第二章-成瀬涼真の場合-
空がすっごく、灰色でした。
もうずっと、世界がそんな風に見えていました。
子供の頃は『大人』という存在にひたすら憧れていました。
世界のあらゆるものが輝いて見えました。いつからでしょうか?
空が灰色になったのは。
夜道を歩いている。業務の内容よりも、上司に言われた嫌味の数々が精神的な疲労となって、積み重なっている。
社会人生活は未だ二年目。まだまだ『大人』の世界では子供同然のようなものなのだろう。
だが、自分はまだ子供だと言い張るには、如何せん大人になり過ぎた。
空を見上げれば月が見えるかと期待したが、雲がそれを隠していた。月光で形だけが見える雲は、白色ではなく灰色に見えた。視覚情報的な話ではない、これは気持ちの問題だろう。
何度目かも数えていないため息をつきながら、俺は今自分が生活しているアパートへと帰宅する。日輪荘。それがこの建物の名前だった。庭先にこれでもかと咲いている向日葵達に由来した命名なのだろう。就職のために上京したは良いが、住まわせてくれる約束だった友人と突然連絡が取れなくなり、この町の公園で途方に暮れていたときに、大家の岬さんに拾ってもらった。俺の部屋は二〇一号室だ。
だが俺は二〇一号室には向かわず、一〇一号室へと向かう。そこは大家さんとその娘さんが暮らす部屋だが、実質住人達の共用スペースのような側面もあった。
住人達はみんな、一〇一号室で朝食や夕食を食べているようだった。俺はみんなが起きる前に仕事へ向かい、みんなが寝た後に帰宅するという生活を送っているので、彼らと食事を共にした回数は数えられる程しかなく、最後に一緒に食べたのがいつかも思い出せない。
そう言えば最近、また新しい住人が増えていた。確か、日向……という名前だったと思う。
まあ、きっと俺と関わることもほとんどないだろうから、そこまで気にする必要もないが。
そんなことを考えながら、俺は一〇一号室の扉を開けた。
「おかえりなさい、成瀬君」
「……はい」
いつものように出迎えてくれた岬さんに、短く返事をする。『ただいま』と言ったことは無い。今後も言うことは無いだろう。人と長く会話することすら、億劫になってしまった。
「おかえりなさい、成瀬さん」「おかえりなさーい、成瀬先輩」「おかえり〜」
「……は?」
普段はこんな時間には見かけない面々が三人、俺より先に茶の間に腰を降ろしていた。
この前挨拶をしたばかりの日向、この前久々に話した月見里、いつ振りかも覚えてない夏目。
彼らがこの時間に起きていること自体はそこまで驚きではない。この三人は全員学生だったはずだ。そして時期は夏休み。夜更かしの一つや二つするだろう。
だがなぜわざわざここで屯しているのか。いや、確かにここは共用スペースではあるが……。
「なにボッーっと突っ立ってんだ? ほら、こっち来て座れよ」
夏目はこんな具合に年上でもお構いなしに近い距離感で接してくるので、正直苦手だ。
いや、こいつが俺に気を使ってそういう態度で接してくれているということは俺でもなんとなくわかっているが、それは余計なお世話というものだ。俺はもう、誰とのコミュニケーションもなるべく避けていたい。疲労が溜まっていて、会話をする気力も残っていない。
俺は無言で定位置に座る。日向と目が合った。
「お疲れ様です。こんな時間まで大変ですね……」
「おう」
「いつもこの時間なんですか?」
「おう」
「えっと……」
日向は俺の無感情な返答を受け、なるべく沈黙の時間を作らまいと必死に言葉を探しているのがわかる。岬さんに聞いた話だと、春先に母親を亡くしたばかりだというのに、他人の心配をしてくれているのだろう。やかましい夏目よりは遥かにマシだが、日向は日向で厄介そうだと思った。俺の領域にまで、踏み込んでこないでくれ。
しかし、母を亡くしたなんて……俺だったら正気でいられないだろうに。
「成瀬先輩、相変わらずクールですね〜」
月見里は少し前にここで食事を共にしたが、その時とは目の色が違ってみえた。
その瞳の輝きは、年相応なものだと思った。少し前のこいつは、俺と同類に見えたから。
「いやもうクールとかじゃないだろ、冷徹だよ冷徹」
「仕事で疲れてるだけで冷徹呼ばわりはさすがに……」
「なんだよ海斗、ここは相方の肩を持つべきだろ」
「日向先輩の言う通りですよ」
「雪乃……お前最近やたら海斗の味方するようになったよな」
「え、いやほら、日向先輩の方がまともなんですもん。まとも同士価値観が近いだけです」
「ふーん?」
「な、なんですかその含みを持たせた表情はっ!」
「あ、あのさ……成瀬さん疲れてるだろうからもう少し静かに……」
三人の楽しそうなやり取りを見ていた。夏目は元々だが、月見里は前より明るくなり、この二人だけだと行き過ぎてしまうところを、日向が良い具合にクールダウンさせているのだろう。傍から見ていても良い関係性の三人に思えた。
……その三人の楽しそうな会話を少しだけ眩しく感じて、目を逸らした。
俺にもあんな風に笑っていた時代があった気がする。あんな風に言い合える仲間が居た気がする。今はもう失ってしまったが、あの頃は間違いなく、人生で最も楽しい時期だった。
「成瀬君、おまたせ。温めなおしてきたからね、食べて」
岬さんが晩御飯を持って来てくれた。軽く会釈だけして、それを受け取る。
俺がご飯を食べようとしているところを、じーっと日向達が見詰めてきていたので、おかずを口に運ぶ直前で箸を止めた。
「おい、見られてると食いづらい……」
「おお、久々にまともに声を聞いたな」
夏目が本当に驚いていそうな声色でそう言った。そんなに久々にちゃんと声を発したのか、俺。
ふと、先程までふざけ合っていた三人が今は真面目な表情をしていることに気が付いた。
空気を読み合うような、微妙な沈黙が暫し訪れたが、最後は代表して日向が口を開いた。
「……成瀬さん、お仕事辛くないですか?」
「……なんだ?」
「いっつも日付が変わったころに帰ってきて、僕たちが目を覚ます前に出ていく……憔悴しきっている成瀬さんを見ると、同じアパートに住む住人として無視できないですよ」
日向がそう言い、左右の月見里と夏目が頷いていた。なるほど、お節介そうだとは思ったがここまでとは。俺は深いため息を一つついて見せた。
「……だったら、なんだ?」
「え? いや、だから……成瀬さんが働いているその会社に、問題があるんじゃないかと思って……」
「だから、だったらなんだって言うんだよ」
俺は語気を強める。苛立ちを真っすぐ日向に向けた。日向がひるんでいるのが伝わってきた。
「ちょ、ちょっと! なんなんですかその攻撃的な態度!」
それまで黙っていた月見里が声を上げた。こちらを睨んでいるようだった。
暫くは見守っているようだった夏目が、ここで割って入ってくる。
「まあ落ち着け。要するに成瀬の会社が、いわゆるブラック企業ってやつなんじゃないかって話だ」
そうまとめた夏目の言葉に、思わず笑ってしまった。
「ブラック企業だからすぐに辞めるべきですってか? 笑わせるなよ……俺がどんな思いで、どれだけ苦労して就職したかも知らないだろ……大体、ブラックじゃない企業の方が少ないだろうが……そんなことで一々辞めてたら、この現代日本で社会人なんかできねぇよ……働いたこともねぇ学生ごときが、綺麗ごと言ってんじゃねぇ……」
全部言い終わると、俺は食事を再開した。月見里は相変わらずこちらを睨んでいて、夏目は切なげな顔をしていた。夏目のそんな顔は初めて見たので少し驚いたが、関係ない。
チラリと日向の顔も伺うと、日向だけは笑っていることに気が付いた。
「……何を笑っている? 俺はお前らを罵倒したんだが、それすら理解できなかったか」
「でも、初めてそんなに長く喋ってくれましたよね」
「……は?」
「いや、なんか初めてちゃんと『会話』が出来たなぁって。それが少し嬉しかっただけです。内容はともかくですが……」
冗談かとも思ったが、日向は本気でそう言っているようだった。人を罵って喜ばれたのは初めてだった。あまりにも馬鹿らしくて、俺はそれを鼻で笑った。
「日向先輩のそのポジティブ思考さすがですっ、先輩らしいです」
「いやホント、逆に怖いよな。罵倒されてニコニコしてる訳だからな」
日向のその言葉に、先程まで難しそうな表情をしていた二人が笑顔になる。
この三人を繋ぎとめているのはやはり日向なんだなと思う。あいつが居なければそもそもこの会話自体なかったんだろうし、悪い奴ではないということは勿論わかる。
こいつらの関係性を羨ましいとも思う。
だが、その輪の中に俺は入らなくていい。
俺は食事を手っ取り早く済ませた。味の良し悪しはわからないが、きっと美味しかったのだと思う。誰にも聞こえないような消え入る声で、「ごちそうさま」と呟いた。
食器を片付けようとする俺に、夏目がまた声を掛けて来た。
「なあ、明日は日曜だから休みだろ? どっか遊びにでも行こうぜ」
「いいですね、気分転換ってやつです。遊んだらその性格も少しは改善されるかもしれないし」
「雪乃ちゃんのその言い方はどうかと思うけど……でも僕もそう思います、成瀬さん」
先程までの険悪な空気はどこへやら、そんなことを言ってくる三人にいい加減疲れ始める。
「月曜からまた仕事なんだ。貴重な休日はゆっくりしたい。お前らと遊ぶのは仕事より疲れそうだ」
嫌味たっぷりにそう言い放ち、その場を後にする。食器を台所に運び、岬さんに渡した。
「ごちそうさまです」
「うん……あのね、お話聞いてたんだけどね、もし少しでも気が向いたら、日向くん達と遊んであげて? みんな成瀬くんと遊びたいんだって」
「い、嫌ですよ……寝ます、おやすみなさい」
そう言って一〇一号室を出ていく直前、あいつらの方に一瞬だけ視線を向けた。
月見里は舌を出して俺を挑発していた。
夏目はわざとらしいほど満面の笑みでこちらを見ていた。
そして日向は、儚げで、切なさを孕んだような微笑で、俺に軽く会釈をするのだった。
その時の日向の何とも言えない笑顔が妙に印象的で、外に出て真っ先に視界に入った夜の向日葵と、なんとなく似ていると思ってしまった。
部屋に戻り倒れるように横になった。出しっぱなしの布団はいい匂いがして、岬さんが洗濯してくれたんだろうなぁと思う。スーツを脱ぐ力も残っていなかった。
眠りに落ちていく中、夏目の嫌な笑顔が思い浮かんだ。あれは明らかに何かを企んでいる表情だった。面倒なことに巻き込まれないよう、用心しよう……。
お日様の香りがする布団の上で見た今夜の夢には、もうずっと会っていない母親が出て来たのだった。
翌日、俺は自室の扉が叩かれる音で目が覚めた。扉の向こうに複数人の気配を感じた。
「おーい、起きてるか〜」
「お出かけしましょうよ〜」
夏目と月見里の声だった。断ったってのにやはり来たか。だが俺は当然部屋の外に出るわけもなく、そのまま二度寝する為に瞼を閉じた。暫くあいつらの会話が聞こえていたが、諦めたのか声は聞こえなくなり、俺はもう一度眠りについた。
次に起きたのは、日輪荘の住人達が夕飯を食べる時間だった。俺はいつもならこの時間はまだ仕事だが、休日は基本日輪荘に居る。だが、一緒に夕食を共にはしない。最初の一か月ぐらいは一緒に食べていたような気もするが、今では避けるようになっていた。
今頃俺が入っても気まずい空気が流れて迷惑を掛けるだけだろう。
いつもみたいにもう少し遅い時間になってから一人で食べさせて貰うとする。
そう思っていた矢先、またも俺の部屋の扉が叩かれる。
「おーい、晩飯の時間だぞ~」
「一緒に食べましょうよ~」
また月見里と夏目だ。朝も無視したのに懲りずにまた来たらしい。
俺はいい加減口頭で意思表示することにした。
「俺は一人で食べる……いつもそうしてるし、遊びの誘いを断った時点で諦めてくれよ……」
俺のその言葉に月見里と夏目は黙っていたが、今度は日向の声も聞こえてきた。
「遊びを断った分、食事で埋め合わせしてくださいよ。外に出ないだけ楽でしょう?」
日向のその言葉に「確かに」と思ってしまった。あいつの声にはどこか安心感というか、説得力があるように感じてしまう。それが何故かはわからないが……。
「……俺が居ても、何も面白くないぞ」
自分のその言葉に、自分で落ち込んだ。だが実際そうだ。こいつらのノリに合わせられる気がしない。
「別に面白さなんて求めてませんよ。同じ場所に居てくれることに、意味があるんです」
「いや、俺は面白さも求めてるぞ」
「夏目先輩は黙ってて下さいっ!」
夏目と月見里はどうでも良いが、日向の言葉で多少は気が楽になった。
「……わかった、だが何も話さんからな」
「それで良いですよ」
俺は諦めて日向に従うことにした。実際、食事ぐらいならまだ良いだろう。
部屋を出ようとして、自分がまだスーツ姿だということに気が付いて笑ってしまった。確かにあいつらの言うとおり、俺は相当疲れているらしい。
適当な服に着替えて部屋を出ると、廊下には日向しか居なかった。
「雪乃ちゃんと夏目さんは先に行きましたよ。僕たちも行きましょうか」
「おう」
二人で日輪荘の廊下を歩く。こういう状況は久々で、何を話せば良いのかわからなかった。だが日向も同じように困っているようで、話すことを捻り出そうとしているのが伝わってきた。こいつも春先に母を亡くしたばかりで気楽な心境じゃないだろうに、こうして他人のことを気にするのは何故なのか知りたくなって、俺は自然と口を動かしていた。
「……おい、日向」
「はい?」
「お前、なんでこんなにお節介なんだ?」
俺の問いに、日向は困ったように笑った。
「そうですよね、邪魔くさいですよね」
「邪魔というか……純粋な疑問だ。お前も、母を亡くしたばかりなんだろう」
「だからこそです」
日向の返事を受け、俺は立ち止まって彼の顔を見つめていた。俺の顔を見て、ゆっくりと話し始めてくれる。
「母の願いなんですよ。『人に優しく生きて欲しい』って。困ってそうな人が居たらウザがられるくらい構ってあげなさいって散々言われて育ったんです」
そこまで言うと、日向は庭に咲く向日葵達へと視線を向ける。
「日輪荘に居ると、母を嫌でも思い出してばかりですよ……自分以上に辛そうな人達に囲まれて生きていると、母の教えを忘れたくても忘れられなさそうです」
これまでにも何度か見た、切なげで、少し触れたら壊れてしまいそうな硝子細工のような微笑を一瞬だけ浮かべて、それを俺に見られまいとすぐに顔を夜空に向けた。
「忘れんなよ、それは」
「……え?」
日向の驚いた顔を見てから、自分の行動に自分でも驚く。だが、言わないと気が済みそうになかった。
「忘れたくてもとか、言うなよ……それはお前のお母さんがどうしてもお前に託したかった生き方なんだよ……それを忘れちまったら、お前のお母さんは本当の意味で死んじまうぞ」
「本当の意味の死……ですか? それは、どういう意味ですか?」
日向は俺の言葉の真意を知りたがっているが、俺はそれに答えない。日向の瞳が潤んでいることに気付いて少しだけ怯んだが、関係ない。
「自分で考えてみろ。自分で気付けないと、意味ないだろうよ……」
俺の言葉に日向は不満そうだった。妙に達観したように見える少年だが、弱さを感じさせる一面を見て、まだ年相応の子供なんだなと思う。そして同時に、そんな子供が背伸びして、自分の痛みも我慢しながら他人の為にこうして頑張っているということに、少しだけ心を揺さぶられる。
「成瀬さんの言うとおりです。成瀬さんの言葉の意味、自分で考えてみますね」
「ああ、そうしろ……」
「じゃあ、そろそろ一〇一号室に行きましょうか。みんな待ってると思います」
俺は頷いてまた歩き出した。一〇一号室に向かうまでの間、日向は何も喋らなかった。
一〇一号室の前まで来て、自分が緊張していることに気付く。大勢で一緒に食事をすることが久々だからというのもあるが、それ以上に自分がその空間に受け入れてもらえるのかということが不安だった。俺は面白い人間じゃない。和を乱してしまうのではないだろうか。
日向が「居てくれるだけで良い」と言ってはくれて少しは楽になったが、やはりそういうことを考えてしまう自分が居る。
「一緒に入りましょう、成瀬さん」
日向が俺の心境を察してそう言ってくれる。きっとこいつにも似たような経験があるのだろう。
日向が先に一〇一号室に入ってくれた。俺もそれに続く。最初に入ってすぐの台所で作業していた岬さんと目が合う。俺がここに来たことを彼女は偉く喜んでいるようだった。彼女は感情をすぐ顔に出すのでわかり易い。
俺は躊躇いながらみんなの居る居間に向かう。話し声が聞こえるが、俺が来たことで気まずくならなければいいが。そう考えながら恐る恐る足を踏み入れた。
「おっ、ようやく来たんですか? 先輩たち」
「もう飯が出来るぞ、ほらさっさと座れ」
月見里と夏目のムカつくくらいいつも通りのその態度が、今は少しだけ有難く感じた。
俺はみんなに少しずつズレてもらって、空いたスペースに腰を降ろした。
「あれ? 成瀬さんなんか久しぶり〜」
「む? 本当だな、というかまだここの住人だったんだな」
「それは酷くない⁉」
日葵と川上も俺に反応してくれた。それどころかボケて場を和ませようとしてくれている(川上の性格を考えると本当にそう思っていた可能性もあるが)。
俺はまだこの人数に気圧されていて、短く「おう」とだけ答えた。
「聞きましたよ成瀬さん、雪乃ちゃん達の遊びの誘い断ったんですってね〜」
「そうなんですよ日葵先輩! 酷いと思いませんか? このオタンコナス!」
「オタンコナスって……女子中学生の言葉のチョイスとは思えないな……」
「川上先輩は黙っててください!」
「まあまあ、成瀬さんも疲れてるんだから仕方ないでしょ」
日葵と月見里のやり取りに川上が横やりを入れ、更にヒートアップしそうになった月見里を日向がなだめる。俺の言いたいことを代弁してくれて有難い。
「それは、そうですけど……でも日向先輩が成瀬先輩の為に一生懸命考えたのに……それが無駄になったみたいで、なんか嫌なんですっ」
日向の言葉で月見里は静かになったが、やはり納得はしていないようだった。
だが「日向が俺の為に一生懸命考えてくれた」という言葉に少し反応してしまう。さっきまで日向と話していて日向の弱さを目の当たりにして、日向に対して少し人間としての親近感を抱いてしまっていたから。だが日向には悪いが、無理なものは無理なんだ。また月曜日から始まる仕事のことを考えると、貴重な休日に遠出は厳しい。そりゃあ俺だって行けるものなら行きたいさ……と、そこまで考えて俺はハッとなった。行けるなら行きたいと、俺は思っていたのか。そこで俺は、決して日輪荘の住人達のことが嫌いなわけではないということに気が付く。
ただ、日々積み重なる疲労やストレスで精神的余裕を失っていただけだった。俺は元々、人嫌いなんかじゃなかったはずだ。
なんとなく彼らのことを見渡すと既に別の話題へと移っているようだった。
「ほらな? 雪乃のやつ明らかに海斗に肩入れしてるだろ?」
「うむ、確かにそんな感じするな……」
「な、何言ってるんですか! てか普段対立し合ってる癖にそんな話の時だけ結託しないでください!」
夏目と川上が月見里をからかい、それを見て日向や日葵が一緒に笑っていた。
正直に言うと、居心地がよかった。来たくないと思っていたはずなのに、この雰囲気に安らぎを覚えている自分が居る。日向の言った通り、話さなくても、居るだけで価値を感じた。
「みんなおまたせ〜、ご飯できたわよ〜。今日は日向くんがお手伝いしてくれたのよ」
「日向先輩すごいですっ! 料理が出来る男性って素敵ですもんね!」
「おいおい、俺だってたまに手伝ってるのにそんなこと言われたことないぞ」
「言って欲しいんですか?」
「別に」
その会話を微笑ましいと感じたが、まだどこか恥ずかしくて、顔には出さず心で笑った。
その夜の夕飯はとても美味しくて、人が人と一緒に食事を取りたがる理由がわかった気がした。
食事を取り終わり、一同は食後の雑談に興じていた。その会話の中で、とある人物の名前が出て来た。
「でも成瀬さんが久々に参加してくれて嬉しかった〜、あとは東雲さんさえ来てくれたら全員揃うね!」
日葵のその言葉に、場の空気が一瞬凍ったのがわかった。そうだった、俺以外にももう一人、食事に参加していない奴が居たな……。
「えっと、多分まだ僕その方に挨拶できてないですよね?」
日向の言葉でようやく沈黙が破られる。日葵がそれに反応した。
「そうだねぇ、日向くんはまだ一度も会ってないだろうね。まあ、私たちも暫く会ってないけど……」
「さて! みんなそろそろお片付けしなさい」
「お母さんかよ」
岬さんと夏目のやり取りに、一同は笑った。東雲か……俺も彼女のことはよく知らない。俺が日輪荘に越してきた日に、一度だけ顔を合わせたような気もするが、それっきりな気がする。きっと彼女にも、人前に出たくない理由があるのだろう。俺みたいに。
食後の会話も落ち着き、各々が部屋に戻り始める。
俺ももう部屋に戻ろうと立ち上がると、まだ残る気満々という感じを醸し出している夏目たちに声を掛けられる。
「今日は来てくれてありがとな」
「次こそは一緒にお出かけしましょうね、成瀬先輩」
「……出掛けるのは、厳しい」
俺の返答に、月見里たちの笑顔が萎む。それを見て俺は「だけど、食事ぐらいなら、たまには良いかも知れないな」と付け足した。その言葉に月見里と夏目は嬉しそうだった。
「素直なとこもあるじゃんか。こりゃあ作戦実行が楽しみになってきたぜ」
「ん? なんの話だ」
「いやいやいや、何でもないんですよ、ホント! そうですよね夏目先輩!」と言いながら月見里は日向の頭をはたいていた。夏目の「いてぇ!」という声が響いて、岬さんに注意されていた。
相変わらず楽しそうな奴らだ。俺は時計をチラッとみて、今度こそ自室に戻る。
「岬さん、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
一〇一号室を出ていく直前、岬さんに呼び止められる。
「ねえ、成瀬くん……楽しいでしょう? みんなと居ると……」
岬さんが不安げな顔でそう聞いてくる。居間にいるやつらには聞こえないぐらいの声量だった。
俺は今日のことを思い返す。そして俺の返事を待っている岬さんに、こう言った。
「……楽しかったですよ」
そう言って、恥ずかしくなってすぐ部屋を出た。岬さんの表情は確認できなかったけど、きっと喜んでいたのだろう。だが今の俺の言葉は、彼女を喜ばせるためだけのお世辞なんかではなく、本心からの言葉だった。
今夜の向日葵は、いつもより背筋が伸びている気がした。なんとなく、そんな気がしたんだ。
翌日、いつもと同じ時間に目が覚める。念のため目覚まし時計はセットしているが、いつからかそれが鳴る前に起きられるようになった。顔を洗い歯を磨き、スーツに着替える。
朝食は出勤途中のコンビニで買って会社に向かいながら食べる。以前それを教えたら岬さんに怒られたが、仕方ない。それが一番楽だから。
着替え終わって、窓から外を見る。すると、なにかいつもとは違う雰囲気を感じた。この違和感の正体はすぐに分かった。日輪荘の前の道に停まっている車だ。そもそもここは車の通り自体がほぼないのに、停まっているということに怪しさを感じる。
だがそんなことを考えている暇はない。そろそろ出ないと朝礼に間に合わない。
俺は部屋を出て、他の住人を起こさないように扉をゆっくり閉める。
階段を下りて歩き出すが、道に停まったままの車が流石に気になった。カーテンが閉められていて車内の様子は伺えない。俺は少しだけ怖くなって、歩く速度を上げた。さっさと通り過ぎてしまおう。
そして速足で車の横を通ろうとしたその時、誰かの声が響いた。
「今だっ! 捕らえろ!」
「はいっ!」「うむっ!」
その言葉を合図に俺は頭から何かを被らされ、車の中へと押し込まれる。全く反応できなかった。怪しい怪しいと思ってはいたが、まさか自分が標的だとは思わないだろう。
車のドアは閉められ、完全に逃げ場を失った。俗に言う誘拐というやつなのだろうか。
だが、一番怖かったのは、なぜか落ち着いている自分自身だった。
落ち着いている理由はわかる。「これで会社に行けなくなった」という事実に、安堵感を覚えているのだ。そんな自分がどうしようもなく嫌だった。俺は深いため息をついて、「もう好きにしてくれ」と呟いた。
「ああ、好きにさせてもらうぜ」
「ですね」
男と女の声だった。こいつらがどんな目的で俺を攫うのかはわからないが、あっさり諦めている自分のからっぽさに嫌気がさす。生への執念をなくした人間は、生きていると言えるのだろうか。
「あの……なんかやたら静かじゃないですか?」
「しかもいつまで袋被ってんだよ、二度寝か?」
犯人たちの会話の意味がよくわからなかった。というより、わかりたくなかった。
俺は頭の中を整理する。この声、聞き覚えがある気がする。というか、ある。
俺は頭にかぶさったままの袋をゆっくり外した。
「おう、起きてたか」
「……これは、どういうつもりだ?」
視界には満面の笑みの夏目と月見里。運転席には川上。そして俺の隣には申し訳なさそうに微笑んでいる日向が居た。
「すみません、成瀬さん」
「日向、これはどういうことだ」
俺はなるべく感情を昂らせないように、冷静さを取り繕いながらそう聞く。
「成瀬さんを誘拐します」
「お前らの遊びに付き合っている暇はないと言っただろ……俺はこれから仕事なんだ。悪いがもう行くぞ」
「川上さん、出しちゃって下さい」
「うむ」
日向の言葉を合図に川上は車を発進させた。俺は会社のことを考えて焦り始める。
「おい! いい加減にしろ、俺は仕事なんだぞ!」
「成瀬先輩、喋る前にシートベルトだけしてもらってもいいですか?」
「お、おう……それはそうだな」
月見里の指示通り俺は大人しくシートベルトを締める。発進してしまった以上、次に止まるまでは安全第一だ。
「なんだかんだ真面目だよな。親御さんの育て方がよかったんだろうなぁ」
「おい夏目、このしょうもない事を計画したのはどうせお前だろ」
俺は一つ前の座席に座る夏目をバックミラー越しに睨みつける。夏目はまたいやらしく笑った。
「それが俺じゃないんだよなあ、まあアドバイスはしたが」
「じゃあ、川上か……」
「俺も昨日の夜に突然運転手を頼まれた」
「なら、月見里……?」
「なんで第三候補が私なんですか! ってか見事に全部外しましたね!」
月見里の言葉を聞き、俺は少なからず驚いた。ゆっくりと隣の座席に座る日向の方を向く。
「ごめんなさい、ここまでしないと成瀬さんを連れ出せないと思って……」
「本当に日向なのか……意外だが、お前が計画したってことはなにか深い狙いがあるんだろう」
「おいおい! まるで俺たちが普段何も考えてないみたいに聞こえるんだが!」
騒いでいる夏目の言葉は無視して、日向との会話を続ける。日向がただの悪ふざけでこんなことを考えるとは思えない。俺は腕時計を確認し、月曜朝礼までの出社は諦めた。この遅刻をネタに上司に散々いびられるだろうが、仕方ない。とにかく次に停車したタイミングで逃げ出し、遅れてでも会社に行くだけだ。……幸か不幸か、あの現場は俺が少し遅れたぐらいではほぼ影響はないだろう。そして逃げだすタイミングが訪れるその時までは、観念したかのような態度で居る。そうしてこいつらを油断させよう。
「わかった、とりあえずは付き合おう……」
「本当ですか? ありがとうございます」
「やけに諦めが良いな、怪しい」
無駄に勘の良い夏目は用心だなと思った。とにかく、一人になれる瞬間を待つしかない。
「ところで、これはどこに向かっているんだ」
俺は先ほどから密かに気になっていた疑問をぶつける。
「水族館ですよっ、水族館!」
月見里が楽し気な声色でそう答えた。水族館か、水族館は好きだ。と、一瞬だけ胸躍りそうになった自分を咎める。しかし水族館か……都内で水族館と言えば場所はある程度絞られるだろう。俺は都内の有名な水族館の大まかな場所から、自分の会社までの距離を脳内で計算する。
正直、絶望的だ。せめて会社に連絡さえできれば傷もまだ浅く済むかもしれないが、こいつらの前では電話はおろかメールですら許されないだろう。
車のカーテンは何故か閉め切られているままで、外の景色すら見えない。
嫌いな上司の顔が思い浮かんで、すぐにかき消した。
「ねえ日向先輩、しりとしましょうよ、しりとり」
「まあ、到着まで暇だもんね……いいよ」
「おっいいな。どういう順番でやる? 川上、俺、雪乃、日向、成瀬とかで行くか?」
「え……夏目先輩たちも入るんですか?」
「え、なんでそんな冷たいこと言うんだ。というか二人でしりとりする気だったのかよ」
「雪乃ちゃん、みんなでやった方が楽しいと思うよ」
「まあ日向先輩がそう言うなら……」
「あくまでも俺は無視なのかよ」
三人のやり取りを聞いて運転席の川上が笑っていた。川上がこんな風に笑っているのは初めて見たかもしれない。彼は寡黙な男だ、いつも何かを考えている。日輪荘の住人と言うことは、そういうことなんだろう。彼もまた、俺の知らない何かを抱えている。
そう思えば、俺は日輪荘の住人のことを何も知らないんだな、と思った。
ずっと自分のことばかり考えて生きて来た。仕方ないとは思うけど。
「ほら、成瀬先輩の番ですよっ」
「え?」
「え? じゃなくて、しりとりです! 次は『い』から始まる言葉です」
「い、『意気消沈』……」
「ネガティブワードっ! しかも『ん』で終わる言葉!」
「あ、すまん。普通に間違えた」
「一番に出てくる言葉がナチュラルに『意気消沈』なのは重症ですよね。これはやっぱりお魚さんを見て癒される必要がありそうです」
「それは良いんだが、まだ着きそうにないのか」
都内で水族館と言ったらいくつか思い当たる場所はあるが、日輪荘から車なら二十分弱もあれば行ける場所にもあったはずだ。もう少なくとも四十分は経っている。
「あと一時間ぐらいだな」と夏目が答える。
「一時間か……って、一時間⁉」
「おう。まだ眠いだろうし寝ていていいぞ、着いたら起こす」
「着いたら起こすって言われても……」
日輪荘から車で一時間四十分もかかる場所となると、現地に到着してすぐにこいつらから逃げ出せたとしても、そこから更に倍以上の時間がかかるのか……腹をくくったとはいえ、やはり気が重くなってしまう。俺が居ないことで職場の何かが大きく変わる訳ではない。だが、俺を攻撃することで楽しんでいるあの上司のことを思うと、今日の遅刻は後々に響きそうだ。
今そのことを考えても仕方がないということはわかっているので、俺は夏目の言う通り眠ることにした。眠ってさえいれば、嫌なことを考えなくて済むだろう……。
夢を見ていたらしい。それは幼い頃の記憶だった。
大好きな母の左手を握って、青色に包まれた空間を歩いている。
これは、どこだろうか。唯一思い出せるのは、俺の話を聞いて笑ってくれる母の温もりだった。
「……なんでこいつが起きるまで待機しなきゃならんのだ」
「それだけ疲れてるんですよ、寝かせてあげましょう」
「というか、どっちにしろ到着した時点ではまだ営業時間外でしたしね〜、丁度良かったかも」
日向達の声が薄っすらと聞こえてくる。まだ頭がぼんやりしていて、上手く理解できない。
瞼を少しだけ開けると、眠る前まで閉められていたカーテンが開いていて、日光が染みた。
眩しさに慣れ始めた俺は、外の景色を見てつい声を出してしまった。
「あぁ……覚えてる、ここ……」
俺の呟きを聞いて、日向が微笑む。その表情は俺という人間の全てを見透かされているようで、ほんの少しだけ怖かった。どうして彼はこうも俺の弱点を知っているのだろうか。
「おはようございます、成瀬さん。到着してもまだ寝ていたので、そのままにしていました」
「……着いたら起こすんじゃなかったのか」
「夏目さんはそう言ってましたけどね。寝顔を見たら、なんか起こせなくて」
腕時計を見ると、時間は午前九時になろうとしていた。俺の記憶が正しければ、そろそろ開場時間だ。
「そろそろ入れるだろ、行こうぜ」
夏目の言葉を合図に車を降りる一同。そこで思い出す。俺はこいつらから逃げ出すことを考えていた。車から降りて歩き出そうとした瞬間がチャンスだろう。俺は脳内でシミュレーションを済ませ、みんなよりワンテンポ遅れて車を降りた。
「捕まえたーっ!」
「おわっ、なんだいきなり……」
降りて早々、誰かが体にぶつかってきた。何事かと思って見てみれば、左腕に月見里が、右腕には日向がしがみ付いている。もう状況についていけない。
「逃がしませんからねー」
「すみません、成瀬さん」
そう言った月見里と日向は笑っていた。なるほど、俺の考えそうなことはバレバレだと。
「これじゃあまるで犯人だな……」
「そうか? どっちかと言うと妹と弟に好かれてる兄って感じだが」
「確かに、雪乃はともかく日向も中学生ぐらいにみえるしな」
「か、川上さん? 中学生はさすがに? 僕一応高校生なので……」
「だが雪乃と身長がそう変わらないだろう」
「それは……割と気にしてるので言わないでください……」
「せ、先輩はちっちゃくてもかっこいいですよ……?」
「雪乃、それ追い打ちだぞ」
「えっ⁉」
確かに月見里も日向も小柄なので、こうしてくっつかれていると兄弟に見えるかもしれない。
それはともかく、日向が本当に落ち込んでいるようだったので、フォローしておく。
「まあ高校二年生ならまだ伸びるだろう……多分」
「あ、ありがとうございます……」
「じゃれ合いもそれぐらいにして、そろそろ行くぞ」
「川上、お前の発言のせいでこうなってるんだぞ」
「知らん。行くぞ」
先人を切って歩き出す川上に合わせ、左右の月見里と日向も動き出し、それに引っ張られる。
せめて会社に遅刻をすることを伝える電話の一本でも入れたいところだが、こうして両腕を掴まれているとそれも出来ない。いや、力尽くでこいつらを突き飛ばしでもすれば可能かもしれないが、そんなことはしたくなかった。それに、先程から俺の視界の片隅に映り込んでいるこの青い海と、俺のすぐ側を駆けていくこの風を感じていると、自分という人間を未熟に感じた。
俺はこの場所を知っている。過去に一度、訪れたことがある。この風を感じたことがある。
「いい場所ですよね、ここ」
右腕に掴まっている日向が言う。俺は無言で頷いた。目的地が、近付いてくる。
駐車場から少し歩くと、施設の入口が見えてくる。イルカが海面を飛び跳ねている瞬間をイメージして作られたオブジェが出迎えてくれる。
「初めて来たんですけど、水族館の入口とは思えないような圧がありますね!」
「この中は水族館だけじゃなくレストランやホテルも併設されてるからな……この中全部が水族館ってわけじゃない」
「そうなんですね! 成瀬先輩はここ来たことあるんですか?」
「……昔、一度だけ」と呟いた俺を、両隣の月見里と日向がじっと見つめていた。
「チケットは大人三人、小人二人でいいよな。明らかに高校生以上じゃない奴が一人いるし」
「夏目さん、精神年齢が低いからって自分を中高生にカウントしなくてもいいんですよ」
「なあ川上、海斗が怖い」
「知らん。さっさと買いに行くぞ」
俺たちは川上を先頭にチケット売り場へと向かい、購入を済ませた。しかし、両脇に男女二人をくっ付けている俺はやはり目立つのか、すれ違う人全員が俺たちを二度見した。だがそれは訝しげなものではなく、微笑ましいものを見守るような、そんな視線だった。夏目が言っていたように兄弟だと思われているのだろう。しかしこの二人、いつまで俺の腕を離さないつもりなんだろうか。俺はもう、とっくに逃げ出す気など失くしているのに。
施設内に足を踏み入れ、一つ深呼吸をした。
朝一番にしては人が多いなと思ったが、そうか、今は夏休みなのか。
「おお〜、横に広いというよりも、縦に長いって感じなんですね〜」
「海に隣接してるから横に広げるわけにはいかんだろう」
「日向先輩に言ったんです。川上先輩はトドやアシカがいるってところ見てきたらどうです?」
「一番奥の方じゃないか。流れで最後の方に行きつく場所だろうそこ」
一同はどこをどう回るか、どこから行くのかを話し合っていた。だが中々決まらないようなので、仕方なく口を出した。
「固まって回ろうとするから意見はぶつかるんだ。各々好きに回ってどこかで落ち合えばいい」
「せっかくみんなで来たのにですか?」と聞いてきた月見里に頷きで答える。
「賛成だな。俺は休んでから回る」と川上。
「俺も少し野暮用がある」と夏目も続いた。
結局、川上と夏目はそれぞれ別行動することになり、その場で一時的に解散した。
川上は海が見えるベンチの方へと歩いて行き、夏目は道の隅で誰かに電話を掛けているようだった。誰と電話をしているのかは知らないが、彼の表情から楽しい話題ではないということだけは伝わってきた。あいつにも、あいつのやるべきことがあるのだろう。それを詮索する気はない。
「じゃあ、どこ行きます?」
「……見たい魚とかいないのか」
「あ、あれ! まずはクマノミみたいです!」
「なら、あっちかな……」
相変わらず両腕に日向と月見里をくっ付けたまま、俺は目的地へと歩く。
他のお客さんたちの注目を集めることには既に慣れ始めていた。
辿り着いた場所は、熱帯の珊瑚環礁をいくつかのエリアに区切り再現した、他の水族館と比べても珍しい展示施設だ。ここなら月見里リクエストのクマノミが居るだろう。
「お、おお〜……なんか大きい水槽がありますよ!」
「先行ってていいよ、僕が成瀬さんを捕まえとくから」
「ありがとうございます! お先に見てきますねっ!」
日向が月見里にそう言い、左腕が自由になった。彼女はこのような施設に始めて来たのだろうか、そこまで派手さもない熱帯エリアであそこまではしゃぐ女子中学生は、初めて見た。
「楽しそうですね、雪乃ちゃん」
そう言って彼女の背中を見守る日向は、まるで彼女の親なのかと思うほど暖かい目をしていた。二人はどんな関係なのか、少しだけ気になった。
そして、日向も俺の右腕から離れた。もう拘束しておく気はなさそうだ。
「捕まえておくんじゃなかったのか」
「逃げないでしょう? もう」
「まあ、もう色々と手遅れだからな。だが、一社会人として連絡の一つは入れさせてもらうぞ」
俺は内ポケットに手を伸ばす。しかしそこには携帯はなかったので、別のポケットを探す。
だが、ない。俺の携帯が。
「おい、俺の携帯知らねぇか」
「車の中で成瀬さんが寝てたとき、夏目さんが取ってたような」
「なん、だと……」
会社に連絡を入れる事すら許されないというのか。中々に厳しい連中だ。
「そういえばさっきも成瀬さんの携帯で電話かけてましたよね」
「あれ俺の携帯だったのか……どんな神経してるんだあいつ」
「あはは、夏目さんに常識は通用しないですね」
水槽を興味深そうにのぞき込んでいる月見里の背中を見守りながら、俺は日向に気になっていたことを尋ねる。
「なあ、どうして水族館なんだ? それも都内じゃなくわざわざこんな所まで」
「リラックスといえば水族館じゃないですか? どうせなら広い所が良かったし」
「そういうものか、それにしては偶然が重なり過ぎている気がするがな」
「ああ、ここに来たことあるんでしたっけ」
「おう……昔な」
「魚、好きなんですか?」
「おう……昔は好きだったな」
「先輩たちーっ! 早く来てくださいよ〜!」
月見里が俺たちを呼んでいる。日向とはまだ話したいことがあったが、仕方ない。
「……行きましょうか」
心なしか、日向もまだ俺と二人で話したそうにしていたように見えた。
だが俺たちは月見里の元へ向かい熱帯魚の鑑賞を楽しんだ。
そこからは、時間の流れを早く感じた。
ウミガメのいる人工ビーチや、セイウチやペンギンの生息環境を再現したスペースなど、主に月見里が見たいと言った場所は全て回った。
そしてお昼、偶然合流した夏目が「ご飯食べたい」と言うので、施設内のレストランで食事をとることにした。訪れたのは日本で唯一、シャチを鑑賞しながら食事ができるということを売りにしているレストランだ。青の照明が美しい空間だった。
「おい夏目、お前俺の携帯持ってるだろ」
「ああ、何回か電話がかかってきて鬱陶しかったぞ」
「ふざけんなよ」
「まあまあ落ち着いて。それにしても川上さんはどこに居るんですかね?」
「さあな。あいつ携帯持ってないし連絡手段ない」
「えぇ……」
それぞれ飲み物と軽い料理を注文し、到着するまで待つ。俺は月見里に気になっていたことを尋ねる。
「月見里、お前終始はしゃぎっぱなしだったけど、水族館初めて来たのか?」
俺の問いに、月見里は短く「あー」と呟いてからこう続ける。
「初めてですね、家族でも学校行事でも来たことないです」
そう言ってばつが悪そうに髪の毛を弄り始める。その仕草を見て、自分の質問が悪かったと悟った。フォローをしようと思ったが、何を言えばいいのかわからない。もうずっと、人とのコミュニケーションを避けて来た弊害だった。
「雪乃ちゃん、初めてがここで良かったね。凄くいい所だよ、この水族館」
「はいっ! しかも先輩と一緒だなんて光栄ですっ」
日向の言葉で月見里の顔に笑顔が戻る。日向に目線だけで感謝の意を伝えた。
「そういえば、夏目先輩はずっとどこに居たんですか? 私たちも結構歩き回ってたのに、一度も遭遇しませんでしたよね?」
「エトピリカの生態展示みてた」
「えとぴりか……? なんですそれ?」
「成瀬、代わりに説明してくれ」
夏目に急に振られるが、エトピリカならわかる。
「北太平洋の亜寒帯域に広く分布する海鳥だな……名前の由来は『嘴が綺麗』みたいな意味のアイヌ語だったかな……」
俺の簡単な説明に日向と月見里は「おぉ〜」と大げさに驚いてくれた。俺も詳しいわけではないが、この反応は素直に嬉しいと感じた。
「なに普通に答えてんだよ」
「お前が聞いたんだろ……」
こんな調子で喋りながら料理を楽しんだ。昨晩と違い、今度は俺も何度か発言をした。
と言っても、夏目たちが話を振ってくれてそれに答えただけだが。
食後、この後の予定について話し合っていた。俺は相も変わらず会社への連絡を入れるチャンスを待っていた。こいつらは今更遅いと思うかもしれないが、遅くとも連絡をしないよりは遥かにマシだと思う。
「あの、先輩。私イルカショー見たいですっ」
「いいね。次の十三時半からのプログラムに間に合いそうじゃない?」
「まあ水族館と言えばイルカショーみたいなところはあるしな。成瀬もそれでいいか?」
「おう、好きにしろ」
イルカショーは昔来た時も母と見たのを覚えている。別に俺が見たいわけでもないが、一度も見たことがないという月見里には見せてやりたいとは思う。
レストランを出て、イルカショーが開催される会場へと歩く。
道中、夏目が俺にそっと近づいて「悪いな、借りた」と言いながら携帯を返してくれた。
日向と月見里には聞かせたくなかったのだろうと思い、俺も小声で「自分の携帯もってないのか?」と聞いた。
「ああ、持ってない。今日は連絡したい場所があって、どうしてもな」
「そうか。借りたかったらちゃんと言え。社会に出てからそんな自分勝手な行動が許されると思うなよ」
「大人の言葉は、染みるな……」
「お前が言うと馬鹿にしているようにしか聞こえない」
「いや、本心だよ」
夏目が時折見せるこの真面目な表情に、調子を狂わせられる。
「急に真面目になるな。お前は馬鹿なボケキャラのままで居てくれ」
「ああ、悪い……って、俺って馬鹿なボケキャラだったのか⁉」
「ははっ、自覚ナシかよ」
俺がそう笑うと、夏目がにやにやしたままこちらを見詰めてくる。
「なんだよ」
「いや、初めて笑ったな」
「……うるせぇ」
夏目の指摘が気に入らなくて、顔を横に逸らした。視線を逸らした先に居た親子連れを見て、かつて母とここを歩いたことを思い出した。そんなことを考えるのも、今日何度目だろうか。
イルカショーの会場に辿り着いて席を確保した。収容人数千人以上の会場が一瞬で半分以上埋まった。
確保した席は真ん中の最前列。良い場所だと思うが、前列はほぼ確実に濡れることになるので、たまにそこだけ空いていることもあったりする。
「私、すっごく楽しみです!」とわくわくしている月見里を見ていたからか、会場の客たちの多種多様なざわつきを聞いていたからか、今から始まるイルカショーを楽しみにしている自分が居た。
少し待ち、トレーナーさんが姿を現してショーが始まった。
拍手を受けながら登場したトレーナーがイルカに指示を出す。知らぬ間に空中から降りてきた輪っかの中心をイルカがジャンプで通過する。着水の水飛沫とほぼ同時に歓声が沸き起こった。
雨音のような拍手の中、俺はイルカに自分自身を重ね合わせていた。「ああ、あいつも働いているんだなあ」と考えてしまう。昔はそんな水臭いことは微塵も考えたことが無かったのに。
隣に座っている月見里の楽しそうな声が眩しかった。
俺は思わず席を立つ。そのままの勢いで、俺は「トイレに行く」とだけ言い残してその場を後にした。
会場から出口までの通路まで歩いてきて、そこで足を止め、返してもらった携帯を取り出す。
遅くなってしまったが、会社に連絡を入れよう。俺は携帯を開いて、固まってしまう。
ぱっと見では数えきれない程の通知が溜まっていた。それは電話とメール両方だ。
俺はそれを見た途端に、現実に引き戻されてしまった気がした。
「会社に電話するんですか?」
「……なんの用だ」
後ろから声を掛けて来た日向に、振り返らないままそう言った。
「いえ、トイレに行こうかと思って」
白々しくそう答える日向を無視して、俺は続けた。
「……イルカ、可哀想だよな」
「え?」
俺の呟きに、日向は少なからず困惑しているようだった。俺は自分の抱えるこのなんとも形容できない鬱憤を日向にぶつける。
「イルカも楽しくてジャンプしているわけじゃない……それが仕事で、上司の指示だからだ」
「なるほど。でもイルカに直接聞いたわけじゃないですよね」
「監禁飼育のストレスは計り知れない。狭い囲いに監禁するのは、視覚に頼る生き物を鏡に囲まれた空間で生活させるようなもので、気が狂ってしまうという指摘もある」
「でも野生のイルカと飼育下のイルカを比較した研究では、野生のイルカの半数以上が何らかの病気を患っていて、水族館のイルカの方がずっと健康的だという話もありますよね」
日向は簡単には引き下がらなかった。俺と徹底的に話し合うつもりのようだ。
「別に僕は、成瀬さんを論破したいわけじゃないです」
俺の考えを見透かしているかのように、日向はそう付け足した。
「なら、何が言いたい」
俺はそこでようやく日向の方を振り向いた。
「飼育下でストレスを抱えながら生きる様、それこそが一番の幸せなのかもしれません。自由の海を求めて外に出れば、飼育下なら患うはずのなかった別の問題を抱えることになる。支配から逃れようとする人は居るけど、支配されたままの方が楽かもしれません」
日向は俺を真っすぐ見据えたまま言葉を羅列する。
「……俺はそうは思わない。イルカは、海で自由に泳ぐべきだ。たとえその自由の海が、囲われた水槽以上に困難だったとしてもだ。それが、その生き物の本来のあるべき姿だからだ」
日向から目線を逸らさず、俺らしからぬハッキリとした口調でそう言い切った。
自らの意思をここまで強く主張したのはいつ振りだろうか。
俺の語気を強めた発言に、日向は狼狽えることもなく、怒ることもなく、悲しむこともなく、優しい笑顔を浮かべていた。日輪荘の庭先に咲いている、少し萎れたあの向日葵を連想した。
それが何を意味しているのかわからなくて、日向の次の言葉を待った。
「……聞けて良かったです」と、日向は言った。
まだわからなかった。日向の言葉の意味が。何を聞きたかったのだろうか。
「自分とイルカを、重ねちゃったんですよね」
そこまで言われてようやく理解した。なるほど、俺は自分が本当はどうしたいのかを自ら語っていたらしい。
「……俺が自由の海を求めていると?」
「別にそこまでは言ってませんけどね」
「……だけどな、日向。俺が本当は会社を辞めたいと思っていたら、なんだって言うんだ。辞めたいから辞めます、そんなんじゃあ、俺はきっと次の場所を見つけても逃げ出しちまうよ」
そう自分に言い聞かすように呟く。気が付けば携帯を持つ手が震えていた。
「逃げたっていいじゃないですか……あんな生活続けてたら、いずれ本当に死にますよ」
日向の言葉にも力が籠り始めていた。こいつもこんな顔をするんだな、と思った。
会場の方から微かに聞こえてくる歓声を聞きながら、俺は観念したように告白する。
「……母親に心配をかけたくないんだ」
「お母さん……ですか」
「すまない、今のお前に話すべきことじゃないか」
「いいえ、聞かせてください」
俺は話すことを渋ったが、日向の意志は揺るぎそうになかった。
「……俺の家は母子家庭でな、女手一つで育ててくれた恩を一日でも早く返したくて、高校を卒業したら働くつもりだった。でも母はまだ勉強をしていたい俺の気持ちを見透かしてたんだろうな、無理して大学に行かせてくれたよ」
「……素敵なお話です」
「おう……でもやっぱり母にだけ無理させるなんて出来なくてな、バイトを入れられるだけ入れたよ。そのせいなんて言ったら言い訳でしかないけど、単位取ることすらギリギリだったな……楽しい思い出なんてほとんどない。ただ一日でも早く就職したかった。でも、特別秀でたスキルがある訳でもない凡人だ、就活中、何社落ちたかも覚えていない……どこでも良かった。働けるなら、どこでも」
一度にこんなにも長く話したのが久々過ぎて、喉に痛みを感じる。
「……でも、大事な息子が苦しんでいるなんて知ったら、きっとお母さんは……」
「教えないさ、母には東京の生活は順風満帆だと言ってある。仕事もプライベートも順調だと伝えたら、本当に嬉しそうだった……今更裏切れないよ」
誰かに弱さを吐露したのは、これが初めてだったからだろうか。
遠くから聞こえる歓声に、在りし日の自分を思い出したからだろうか。
涙が零れそうになって、無理やり止めた。もう二度と泣かないと誓ったから。
「僕が成瀬さんだったら、すぐにお母さんに助けてって言うのに。僕はもうお母さんに会えないけど、成瀬さんはまだ会えるんですよ」
「何が言いたいんだ」
「……贅沢です、成瀬さんは」
言い返したかったのに、日向も泣きそうな顔をしているもんだから、言葉を発せなかった。
日向はズルいと思う。母を亡くしたばかりだという年下の青年に、そんな表情を見せられたら、こっちだって何も言えないじゃないか。
俺も日向も無言になって、下を向いた。感情を表に出したのが久々で片付け方がわからない。
そんなことを考えている時だった、後頭部を誰かに思い切り掴まれて、「おわっ」と言葉が漏れ、そのまま頭を乱暴に撫でられる。どうやら日向もされたようで、声を上げていた。
後ろを振り返る。
「お前ら、ここで何してるんだ?」
「川上……」「川上さん……」
「行くぞ、まだイルカショーの途中だろう」
肩に手を回されているので、事実上強制的に会場の方に連れていかれる。
「川上さん、今までどこに居たんですか?」
「人間観察をしていた」
「え、海の生き物を見ずにですか?」
「うむ、人間の方が見ていて面白い」
「なるほど……」
川上に連れられショーの会場に連れ戻される。もうプログラムも終盤のようで、イルカが最後の大ジャンプを決める瞬間だった。水飛沫が、俺の顔まで飛んできた。
ショーが終わり、月見里たちと合流した。月見里は日向がほとんど席を外していたことに対して不満げだったが、ショーは最高に楽しかったと語っていた。
夏目は俺と日向に「長い連れションだったな」と短く言った。
見たかったものは大方見たという話になり、川上の「そろそろ帰るか」という一言に全員が同意して、このレジャー施設を後にすることにした。
施設を出る直前、俺はもう一度だけ後ろを振り返る。子供の頃に来た時は、こんな大人になるなんて想像もしていなかった。大人になったら海に携わる仕事をしているに違いないと信じていた昔の俺は、今の俺をどう思うのだろうか。
駐車場まで一列になって歩いた。最後尾を歩く俺からは全員の後ろ姿が見れる。
俺はずっと、こいつらは楽観的な薄い人間なんだと思っていた。だが今ならそれが誤りだったと言える。みんな何かを抱えている。日輪荘の住人だからではない。きっと人はみんな、少なからず何かを抱えながら生きているんだと思う。それを見せないだけで。
「傷付いているのは自分だけではない」と知ることが、本質的なコミュニケーションの第一歩なのかもしれない。それを学べただけ、ここに来た意味があったと思った。
「成瀬さん、乗ってください」
「おう」
遠くの空がほんの少しだけ、茜色だった。
日輪荘へと帰ってきた。川上は俺たちを降ろすと「レンタカーを返却してくる」と言ってまた車を発進させてすぐに見えなくなった。ここら辺は道が狭いのによくあの大きめの車を乗りこなせるものだ。
「成瀬先輩、今日はどうでしたか?」
月見里が期待に満ち満ちた目で俺の顔を覗き込んできた。
「まあまあだな」
「先輩ったらクールぶっちゃって〜」
「ほら、全員さっさと自分の部屋に戻れ」
「夕飯には降りて来いよ」
一足先に自室に戻ろうとする俺に釘を刺すように夏目がそう言った。
俺はなにも反応せずに歩き続けた。本来、遊びに行かない代わりに食事に参加したのだが。
部屋に戻って服を着替えながら「行く義理なんてないよな」と呟く。
夕食の時間になると、俺は自然と部屋を出てしまっていた。足は一〇一号室に向かう。
あの居心地の良さを一度味わってしまうと、もう戻ることは出来なさそうだと思った。
夕食の時間中、岬さんと日葵に今日のことを聞かれたので、あったことをすべて話した。
岬さんは当然知っていたようだが、日葵は「みんなだけズルい! 私も水族館行きたかった!」と憤慨していた。夏目が「お前二浪したいのか?」と言っていて、そこで初めて日葵が浪人生だということを知った。そうとは思わせない余裕を感じるが、大丈夫なのだろうか。
食事中何度か日向と目が合って、お互いなにも言えなかった。そういえば日向との話が微妙な幕切れをしたのだということを思い出す。もし機会があれば、決着をつけよう。
夕食を食べ終わり、俺は一番に部屋に戻った。明日はなにがなんでも出社しなければならないだろう。あれから携帯が鳴ることはなかったが、俺の心臓はいつまでも慌てていた。
日輪荘に帰ってきて、『明日』というものが訪れてしまうのだという現実に引き戻されていく。
確かに、今日は楽しかった。有意義な学びもあった。だがやはり、明日のことを思うと全てが闇に包まれていくような感覚に陥る。朝一番で上司に謝罪しに行こう。しかし無断欠勤と連絡一つも寄こさなかったことへの言い訳がどうしても思いつかない。俺は嘘が苦手だった。
その日の夜は、今までのどんな夜よりも憂鬱だった。
朝。いつも通りのようで、やはり違った。いつもより身体の重さを感じる気がする。
上体を起こし、時計を確認する。いつもより早く起きてしまったようだ。だが昨日は無断欠勤だったということを思うと、早い分には良いだろうと考え支度を始めた。
着替え終わり部屋を出ると、庭先で日向と遭遇した。
「おはようございます、成瀬さん」
「随分と早起きなんだな」
「日葵さんに向日葵の水やり係に任命されまして」
それが早起きの理由の説明になっているのかはわからないが、日向のことだからなにか考えていそうだ。水族館での気まずいまま終わってしまった会話の続きをしたい気持ちもあったが、今日こそは遅刻などする訳にもいかないので、俺は歩を進める。
「いってらっしゃい」
「……無断欠勤のせいでなにかされたらお前らのせいだからな」
「ちゃんと『いってきます』って返してくださいよ、もう」
「……いってくる」
そう短く呟き、今度こそ歩き始めた。
町はまだ眠りについていて、商店街の店はひとつも開いていなかった。
この商店街を歩いていると地元の商店街を思い出すが、どちらも年々シャッターが閉められたままの店が増えて来た。どこも苦しいこのご時世、仕事があって生活が出来ているだけやはり俺はまだ恵まれているんだと思う。そうじゃなかったとしても、そう思うしかない。
会社に着くまでの間、俺はそんな自己暗示を止められなかった。
会社に到着し、スーツから作業着に着替える。
俺の働くこの会社は印刷系の会社なのだが、印刷工場が併設されており俺はその工場の方で製本を行っている。本当はパソコンでデータを作成し印刷物を作成するDTPという仕事だと聞いて入社したのだが、実際に割り振られたのは工場側での力仕事だった。
俺は貧困家庭育ちということもありスポーツとは無縁の人生だったので、この会社での作業は体力的についていくことさえ困難だった。それでも必死に食らいついて来て、ようやく二年目だ。ちなみにどうせすぐ作業着に着替えるならスーツで出社する意味はあるのかと思うが、それがこの会社の決まりだった。
俺は食堂の机や椅子を動かす。ここで毎朝の勉強会と朝礼を行っているからだ。
勉強会は新入社員の為のものなのだが、二年目の社員が準備や片づけを行うのが慣わしだ。
時刻はまだまだ始業時間前だが『勉強と仕事は別物』という会社の方針の通り、これは仕事にはカウントされていない。ほかの会社のことはわからないが、これが社会の普通なのだと思う。
「おはよう、成瀬」
「おはよう」
少し遅れてやって来た同期と挨拶を交わした。俺は彼の方は見ないまま作業を続ける。
「……挨拶返してくれたの、いつぶりだ?」
「……わからん、そんなに久々だったか」
「まあいいけどさ、昨日はどうした? この会社の従順な傀儡のお前が無断欠勤とはね」
「昨日は……水族館に行ってた」
俺はどうしても嘘がつけない。無断欠勤の言い訳をいくつか考えたが、やはり正直に白状していた。それを聞き、作業着に着替えていた同僚が笑い出した。
「はははっ、それが本当なら俺は嬉しいね。お前はもっと手を抜くべきだと思ってたからさ」
「手を抜く……? 仕事で手を抜くなんて許されないだろ」
「そんなんだから作業中に倒れるんだろ? ただでさえこんな会社で働いてるのに、常に全力投球じゃ持たないだろ。あまり大きな声じゃ言えないけどさ、仕事なんかより自分の身体だろ」
彼はそう言って俺の作業を手伝い始めた。彼の言うことは理解できる。だが、それでも自分の中の美学に反することは出来ないと思った。『何事もやるなら本気で』と教えてくれた母を思い出してしまうから。
「それにしても、こんなに会話したのいつ振りだよ、成瀬」
「さあな。一年目の勉強会以来とかじゃないか」
「なにか良いことがあったと見た」
「なぜだ」
「ちゃんと自分の言葉で喋ってる」
「意味が分からん」
「わからなくていいさ」と言って、彼は次の作業に取り掛かり始める。
俺は準備が終わるまで彼の言葉の意味を考え続けた。
勉強会が始まってもそれについてばかり考えていた。
俺はこれまで、自分の言葉で話していなかったというのか。
一年目の社員の為の勉強会が終わり、朝礼の時間が訪れる。
部署ごとに整列し、社員手帳に書かれている社訓を大きな声で読み上げる。読み上げている間、何回か他の社員からの視線を感じた。無断欠勤のことだろうか。だが俺のような存在感の薄い社員が一人一日だけ居なかったからと言ってそこまで注目を集めることだろうか。
現在進行中の作業内容などの確認などを済ませ、全体での朝礼が終了する。解散し各々の仕事場に向かい始める途中、さっき話した同期に話しかけられる。
「おい、成瀬」
「さっきのお前の言葉の意味はまだ理解できてないぞ」
「それは別にいい、それよりもお前、小山がキレてたから気をつけろよ」
小山……それは俺の班のリーダーで直属の上司というやつだ。そして俺の苦手な相手でもある。
「そうか、まあいつも通りだろ」
「まあな……何かあったら周りを頼れよ」
「……おう」
そう言葉を交わして俺たちは工場の方へと歩いた。
仕事場に辿り着き、全体朝礼とはまた別の部署ごとの朝礼が始まるのを待つ。ここの班長……小山が来ればそれが始まる。小山を待っている間、何人かが俺に話しかけたそうに見えたが、いつ小山が来るのかも分からないので控えたようだ。
そして、わざと大きな足音を響かせながら近付いてくる人物が居た。二回目の朝礼が始まる。
「おはよう」
「「おはようございます!」」
小山の挨拶で朝礼が始まる。いつも通りなら、今日なにをどれだけ作るのかを確認するだけだ。
「今日も昨日と同じだな。数が多いが週末までには間に合うだろ、ってか間に合わせろ」
「はい!」という揃った返事が工場内に響いた。ここまではいつも通りだ。
「さて、今日は昨日と配置を変える。中綴じ、成瀬一人でいけるな?」
小山がこちらを見ないままそう言う。『中綴じ』というのは製本方法の一種で、本を開いた状態の紙を重ね、中央部分に沿って針金にて止める。この工場では機械に紙を乗せるだけなので、決して難しくない単純作業だが、体力が必要だった。俺が最も苦手な作業のひとつだった。
「別に他のところでも良いけどな。いいよなぁ、会社サボって仕事選んで、羨ましいなぁ」
小山のその言葉を受け次の瞬間には、俺は「問題ありません」と答えていた。
紙をひたすら機械の上に流れ作業で乗せ続けるだけなので、なにも難しい作業ではない。だがやはり俺の体力のなさを考えると厳しい仕事ではあった。紙の重さは小冊子か雑誌かなどで変わるのでピンキリだ。どちらにせよ長時間続けていると足腰が悲鳴を上げる。
本来、紙を乗せる係とストックを運んできて乗せやすいようにサポートする係との二人でやる事が多い場所だが、小山の指示により、俺は今一人で回していた。
「おい成瀬! 流れ止まってるぞ!」
「すみません!」
常に動き続けている機械、少しでも紙を乗せるのが遅れると安全のため機械が自動で止まり、結果次の作業工程の係が困る。
「真面目に働いてるほかの社員に迷惑をかけるな!」
常に機械音が鳴り響く工場内だが、小山の怒号はしっかりと全体に響いていた。
だが幸いなことに、次の工程の社員たちは俺が無茶振りをされていることに同情してくれているので、小山以外の人間に急かされるということはなかった。
基本的に終わりのない作業なので、あっという間に昼休みの時間が訪れた。だが昼までに終わらせろと言われていた分がまだ終わっていなかったので、少し遅れて休みに入った。
食堂に行き、出社前に買っておいたコンビニのおにぎりを二つ食べた。
食べ終えてすることもなくただ座っていると、後ろから声を掛けられる。
「よう給料泥棒。暇ならもう仕事入れ」
「でも……」
「昨日の無断欠勤、どれだけの人に迷惑かけたと思う? 連絡の一つもせず、今日も俺のところに謝罪や弁明にも来ない」
「それは、朝礼が始まるまで小山さんが見当たらなくて……」
「言い訳するな! ただでさえ無能なんだからせめて無能なりに役に立てるように努力しろ!」
「……DTPだったら、向いてると思うんですけどね………」
「お前にパソコン仕事出来るほどの知能なんかねぇよ」
そう吐き捨てて小山はその場を後にする。いつものことだが、昨日少しだけメンタルが回復したせいで、今日の小山の言葉はいつもより鋭く心に突き刺さった。
俺は言われた通り作業場に戻ることにした。ここに居続けても仕方ないと思った。
その前に一度携帯を確認しておこうと思い、ロッカールームに行く。携帯を取り出して待ち受け画面を開く。俺はその画面をみて思わず笑ってしまう。待ち受けが夏目、川上、日向、月見里の四人が変顔をしている写真に変えられていた。水族館で夏目に返された時は変わっていなかったが、どのタイミングで変えたのだろうか。
とにかく、次に会ったときに問い詰めよう。そう思うと少しだけ、心が軽くなった。
そのまま夜になるまで俺の一人きりの作業は続いた。
「成瀬、タイムカード切ってこい。仕事の続きはそれからだ」
「……はい」
言われた通りにタイムカードを切ってから工場に戻る。本来ならこの後は夜勤組に引き継ぎをして帰宅だが、この時間に帰れることはほぼない。工場の方に戻る途中、今朝話した同期と遭遇した。
「成瀬、サポート入ってやりたかったんだが……小山に釘さされてな」
「大丈夫だ……」
「大丈夫そうに見えねえけどな……」
俺は片手を挙げてそいつに別れの挨拶をした。そろそろ戻った方が良いだろう。
工場に戻ると小山が腕を組んで待ち構えていた。
「成瀬、中綴じはもう良いから、トイレ掃除してから帰れ」
「でも今日はトイレ掃除の日じゃないですよね……」
「やれ。仕事じゃなく勉強だからな」
「……はい」
俺は掃除をする為にトイレに向かう。
この会社ではトイレ掃除に拘っている。どうやら社長が尊敬しているという経営コンサルタントの影響らしいが、詳しいことは知らない。ここのトイレ掃除には特徴がある。それは道具を使わずに、全て素手で掃除するというもの。『汚いものに敢えて触れることで心を鍛える』という方針らしい。
俺はトイレの小便器を素手で磨き始める。もう手慣れたモノだが、嫌な人は本当に嫌だと思う。
小便器の底の着脱トラップを持ち上げ、その奥に指を入れて擦る。ぬめっとしていた。
大便器の方も同じく、奥の方まで腕を伸ばして指で磨き続ける。心を無にするのがポイントだ。
「おっ、変質者かと思えば成瀬か」
小山が様子を見に来たようだ。タバコを吸っている。
「あの、喫煙所以外は禁煙ですよ……」
「ああ、悪いな。すぐ消すよ」
小山はそう言うと、火のついたままのタバコを俺の腕に擦り付ける。弾けるような痛みが広がった。
「うっ……」
「お前の使い道なんて灰皿替わりぐらいだよ。体力が無さ過ぎて役に立たない、他の社員とのコミュニケーションも取らない、無断欠勤もする。親の育て方が駄目だったんだろうな」
「親は、関係ないじゃないですか……」
俺はつい言い返してしまう。俺はどうでもいい。母のことを侮辱されたような気がして、黙っていられなかった。
「あ、喋った。……そういやお前、母子家庭だっけか。納得だよ。これからも可愛がってやるからさ、楽しみにしとけや」
そう言って吸殻を俺の顔に投げつけ、笑いながら歩いて行った。俺は掃除を再開する。
なにを言われても平気だ。母はきっと、もっと辛かっただろうから。
掃除も終えて、今度こそ帰宅する。時刻はまだ二十一時を回った頃なのでいつもよりは早い。
スーツに着替え会社を出て、家路につく。今日は無断欠勤をした次の日にしては優しかった。
もっと過酷なものを想像していたので、少し安心した。
だが昨日が楽しかったので、その落差に少し疲れてしまった。
ゆっくり歩いて、ようやく日輪荘に帰ってきた。いつも通り一〇一号室で食事をしよう。
そこで俺はあることに気が付く。この時間ならもうみんなは晩御飯を食べ終わっているだろうだろうに、一〇一号室以外の部屋の電気がひとつも点いていない。寝るには若干早い気もするし、一〇一号室に全員集まって談笑しているのか、それともこの前のように俺の帰宅を待っていてくれているのか。どちらにせよ、今はあまり顔を合わせたくなかった。今の俺じゃあ、あいつらにキツイ態度を取ってしまうかもしれないから。
一〇一号室の前まで来て、俺はまた違和感を覚える。
あいつらが中で話しているのだとしたら、外まで声が聞こえてくるはずだと思った。
もしかしたら、また俺を驚かせようとして何かを企んでいるのかも知れない。また昨日のようにどこかに連れ去られでもしたら困る。俺は恐る恐る一〇一号室の扉を開けた。
入ってすぐの台所は明かりが点いていない。居間からは明かりが零れてきている。
「おい、今度は何企んでるんだよ」
そう言いながら俺は居間に通ずる引き戸を開けた。
「……お母さん………?」
「涼真、久しぶり」
理解が追い付かなかった。そこに座っていたのは紛れもなく俺の母だった。他には誰も居ない。
「えっと……なんでいるの?」
「涼真のお友達に招待されたの、是非遊びに来てくださいって。良い町ね、ここ」
「いや、友達って……」
「違うの? ほら、前にメールで『東京で友達が出来た』って言ってた人達じゃないの?」
「それは……」
母が言うそれは、母に心配を掛けたくないという思いで言った嘘だった。
「さて、なにも食べてないんでしょ? 台所使っていいって言われてるからなにか作るね」
そう言って母は腰を上げ、俺の横を通り台所に向かう。
「あのさ、岬さんとか、みんなは?」
「うーん、おにぎりでいい?」
「お、おう……」
俺の問いにはなにも答えずに、母はおにぎりを作り始めた。日向か夏目が呼んだのだろうか?だが母の連絡先なんて知っているのは岬さんぐらいのはずなので、彼女も共犯だろう。
「仕事はどうなの?」
「……充実してるよ。良い人ばかりだし、やりがいもある」
「ふむふむ、今日はいつもより忙しかったの? 遅い気がするけど」
「いや、どこもこんなもんでしょ……多分」
おにぎりをお皿に乗せてこちらに持ってくる。それをちゃぶ台に乗せて、母は腰を下ろした。
「疲れてるね、お疲れ様」
「別に疲れてない、いつも通り」
すると突然、母に頬をつねられる。
「こら、嘘つかないの。顔見ればわかる」
「……疲れてはいるけど、別におかしくないだろ」
「涼真、泣きそうな顔してる」
「はぁ⁉ 二十四の男がそんな簡単に泣くかよ」
「親からしたら、まだ二十四の男の子です」
そう言って、母は俺の頭に手を乗せる。そのまま頭を撫で始めた。
「いや……なんだよ、急に」
「仕事つらい? 虐められてる?」
「虐めって、学校じゃないんだからさ……それにつらかったとしても、そんな簡単に辞められないだろ」
「なんで?」
「なんでって、お母さんを、心配させたくないから……息子が無職って嫌だろ、色々と」
「苦しい癖に無理し続ける方が嫌です」
母と話していると、『弱さ』が顔を見せそうになる。だがそれを見せるわけにはいかないのだ。
散々迷惑かけて、苦しい思いもしただろうに。ようやく息子が巣立ち、社会人として働いているのに、今から子供に逆戻りなんか出来ない。ここで甘えたら、俺は多分もっと甘えたくなる。
もう大人なんだ、俺は。
「まだ子供だよ、涼真」
母のその言葉に、ハッとした。
「……俺、声に出してたか?」
「声には出してなかったけど、顔には出てたかなぁ」
「顔って……」
母は未だに俺の頭を撫で続けたまま、言葉を続ける。
「『早く大人になってお母さんを支えなきゃ』みたいな顔してた。昔バイト始めたときと同じ顔」
母の声色がどんどん柔らかくなっていく。子供をあやすときみたいな、優しい声。
その声を聞いていると、子供の頃の母との思い出が蘇ってくる。
公園まで迎えに来てくれたときの夕焼け空とか、無理して水族館に連れて行ってくれたときのアイスクリームとか、「どうしてお父さんが居ないの」って聞いたら母が泣き出してしまって、俺もつられて泣きだして、一緒になって大泣きしたときの夜空の星とか……。
「涼真、大好きだよ」
そう言われたとき、俺は既に限界だった。涙が上がってきて、一粒落ちた。
「お母さん……俺、つらいや、この仕事……っ」
「うん」
そこからのことは余り覚えてなくて、ただ母の胸でひたすら泣いた。わんわん泣いた。
戻りたくなかった赤ん坊に、一瞬で逆戻りしていた。俺の泣き声が一〇一号室に響いている中で、母はずっと「よしよし、頑張ったね」と言い続けてくれていた。
散々泣いた後、母が作ってくれたおにぎりを、鼻をすすりなら食べた。
「ゆっくり食べなさい」と注意されたけど、そのおにぎりは俺がいつも食べているコンビニのそれとは段違いの美味しさで、どうしても食べ終わるまで抑えられなかった。
「美味しかった?」
「……おう」
母と二人きりというのは久々で、なにを話そうか頭を悩ませていた。でもそれは嫌な気まずさではなくて、どことなくくすぐったい照れ臭さだった。
ふと、どこかから「すん」と洟をすするような音が聞こえた気がした。音のした方を見ると、そこは押し入れだった。俺は「まさか」と言い立ち上がって押し入れの目の前に立つ。
後ろで母が「あー」と言っていた。俺は押し入れを勢いよくガっと開いた。
「あ、お帰りなさい。成瀬さん」
押し入れの中には日向を始めとした日輪荘の面々が隠れていた。俺は全員を中からつまみだす。
全員を引っ張り出し、俺は頭を抱えていた。
「隠れて盗み聞きとか、全員子供かよ……岬さんまで」
「大泣きしてた『涼真くん』に言われたくないよな」
「夏目さん、多分普通に聞こえてますよ」
日向の言う通り普通に聞こえていたので、夏目はとりあえず一発殴っておいた。
他の連中も注意しようと月見里の方を見ると、様子がおかしいことに気が付く。
「……ひっく……うぅ」と月見里は泣いていた。
「ど、どうした月見里」
「だって……二人の会話聞いてたら、私も色々思い出して……成瀬先輩が泣き出して、もらい泣きですよっ……うわぁぁーーん!」と更に大きく泣き出して、何故か日向に抱き着いていた。
それを何とも言えないまま見守っていると、日葵に小声で話しかけられた。
「成瀬さん、ありがとうございます」
「……なにがだ」
「お母さんを、もっともっと大事にしようって思いました。だから、ありがとうございます」
そう言ったときの日葵の表情は、普段良く見せる向日葵のような笑顔ではなく、どこかもの悲し気だったのが印象的だった。
そのすぐ後に岬さんに「ごめんね」と言われた。押し入れに隠れていたことだろうか。
「別にもういいですよ」
「……いいなぁ、成瀬くんのお母さん」
そう言いながら、岬さんの視線は俺の母の方へと向いていた。その言葉が何を意味していたのか、俺にはわからなかった。
そんな中で、日向がこんなことを言い出す。
「雪乃ちゃん、成瀬さんとお母さんのツーショット写真を撮ってあげてよ」
「おおっ、それはいいですね! さすが日向先輩ですっ!」
その言葉に母は「あら、撮ってくれるの?」と嬉しそうで、その顔を見たら俺は断れなかった。
「じゃあじゃあ、二人ともくっついてください!」
月見里の指示通り隣に座り合う。すると母が「うーん」と唸りだした。
「お母さま、どうかしましたか?」
「雪乃ちゃん、だっけ? そのカメラってセルフタイマー機能あるの?」
「はい、ありますが……」
「じゃあさ、みんなで一緒に写りましょ?」
「え、でもでも、親子の感動の再会記念なので……」
「じゃあ『息子の素敵なお友達との初対面記念』の写真に変更してもらえるかな?」
「……はっ、はい! 喜んで!」
「お母さん、だから、こいつらは……」
「お友達じゃないの?」
「それは……」
俺はなぜか答えるのに渋ってしまっていた。以前母にメールで伝えていた『友達』とこいつらは無関係だったから。
「はいっ! タイマーセットしました! みんな近寄って近寄って!」
月見里の慌てた声で全員が動き始める。俺の右隣に日向が来たので、つい声を掛けた。
「日向、お前が母さんを呼んだのか?」
「……誰でもいいじゃないですか。ほら、カメラの方を見てください」
言われた通り、カメラに目線を向ける。そのまま小さく「この前は悪かった」と言った。
日向も小さく「こちらこそ」と言ってくれる。その言葉で、俺は自然と口角が上がった。
パシャッという音が鳴った。撮れた写真を月見里がすぐに確認する。
「うん……みんないい表情です!」
「雪乃ちゃん、その写真あとで私に送ってくれない?」と母が聞いていた。
「もちろんです、プリントしたやつとデータどっちも渡しますねっ」
というやり取りのあと、月見里が自身のパソコンのメールアドレスを書いて母に渡していた。
「岬さん、ここのプリンターでプリントしてもいいですか?」
「いいわよ、私の分もお願いね」
そう言って月見里がプリントを始めた。
母は日向や夏目と話をしている。何を話しているのだろうか。
そう言えば川上が居ないなと、ふと気が付く。まあ奴は普段から何をしているのかもわからない謎が多い男なので、どこでなにをしていても驚かないが。
俺は携帯を取り出して、とある連絡先を探し始める。
暫く探して、ようやく見つけた。それは同じ部署の同期のあいつだった。
入社したばかりの頃に交換したのだろう。ただ一度もやり取りをしたことはなかった。
俺は初めてそいつにメールを打ち始める。どう伝えようか迷ったが、最後はシンプルな文章に落ち着いた。
『俺、この仕事辞めるわ』
一分も経たずに返事が返ってきた。
『退職祝いに飲みにでも行こうぜ』
俺もそれにすぐさま『おう』と返信した。
辞めようと思ってすぐに辞められるわけじゃない。
ちゃんと説明して、色々と手続きにも時間がかかるだろう。だが幸い、俺の仕事は全て力仕事だったので、恐らく業務の引き継ぎのようなものはほぼない。
そして当然、次の仕事はどうするのかという問題もある。
一年と少しで辞めてしまったという経歴は、間違いなく足枷になるだろう。
それから、小山から受けた数々の仕打ちはどうしようか。報告しようにも証拠などない。
そうやって考え込んでいると、母が近付いて来ていた。
「みんないい子ね。もう一度聞くけど、あの子たちはお友達じゃないの?」
そう聞かれた直後、月見里たちに呼ばれた。
「成瀬先輩っ! こっち来てプリントした写真、見てみてくださいよっ!」
「成瀬さん、すごくいい表情してますよ」
そう言って俺を待つあいつらの笑顔を見て、母に自然とこう言った。
「友達だよ」
そうして立ち上がった俺を、母は優しく見守っていた。
空が灰色でした。
もうずっと、世界がそんな風に見えていました。
子供の頃は『大人』という存在にひたすら憧れていました。
世界のあらゆるものが輝いて見えました。いつからでしょうか?
空が灰色になったのは。
ですが、空模様は移ろいゆくものです。
『出逢い』という風が、
『優しさ』の風車を回し続けて、
『憂鬱』の雲を、どこかへ運んでくれるのでした。
お母さん、俺はまだ大人にはなれないみたいです。
だけど、子供とか大人とかにはもう拘りたくないと思います。
俺はいくつになっても、お母さんの子供です。そこに年齢は関係ありません。
ずっと焦って走り続けてきたけど、そんな時こそ立ち止まるべきなのだと知りました。
結果を急いで駆け出して、
体力が尽きても止まらなくて、
友に「休め」と言ってもらえて、
立ち止まって、ふと上を見上げてみたら、
空がすっごく、青色でした。
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