惑っていたら、それがハープだった。
海外旅行のトランクみたいな大掛かりなケースを、北別府さんは大切そうに開いて見せた。
「これは私の宝物なんだ」
淡い木の色をした美しい曲線。なだらかなカーブを描くその楽器は、まるで大きくて穏やかで優しい動物のように見えた。それを抱きしめるように愛おしそうに弾く北別府さんはいつものおちゃらけた表情とはまるで別人のようで、この上なく幸せそうだったし、ハープは夢のような音色がした。
兄は先程からずっと、キッチンに立って何かを作っている。鍋にお湯を沸かし、冷蔵庫から野菜とハムを出し、それらを器用に切っていく。
「寂しくないの?」
問いに対して「ん?」という至極簡単なリアクションを返した兄は、冷蔵庫から取り出した卵を割り、リズミカルに溶き卵をかき混ぜる。温まったフライパンに流し込み、のんびりと広げてから菜箸で器用に裏返す。
兄はいつから料理が出来たのだろうか。少なくともここへ追いかけてきた時にはできていた。チキンライスにとろりとした半熟オムレツを乗せたオムライスを作ってくれて、子供扱いされていると感じたのを覚えている。
家にいる時は母さんの料理を食べていたはずだ。いかにもな花柄のエプロンを着けた母さんの作る、母親然とした料理の数々を思い浮かべる。土曜の昼の親子丼も、家族で囲む夕食のハンバーグも、休日に大量に揚げられてダイニングテーブルを埋め尽くす天ぷらも、どれも美味しくて、どれも温かかった。
兄はしばらく背中をむけたままで、その姿が却ってしっかりと問いの答えを考えているのだと思わせた。少しして、パチパチと小さく油が爆ぜる音に紛れ込ませるように何かを呟いたようだったけれど、それは珠暖簾のじゃらりと鳴る音でかき消される。
「あー、何か作ってるー!」
「お! 夕凪さん、おかえりなさい」
買い出し組が騒々しく帰宅して、冷蔵庫や棚を開けて買い物を収納し始めると、その場の空気がどんどん解けていくのを感じる。
茹で上がった黄色い麺をザルにあけて流水でしめて、よく水を切る。スライスしたキュウリとハム、更にワカメと茹でモヤシ、きれいに焼けた錦糸卵と仕上げのトマトを乗せて、たっぷりのごまを振りかける。
「ワカメ乗ってる! ミネラル補給だー」
「ねぇ、冷やし中華ってマヨネーズかける派?」
「冷やし中華にマヨネーズ?」
「いるだろ、普通」
「私は酢だな」
「辛子は必須ね」
好き勝手な事を喋りながらもテーブルに就いて、揃って冷やし中華をつつく様は、何だかそれこそいろんな具が乗った冷やし中華そのものみたいで、ここって本当に変な空間だなぁと思ってしまう。
「……やっぱり寂しい?」
鶉山さんが穂高に軽く問いかけた。鶉山さんから見てもわかるのだ。やっぱり兄は、いつもより少しだけ大人しい。
みんなの視線が集まってしまい、兄はガシガシと決まり悪そうに頭を掻いた。
「いや、その……世界の音楽家に悪癖付けちまったな、と思って……なぁ……」
あぁ、と僕もおそらく今ちょうど兄が思い出しているであろう場面を思い出す。
耳に蘇るのは訝しげな佐伯さんの声。
「……あら……お嬢様?」
背中のジッパーを引き上げながら、佐伯さんは何度も首を傾げていた。
「……少し、ふっくらされましたか」
あっ、と口元を覆う兄と。美しいドレス姿でハッとした顔を見せる北別府さん。彼女のボストンバックには、大量のインスタントラーメンが詰め込まれているのを、僕らは知っているのだった。
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