第1章 生きる理由
第1話 日常
(俺は本当にツイてない。)
数分前までこんな事になるなんて彼は想像もしていなかった。
数日前
今からおよそ三百十五年前、地球と月の間に突如、小さな星が現れた。その星は自ら光を放つ恒星ではなく、ある地域だけを太陽の光から守るように地球の周りを公転していることから
【
それに因って日光が遮られ常に暗闇の地域
【
そのように人々は呼ぶようになった。
そこは太平洋の真ん中に位置していて、初めはそれに興味を持った人々が見物に来ていたが、それから数年もしないうちに人々は日食地域を訪れなくなった。理由は分からないが法律で侵入禁止になったからである。その後はいくつかの国が調査を行なっていたようだが、調査は次々に中止された。そして、遂に日食地域は禁足地として誰も入れなくなった。そしてそれは今も続いている。
明日は受験なので教師が息抜き程度の余談として以上の事を話していた。
しかし、大半の生徒は話を聞かずに自習していた。
勿論、伯亜も。
だが少し興味があったので多少話を聞いていた。
「ここは受験の範囲じゃないから、別に覚えなくていいぞ」と銀色の丸縁メガネをかけた教師がノートに向って自習している生徒のことを、先のことをメモしていると勘違いして言い聞かせた。
『じゃあ、なんで教えんだよ!』
多くの生徒が心の中でぼやいただろう。少なくとも伯亜はぼやいていた。
「おい!玄影、さっさと立たんか!」と前に立つ教員から怒号が伯亜を目掛けて飛んでくる。
何が起きているのか分からず、目をぱちりと瞬きをする伯亜。
それを呆れた様子で見る教員。
暫くして伯亜は状況を理解した。
伯亜が頭の中でぼやいているうちに授業が終わろうとしているのだと。
伯亜は慌てて席から立ち上がり、
「すみません!」と反射的に謝ると、教室から疎らに笑い声が聞こえる。伯亜は顔を赤く染めながら、周りにつられるように苦笑した。
ある程度笑いが止むとクラスの委員長が授業の終わりの挨拶と共に礼をした。
皆も委員長が行った後、疎らに行い、四時間目の歴史の授業が終わった。次はお楽しみのランチタイムだ。
窓際の自席から立ち上がった伯亜は校舎一階の食堂へ向かうべく教室を出た。伯亜の体が教室から出切ったその瞬間
「伯亜!」
誰かが伯亜の名前を呼んだ。
伯亜はその場で足を止め、くるりと踵を返す。声の主は伯亜の幼馴染みの
彼女は伯亜と同じ剣道部に所属している。
彼女は振り返った伯亜にこう続ける。
「もうすぐ受験だね。お互い頑張ろうね」
艶やかな黒色のポニーテールを揺らしながら微笑む。
「ああ、お互いベストを尽くそう」
そう言葉を返したとき、視界にこちらをジッと見つめる人影が入った。それは、伯亜と祈と同じ幼馴染みの
「ほら、元人が待ってるぞ」
伯亜は元人の方を指差し言った。
「あっ、うん、じゃあ行くね」
彼女は手を振りながら走って行った。
伯亜も手を振り返した。
何故、伯亜があんな事を言ったのか。
その理由はたった一つだ。それは元人と祈が恋人同士であるからだ。
無論、伯亜も彼女のことが好きだ。しかし、伯亜は自分なんかより元人の方が彼女にお似合いだと思い、勝手に身を引いたのだ。
突然、伯亜に衝撃が走った。
誰かが伯亜の肩を組んできたのだ。
そして聞き慣れた声でこう言った。
「何捨てられた子犬みたいな顔してんだよ」
この声は伯亜の友人の1人で、有名財閥の一つ武森財閥の御曹司で金持ちの
甲器はさらに続ける。
「可愛い幼馴染みと親友の為に身を引くなんてお前はいい奴だよな〜」
「別にいい奴じゃない」
やや冷ややかに肩に乗っている甲器の腕を振り落とし、続けた。
「実際、俺より元人の方がいい奴だし、俺は元人に運動も勉強も何も勝てないんだ。だからせめて潔く引く方がまだましだろ。」
「そうか?俺だったら諦めないけどな」
「俺はお前みたいな身の程知らずじゃない」
「だってあんな可愛い幼馴染とか羨ましい過ぎるだろ!」
「人の気も知らないで何言ってんだ…」
嘆息を漏らしながら言った。
「まあそう言わずにカツカレーでも食いに行こうぜ!」
甲器は半笑いで言い、食堂へ引っ張って行った。
「やっぱ学校のカツカレーが一番美味いよな。それにゲン担ぎにもなるしな!」
美味しそうに頬張りながら言う。
「ところでお前どこの高校受けるんだ?」
唇についたカレーを布巾で拭きながら伯亜に聞いた。
「日之桜だ」
日之桜高等学院は此処らでは名門のエリート校。この中学校では上位二零名のみが受験する権利を与えられている。
伯亜の現在の学年順位は十八/二九八位。つまり、権利者の一人だ。
「へえ〜、じゃあ祈と元人と同じ学校なのか〜」
「そうだな」
「すげぇな、お前ら頭良いもんな」
「いや、俺は受かるかどうかギリギリだけどな」
(とは言ったものの模試の結果では安全圏だから多分大丈夫だろう)
そして今度は甲器に話を振る。
「そういうお前はどうなんだ?」
「まあ俺はもう少し下の学校だから心配ないかな〜」
斜め上に目を向けながら言うと、いきなり目を見開き、叫んだ。
「あっ!」
伯亜はその声にびくっと身を縮めて少々キレ気味に言い返す。
「なんだよ!」
「いや、時間が…」
「はあ…?」
伯亜も甲器の見る方へ目を向けると、時計は十二時五八分を指していた。
確かにさっきの生徒達の騒がしい声が聞こえない訳だ。
伯亜と甲器はお互いに顔を見合わせてから、残るカツカレーを口にかき込んで口をモゴモゴさせながら、「ごちそうさま!」とだけ言って、食器を食堂のカウンターに提げて二人で急いで教室に戻った。
教室に戻った後、特にする事もなかったので窓際の自席で窓の外を眺めている。
「はい、これ」
前の席から修学旅行に行った時に撮った集合写真が周ってきた。
伯亜はいつも自分の写っている写真を見るときどうしても自分の醜い笑顔に目がいってしまう。左上がりの不気味な口元、目は死んだ魚の様に光を失っている。将来を迎える意義を見い出せず、絶望した真っ黒な目だ。ただ顔をクシャッと歪ませて造った顔。
(昔はもっと上手く笑えていたはずなのに)
教室の端の方で女生徒が伯亜の方を指差し、クスクスと嘲笑っている。
「ほら、やっぱり、左上がってるよ」
「本当だ…。で、それがどうかしたの?」
「左上がりの笑顔ってビジネススマイルっていって作り笑顔なんだよ」
「でも、集合写真ならまだそうなるのも分かるけど、普通に話してる時とか…それこそ四時間目の終わる時の笑顔も左上がりだったよ……ってことは…」
「そういう事だよね」と会話していた。
(辛辣な事言うなよ)
「祈もそう思うよね?」
女生徒の一人が祈に話をふった。
「えっ…う、うん…」
祈は少々戸惑い気味に答えた。
伯亜は少しショックを受けた。
そこは「そんなことない」といってほしかったのだ。
彼女たちは伯亜に自分たちの会話が聞こえていないと思っているようだが、彼女たちの会話はしっかりと伯亜の耳に届いている。
聞こえていれば陰口とは言えない。
(言うのであれば聞こえないようにして欲しいものだ)
そう考えながら自席を立ち、次の授業である体育の準備へと向かった。
激しい運動をするので怪我をしないように準備体操をしっかりとして、ウォーミングアップを済ませてから試合が始まろうとしていた。
試合を始める前に体育教師が告げる。
「もうすぐ受験だが今日は特別に思いっきり体を動かして日頃のストレスを晴らしてくれ。だが、スポーツマンシップに乗っ取り正々堂々恨みっこなしで励むように。では…」
深く息を吸い込み、首に下げた
ピーっと甲高い音が体育館に響き渡り試合が始まった。
ダンダンと体育館内にドリブルの音が鳴り響く。そして、ドリブルをする伯亜の耳に足元から、さらに反響したその音を含め二回伯亜の耳に届く。
もう一つ、伯亜の耳に届く音があった。
「伯亜、パス!」
左手を高く上げた甲器が叫んだ。
ボールは伯亜から甲器へ渡った。
その瞬間伯亜にこびり付いた多くの視線がボールを経由して甲器へと移る。伯亜はその隙を見てゴール近くまで回り込んだ。甲器はまるで伯亜がそう動くことを知っていたかのように完璧なタイミングでパスが甲器から戻って来た。
伯亜はそれを受け取ると再度ドリブルを始め、走り出す。リング下には誰もいない。しかも、伯亜の周りにも誰も居ず、フリー。
分かりやすく大チャンス。
伯亜は走った勢いを全く殺さず床を蹴ってレイアップシュートを放つ。
しかし、ガンッと音を立てただけでボールは虚しくもリングに弾かれた。
(しまった!)
「リバウンド!」と甲器がパスの時よりも大きな声で叫んだ。
次の瞬間、元人がボールをキャッチして再度、シュートを放った。
ボールはリングに吸い込まれた。
それは文句の付けようのない綺麗なシュートだった。
流石、元人だ。
これが運動、勉学、共にトップクラスで文武両道という言葉が似合う好青年の見事なシュートだ。
失敗の反動で尻もちをついて座ったままの伯亜に手を差し伸べて立たせた。
「あ、ありがとう」
「ナイスファイトだったよ」
元人は優しくフォローする。
文武両道な上にこの気の使いようだ。
モテない訳が無い。そこについては伯亜は少し妬ましく思ってしまっている。
キーンコーンカーンコーン
学校の
「さようなら〜」
学校が終わり生徒たちは疎らに下校しだした。
伯亜も帰ろうと校舎を後にした。
「伯亜〜」
昼にも体育館でも聞いた声と同じ声がした。
はぁと溜め息を吐きながら、振り返る。
「何だ?」
「何だ?って何だよ!」
そう言い返してきたのは矢張り甲器だった。
「さっさと帰ろうぜ」
「ああ、さっさと帰ろう。もう眠い」
「今日のお前カッコ良かったぜ!」
拳を握り、親指を上に向けた。
「あんだけ盛大にミスして大ゴケして挙句にイケメンに手を差し伸べられた俺がかっけぇ訳ねぇだろ。滑稽の間違いだ」
昼間と同様に冷ややかに言う。
「そうかな?俺からしたら最後の美味しいとこだけ持っていってイケメン面してる元人の方が滑稽じゃね?」
怪訝そうに首を傾げながら聞く。
「お前とはとことん価値観が合わんな」
質問には答えず呆れたように言い返した。
「他の皆と話す時は普通なのに俺と話す時だけ冷てぇよな。お前って」
口を尖らせる甲器。
「何か不都合でも?」
やや高圧的な態度で問う伯亜。
しかし甲器はとテキトーな返事をした。
「いや、別にー」
「どうして?」
首を傾げ、更に問う。
「だってそれが本来のお前だろ?俺の前では本来のお前で居てくれるなんて嬉しいじゃん」
甲器は満面の笑みを浮かべて言った。
その笑みは口角がちゃんと左右均等で伯亜とは違った正真正銘の綺麗な笑みであった。
「あーあ、つくづくお前が女だったら良かったのに」
半ばテキトーな事を言った。
「じゃあ、どっかで性転換手術でも受けようかな?」
予想外の返答に慌てて止める。
「はあ!?やめろ!まじでやめろ!」
「ハハッ、冗談冗談」
甲器はまた笑った。
家の近くまで来て、各々別れを告げて帰る。
「じゃあな〜」
「おう、また明日…じゃなくてまた今度」
鍵を開け、そしてドアを開け玄関へ一歩踏み出し、声を掛ける。
「ただいま」
すると母がひょこっと顔を出し、返した。
「おかえり」
そして伯亜に向かって駆けて寄り、続ける。
「今日の夜ご飯はカツカレーよ」
「えっ、」
「えっ、嫌だった?」
「い、嫌じゃないけど昼飯も…」
「あっ…カツカレーだったのね…」
「まっ、食べよう」
「そうね、荷物、部屋に置いて来ちゃいなさい。後、着替えて来て、洗濯しちゃうから」
「ああ、分かったよ」
玄関を上がり、廊下を真っ直ぐに進む。そして階段を昇り、自分の部屋へ入る。荷物をベッドに置いて、制服から黒のジャージに着替えてから部屋を出る。
階段を降り、リビングの扉をあける。
父は座って新聞紙を読みながら茶をすすっていた。実年齢三七歳の会社員にしてはオッサンじみている。椅子に座りながらつくづく思う伯亜。
机の上には母が作ったと思われるカツカレーが伯亜と母と父の分で三つ並べられている。
「それでは命に感謝して…いただきます」
普段通り母の台詞だ。伯亜と父はそれに続いて「いただきます」と一斉に食べ始める。
「ごちそうさま」
食べ終わると器をシンクに片付け、洗おうとするが、母がそれを変わる。
「いいよ、明日朝早いんだから早く寝なさい」
伯亜が風呂に向かう途中に優しく言った。
「あっ、あと湯槽ゆっくり浸かってね」
母に言われた通りゆっくり風呂に入り、部屋に戻った。
明日は日之桜高等学院の受験のため朝早く起きる必要がある。なので、もう寝ることにした。ベッドに入って目を瞑る。
(大丈夫…絶対に大丈夫)と心の中で自分に言い聞かせ、そのまま眠りについた。
翌日
目が覚めた。カーテンの隙間から、朝日が差している。とても心地の良い朝だ。昨日準備しておいたカバンを持って、部屋を出る。そして階段を降りる。リビングに入ると、机に朝食が一つ用意されていた。父はもう仕事に出ていたようだ。朝食を食べ終え、玄関で靴ベラを使って靴を履く。
母が弁当を持って来た。
「お弁当机に置きっぱなしだったよ。何不安そうな顔してるの?」
「いや、少し不安でね…」
「大丈夫。伯亜なら大丈夫だよ。」
まるで怖がる子供を宥めるように言い聞かせる。
「ありがとう。行ってきます」
弁当を受け取り、家を出た。
暫くして高校の校門の前に到着する。胸の鼓動が激しく加速するのを感じた。鼓動を抑えるために深呼吸をする。すると、少しだけ鼓動が落ち着いた気がした。落ち着いたのを確認すると、校門の敷居を跨いだ。
校舎の中に入って、受験会場の教室に入る。
教室に入った途端、既に居た生徒達が一斉に伯亜に目を向ける。伯亜はその瞬間、ぞっとして身体が強張った。生徒達はまた、一斉に元、見ていた方向に向き直した。伯亜もつられて目を向けた。皆の視線の先には人形の様に整った顔立ちで、綺麗な青色の瞳、透き通るような白い肌、体は小柄で身長は一六零cmにも満たない少女が座っていた。しかし、その小柄な身は深緑色の男物のブレザーに包まれている。
(きっとLGBTの人なんだろうなぁ)と考えながら、自分の受験番号一零八番と記されている席に座った。
余計な事に頭を使われてしまった。あの女子の事に無駄な思考を費やしてしまった。すると、またあの鼓動が加速する感覚に襲われる。そしてまた、ふぅと口に溜め込まれた緊迫の空気を外の緊迫の空気へと解き放つ。
「初め!」とテスト開始の合図が緊迫した空間を切り裂いた。脳内で試合開始のゴングがなった。
テストが終わり伯亜は気分が良い。受験からの開放感とかなり良くできた感覚があったからだ。ルンルンと、歩いているうちに家の前まで来ていた。そういえば帰り祈と元人とは会わなかった。
いつも通りドアを開け、
「ただいま」と声を掛ける。
すると、やはり昨日同様に母がひょこっと顔を出し「おかえり」と返答する。
「お疲れ、どうだった?」
「まぁまぁって感じだな」
「そう…今日はお祝いにお寿司だよ」
「まじッ!やったぁ!」と嬉しさのあまりついつい声を漏らした。
「さあ、食べましょう!」
母は母性溢れる笑みを浮かべ、答えた。
「あっ…その前に」
「あ〜はいはい、わかってる荷物と服着替えてくればいいんでしょ」
母の言葉を察し、伯亜は言った。
「うん。そうそう、流石我が子だね」
「まあ当然でしょ」
そう言い残し、自分の部屋へ向かった。
昨日同様に用事を済ませ一階のリビングへ向かった。父はまだ仕事から帰って来ていなかった。今日は帰りが遅くなる様だ。
夕食を終え、伯亜は部屋に戻って気絶するように眠りについてしまった。きっとこれまで蓄積した疲労とストレスが原因だろう。
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