第一章-月見里雪乃の場合-

私はからっぽだった。

もう、何を見ても聞いても、心が揺さぶられない。それはこの世界に絶望しているからだろうか。感情という感情を全て捨ててしまったのだろうか。

私は探している。

私の心を掴んで、揺さぶって、離さない『なにか』を。

そんなことを考えながらこうして学校の廊下を歩いている私は、中々の詩人なのではないだろうか? と、「そうやって自分で言ってしまっては台無しだ」といつか川上先輩に教わった気がする。今のはナシだ。

私は日輪荘の住人たちが嫌いではない。私と同じような人種ばかりだから気を使わなくても良いし。

そう言えば、新しく入ってきた日向とかいう人。あの人も相当な重症に見えた。

お母さんが事故で亡くなったって言ってた。あの人が心の底から笑えるようになる日は来るのだろうか。まあ、どうでもいいけど。

今は夏休みの真っ最中だというのに、なぜ学校に来ているのか。答えは簡単だ。私が所属している写真部の活動日が今日だから、それだけだ。

それだけのハズだった。

前方からよく知った顔が四つ近づいてくる。自分の身体が鈍く、重くなる感覚に陥る。

ああ、今日はツイてない。

四人組の内の一人が私に気付き、嫌らしい笑みを浮かべた。

「あれ? 雪乃じゃん」

リーダー格の女……江角の言葉を合図に、周りの取り巻き達もそれに続く。

「ホントだー」「なんでお前がいんだよ」「あれでしょ? 写真部」

彼女らは順番に嫌味を口にしていく。江角の言葉を合図に。

私は彼女らに虐められていた。どうして虐められ始めたのかは心当たりがない。私がなにか、彼女らの癪に障るようなことを言ってしまったのだろう。確かに私はそういう人間だ。

知らないところで他人を怒らせていても不思議ではない。だから、彼女らに虐められているという現実を、どうする訳でもなく、ただ無心で受け入れていた。

「写真部かー、じゃあカメラ持ってるんじゃない? 見せてよ」

江角の目線での合図を受け、周りの女子たちが私からカバンを取り上げようとしてくる。

中にはカメラぐらいしか入っていない。写真をこいつらに見られるのは嫌だ、そう思った私は、引っ張られるカバンから手を離さなかった。初めて彼女らに抵抗をしたかも知れない。

「は?」「なにこいつ、珍しく生意気じゃん」

「抵抗されるとさぁ……余計奪いたくなるんだよっ!」

次の瞬間、私はお腹を蹴られていた。みぞおちに広がる痛みを認識するまでに、一瞬の余韻があった。

「っ、いっ……たぁ……」と、蚊の鳴くような声で言いながらその場にしゃがみ込んだ。カバンは私の手から離れ、江角へと渡される。彼女らは私のカバンからカメラを取り出し、笑いながら中身を確認し始めた。

ああ、どうして抵抗なんかしたんだろう。抵抗すれば余計こいつらに油を注ぐだけなのに。

そんなの分かっていたはずなのに。どうしてだろう。

「ねえこれ見て! 男の写真があるんだけど!」

「嘘!」「どれどれ⁉」と彼女らがはしゃぎ始めた。それは恐らく、新しい入居者の日向先輩の写真だろう。初対面でいきなりシャッターを切って、消すつもりだったのになぜか消してなかったやつだ。なるほど。これを見られたくなかったんだ、私は。

さっきまで笑っていた江角が、今度はつまらなそうな表情になってこう聞いてきた。

「これアンタの彼氏?」

「……違う」

私が短く否定すると、彼女はまた見下すような笑顔に戻る。

「だと思った。アンタに彼氏なんか居るわけないもんね。でも彼氏じゃなかったら誰?」

「盗撮したんじゃない? ほら、この写真の人の表情、驚いてるっぽくない?」

取り巻きが横から口を出してきた。確かに盗撮みたいなものだ。全く隠れていなかったが。

「きっしょ……」

江角のその言葉に続くように、周りの女子たちも次々に罵倒を始めた。ここからはもういつも通り。彼女らの心ない言葉を、からっぽな心で受け止める。何一つ言い返さず、聞き流すだけ。

どれぐらい罵倒されていたのかなんて数えているわけもなく、気付けば座り込む私の目の前にカメラが投げ捨てられた。精密機械なのに。ボディから落下したので恐らく平気だろうとは思うが、私はすぐにカメラが無事に起動するかどうかを確認する。

そんな私を見て笑いながら、彼女らはその場から離れていく。

カメラは無事だった。でももう部活動に行く気分にはなれなかった。

大丈夫、悲しいわけじゃない。ただ気分じゃなくなっただけだ。

大丈夫、心が痛いわけじゃない。私の心はからっぽのはずだから。

カメラをカバンに仕舞って、彼女らとは反対の方向へと歩き出す。日輪荘に帰ったら、また私は『私』を演じなければならない。あの人たちの前では『ニンゲン』を演じなければならない。それを思うと、ひたすらに億劫で。日輪荘に帰るのが、嫌で嫌で仕方なかった。


重い足を無理やり引き摺って、夕暮れ時、日輪荘に帰ってくる。庭先に咲いている向日葵たちが、私を睨み付けているようで怖かった。ただ同時に羨ましくもあった。堂々と背を伸ばし、「私はここに居るんだ」と主張しているようで、自分が生きているうちに何を成すべきかを理解しているようで、羨ましかった。向日葵はきっと、からっぽじゃない。

「おかえり、雪乃ちゃん」

庭先で立ったまま動かない私に声を掛けたのは、日葵先輩だった。この人は私にたくさん話しかけてくれる。私に持ってないものをたくさん持っている、向日葵のような人だ。

「ただいまっ、せーんぱい!」

「うんうん、今日も元気だね~。部活はどうだった?」

「はい! 楽しかったですよ!」

途端にスイッチが入る。日輪荘では、私は『私』でなければならない。

この人たちに、心配をかけたくない。

日葵先輩に挨拶を済ませ、自室の二〇二号室へとたどり着く。ここが私の巣だ。

部屋に入り、カメラが入っているカバンを置く。部屋にはカメラ関連の周辺機器や、その専門雑誌などが溢れていた。カメラは好きだ。どんな些細なことでも写真に収めておきたい。

それが、いつか大事な思い出になることを祈って。

すると、二つ隣の二〇四号室……夏目先輩の部屋から話し声が聞こえて来ていることに気が付く(二〇五号室の可能性もあるけど、確かあの部屋は壁に大きな穴が空いていたから同じようなものだろう)。恐らく相手は日向先輩だ。夏目先輩は誰とでも仲良くなれるとはいえ、日向先輩との距離感の近さは今までに見たことがないほどだった。馬が合うのだろうか、初日からずっと一緒にいるような気がする。ほんの少しだけ、羨ましいなと思った。

話し声が止み、扉が開閉される音が聞こえた。距離感的に二〇五号室だろう。壁に穴が空いているとはいえ、三つ隣の部屋の話し声が聞こえて来ていたのか。壁が薄いのか、夏目先輩の声が大きすぎるのか(恐らく両方だが)。

近づいてくる二人の足音が、私の部屋の前で止まった。まさかと思い、気分を入れ替える。

「おーい、雪乃。今いいか?」

夏目先輩が私を呼び、ドアをノックしている。正直、今は誰かと話す気分ではない。だが無視するわけにもいかない。

「はーいっ、いいですよー」と言いながら扉を開けた。後ろの日向先輩と目が合った。

「よっ、お疲れ」

「お疲れです。なにか用ですか?」

「親睦を深めようと思ってな」

「親睦? はい?」

「ほら、俺たち同じ二階に住んでる仲間同士だろう? なあ海斗?」と、日向先輩に振る。

「それこのアパートの過半数が当てはまるじゃないですか……むしろ当てはまらない人がかわいそうですよ」

「あ、ホントだ」

この人たちは何がしたいのだろう。悪いが出来の悪い漫才を見せられて愛想笑いするほどの元気は残されていない。

「すみません先輩方、今日部活で疲れちゃって。また今度にしてください」

「そうか……晩飯は降りてきて食うだろ?」

夏目先輩の問いに頷きだけで返事をし、会話を終わらせる。この人は察しがいい。

引き際を弁えていて、必要以上に距離を詰めてこない。助かる。扉を閉める直前、また日向先輩と目が合った。今日の学校でのこともあり、申し訳なさが消えない。巻き込んでしまったような気分だった。

晩御飯時、いつもなら私が一番にあの部屋に居るが、今日は直前まで迷っていた。

『いつも通りの月見里雪乃』でいられる自信がなかった。だが最終的には、むしろ行かないほうが私らしくないと思われそうだという結論に達した。

他の部屋の三倍ほどの広さの一〇一号室の扉の前で一呼吸置く。大丈夫だ。

扉を開けると、最初に岬さんと目が合う。

「どもです」

「雪乃ちゃんいつもより遅いね~、もう出来るから座っててね」

軽く会釈をし、ちゃぶ台の所まで行く。

夏目先輩、川上先輩、日葵先輩、日向先輩……もう既に大体のメンバーは揃っていた。

『あの二人』は、今日も不参加だ。

「おー、来たか雪乃」

夏目先輩が「待ってました」と言わんばかりに私を歓迎する。嫌な予感しかしないが。

「それじゃあ四人で古今東西ゲーム、行ってみよー!」

まばらな拍手が鳴った。日葵先輩も一緒になってはしゃいでいるようだ。一体全体、何の騒ぎなのか。こんな大学生の下らない飲み会みたいなノリは今までになかったはず。きっと何かを企んでいる。

「おい夏目、五人だぞ。誰をカウントから外したんだ?」

「あれ? 川上いたんだ」

この馬鹿男二人組では埒が明かないので、まだマトモそうな日向先輩に話を聞く。

「あの、日向先輩。なんなんですか? このノリ……」

「えっと……雪乃ちゃんがなんか落ち込んでるから励まそうって、夏目さんが」

「おい海斗! 言うなよ!」

日向先輩が「しまった」というように口元を抑えた。その言葉の意味がまだ理解できない。

「私が落ち込んでる? やだなぁ先輩たち。私はいつも通りじゃないですか!」

力こぶを作るボーズを見せる。お願いだから、それ以上踏み込んでこないで。

「いつも肌身離さず持ってるカメラはどうした」

「バッテリーを充電中ですよ! 今日は部活動でカメラを使ったので!」

お願いだから、もう諦めて。

「いつもは晩飯に一番乗りなのに、今日はやたら遅かった理由は?」

「だからそれは、疲れてたからで」

「雪乃!」

夏目の大声が一〇一号室に響いた。彼の大声なんて初めて聞いたかもしれない。

そしてこの真剣な表情も初めて見た。彼の中で、何かが変わり始めている。

「俺たち、家族みたいなもんだろ?」

夏目が一歩近づいて来ようとするのが視界に映った瞬間、私の中で限界が訪れた。

「くんなっっ!!!!」

私の叫び声で、時間が止まったような気がした。これはそんな沈黙だった。

ふと我に返り、日葵先輩の表情を窺う。彼女は私が見たことのない表情で、悲しそうな瞳で、私のことを呆然と見つめていた。

ああ、これが怖かったんだ。だから踏み込まないで欲しかった。私に優しくしてくれたあなた達に、そんな顔をさせたくなかったんだ。

永遠のように感じたその沈黙を終わらせたくて、私は走って一〇一号室を出る。途中、日向先輩に呼び止められた気がするが、これ以上あの場に居ることなんてできない。

駆け足で自室に戻り、勢いよく扉を閉める。世界を強く拒絶するように。私はその場で力が抜けたように崩れ落ちていく。ぺたん、と座り込んでようやく頭がさめ始めた。

ああ、やってしまった。先輩達は私を想って、心配してくれていただけなのに。

夏目先輩の叱咤が頭の中でリピート再生される。あの人のあんな本気の顔、見たことがなかった。彼は鋭い。いつも私の心の裏側を見透かしている。

でも私が少し拒絶すれば、大人しく身を引いてくれる。心配はしてくれるがそれ以上は踏み込んでこない。それが夏目先輩という人間のはずだった。でも、明らかに彼は変わりつつある。その原因がなんなのか、私にはわからない。とにかく、これでこれからあの人たちに顔を合わせ辛くなってしまった。きっと嫌われた。呆れられた。見放されたかもしれない。

そんなことを頭の中で延々と復唱しているうちに、疲れ切った頭の電源が徐々に落ちていった。今日は疲れた。


深夜一時半、私は目を覚ました。あのまま寝てしまったんだ。喉の奥、引っかかったままの何かを流し込むように水を一杯飲んだ。そこで気が付く。

「お腹すいた」

結局一口も食べずにあの部屋を飛び出してしまった。この部屋には食べ物なんてなにもない。仕方ないので、住人の共同スペースである一〇一号室のキッチンに忍び込んでなにか食べることにした。部屋をゆっくり出て、忍び足で一〇一号室の前まで来た。

部屋から明かりが零れている。岬さんはまだ起きているようだ。他の住人には見つかりたくないと思っていたが、岬さんならいい。私は軽くノックをしてから一〇一号室に入る。

恐る恐るリビングを覗き込む。くつろいでいた岬さんと目が合う。

「雪乃ちゃん、待ってたよ。お腹すいたでしょう?」

「……はい」

岬さんに促されてちゃぶ台の前に座った。そこで私の横にもう一人座っていたことに気が付く。その人と目が合ったので一応挨拶はしておこう。

「こんばんは、成瀬先輩」

私の声が聞こえたのか聞こえていないのか、成瀬先輩は無言で食事を食べ続けていた。

……この人は成瀬涼真なるせりょうま。日輪荘二〇一号室の住人だ。つまり私の隣の部屋に住んでいる人。

でもこうしてちゃんと顔を見たのは、どれぐらい振りだろうか。夜遅くに帰って来て、朝早くに仕事に出ていく。休日は自室から一切出てこない。そんな生活を送っている人だから、普段顔を合わせることはない。前回見た時もそうだったが、生気のない顔をしている。いや、前に見た時より更に酷くなっている気がする。よっぽど仕事が大変なのだろうか。毎日この時間に帰ってきているのだとしたら、それは会う機会がなくても当然だろう。

「雪乃ちゃん、おまたせ」

岬さんが取って置いた料理を温めなおして持ってきてくれた。鯖の味噌煮、豚汁に辛子明太子……私の好物ばかりだ。「いただきます」と小さく言い、岬さんが頷いてくれたのを確認してから箸を動かした。黙々と食べ続けていたのだが、ずっと岬さんの視線が気になって仕方ない。試しに岬さんのことをじっと見つめてみる。すると彼女はニコリと笑う。

「美味しい?」

「……悪くないです」

「やったー」と言ってガッツポーズを見せる岬さんが可愛らしくて、なんか癒された。

夏目先輩と同じで、私の心の奥深くまでは踏み込んでこないのに、こうやって彼女なりの距離感で温めてくれる。私がここに入居したばかりの頃から、ずっとそうだった。

「明日にでも夏目君たちに謝らなきゃね。日葵や日向くんも、ずっと心配そうにしてたのよ」

「でも、もう嫌われちゃったかもです。優しくしてくれたのに、あんな大声出して」

私のその言葉を聞いても、岬さんは「そうかな?」とだけ言って微笑んでいた。

そんな会話をしながら少しずつ箸を進めているうちに、もう食べ終わってしまっていたことに気が付いた。私の好きなものばかりで、案外早く食べ終わってしまった。

「あの、ごちそうさまです。そろそろ戻りますね」

「えー、もう? 食後のデザートとか一緒にどう?」

「いやぁ、深夜ですし、太りそうですし……」

「そっかー、せっかく食後用に新発売の『背油マックス!! 豚骨地獄カップラーメン』を用意してたのになー」

「デザートとは……?」

岬さんはたまに変なことを言うけど、それもきっと私を元気付ける為のジョークなのだろう……そう思うことにしている。

自分で使った食器を洗い、挨拶をして自室に戻ることにする。

「岬さん、ごちそうさまでした。お休みなさい」

岬さんが手を振ってくれたのを確認してから、再度視界に入った成瀬先輩にも声を掛けようと思った。

「成瀬先輩も、お休みなさい」

「おう」

こちらを一瞥もせずに言ったたったの一言だったが、反応をしてくれたことが嬉しかった。

(成瀬先輩ってあんな声だったんだ……)私は一〇一号室を出て自室に戻りながら、そんなことを考えていたが、すぐに明日への不安に覆いつくされそうになった。あんなに激昂してしまって、嫌われていないか、見放されていないか。明日が来るのがただ怖かった。


翌日、私はいつも通りの時間に起きていつも通りのモーニングルーティーンを済ませる。

ルーティーンと言っても、カメラのバッテリーを確認するだけだが。

そして本来なら一〇一号室へ行き朝食を食べる時間になっていた。行かなければならない。

行って謝らなければ。でも、それが酷く困難なことに感じる。

もし許してくれなかったら? もしも相手にすらされずに無視されたら? そんなことばかり考えて、言い訳を探して、前に進むことを恐れている。私はそんな人間だった。

ふと、日向先輩と夏目先輩の顔が思い浮かぶ。

そうだった。彼らもきっと私と同じような葛藤を抱いていたはずだ。それでも前に進んでくれたんだ。せめてそれには、応えたいと思った。

部屋を出て一〇一号室に向かう。途中、開口一番で謝るべきかなとか、食事の終わり時ぐらいのタイミングで謝ろうかなとか、数多の脳内シミュレーションをしているうちに、あっという間に部屋の前にたどり着く。これまでにないほど不安だし緊張しているけれど、心境とは裏腹に、私の身体は既に一〇一号室の扉を開けていた。部屋に入ると、昨日と全く同じ顔触れが既に集まっていた。

「あ、あの……おはようございます」

「おう! おはよう」

夏目先輩が一番にそう言って、日向先輩や日葵先輩もそれに続いた。

私は少し驚いて、すぐにはリアクションが取れない。みんな怖いぐらいいつも通りだ。

昨日の出来事は夢だったのだろうか? とさえ思い始める。

「雪乃ちゃん、朝ご飯だから座りなさい」

そう言う岬さんと目を合わせると、小さくひとつウインクをされた。

この人がみんなに何か一言言ってくれたのだろうか。

心の中で感謝しつつも、まだ緊張したまま私の定位置に座る。

隣に座っている日向先輩と目が合った。

「おはよう、雪乃ちゃん」

「えっと……おはようございます。日向先輩」

初めてこの人に名前で呼ばれた気がする。変な意味じゃなく、少しドキッとした。

「なあ雪乃、実は頼みがあるんだが」

そう言った夏目先輩の方を向く。昨夜怒鳴りつけた相手なのでまともに顔を見れない。

「海斗なんだけどさ、こいつ引っ越してきてからこの町を一度もちゃんと歩いたことないんだよ。お前海斗にこの町の案内してやってくれ」

「なっ、なんで私なんですか!」

突然すぎる要求に私はまた大きめの声を出して反応してしまう。すぐに「はっ」となって口元を抑える。聞こえないぐらいの声量で「ごめんなさい」と呟いた。

「謝るぐらいならお願い聞いてあげたら?」と日葵先輩。

「そんな、日葵先輩まで」と渋り続ける私に、また別の方向から援護射撃が飛んでくる。

「実際雪乃はよくカメラ持って町歩きしてるから、ここら辺に一番精通している適任者だと思うぞ」

普段口数が少ない川上先輩までそんなことを言ってきた。

「同意したくないが、川上の言う通りだろ」

夏目先輩が珍しく川上先輩を立てるようなことを言っている。雪でも降るのだろうか。

そして泳ぎに泳がせた視線を最後に日向先輩に向けると、彼にこう言われるのだった。

「初日の盗撮、許してないからね」

満面の笑みでそう言ってくる彼に、私は反論する気力なんて起きなかった。

そんなこんなで、私は日向先輩にこの町を案内することになったのだった。

私をよそになんか盛り上がってる夏目先輩たちを無視して「町案内かぁ」と考え込む私に向かって、日向先輩は小さく「心配いらなかったでしょ?」と言う。それがどういう意味なのか分からなくて、しばらく考えて気付いた。私、もう昨日のことを引きずってなんかいない。

みんなが気遣ってこんなテンションで話してくれているのはわかっていたけど、発案者は岬さんじゃなくて、日向先輩なのかもしれない。

彼の、まだ薄っすらと切なげな影が見え隠れする微笑みを見て、なんとなくそう思った。


数十分後、私は日輪荘の庭で日向先輩を待っていた。早速この町を彼に案内するのだ。

首からぶら下げているカメラのボディを撫でる。カメラバッグは持って行かないことにした。レンズ交換式だけど、スナップ写真を撮るときは大体同じレンズで撮るから要らないし、雨が降ったら困るけどこの青空ならその心配もなさそうだ。

それからまた少し経って日向先輩が走ってきた。

「ごめん、準備に時間かかった」

「この暑い中乙女を待たせるとは、いい度胸してますねぇ先輩」

朝食の時間の仕返しに、少し嫌味ったらしく言ってみた。

「……ごめんなさい」

本気で落ち込んでた。ちょっと可愛いと思ってしまった。……気を取り直して。

「とりあえず私が良く通る散歩コースを回りましょうか。この町に住んでる人でも知らないような超穴場マイナースポットを教えてあげますよ」

「いや出来ればまずは定番スポットから教えて欲しいんだけど」

「定番スポットなんてこの町でしばらく生活してたら自然と辿り着くじゃないですか。それよりも最初から裏ルート知ってた方がツウっぽくてかっこいいです」

「うーん……そういうものかぁ」

日向先輩は割と簡単に押し通せるタイプの様だ。もし私にとって不都合な話になりかけても上手く誤魔化せそうだ。別に彼のことは嫌いではないが、私は自分のことを話すのが嫌いだった。特に、私が虐められていることや、私が日輪荘に入居した理由に関しては、絶対に言いたくない。親しい日葵先輩にすら話したことないんだから。

「まあ、何でもいいからそろそろ行こうか」

「そうですね、じゃあまずはこの町で二番目に大きい公園に行きましょう」

「二番目? 一番大きな公園じゃなく?」

「言ったでしょう? 穴場を教えるって」

私はそう言って速足で歩き始める。彼が慌てて後ろを着いてくるのを確認して、「どこをどの順番で紹介するか」と考える。ほんの少しだけだが、楽しくなっている自分が居た。

十五分程歩き、お目当ての公園に到着する。小さくはないが、特別大きくもない公園だ。

「ここが最初の一押しスポット、ローラー滑り台公園です」

「なんか丁度いい広さの公園だね……穴場スポット感が凄いよ」

「でも舐めちゃ駄目ですよ。この公園の目玉遊具、ロングローラー滑り台の楽しさはほかの公園にはありません!」

私は自信満々に滑り台を指さす。

「確かに、凄く面白そうだね!」

「ですよね!」

「僕がまだ小学生だったらね」

「ノリ悪いなぁ……とにかく実際滑ってみなきゃわかりませんよ。ほら行った行った」

渋々歩き出し小さな子供たちが作っている滑り台の順番待ちの列に混ざる日向先輩の何とも言えない表情が面白くて、私はカメラを構えた。ファインダー越しに見る彼の表情は、やはりまだどこか沈んでいて、彼も普通そうに見えて私と同類の人間なんだな、と改めて認識する。

そんなことを考えていると、シャッターを押すタイミングを見失っていた。

これではただファインダー越しに日向先輩をじっくりと観察しているだけだ。

そこで、学校で私を嫌っている女子たちに言われた言葉を思い出した。これでは本当にストーカーして盗撮しているみたいではないか。シャッターは切らずにカメラを降ろした。

すると、近くにいた小学生らしき男子に声を掛けられる。

「ねえねえ、雪乃お姉ちゃん」

この公園に来るたびに顔を合わせ、知り合いになっていた子だった。

「なに?」と私はわざと面倒そうに返事をする。

「彼氏の写真撮らなくていいの?」

「はあぁっ⁉」

柄にもなく大声を出してしまう。公園中の子供や親御さんがこちらを見ていた。勿論先輩も。

「いや、違う……そういうんじゃないから。ただ同じアパートってだけで、最近引っ越してきたから私が町を案内するってことになって」と、やや早口で弁明をする私に向かって、男の子は左の手のひらを向けて来た。

「……どういう意味よ」

「焦れば焦るほど怪しくなるだけだから、やめときなよ」

なんなんだこいつは……と思ったが確かにそうだ。焦る理由は一つもないし、寧ろ余計変な誤解を生みかねない。……私を虐めている彼女らの顔が嫌でも思い浮かんだ。私の彼氏だと思われたら、きっと日向先輩にも迷惑がかかると思った。あいつらは、何をするかわからないから。

こんな具合で、私の中には常に彼女たちの影が張り付いていた。何を考えても、最後にはバッドエンドへのシナリオを想像してしまう。彼女らの言葉が、刺さったまんま抜けない。

言葉というものは、みんなが思っている以上に攻撃力を持っている。

私の心はからっぽだけど、それでもこんなに痛みを感じるんだ。

心の中が愛とかでいっぱいの人は、きっともっと痛いはずだ。

そうやって自分の思考の世界に溺れかけていた私を、再度男の子が起こしてくれる。

「ほら、彼氏さんが滑るよ」

「彼氏じゃないっての……」

そう返して日向先輩の方を見ると、ローラー滑り台を前に委縮しているように見えた。

どうやら怖いらしい。

「……ふふっ」と私は笑ってしまう。確かに初見では少し怖いかも知れないが、子供向けの遊具を前にあんなに不安そうな顔をしている高校生は初めて見た。

やっぱり、あの人の顔はなんか面白くて、なんとなく落ち着く何かがある。あまりにも抽象的だけど、そうとしか表現できないのだ。

今度こそ写真に収めようとカメラを構えた。滑り始める瞬間、シャッターを切る。

期待通りの写真が撮れて満足だった。

滑り終わった先輩がこちらに近づいてくる。

「雪乃ちゃん、何枚か写真撮ってたでしょ」

「面白くてつい……カメラマンの性ですなぁ」

「あのね……まあいいけど」

良いのかよ、と心の中で突っ込んだ。やっぱり押しに弱そうな人だ。まあローラー滑り台にビビるぐらいだし仕方ない。

「今なんか失礼なこと考えてるでしょ?」

「どうしてですか?」

「笑ってるから」

「あー……」

驚いた。私、今笑ってたんだ。

公園を出てまた町を歩く。私のほんの少し後ろを歩く日向先輩は、視線を右へ左へと何度も動かす。この町の景色や道を覚えようとしているのだろう。この町はいわゆる下町というものに分類される場所で、大きな地震でも起これば簡単に崩れ去ってしまいそうな木構造の建物も多い。ハッキリ言ってしまえばボロ屋だらけだ。昭和から続く駄菓子屋も健在だ。

でも、最近になってお店を畳む駄菓子屋さんが増えてきてしまった。理由は知らないが、お店の人の年齢の問題なのだろうか。私はこの町の駄菓子屋が大好きだし、日向先輩にも絶対に紹介したかった。

少し狭い裏道を通り、行きつけの駄菓子屋さんに辿り着く。

「という訳で、次はここです」

「駄菓子屋さんだね。レトロでいい雰囲気だね」

「こういう駄菓子屋さんは来たことないですよね?」

「そうだね、大きな商業施設の中にある綺麗な駄菓子屋さんならあるけど」

「あんなの邪道ですよ! 駄菓子屋は倒壊寸前ってくらいボロくなきゃ意味ないですっ!」

「わからなくはないけど大声で言うのはやめよう……」

先導して駄菓子屋に入る。店の少し奥に置いてある丸椅子に座るおばあちゃんと目が合って、軽く手を挙げて挨拶した。

「こんにちは、おばあちゃん」

「倒壊寸前のボロ駄菓子屋に来てくれてありがとうねぇ」

しっかり聞かれていた。だが普段からそんな冗談を言い合う仲なので問題はない。

「はじめまして。最近この町に越してきた日向と言います」

日向先輩が律義に挨拶をしていた。私はここに来たら必ず食べる棒状のきなこのお菓子を四本手に取る。箱に入っていて勝手に欲しいだけ取るシステム。三本一袋の小分けで売ってるところもあるらしいけど、好きな本数取れるこっちの方が助かる。

「雪乃ちゃんと一緒に居るってことは日輪荘だろう?」

「あ、はい。そうです」

「疲れたらいつでもここに来なさい……って言いたいところだけど、今年いっぱいでここも畳んじゃうのよねぇ」

「え、そうなんですか」

日向先輩と話すおばあちゃんにお金を渡した。そのタイミングで先輩に話しかけられる。

「雪乃ちゃん、知ってた?」

「私はここの常連ですよ。一番に聞かされました」

そう答えておばあちゃんを一瞥する。目を合わせたおばあちゃんはばつが悪そうだった。

ここは私の逃げ場だった。おばあちゃんはいつでも変わらずに私を受け入れてくれた。

余計な詮索はしてこないし、静かで落ち着く場所だから。でも、そんな私の数少ない居場所も、またひとつ無くなろうとしている。

それまでに、一人でも多くの人にここを教えたかった。一人でも多くの人の思い出のなかに残っていて欲しくて。

脇に置いてある古臭い扇風機の吹き流しが、ゆらゆら揺れていて、私の心みたいだった。

「ねえ先輩、写真撮るからおばあちゃんと一緒に写ってくださいよ」

「うん、わかった」

先輩とおばあちゃんが並ぶ。私はカメラを構えてファインダーを覗いた。出会ったばかりなのに楽しそうに何かを話している二人は、ファインダー越しだと少し遠くに見えた。

撮った写真を二人に見せ、感想を貰う。

「やっぱり雪乃ちゃんは写真を撮るのが上手だねぇ」

「僕もそう思います。人物だけじゃなく背景の建物も活かされてるように見える」

「そうだねぇ……日向くんは良い子を彼女に選んだねぇ」

おばあちゃんの言葉を聞いて転びそうになった。

「ちょっとちょっと! なんですぐそういう話に持っていくかな! 先輩は同じアパートの同居人でしかないってば!」

「だから前から言ってるでしょう? 雪乃ちゃんには一人でもいいから同年代の気を許せる相手が必要だって」

「だからって本人の目の前でそういうこと言うのはやめてってば!」

必死に否定する私を、先輩が面白そうに眺めていた。

軒先に吊るされている風鈴も、私を笑っている気がした。


「それじゃあ、また来ますね」

おばあちゃんに挨拶をして駄菓子屋を出る。外から改めてみても、やっぱりボロ屋だ。

「いい所を紹介してくれてありがとうね」

「……覚えておいてくださいね。ここに、この駄菓子屋さんがあったってことを」

「……うん。忘れないよ」

先輩は私の言葉を受けて一瞬考え込んだけど、すぐに笑顔でそう答えてくれた。

それを聞いただけで連れてきてよかったと思えた。

「じゃあ次はとっておきの場所に連れて行きますね」

「楽しみだなぁ」

次の場所に案内しようと足を動かす。少し歩いて曲がり角を曲がった瞬間、私の中の時間が止まる。足を止めて頭を回転させる。ここから離れなきゃ。

「先輩、あっち行きましょう」

「え? うん」

返事を待たずに彼の手を取る。進行方向とは逆に進もうとしたが、やはり手遅れだった。

「あれ〜? 雪乃じゃん」

良く知る声が後方から聞こえた。なんでここに居るんだろう。

「知り合い?」と聞いてくる先輩に咄嗟の返事が出来なくて、無言で彼の顔を見詰めていた。

「お〜い、逃げんなよ〜」という江角の声が背中に刺さる。取り巻きも居るようだ。

身動きが取れなくなって、先輩の手を握ったまんま立ち尽くしていた。すぐに彼女らに囲まれた。

「ねえそれ誰〜? まさか彼氏?」「仲良くお手々なんか繋いじゃってさぁ」

その言葉を聞いてすぐに先輩の手を離した。先輩は突然のことにまだついてこれていないようだ。彼を、というより日輪荘の人間を巻き込みたくなかったのに。

「おい、答えろって」

江角が私の胸倉を掴む。先輩が間に入ってくれる。

「お、おいおい。やめなよ……多人数でみっともない」

「お兄さん、こいつの彼氏って感じではなさそうだね〜。だってこいつの彼氏にしてはイケメンだもん」江角のその言葉に、周りの女子たちが「たしかに!」と言って笑い始める。

でも、私もそう思う。彼女らの言葉に何一つ言い返さず、ただ受け止める。

戦う勇気も、逃げ出す勇気もない。どちらかひとつでもあれば、私の人生は大きく違っていたと思う。でも今はとにかく、私の個人的な問題に他人を、先輩を巻き込んでしまっていることが悲しくて、やるせなかった。

「わざわざこんな古臭くてダサい町に来てしかもこいつに会うとかツイてないなぁ」

「レトロっぽくて映える写真撮れるかと思って来たのに汚い建物ばっかりだしね」

「そろそろ帰ろか。こいつとここに居ると目と肺が腐りそう」

「あははっ!」と笑いながら江角らは歩き出す。地獄のような時間が、ようやく終わる。

暫しの沈黙があったあと、チラリと横に居る先輩の顔を見ると、彼は何故か私よりずっと苦しそうな表情をしていた。どうして彼が辛そうなのかわからなかったけど、私のせいだと思った。彼は私の視線に気付き、こう言う。

「ごめんね」

どうしてあなたが謝るの。今はそんな短い疑問すら口に出せない。

「……何も出来なかった、僕」

「……それを言うなら、私もですよ」

そう返して、自然と笑いが溢れた。楽しい笑いなんかではない。虚しいだけの自虐的な笑いだ。でも、今はそんな悲しい笑みでさえ有難かった。


先輩と一緒に帰り道を歩いている。最後に紹介するつもりだったとっておきの場所はまた今度ということになった。そんな気分でも雰囲気でもなくなってしまった。

この町の夏の夕暮れは、どこか切ない。この町にもまだ少しだけ居るひぐらしの声が遠くから聞こえて、虫たちのあっという間の命が、ゆっくり死んで行くこの下町には似合っている気がした。

「雪乃ちゃーん、今帰りかい? ボーっと歩いてると転んじまうぞー」

商店街の八百屋さんのおじさんが声をかけてくれた。それに片手を挙げて答える。

さっき江角らが言った通り、この町は古臭くて楽しくないと思う。でもちょっと沈みながら歩いているだけで、こうして声をかけてくるお節介ばかりの町がひとつぐらいあっても良いと、私は思う。

「いい町だよね」

「……はい。だから、あいつらにこの町を馬鹿にされたとき、言い返したかったです」

「僕も、雪乃ちゃんが責められてた時に何も言えなかった」

「仕方ないですよ、むしろ相手しないのが正しいと思います」

「……そうかな?」

「はい。私は彼女らに絡まれるときは必ず心をからっぽにするんです。何も言い返さずに、ただ受け入れて、終わるのを待つ。それで良くないですか? 弱い私たちが頑張る理由なんて無いんです」

先輩は何も答えてくれなかったけど、少しは同意してくれているように見えた。

いや、私がそう思いたいだけ。

日輪荘に着くと日葵先輩が出迎えてくれた。日向先輩には今日あったことはみんなには言わないように頼んだ。彼は私の気持ちが理解できるのか、何も言わずにそれを受け入れてくれた。私と日向先輩は、似た者同士なのかもしれない。

「日向くん、今日はどうだった?」

「あ、はい。雪乃ちゃんが案内してくれた場所はどこも素敵な場所でしたよ」

「おーそっかそっか。あ、あそこは行った?」

日向先輩と日葵先輩が話しながら建物の方へと歩いて行く。日葵先輩は人見知りする方なのだが、自然に会話しているように見えた。私の知らない所でなにかキッカケがあったのかもしれない。当然だ。世界は巡る。私の知らない所でも。でも、知り合い同士の会話に入れないこのもどかしい気持ちだけは、いつまでも慣れそうになかった。置いてけぼりの感じ。

私は喋りながらゆっくり歩く二人を駆け足で追い抜き、自室へと戻った。


今日撮った写真を吟味してノートパソコン内でフォルダ分けをしていた。

今日は、最初は乗り気ではなかったけど、大好きなこの町を日向先輩に教えて回るのは楽しかった。だからこそ、江角たちと遭遇してしまって台無しになってしまったのが悲しい。

本当ならもう一か所、先輩を連れて行きたい場所があったのに。私が虐められているということは全員に隠してきたが、ついに一人に知られてしまった。更に彼を巻き込んでしまったという事実が余計私の憂鬱に拍車をかける。

さっきから同じようなことをぐるぐると考え続けているが、そんなことをしている内にあっという間に夕食の時間になっていたことに気付き、部屋を出ることにした。

一〇一号室に入り岬さんに軽く挨拶をする。いつも通り、私の定位置に腰を下ろした。

「おぉ、雪乃も来たか。今日はどうだったんだ? 楽しかったか?」

夏目先輩がそう聞いてきたので、私は短く「はい」とだけ答える。

「あ、あれ? 思ったより薄い反応……おい海斗、どうだったんだ?」

私の反応に困った夏目先輩はすぐに日向先輩に振っていた。

「……はい」

「え……どうしたんだよ、お前ら」

日向先輩も何かを深く考え込んでいるようで、私と同じように薄い反応だった。

夏目先輩は私と日向先輩を交互に見て、その後「うーん」と言いながら腕を組み始めてしまった。川上先輩や日葵先輩は何も言わずに私たちを見守っている。一言でいえば、気まずい時間だった。食事中、いつもより言葉が少ない食卓が、少しだけ物足りなかった。

食後、部屋を真っ先に出ようとする私に日葵先輩が声を掛けてくれる。

「ねえ雪乃ちゃん、今日はなにかあったの?」

他の皆には聞こえないように、小さな声で聞いてくれる。私は急造の笑顔を見せる。

「……大丈夫ですって! ちょっと疲れちゃっただけですから」

「ねぇ、雪乃ちゃん……私ね、少しだけ変わってみることにしたんだ」

その言葉に無言で首をかしげる私に、彼女は優しい笑みを向け続ける。

「今までの、引っ込み思案で、なにかしたくてもすぐに逃げ出す自分を、少しだけ変えてみたいの。雪乃ちゃんもさ、少しで良い。少しだけ私に甘えてみてよ……」

そう話す彼女の顔は少し苦しそうで、同時に少し安堵したようなものだった。

言い出すのは辛いけど、ようやく言えて肩の荷が下りたかのような、そんな顔。

そこで私は、ようやく気付く。

騙せてなんていなかったんだ。

私はみんなの前で『月見里雪乃』を演じていたつもりだったが、とっくに見抜かれていた。

そして同時に、彼女もまた『日輪日葵』を演じていたんだと知る。

それを理解した私は彼女の顔を直視できなくて、彼女の背中越しに見えた日向先輩の顔をなんとなく見詰めてしまった。彼はこちらに気付かずにまだ何かを考え込んでいる。

誰も何も話さない一〇一号室には、空気の読めない野良猫の鳴き声だけが響いていた。

私は結局何も言えないまま部屋を出た。庭にはさっき鳴いていた野良猫が居て、向日葵を見上げていた。人が満月に惹かれるようななにかが、猫にとっての向日葵にもあるのだろうか。


部屋に戻ってから、私は自分が今まで撮ってきた写真を見返していた。

落ち着かない夜。不安が自分を飲み込んでしまいそうな夜。

過去が私の足を掴んで、未来が心を握りつぶそうとしてくる夜。

きっと誰にでもそんな夜があると思う。私は毎日そんな夜を過ごしていた。明日が来てしまうのが嫌で、怖くて。そんな夜は自分が撮った写真を見返して、自分の存在を再確認する。

「この写真を撮ったのは私で、私が居なければこの写真は生まれなかった」と考える。そうしていると、こんな私でもこの世界に何かを残しているんだ、と思える。落ち着ける。

人を撮るのが好き。シャッターを切ったその瞬間、私はこの写真の人と同じ場所に居たんだと思えるから。孤独でも、乗り越えられる気がした。

深夜一時頃、目が覚めた。意図せず眠ってしまっていたらしい。

日中に起こったことを思い出してしまう。そんなこと思い出さなくても良いのに、夏の嫌な暑さの夜がそうさせる。この部屋に居続けると底なし沼のような鬱に殺されてしまいそうで、部屋を出た。階段を降りて、日輪荘の建物の裏手側に向かう。あそこは表よりも向日葵が咲いていて、ここの住人もほとんど来ない、言わば穴場だ。

ましてやこんな時間なら一人になれると思った。そう思ったのに。

「……あれ? 雪乃ちゃんも寝れない?」

そこには日向先輩が先客として居て、向日葵を眺めていた。

「先輩……改めて、ごめんなさい。私の個人的な問題に巻き込んでしまいました」

私は庭の向日葵と同じくらいの高さに首を垂れる。

「……こちらこそ、ごめん」

彼も同じように頭を下げてくる。やっぱり夕食時に考え込んでいたのも私のせいだろう。

「どうして、先輩が謝るんですか。むしろ仲裁しようとしてくれてたじゃないですか。私、それだけでも凄く嬉しかったです。誰かが隣に居るってだけで、安心したんです」

「もっと強く、しっかりと守ってあげたかった。恥ずかしながら、僕あの子達が怖かった」

彼の、まるで罪を告白するかのような口調に戸惑ってしまう。

「そんなの当然ですよ。私も怖いですもん」

「でも、いくらなんでも情けなさ過ぎたよ。昔からこうだった。誰かが困っていることに気付いても、手を差し伸べなかった。自分が巻き込まれるのが怖くて」

「それが普通ですよ……所詮、他人です。みんな自分が一番かわいい。でもそれが正しい」

彼は自分のことを卑下するけれど、むしろそうじゃない人間なんて居るのだろうか。

「だから僕も、変わろうと思ったんだ」

先輩が私のことをジッと見詰めている。彼も、私も、気持ちを言葉にするのが苦手なんだ。

何かを言いたそうにしているのはわかるから、それを待った。

「……今度こそ、君を守るよ」

そう言う彼の表情は、さっきまでの不安げなものとは違い、自分の中で大きな覚悟を決めたような真っすぐなものだった。私はいつもの癖でそれを拒否しようとする。

「……大丈夫ですよ。私、もう慣れっこなんです。酷いことを言われるのも、ぶたれるのも、カメラを取り上げられるのも……」

彼が一歩、二歩……と近寄ってくる。その距離が縮まっていく度に、私の仮面が外れていく。

これまで積み上げてきた『月見里雪乃』が壊れる前に、彼に確認しておきたかった。

「……私、もう『普通の人間』じゃないですよ。傷だらけですよ。両親が大っ嫌いで家出みたいな形で日輪荘に逃げて来た親不孝者ですよ。優しくしてくれたみんなに嘘ついて拒絶してきた、そんな人間ですよ……っ」

最後の方は、泣きそうになるのを我慢しながら彼の優しさを否定する『フリ』をした。

これまでずっと演じて来た『私』だから。この演劇が終わるその瞬間までは、その『私』を貫きたかったから。

言い終わる頃には、先輩は私の目の前まで来ていた。

「じゃあ、お揃いだね、僕たち……」

「……馬鹿なんですね、先輩は」

数秒後、私は泣きじゃくっていた。日向先輩の胸で。小さな子供の頃のように泣いた。

本当はもっと早く、こうして欲しかった。誰かに全部吐露して、甘えたかった。

でもそれをして来なかったのは、自分が大嫌いだったからだろうか。

それとも虐められていることを周りに知られたくなかったからだろうか。

きっとどちらもだと思う。自分が抱える問題をなるべく大事おおごとにしたくない気持ち。

身近な人にそれを知られたくない気持ち。自分の荷物は自分だけで持っていたい気持ち。

私にはどれも理解できる。でも、試しに誰かにそれを預けてみて欲しいと、今は思う。

チャンスはあったんだ、これまでに何度も。少しで良い、変わってみて欲しい。

泥臭く「助けて」と言えるだけの人に。だって、誰かの胸の中って、こんなにも暖かい。

私以外の、虐められて苦しんでいる人達に、そう伝えたかった。

こんなの、私の心の中の独り言でしかないけど、こんな綺麗な向日葵達が咲きこぼれた夏だ。

それぐらいの奇跡なら起こるだろう。

少し泣き疲れて先輩の顔を見上げると、彼の頬を伝う涙が見えた。先輩も怖いのに、頑張って言ってくれたんだ。そっか、似てるんだ、私たち。

七月下旬、夏の夜。新しい月見里雪乃が生まれた夜だった。


どれだけ泣いていたか分からないが、日向先輩の言葉で長い沈黙は終わる。

「ねえ、明日もう一回案内してよ。最後に連れて行ってくれようとしてた場所に」

「いいですね、でも……」

「もしまた彼女らに遭遇しても、大丈夫だよ。今度こそ僕がなんとかする」

彼のその言葉に妙に安心する。私の心はもう彼を信用しきっていた。

「……私も、次は頑張ってみます。抗ってみます……怖いけど、先輩と一緒なら」

そう言って、日向先輩と頷き合う。頼れる人が居るというのは心強かった。

そろそろ寝よう、という彼の言葉に頷き、一緒に玄関口の方へと歩く。そこに人影を感じて、一瞬身構えたが、その人影は見知った人物だった。

「おかえりなさい、成瀬先輩」

「……おう」

困り顔の日向先輩に成瀬先輩を紹介することにした。

「そういえば日向先輩は初めましてなんじゃないですか? 二〇一号室の成瀬涼真さんです」

「あ、初めまして。この間引っ越してきた日向海斗です。よろしくお願いします」

「……おう」と短い返事だけして、成瀬先輩は一〇一号室へと向かう。岬さんが作り置いている晩御飯をそのまま食べに行ったのだろう。相変わらず帰宅が遅いし、疲れ切った表情をしている。苦しみと戦っているのは、私だけじゃないんだ。日輪荘に居ると尚更そう思う。

ふと日向先輩を見ると、なんだか悲しそうな表情をしていて、彼も私と同じことを考えているんだろうなぁと思った。自分も傷付いてる癖に他人の傷にも敏感なところが、日向海斗という人間の本質を覗かせているようだった。

「成瀬さんって、いつもこの時間に帰宅してるの?」

「そうですね……だから普通に生活していたら中々会う機会がないと思います」

「そっか……近いうちに成瀬さんともゆっくりお話ししたいね」

「先輩らしいですね」

話を終わらせて私たちはそれぞれの部屋へと戻る。明日の約束を済ませて。

次の日に誰かとの約束があるなんて、人生で初めてかも知れなかった。明日に楽しみな予定が待っているというだけで、こんなにも胸が暖かくなるなんて知らなかったし、知れてよかったと思う。部屋に戻ってからも暫く高揚したまま、中々寝付けなかった。


いつもと同じように朝が訪れる。でも今日の朝はほんの少しだけ、いつもより眩しい気がした。カーテンの隙間から差し込む夏の朝日が私の部屋の床に突き刺さっていて、「ここが君の居場所なんだよ」と言われている気がした。自分の世界は、たった一晩で変えられる。

いつもより軽い足取りで一〇一号室へと訪れた。目が合った岬さんに「おはようございます!」と元気よく言うと、彼女は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの暖かい微笑みに戻って「おはよう、雪乃ちゃん」と返してくれた。

次に私より先に座っていた川上先輩と日葵先輩にも同じように挨拶をして、二人とも笑顔で挨拶を返してくれる。そして私はいつもの定位置に腰を降ろして、隣に座る日向先輩の顔をしっかりと見つめて「おはようございます、日向先輩」と言った。すると彼も私から目を離さずに「おはよう、雪乃ちゃん」と返す。挨拶という当たり前のキャッチボールが、とても楽しく感じた。

「おいおいおい、良い感じの雰囲気のところ悪いが、誰かを無視してないか?」

「あれ、夏目先輩も居たんですね」

「え、俺そういうポジション?」

「あははっ!」

私が夏目先輩を弄って、日葵先輩が笑ってくれる。それを川上先輩や日向先輩が優しく見守っていて、そこに岬さんが朝ご飯を運んでくる。この時間がどれだけ尊いものだったのか、私はいつの日かふと思い出すのだろうか。

「なんか昨日とテンションが違うじゃんか。良いことあったのか?」

「良いこと……ありましたよ」

私は昨夜の出来事を思い出す。日向先輩の胸で大泣きしたことを思い出して、顔の温度が上がっていくのを感じた。

「あらぁ〜顔真っ赤にして、かぁわいい〜」

「え、赤くないですよ別に」

岬さんにからかわれたので誤魔化すようにそう言った。岬さんの全て見透かしているかのような意味深な頬笑みが少しだけムカついた。

「今日の予定はあるのか?」と川上先輩。

「はい、今日も日向先輩に町を紹介しようかなと」と私。

「昨日はあんま乗り気じゃなさそうだった癖によ、どんな心変わりだよ」

訝しげな表情で私にそう言ってくる夏目先輩を無視して、日向先輩の方に向き直る。

「先輩、今日こそ連れて行きますからね」

「うん、楽しみ」

私と日向先輩のやり取りを見守るみんなの視線がなんとなくくすぐったかったけど、そんな朝も嫌いじゃなかった。


私が日向先輩を連れて行きたかったその場所は、朝や昼に行くには少しだけ早すぎるので丁度いい時間になるまで日輪荘で過ごした。

まだ空は明るいけれど、夏の夕暮れは中々来ない。今から向かえば丁度いいだろう。

私はカメラを手に取り部屋を出る。二〇五号室まで行き日向先輩を呼ぶ。

「せーんぱいっ、そろそろ行きますよー」

「はーい」と扉の向こうから聞こえて足音が近付いてくる。さて、町案内の続きだ。

二人で日輪荘を出発して町を歩く。昨日も通った商店街を進んでいた。

「おーい雪乃ちゃん、今日も彼氏とデートかい?」

「そうですよー! いいでしょ!」

いつも声を掛けてくれる八百屋さんにからかわれたので、私は軽くそれに乗じる。

「雪乃ちゃん……」と、日向先輩は腕を組んでいた。

「あ、先輩ごめんなさい。冗談でも嫌でしたよね……」

「いや、それいいね。良いこと考えた」

そう言って一人でうんうんと頷いている先輩が気になりながらも、私は時間を気にして目的の場所を目指した。商店街を抜け、区役所を通り過ぎ、区民館の更にその先。

夏空も潤朱に着替え始める時間、丁度いい時間に目的地へと到着する。

「先輩、ここが最後に紹介したかった場所です」

「ここは……路面電車の駅?」

先輩を連れて来たのはこの町を走る路面電車の駅、の近くの踏切だった。

私はカメラの設定を調節する。

「夕暮れがこの町を包んで、茜色の線路の上を都電が走る。遠くに見える日本一の電波塔もこの町に見惚れてしまっているかのよう……派手さはないかもしれないけど、私がこの町で一番好きな景色なんです」

「詩人だね」

「よく言われます」

私はカメラを構えて、先輩も映るような良い画角がないか何歩か歩いて探し始める。

そんな私に、先輩は話しかけてくる。

「雪乃ちゃんってさ、普段からずっとカメラ持ち歩いてるよね」

「そうですね、なんでもかんでも撮っちゃいます」

「どうして?」

「どうしてって言われても……好きだからですよ、そりゃあ」

「それだけ?」

そう聞いてくる先輩の立ち姿が妙に絵になっていて、私はついシャッターを切ってしまった。なるほど、これは確かに多少病的かもしれない。人との会話の最中でも関係なかった。

「……多分これが原因なんだろうなぁ、っていう心当たりならありますよ」

「そっか」と短く言って視線を泳がせ始める。楽しい話じゃないのだろうと察して反応に困っているのだろうか。先輩を困らせたくはなくて、自分でも驚くぐらい自然に、私からその話を始めていた。

「……私の両親、私の写真を一枚も撮ったことないんですよ」

「……一枚も?」

「はい。小学校の授業の一環で、自分の幼い頃の写真を持ってくるように言われたことがあって、親に聞いたら『一枚もない』って。私、それがショックで、ムカついて……だって自分の娘ですよ? 写真の一枚もないって、私って愛されてないんだなぁって」

「それがきっかけなの?」

「……ですかね、それから私お年玉でカメラを買って、沢山写真を撮るようになりました……自分の写真が無い穴を埋めるかのように」

そこまで話して、深呼吸をした。こんな話、本当なら誰にも話したくなかった。でも先輩に話せば少しは楽になるかも、なんて甘えた考えが私の口を動かしてしまっていた。

こんな話惨めで、悔しくて、消えてしまいたくなる。

俯く私に、先輩は軽い口調で声を掛ける。

「じゃあ、僕が雪乃ちゃんの写真を撮るよ」

「……え、ええ?」

「そりゃあご両親には敵わないかもしれないけどさ、誰かに写真を撮ってもらうのって結構気持ちいいよ。それを雪乃ちゃんに教えてもらったからさ、お返しさせてよ」

真っすぐにそう言ってくる先輩がなんか可笑しくて、笑ってしまった。

「……先輩って、面白い」

「え、それはどういう意味なの……僕には撮られたくないってこと?」

「ちっ、違います! 先輩に……私の写真、撮って欲しい、です」

言ってる途中で噛んでしまって、顔が熱くなっていくのがわかる。今私は真っ赤な顔をしているかもしれないけど、夏の夕暮れが誤魔化してくれていると信じて、顔を背けない。

「じゃあ、カメラ借りても平気?」

「あのっ、お願いがあって……」

「お願い? いいよ、なに?」

「えっと……やってみたいことがあって」

日葵先輩が言っていた。『ほんの少しだけ変わることにした』って。

私も、これからは自分の世界がもっと輝くように、勇気を出してみることにする。

勇気を出せば、それにちゃんと応えてくれる人が居るって知ったから。

勇気を出せば、ほんの少しでも世界を変えられるって知ったから。

私のお願いに、日向先輩は一瞬戸惑っていたけど、やっぱり最後は承諾してくれた。

この人、誰かが見ていてあげないといつか悪い人に騙されてしまうんじゃないかと思う。

夏はまだ始まったばかりだけど、この夕闇に包まれていくと『世界が終わって行っているんじゃないか』とか、考えてしまう。夏の夕方には、そんな不思議な切なさがある。

この町に居ると、『世界に先輩と私の二人きりなんじゃないか』とか、考えてしまう。

この町の寂れていく風景には、そんな遣り切れなさがある。

でも次の瞬間、音を鳴らしながら降りてくる踏切の遮断棒が、私のそんな妄想を終わらせた。

通り過ぎていく路面電車の乗客と一瞬だけ目が合って、『あの人にもあの人だけの夏があるんだよなぁ』と思うと、不思議な気持ちになってしまった。

月見里雪乃の夏は、始まったばかりだ。


あれから数日、私はまた学校に居た。写真部の定期集合日だ。

私は廊下を歩く。今までと同じようで、少し違う。世界の見え方が違う。

部室に向かう途中、前方から見知った顔が四つ歩いてくるのが見えた。

今までは偶然遭遇してしまっていたのだとばかり思っていたけど、どうやら彼女らは私をいびる為に、わざわざ私の部活の日程まで調べて待ち伏せていたようだった。ある意味愛されているのかも知れない、とか考えるぐらいには、今の私には余裕があった。

そうは言っても、やっぱり怖い。震える。でも、大丈夫。あの日、日向先輩が言っていた『良いこと考えた』の意味をあの後本人に聞いてみた。その時先輩が教えてくれたことを、胸の中で反芻する。そうしている内に、彼女らは目の前まで来ていた。

「あれ? 雪乃じゃん」という江角の言葉を合図に、取り巻き達もそれに続く。

「ホントだー」「なんでお前がいんだよ」「あれでしょ? 写真部」

前回とまったく同じような言葉を吐かれる。他にバリエーションはないのだろうか。

「雪乃、今日はあの男の人のストーカーはしなくていいの?」

「うん」

江角の嫌味に対して、私はかつてないほど堂々と返した。

「ん……」

いつもみたいに俯かず、真っすぐと目を合わせたままの私に、彼女は少なからず驚いているようだった。しかし、彼女の取り巻き達は当然その私の反応が面白くない。

「なんなの? こいつ」「調子乗ってんね」「カメラ取り上げちゃおうよ」

前回と同じように、カメラの入ったバッグを取り上げようとしてくる。私は今回は抵抗しなかった。むしろ彼女らにそれを渡すように振る舞う。

私のカメラを嬉々として取り上げて、保存されている写真を漁り始める。

「この前の男の人の盗撮写真増えてんじゃない?」

「増えてたらキモ過ぎるでしょ」と笑いながら、彼女らは『その写真』を見つけた。

「……なにこれ」

彼女たちの顔から笑顔は消え、つまらなそうな表情に変わる。

彼女たちが見たその写真は、私と日向先輩が笑顔で写ってるツーショット写真だった。

あの日先輩にお願いして撮ってもらった写真だ。

「雪乃、これアンタの彼氏なの?」

「うん、私の彼氏」

「嘘つくなよ」

「嘘じゃない」

先輩があの日教えてくれたことを守る。「堂々として居ればいいんだよ。雪乃ちゃんが自信満々にしていれば、きっとあの子達も気圧されるんじゃないかな」と先輩の言った通りに、彼女たちは今まで見たことが無い私の立ち居振る舞いに困っているのか、こちらを睨みつけたまま何も言ってこない。

私は彼女らの方へ歩き出す。そして、江角が持っていた私のカメラを取り返した。

そのままそこを離れようとすると、後ろから江角にこう言われた。

「……覚悟しとけよ」

その言葉に、私はこう返した。

「私さ、あなた達にされてきたこと、全部先生たちに言ってみることにしたから」

私のその言葉で一瞬沈黙が訪れたが、すぐに彼女たちは声を上げて笑い出した。

「あっははは!」「先生に言いつけてやる〜だって!」「小学生かよ」

「ダッサ」と、最後に江角が言った。

「ダサくても良いっっ!!!!」

私の人生の中でも一番の叫び声が、廊下に響いた。

「誰かに助けを求めることがダサいことなら、私は堂々とそのダサいことをするよ! そうしないまま、ただ灰色に包まれて死んで行くぐらいなら、どんなダサい女にもなるよ! ダサくても、みっともなくても、それが唯一の生きる道なら……。

私たち人間は、そうやって泥水啜りながらでも、生きていくんだ」

そう言い残し、私は歩き出した。後ろは振り向かなかったが、もう声は聞こえてこない。


私はからっぽだった。

何を見ても聞いても、心が揺さぶられない。そんな女子中学生だった。

私は探していた。私の心を掴んだまま離さない『何か』を。

それをようやく、見つけたんだ。心のどこかにあったプライドを捨てて、荷物を持つことを少しだけ助けてもらったことで。

ふと、日向先輩の困り顔が思い浮かんで、クスっ、と笑ってしまう。あの人は本当に面白い。

帰ったら変なむちゃぶりでもして、彼を困らせてしまおう。どんな反応をしてくれるだろうか。そんなことを考えながら、私は夏の廊下を歩く。

日輪荘に帰るのが、今から楽しみで楽しみで仕方なかった。

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