さよならが言えない

紗音。

幸せになんてなれない

 どのくらい経ったのかわからない。


 窓の外が明るくなり、暗くなる。


 ただ、それを延々と繰り返している気がするのだ。


 私・作椥さくなぎ理子さとこは、母親の遺影いえいを抱きしめたまま、明かりがともらない和室でただ茫然ぼうぜんと座っているだけだ。

 こんな不幸のどん底にいるのは、自分だけではない。そう……思っていても、心を何処どこかに落としてしまったのか、身体が動かないのだ。


 父と母が出会ったのは、同じ勤め先だ。十歳も年が離れていたので周囲は反対したが、その反対を押し切り結婚をしたのだ。両親に縁を切られても、二人は幸せだったそうだ。

 母が私を産んだのは、五十歳を過ぎた時だ。母子ともに危険だと医者に言われたが、やっと授かったのだから産みたいと決意した母のおかげで、私はこの世に生を受けたのだ。


 中学生の頃、周りの親より年老いた両親を恥ずかしいと思う時期はあったが、誰よりも愛してくれる両親を私は心から尊敬し愛していた。

 高校生の時に出会った同じクラスの荒巻あらまきとおるは、最初苦手だった。だが、少しずつ仲良くなって恋をしたのだ。

 卒業式に玉砕ぎょくさい覚悟で告白をしたら、彼はうつむきながら『うん、付き合おう』と返事をしてくれたのだ。

 そこから私は、毎日が幸せだった。彼と別の大学だったが、休みの日は一緒に過ごしたし、学祭に連れて行ってもらった。彼の友人に紹介されたときは、嬉しくて飛び跳ねそうだった。

 私は大学を卒業したら就職するが、彼は大学院へ進学すると言っていた。彼が大学院を卒業したら、結婚しようと約束を交わしたのだ。この時、私は世界で一番幸せだった。


 大学を卒業し、私は小さな工場の事務社員として入社した。彼は、大学院へ進学した。すれ違いが増えてきたので、私は彼との時間を作るために、一人暮らしを始めた。彼はいつも家に来てくれて、半同棲状態となっていた。

 彼が大学院を卒業する時、彼の家に招待されたのだ。とても格式のある屋敷で、緊張しすぎてまともに歩けなかった。

 彼の両親はとても優しく、終始和やかな雰囲気だった。そろそろ帰宅しようと話が出た時に、彼の両親がポツリと言ったのだ。


 ――それで、いつ別れるのか⁇


 彼の両親は、平凡な両親を持つ私とは釣り合わないと笑顔で言ってきたのだ。思い出作りは早めに終わらせるようにと、彼にそう言ったのだ。

 私は訳が分からずに彼を見つめると、俯いていた彼が『はい』と小さく答えたのだ。


 彼の家を出た後、私は彼に問いかけた。だが、彼は『そう言うことだから』と言って俯いたまま、私の元から去ってしまったのだ。

 それからどんなに連絡をしても、返事は無かった。今まで私の家に彼が来ていただけだったので、彼は実家にいるのか一人暮らしなのか、私は何も知らなかった。


 悲しみに暮れても、次の日は来るものだ。

 いつものように会社へ行き、仕事をしていた。ある日、私は体調を崩してしまったのだ。ずっと調子が悪かったので、病院へ行くことにしたのだ。医師の診断は、私が妊娠していると言うことだった。

 驚きのあまり、彼に連絡をしても返事はない。だけど、それでも私は彼を愛していた。だから、両親に話をしてシングルマザーとして生きていく決意をしたのだ。


 だが、その決意もすぐに不要となってしまったのだ。そのまま体調が悪化し、流産してしまったのだ。

 仕事をしている時、突然身体が宙を浮く感じがしたのだ。全身の血の気が引いて、私は倒れたのだ。

 目覚めた時、母が泣きながら私の手を握っていてくれた。父も後ろで泣いていた。私はもうお腹に子どもがいないと聞いて、泣くこともできないまま眠りについたのだ。

 不思議な夢を見た。彼が涙ながらに私の手を握っているのだ。謝りながら、私に愛を誓ってくれたのだ。それだけで私は幸せだった。だが、世界が真っ暗になり、次に目覚めた時、彼はいなかった。


 母や父が心配して声をかけるのだが、私は声が出なくなっていたのだ。

 子どもを失ったショックで、失語症になったのだろうと言われた。すべてを失った私は、もう生きる気力がなかった。どうして自分はここにいるのだろうと、まるで他人事のように感じていたのだ。

 退院して実家に連れ帰られたが、私はずっとふさぎ込んでいた。仕事先に退職願を送り、ただ自分がいつ死ぬのかを窓を見ながら考えていた。


 それから一年経たない内に、父が他界した。

 母に父が亡くなったと伝えられた時、他人事のような気持ちでいた。だが、父の亡骸なきがらを見た時、私は戸惑ってしまった。

 真っ白な髪にこけた頬の父の亡骸は、どれほど苦労していたのかと思わされる。私が覚えているのは、少し白髪交じりでふっくらとした頬の優しい父だけだ。

 驚いて震える私を、母は優しく抱きしめてくれた。どこかに消えていた涙が少しずつ目にまり始めた。そして、目からあふれて、ポロポロと涙がこぼれ始めた。大声で叫びたい。泣き叫びたいのに、声が出ないのだ。

 私は父にさよならも言えなかったのだ。


 それから私は、母と二人で頑張って生きて行こうと約束したのだ。

 仕事を探さなければと職探しを行おうとしたら、また働けるように前の会社で籍を置いておいてくれたそうなのだ。母から聞いて、私は前の会社へ赴いた。酷い辞め方してしまったこと、声が出ないこと、こんな自分を待っていてくれたことについての感謝の手紙を渡したのだ。

 ハンデがある分、誰よりも仕事ができるよう努力して働き始めたのだ。


 母が死んで、何もかもがあっという間だった。

 母が亡くなった日、それは亡き父と同じ八十六歳の誕生日を迎えた日のことだ。

 寒がりの母にプレゼントで渡したブランケット、とても喜んでくれたのだ。これからもずっと……ずっと長生きしてほしいと伝えたら、母は『父よりも長生きをして、八十八歳になったら米寿のお祝いをしてもらうわ』と喜んでくれたのだ。

 それから、友達に会いに行くと言って出かけた母はもう戻らなかった。飲酒運転の車にかれて死んでしまったのだ。


 もう、私のそばには誰もいない。

 

 生きる気力なんてない。


 あの日のように、まるですべてが他人事のように見えた。もうすべてがどうでもよかったのだ。私は少しずつ意識を失っていった。世界は真っ黒になったのだ。


 一度だけ、夢を見た気がする。

 こんなところに彼がいるはずがない。それなのに、目の前に彼がいるのだ。あの時と同じように、涙を流しながら私の手を握ってくれるのだ。


 好きだった――


 愛していた――


 もう誰にも……私の声は届かない。少しずつ世界がぼやけていく。

 最期に神様は、私の願いを叶えてくれたのだろうか。私はできる限りの笑顔を彼に見せた。


 最期に、あなたが傍にいてくれてよかった――

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さよならが言えない 紗音。 @Shaon_Saboh

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