第7話 北別府さんのお夜食インスタントラーメン 2

 なんでも師事の宛てがあったらしく、中学生の頃から、両親の薦めでハープを弾きはじめた。

 ハープは、難解で魅力的な楽器だった。左手と右手の使い分けはピアノの経験値があるのでさほどハードルにはならなかったものの、両足によるペダル操作と指先の痛さには慣れるまで少し時間がいった。でも逆に慣れてしまえばなんともなくなるもので、おかげで弦楽器にも親和性が出て、ウクレレやクラシックギターにも手が伸びた。

 気の向くままに楽器を手にし、それでもハープを専攻に選んだのは、やはり音色が好きだったからだ。柔らかな和音が自分の指先から生み出されては広がり、そして満ちる。恍惚となりながらグリッサンドをなぞれば、それは本当に魔法の絨毯にでも寝転がった心持ちになり、どこまででも飛んで行けそうに思えるのだった。

 かくして当然のように音楽大学に進んだ私は、当たり前のようにヨーロッパへと留学した。在学時からオーケストラに所属し、いわゆるプロとしてデビューもした。

 ふかふかのロングスカートで、長く伸ばした髪をワンサイドに流し、大好きなグランドハープと一緒に映った写真は音楽専門誌にも載ったことがある。ただただ楽しく、まるで、大好きな音楽と踊るような日々だった。


 転機が訪れたのは、留学生活も三ヶ月目に入った頃。個人レッスンを受講している時、講師に問われた。

「レイカは、ここからの人生で音楽とどう関わって行くつもりなの?」

 人生。

「君が望めば、音楽はいつもそこにある。レイカは、音楽とどう向き合うの?」

 向き合う。

 考えたこともない話だった。

 ただ好きで、ただ弾いていたくて、楽器が愛おしくて。それだけで外国までやって来た。しかし、この時間は無限ではないのだ。


 そこから、少しずつ周りに目を向けるようになった。どうやら、音楽が好きで弾いていられたらそれで良い、そんな風に思っている生徒は恐らくひと握りだ。例えばオーケストラに入るとか、プロの演奏家として有名になりたいとか、音楽を広める為の活動をしたいとか、みんな何かしら目標を持っている。

 その為に必要なものを選んで、何なら音楽以外も習得している。

 吃驚した。

 演奏が好きで、プロデビューもして、だけど次は? 

 デビュー後に結果が出せず楽器で食べていく事を諦める人も多い世界だ。私は、そこに居る。

 不安は音にも現れた。

 音にブレがあることはすぐに気が付いたので、オーケストラのメンバーに指摘を受けるまいと必死になり、その焦りを悟られまいと練習に練習を重ね、気が急いて眠れなくなり、やがて食事が喉を通らなくなり、最後には倒れた。


 報せを受けてやって来たのは佐伯だった。

 ふっくらした頬に見慣れたオーバル眼鏡。眉は顰められているものの、どこか安堵したような表情もある。

 幼い頃からすぐ側で見守ってきてくれた佐伯は、北別府家のメイドのひとりで、年末年始も帰国しなかった娘を心配した両親が送り込む人材としては当然の帰結だ。

「麗華お嬢様!」

 懐かしい声に安心してか、一気に涙が膨れ上がった。泣いてしまってから、そう言えば泣くことすら忘れていたと気が付いた。

「お嬢様、学校は一度きちんとお休みしましょう」

「……うん」

 こんなんじゃ弾けない。弾いたところで音楽にならない。

「……お父様と、お母様に……」

「えぇ、えぇ、わかっておりますよ」

 合わせる顔がない、と言うまでもなく佐伯が優しく頭を撫でた。

「お嬢様のことは、佐伯にはお見通しです」


 佐伯はまず、日本での住む場所を提案してくれた。

 昔の友達が経営しているシェアハウスだと聞いた時は驚いたし、他人と共同生活を過ごしたことのない私にはハードルが高いものだった。

「お嬢様は、まずお友達をお作りになられた方がよろしいでしょう」

「友達ならいる」

 抗議に対し、佐伯はいいえと首を振る。

「ご学友、ではなくて、お友達ですよ。相談ができたり、弱音が吐けたり」

「弱音……」

「今回だって、お一人で抱え込まれてますよねぇ」

 反論しようとしたものの、開いた口はそのまま閉じられた。カリキュラムを一緒に受ける相手はいても、とてもじゃないが弱音など無理だ。

「それと、食事を。もう少ししっかりお摂りになりませんと」

「ご飯、食べてる」

 これにも佐伯はいいえと首を横に振る。

「デリのテイクアウトをもそもそ食べるだけじゃ、栄養になんてとてもとても」

 窓の外で小鳥が鳴いている。ぴちちちち、の音階に意識を持って行かれかけたのを見て取ってか咳払いをして、とにかく、と言葉を言葉を続ける。

「環境を変えてみましょう。見えてくるものも変わるはずですから」

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