第8話 北別府さんのお夜食インスタントラーメン 3
佐伯によってお団子ヘアにイメチェンされた上シェアハウス鶉の巣に放り込まれた私は、住人への挨拶をそこそこに済ますと、早速居室に引き篭もった。率直に無理だった。音楽もなしに初対面の人達と打ち解けろなど、音楽としか生きて来なかった私には、到底不可能だ。
朝は食堂のガヤガヤした雰囲気を布団に丸まりながら聴き、静かになるとそっと出て行ってもそもそ済ませた。昼は外に出て近所のコンビニのおむすびを、冷えた公園のベンチで食べた。夜は人が集まる前に食堂へ顔を出した。
大抵はオーナーさんが居て、鍋に味噌を溶いていたり、オーブンを覗き込んでいたりした。私の姿を視界に認めると、何でもないような顔で、綺麗に盛り付けたプレートを差し出す。
「気が向いたら食堂で食べなね」
うっ、と固まる私を見てちょっと笑ってから、「まぁ、ここの連中アクが強いからねぇ」とバナナをおまけしてくれた。
バナナは美味しかったけれど、夜中になると不安や恐れや、負の感情がぐちゃぐちゃになるようで、いつもとても苦しくなった。
それは、佐伯に迎えに来て欲しいと言おうかと悩んでいた晩の事だ。寒いはずなのにそれすらも実感が出来なくて、細く窓を開けた。実家に帰ろうか。両親を落胆させてしまうはずだけど、私にはもう、どうして良いかわからない。
ぐるぐる考え込む耳に、ふと、何かの音が触れた。知らず知らず、息を止めて耳を澄ませる。
———ポロポロ、ポロン。
やっぱり、聴こえる。
たぶんギターだ。誰かが近くでギターを弾いている。
何かを考える間もなく、手がドアノブを回していた。ギターの音色に導かれるように、足が勝手に音のする方向へと進んでいく。夢遊病みたいに階段を上り、銀色のチープなドアノブを回す。
新鮮な夜の空気。
頬に鳥肌がたった。
ギター、弾いてる人がいる。
細身の男が古めかしいアコースティックギターを慈しむように、大切そうに弾いていて、私はスリッパのまま屋上テラスの床を踏みしめた。
男はこちらをチラリと見て、ギターをかき鳴らす手を止めないまま「北別府さん、こんばんは」と挨拶をした。私も、ギターの音色に乗せて唄うような心持ちで「こんばんは」と発音する。
チャチャ・チャラリラともう一節弾いたあと、ギターを差し出された。
「弾ける?」
「弾く」
重いような軽いような不思議な感触。たくさんの人の手を渡ってきたのかボディに滑らかな艶があって、月明かりにてらてらと反射した。
ネックを包むように持ち、フィンガーボードに指を滑らせながら、優しく弦を弾く。ポワン、と夜空に音色が広がって弾けた。ポロリラポロ、チャラリラチャラ。
「あなた……その、お名前」
「俺は森高穂高です」
「もりたかほだか!」
なんと、とても韻を踏んだリズミカルな名前。そんなことあるのかなんて感動してる内に、自然と私の手はギターの弦をかき鳴らす。リズムは「もりたかほだか」でンチャチャ・ラ・ンチャチャと鳴らせば森高穂高も「おっ?」と面白そうに浮き足立ち、座っていた椅子を打楽器代わりに鳴らして応戦してくる。
ギターはそれから森高穂高のリズムを抱えたままで、なんちゃってハワイアンを奏で、ドビュッシーを掠め、訳の分からないハイパワーの十二拍子に突入してフラメンコ調に幕を閉じた。
肩で息をする森高穂高が「とんでもねー!」と屋上の床にひっくり返る。スニーカーの裏の、アスファルトの汚れをものともしない赤い色が見えた。
そこからしばらく、音を味わうように弾き続けた。恋しかったよ、音楽。音楽のいない世界なんて、やっぱり私にはあり得ない。
ギターから流れ出た音が夜の空気に溶けて、最高に気持ちが良かった。
指が少し痛いことに気付いて弦から離したタイミングでお腹が鳴った。森高穂高は「ぎゃはっ」とひと声笑ってから立ち上がる。
「夜食にします?」
夜食。そんなのしたことないなと思いながら、さも当然のように頷いた。
鼻歌を歌う森高穂高がキッチンに立っている間、テーブルについてぼんやりと思いを巡らせる。音楽に溢れたヨーロッパの音楽学校から逃亡して、深夜のキッチンに来て、あまりよく知らない男の作る夜食を待っている。
「お待たせ!」
思考を遮るように湯気の上る丼が現れて、小さな音と共にテーブルに置かれた。味噌の匂い。海苔と、茹でもやしと、エビと、卵が落としてある。
「……いただきます」
恐る恐るスープを掬ってレンゲを口に運ぶ。それを見てから森高穂高も豪快に箸を突っ込み、麺をずぞぞと啜る。
「美味しい!」
「そりゃ良かった」
味噌のスープにエビの出汁が出てて、それを吸った茹でもやしは食感も良くて、半熟の卵が麺に絡んで、あとを引く。
「森高穂高は料理もできるのか」
「インスタントラーメンくらいで料理って言うか?」
「……これが、インスタントラーメン」
体に悪いとされ、一度も食べたことがなかった物。
想像の中の佐伯が拳を振り上げてお説教を始めるのを湯気で掻き消して、インスタントラーメンに向き直る。
生まれて初めての夜食を啜りながら、世の中にはこんなに美味しいものがあるのかと驚いた。それまで自分がどのくらい狭い視野しか持っていなかったかを、自分の目で見て舌で味わうことをして来なかったかを、痛感した。まるで、目の前に見たことのない新しい楽器が現れたように、驚きと嬉しさとワクワクが溢れ出た。
翌朝、興奮したままの私は日が昇るやいなや佐伯に電話をかけた。
「楽器を持ってきて欲しいんだけど」
電話の向こうで眠そうな声をした佐伯が少し笑って、いつもと変わらないテンポと音程が「承知しました」と奏でた。
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