カウンセリング

潮見俊一

カウンセラー

はじめまして。臨床心理士のサワダです。どうぞよろしくお願いします。


田中

はじめまして。田中です。よろしくお願いします。


カウンセラー

どうしてカウンセリングを予約されたんですか。


田中

よく眠れないんです、最近。医者に行っても話を聞いてもらえるわけでもないし。


カウンセラー

そうですね、眠れないんですね。クリニックでは診察の時間が足りませんからね。眠れないというのは、具体的には、寝付きが悪いということですか?


田中

はい。寝付きが悪いですね。眠りも浅いかもしれませんが。


カウンセラー

そうなんですね。何かお薬は飲まれていますか?


田中

ブロチゾラムをもらってますけど、役に立ちません。


カウンセラー

そうなんですね。効かないんですか?


田中

はい。


カウンセラー

医師には相談しましたか?


田中

言いましたがこれ以上薬の量を増やすことはできないと。別の薬にしても機序が同じだから同じことだと。


カウンセラー

そうなんですね。寝付くまでどれくらいかかりますか?


田中

とにかくね、ずっと眠れないんです。限界が来るまでは起きています。


カウンセラー

はい。


田中

夜、布団に入るでしょう。電気を消して横になりますね。そこからね、いろいろな考えが沸き上がってくるんですよ。そういえばキッチンペーパーが切れそうだから買いに行かなきゃいけないとか、マツキヨとセイムズはどちらが安かったっけとか、明後日は給料日だとかエポスカードの引き落としが結構行っているかもしれないとか年金は本当に支払われるのかとか、こうして働いて金を使って死ぬばかりの人生なのかとか。


カウンセラー

そうなんですね。それは止められないんですね。


田中

ええ、もうどんどん考えが止まらなくなってしまうんですよ。そして汗が出てくる。そうするともっといろいろなことが気になってくるんです。三月にしては部屋が暑すぎるんじゃないかとかそろそろシーツを洗濯したほうがいいとかシーツの上にある敷パッドは何の意味があるんだとか。


カウンセラー

はい。朝は起きられますか? お仕事は。


田中

朝はなんとか起きてるし会社にも行ってますが、寝不足でくたびれます。


カウンセラー

そうですよね。


田中

だから困ってるんです。


カウンセラー

なるほど。たとえば深呼吸をするとか、あとは自分が湖に浮かんだボートで寝転んでいるのを想像するとか、そうやって考えを追い払う方法もありますよ。


田中

そんなのはね全部試しました。深呼吸するとするでしょう、そうすると深呼吸をするということを考えられますよたしかに。最初は。でもずっとは無理です。深呼吸をする。深呼吸をする自分がいる。深呼吸をする自分がいることを考えている自分がいる。自分とはなんだろうか。なぜ自分は自分なのだろうか。なぜ地球のどこかでぐっすり眠っている誰かではなくここでこうして悶々と眠りに就くことができないでいる自分なのか。なぜ彼ではなく私なのか。そういう方向に行ってしまう。ボートだって同じですよ。湖を想像します。どこでもいい、任意の湖です。想像上の湖です。この湖を想像する段階で、多くの人が同じような光景を思い浮かべるのではないか。まず間違いなく青空ではないだろうか。もしかすると椰子の木でも生えているかもしれない。そうしたイメージの統一はどこから来ているのだろうか。それは人間の脳が実に貧困に物事を捉えている証拠ではないだろうか。湖を認識することに対して手を抜いているからこのような湖が想起されるのではないか。そういえば昔イデアとかいうのを習った気がするがこれが湖のイデアだろうか。湖が身近である人はもっと豊かな湖を想像できるだろうか。いやそんなことを考えている場合じゃない。ボートだ。とにかくボートにいる。ゆらゆらと浮かんでいる。凪いでいる。気持ちいい。いや凪いでいたらゆらゆらしないのか、それとも湖であっても、凪いでいたとしても、水面は多少は揺れ動いているものだろうか。そんなこともわからない。そんなレベルでしか湖のことを認識していない。そうでしょう。


カウンセラー

はい。


田中

そういうことをね、どうしても考えてしまうんですよ。なにかを考えることでほかのことを考えないことができないんです。私はおかしいのですか。


カウンセラー

もしかしたらそうかもしれませんね。でもおかしくてもいいんですよ。


田中

しかし現に寝不足でくたびれているわけです。そしてどんどん頭がおかしくなっていきそうなんです。


カウンセラー

そうですね。困りますね。ご家族はいらっしゃいますか?


田中

新潟に父と母と姉が住んでいます。姉は向こうで結婚しています。私は一人暮らしです。


カウンセラー

なるほど。ご家族で同じように不眠に悩まれている方はいますか。


田中

父が一時期そうでしたが、精神的なものではなく睡眠時無呼吸症候群のせいでした。


カウンセラー

そうなんですね。寝るときに気分を落ち着かせる薬を飲むことは試されましたか?


田中

試しました。たしかに効きます。眠れるかもしれない。でもその薬というのが私には厄介なんです。


カウンセラー

どう厄介なのですか。


田中

薬で気分が落ち着くとしますよね。実際落ち着く。頭のなかが静かになります。しかしそのこと自体が怖いんです。私の脳がどこまでも物質に過ぎないことを理解させられるからです。この錠剤で気分が落ち着くなら私という存在は一体なんなんだ。私はなぜ苦しんでいるんだ。この私はたかだか化学物質のやり取りに過ぎないのになぜ年金の支払いがあるかどうか心配しているんだ。年金の支払いがあるかどうか心配するために生まれてきたのか。そしてその心配を取り除くのがこの小さな錠剤なのか。そんなことでいいのか。そんなことが人生なんですか。私だけじゃない、人間はなぜ苦しんでいるんですか。みな安定剤を飲めばいいじゃないですか。そうして安楽に過ごせばいい。違いますか。


カウンセラー

そうかもしれませんね。でも一度薬を飲んだらずっと飲まなければいけないわけではないですよ。いまは、とにかく薬を飲んで、よく眠ることが必要だと思いませんか?


田中

それが合理的だと思いますが、そんな話は医者とでもできます。


カウンセラー

そうですね。


田中

いま先生は面倒だと思っていませんか。


カウンセラー

思いますが、慣れています。医師にできないことをするためにいますから。


田中

それは素晴らしい。ではもっと私の話を聞いてください。まだ時間はありますね。


カウンセラー

時間のことは気にしなくて大丈夫ですよ。


田中

そうですか。私はどうすればいいんでしょう。


カウンセラー

田中さんはよく眠りたいですか?


田中

ええ。眠りたいです。しかし眠れないときに考えていることは、本当は考える必要があることです。それを薬で考えないようにしてよく眠って会社に行ってというのがおかしい気がしています。


カウンセラー

そうかもしれませんね。会社をやめてもいいんじゃないですか。


田中

やめたら生活が成り立ちません。


カウンセラー

成り立たなくてもいいじゃないですか。


田中

先生はおかしなカウンセラーですね。


カウンセラー

私はおかしなカウンセラーです。


田中

投げやりになっているんじゃないですか。


カウンセラー

そうではありません。私も田中さんみたいなことを考えながら仕事をしていますから。


田中

先生はなぜ仕事をしているんですか。


カウンセラー

生活のためです。


田中

私もです。しかし生活のためというのはどういうことなんでしょう。生活のための人生なのか。人生のための生活じゃないのか。


カウンセラー

わかりません。とりあえずなんとかやっていくしかない、と思いつつ、いつも本当にこれでいいのかと思っています。


田中

よくわかります。しかしこれではどちらが患者なのかわからない。


カウンセラー

患者と医療者という区別は便宜的なものに過ぎません。医者の不養生という言葉もあるのですから、カウンセラーの気が狂っていてもおかしくありません。


田中

気が狂っているのですか。


カウンセラー

人は多かれ少なかれ狂っています。


田中

何を基準として狂っているのですか。


カウンセラー

それが難しいところで、この仕事をしていると人間ではなく社会の方が狂っているのではないかと思わされることがよくあります。


田中

人間と社会はそのような二項対立の関係にあるのですか。


カウンセラー

単純な対立関係にあるわけではないですが、人間のための社会であるはずなのに社会のための人間になってしまっているケースがよく観察されます。ちょうど生活と人生の関係と同じように。


田中

生活と人生は二項対立ではありませんね。


カウンセラー

人生を成り立たせるのに生活が必要であるのと同じように、人間を成り立たせるのに社会が必要なんだと思いますが、それらがごった煮になってしまっているんです。


田中

なるほど。我々はどうすればいいんでしょう。


カウンセラー

わかりません。


田中

二人で抜け出しませんか。


カウンセラー

どこへ。


田中

ブロチゾラムもエポスカードもない場所へ。


カウンセラー

そんな場所があるんですか。


田中

それは頭のなかにあります。想像してください。


カウンセラー

湖ですか。


田中

湖です。


カウンセラー

青空です。


田中

凪いでいますか。


カウンセラー

凪いでいますが、ボートは揺れています。


田中


カウンセラー

椰子の木も生えています。


田中

実はそれは海なんじゃないでしょうか。


カウンセラー

似たようなものです。


田中

海は怖いです。


カウンセラー

じゃあ椰子の木はなしにしましょう。


田中

湖にはなにがあるんでしょう。


カウンセラー

水です。


田中

イメージが貧困なんじゃないですか。


カウンセラー

じゃあ何があるんですか。


田中

もっと豊かな湖にしましょう。


カウンセラー

そこには何があるんですか。


田中

わかりません。もっと湖のことをよく知る必要があるのかもしれない。


カウンセラー

本当の湖に行きませんか。


田中

そうしましょう。その上で想像の湖へ行きましょう。


カウンセラー

それが良いと思います。今日のカウンセリングはここまでです。


田中

ありがとうございました。次は大津までの切符を持って伺います。


カウンセラー

湖といえば琵琶湖というのは安直です。


田中

しかしまず湖の代表を経験するべきだと思います。


カウンセラー

では大津で構いません。


田中

ありがとうございます。


カウンセラー

それでは受付で次回の予約を済ませてください。


田中

わかりました。


カウンセラー

お大事に。


田中

お大事に。

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