日輪荘、本日も晴天です!
かぐやうさぎ
序章
生きる意味が無かった。
言ってしまえば、この夏が来る前に死のうとさえ考えていた。
七月中旬、これまで通っていた高校を中途退学した僕は、二学期から隣町の高校に転校することになっていた。実家からの通学はつらいだろう、と父親が転校先の高校近くにアパートの一室を確保してくれたらしい。今はそこへ向かっている。
東京下町。昭和感漂う駄菓子屋が未だに健在のこの町はひたすらに静かで、今の僕の心情を落ち着かせるのに丁度良い気がした。もしかしたら、父なりの気遣いなのだろうか。ハッキリ言って余計なお世話だが。
足取りは重い。ただでさえ人との関わりをなるべく避けてきた人生だ。他人も住んでいるアパートで一人暮らし……不安でしかない。
ふと視界に入った車のボンネットで昼寝をしている猫が、悔しいほど絵になっていた。
下町の道は基本狭い。さらに路地裏に入ればもはや迷路だ。手書きの地図を頼りに暫く歩みを進めていると、ようやくそれらしき建物を見つける。お世辞にも綺麗とは言えないそのアパートの看板が目に入る。
「
向日葵の別呼称である日輪草と掛けているのだろう。
アパートの敷地内にも向日葵の花が咲いているのを見つけた。ここの大家さんは向日葵が好きなのだろうか。無意識に足が向日葵の方へと向いていた。この強烈な日差しを受け尚、堂々とそこに鎮座し、自身の大輪を自慢げに見せつけていた。
見せつけているように見えたのだ。憂鬱な日々を過ごしている人間は、世界のあらゆる物事をすべてマイナスの方向で捉えてしまうものだ。今の僕のように。
そんなことを考えながら向日葵を見ていると、さらに奥の方のアパートの裏手側にもっと沢山咲いているのを見つけた。僕は自然とその向日葵群に近づいて行く。導かれるように。
そこには、先客が居た。女性だ。長く明るい髪の毛が向日葵とマッチしているように見えた。向日葵に顔を近づけて満足そうな表情で頷いている。
このアパートの住人なのだろう。深く関わるつもりはないが、一応挨拶はしておく。
「こんにちは」
「わぁっ⁉」
僕が声をかけると、その女性は驚いて転びそうになっていた。
「……驚かせたみたいですみません。今日越してきた日向です。よろしくお願いします」
彼女は数秒僕の顔を凝視したあと、「あぁ!」と言って手をたたいた。
「話は聞いてるよ。私はここの大家の娘なの、よろしく。じゃあね!」
彼女は畳みかけるようにそう言うと、アパートの部屋の中まで走り去っていってしまった。
そりゃあ僕みたいな陰気臭い不審者にアパートの裏手で声をかけられたら、怖いに決まってるよな、と思った。そういえば彼女の名前を聞き忘れたが、今後もあまり関わることもないと思うので問題ないだろう。
僕はアパートの玄関口の方へと戻った。そこにはまた別の女性が立っていた。その人は僕に気付き、声をかけてくれる。
「あ、そっちに居たんだ。そろそろ来る頃だろうと思ってここで待ってたのよ」
父から話は聞いていたので、この人が大家さんであることはなんとなくわかった。
この古いアパートには正直似つかわしくない綺麗な女性だ。年齢は知らないが、僕の母と大して変わらないと思う。
「大家の
「初めまして。この夏からお世話になります、
あらかじめ考えていた挨拶を、機械的に発する。なんの感情も込めずに。そんな僕を見ていた大家さんが次に口にしたのはこうだった。
「綺麗でしょう? 向日葵」
「……そうですね」
僕の返答に満足したのかしなかったのか、大家さんは少しだけ微笑んで頷いた。
「じゃあ早速日向くんのお部屋を紹介するね」
そう言う彼女に無言で頷き返し、先を行く彼女の後をついていく。階段を上って一番奥の部屋の前で止まる。
「二〇五号室。ここが日向くんのお部屋よ」
僕は無言で頷き、鍵を受け取りそのまま部屋に入った。最後にちらりと見た大家さんの表情は、なぜかとても切なげなものだった。
部屋に入り、少ない荷物を置く。ようやく落ち着ける。
日輪荘、二〇五号室。広くはないが充分だ。以前、誰かが住んでいたのだろう。少し古い型の冷蔵庫が片隅に座していた。
そして窓から外を見ると、庭の向日葵が見下ろせる。
眩しくて目を背けた。とにかく落ち着きたくて床に腰を降ろす。
「疲れた……お茶飲もう」
癖である独り言を言い、リュックサックからペットボトルのお茶を取り出す。
「俺にも一口くれよ」
「うん……えっ⁉」
目を疑った。全く知らない男性が僕の部屋でくつろいでいるではないか。誰だよ、怖いよ。
「二〇四号室、
夏目と名乗る男はそう言うと、大口を開けて欠伸をした。
「あなたの好感度今のところマイナスですよ」
「いいよ。マイナススタートの方が気楽だろ、何事においても。あと俺のことは名前で呼んでくれ。これから同じ屋根の下で人生の苦も楽も共にして行くんだからさ」
夏目はキメ顔でそう言い放ったが、寝転んでいるので全くキマっていない。僕はさっきから疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「どうやって入ったんですか? 鍵は持ってるはずないし」
「そこの壁、見てみ」
夏目さんが指さした方向を向いてみる。隣の二〇四号室方面だ。その壁にはなんと、屈めば人ひとり通れる程の穴があいているではないか。
「プライバシーもクソもないじゃないですか」
「驚くより先にツッコミが出るなんて……求めていた人材だ、合格」
一体何に合格したのかはわからないが、彼と話していると調子が狂う。とりあえずこの場は適当に流し、穴については後で大家さんに追求しようと決めた。
「それでは、お帰りください」
「そんなウエイター風に言われてもね。まだウェルカムドリンクすら口にしてないんだけど」
「どうしたら出て行ってくれますか?」
「その汚物を見下ろすような顔やめて、傷付く」
そんなやり取りをしばらく続けていた。窓の外に目をやると、町は徐々に潤朱に染まり始めていた。日輪荘に来て初めての夜が、もうすぐそこまで来ていた。
一向に自分の部屋に帰りたがらない夏目さんと僕の言い合いは、僕が折れるという結末で幕を閉じた。その間、僕は夏目さんに自身のプライベートな話を自然としてしまっていた。同じ人と連続でこんなに会話をしたのはいつぶりだろうか。小学生の頃はまだ、こんな僕にも友達が居たっけか。
「おい、海斗? 疲れたのか?」
「いいえ……えっと、今何の話をしてましたっけ」
「転校した理由だよ。見た感じ退学になるレベルの問題を起こすような人間には見えないしな」
「……人は見た目だけでは、判断できませんよ」
少し間を置いてから、僕は意味深にそう言って見せた。
「それは、その通りだな。……さてと! もうすぐ晩飯の時間だな。今日の献立は何かなぁ」
夏目さんは僕の表情を見て、一瞬切なげな表情を見せた気がしたが、それ以上は踏み込んでは来なかった。正直助かる。夏目さんは僕みたいな人間との距離の測り方を熟知しているように思えた。慣れているような、そんな感じ。
「じゃあ僕は僕でご飯を確保しに行くとします。買い物に行くので、夏目さんもそろそろ自分の部屋に戻ってくださいね」
「え? 何言ってんの? 夜は日輪荘の住人全員で食べるんだよ?」
その言葉に僕はしばらく呆然としていた。聞かなかったことにしよう。
僕は買い物に行く為にリュックから財布を取り出し外へと向かう。
「尊敬に値するスルー能力だな」
夏目さんに腕を掴まれ脱出を阻止される。腕力さえあれば振り切って逃げ出していただろうに。
今の僕にそんな気力は無い。諦めて脱力する。
「それでいいんだよ。諦めて住人と親睦を深めようぜ!」
「初日から要求されるハードルが高すぎる……」
「初日だから高いのさ」
それはそうかも知れない。何事も最初の一歩を踏み出すのが最難関だったりする。
夏目さんが僕の手を引き一階の一〇一号室……大家さんが住んでいるらしい部屋へと向かう。
僕はもう諦めているのでされるがままである。鏡は見ていないが表情は暗いはずだ。
一〇一号室は住人の部屋二つ分ぐらいの広さだ。もしかしたら住人と夕飯を共にすることを前提にした設計なのかもしれない。なぜそんなことをするのか、僕には理解できない。
夏目さんが一〇一号室の扉を叩いて鳴らす。
「岬さーん。期待の新人を連れてきましたよっと」
「何を期待されてるんですか……」
部屋から返事が聞こえ、足音が近づいてくる。今すぐに逃げ出したい。
扉が開き大家の岬さんが顔を出す。
「あっ! 良かった~。来てくれないかと思ったよ」
「なあ、今日は何人集まってるんだ?」
夏目さんが何かを確認している。
「それがね……いつも通り、あの二人は居ないわね……。川上さんと雪乃ちゃんと日葵ちゃんは居るよ!」
「その三人は居るだろうよ……。なんだよ歓迎会だってのに全員揃ってないのかよ」
夏目さんは心底残念そうに言葉を吐いた。しかし僕からしたら好都合かも知れない。
人数が少ないならその分難易度は下がる。今日は適当な相槌を打って場を乗り切り、岬さんに相談して食事は一人で取らせてくださいと頼もう。
僕は意を決し一〇一号室に入っていく。
足を踏み入れた瞬間、パシャリと音が鳴った。音がした方を見ると、ミラーレスカメラをこちらに構えた少女が満足げに笑っていた。
「タイトルは……"狐に摘ままれた日向先輩"ってところですかねっ」
「あいつは
夏目さんが少女を紹介してくれた。後半の内容は聞き流しておこう。
こういう時どんな反応をすれば良いのかがわからない。僕は何も言えずに立ち竦んでいた。
岬さんが空気を変えるようにパンッと手を叩いた。
「さてと! 人数は少し足りないけど、日向くんの簡易歓迎会と行きますか!」
僕はちゃぶ台の前に座るよう促される。言われるがままそこに座る。僕が座ったのを確認した雪乃が左隣に腰を下ろした。
「せーんぱい、これからよろしくお願いしますね!」
「初対面の人間にいきなりシャッターを切る人はちょっとね……」
「やっと喋ったかと思ったら嫌味⁉」
雪乃は声が大きいしリアクションが大げさだ。正直苦手なタイプである。
雪乃は僕にカメラの液晶画面を見せてくる。
「ほら、写真消せば良いんでしょ? これで満足ですか? ったく……」
僕の写真を消した雪乃は、僕に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で文句をぶつぶつと垂れ流していた。
「なんだろう、この責められてる感覚は……」
雪乃の黒さが垣間見えた気がするが、見なかったことにしよう。
……ふと思い返せば、見て見ないふりばかりの人生だったと思う。
道ばたで困っていそうな人を見かけても無視して通り過ぎる。
そんな人間だ、僕は。
「あまり人前でそんな顔をするもんじゃないぞ。少年」
「……え?」
知らぬ間に右隣に座っていた見知らぬ男性が僕に話しかけていた。無精ひげを生やした妙に大人びた男性だ。夏目さんとはまた違う男らしさを感じる。
「
川上と名乗る男は握手を求めてきた。不思議と嫌ではなく、僕はそれに応じた。
「なんだ、川上居たのかよ。影薄すぎ!」
夏目さんの煽り文句が飛んでくる。川上さんは慣れた様子でそれをいなしていた。
この日輪荘に全員で何人の住人が住んでいるのかはわからないが、僕を入れて五人でこの騒がしさである。まだ見ぬ住人が何人か居るのだ。先のことを想像してみただけで目眩がしてくる。
自分だけが浮いているような感覚。置いてきぼりの感覚。そんな思い出したくもない感覚を振り払おうと視線を泳がす。
すると、まだ一言も喋っていない女性と目が合った。今朝、向日葵の前で出会った人だ。
確か岬さんの娘だと言っていた気がする。
「ほら、日葵ちゃんも挨拶しなさい」
僕が彼女を見詰めていることに気が付いたのか、大家さんが自己紹介を促した。
「えっと、
日葵さんは僕とあまり目を合わさないままそう言った。自己紹介が苦手なのか、僕とはあまり関わりたくないのか、どちらにしても悪いことをしてしまった。
「なんだ、もう顔合わせてたのか。日葵は人見知りだから最初はこんな感じだが、まあ許してやってくれ」
夏目さんが僕と日葵さん両方をフォローするようにそう言う。やはり彼はこの日輪荘でもそういう立場なのだろう。僕は簡潔に「はい」とだけ答えておく。
「まー、まだ日葵先輩以上に厄介なのが残ってますからね〜」
「しかも二人もな」
黙っていた雪乃と川上さんが僕の両隣から口を挿む。どんな人なのだろうか。
今後顔を合わせたら挨拶ぐらいはしておこう。
「みんな、お話も良いけど冷める前にご飯食べちゃいましょ」
岬さんがそう言うと、全員が食事をする態勢に入った。
六人で囲むには小さすぎるちゃぶ台には、既に料理が並んでいた。さっさと自分の分を食べて自室に戻ってしまおう。僕は箸を手に取り誰にも聞こえない程の声量で「いただきます」と呟いた。
「はい、召し上がれ」
岬さんは僕を見て優しげな笑みを浮かべていた。僕が抱えている事情を、彼女は父から聞いているのだろう。父は恐らく余計なことも山ほど話したのだと思う。食卓には、僕の好物がこれでもかと並んでいた。
食事が始まっても夏目さんは常に川上さんを挑発していた。川上さんはそれを面倒そうにいなす。しかしそれが仲の良い間柄のやり取りであることは僕でもわかっている。
雪乃は特に何も言わずにじっと天井を見つめ、一種の放心状態のまま黙々と箸を進めていた。岬さんは時折箸を置いて、そこそこのペースで茶碗のお米を減らしている僕を嬉しそうに見守っていた。早く部屋に帰りたかったからというのもあるが、好物のコロッケに箸が止まらないというのもまた事実だった。
すると急に雪乃に話しかけられる。
「先輩って結構食べるんですね~。なんか落ち込んでるように見えたけど、そんなに食欲あるならとりあえず大丈夫そうですね」
「そうだな、海斗はツッコミも上手い。きっとすぐここにも馴染むさ」
夏目のツッコミへの謎の信頼の置き具合は横に置いておくとして、この場に居た全員が僕を見ていたのが落ち着かなかった。みんな、僕を見守っているような感じ。
落ち着かないが、不思議とそんなに嫌ではなかった。それまで黙っていた岬さんが口を開く。
「ここの住人はね、みんな日向くんの味方よ」
その言葉に、僕は無意識に頷いていた。
落ち着かなくて外を見ると、庭の向日葵と目が合った。
目を背けてきた事実に、ようやく向き合えるかも知れない。
「母も、向日葵が好きでした……」
僕は気が付くと涙を流していた。誰も驚いた反応はせず、僕が落ち着くまで待ってくれていた。
母は今年の春先に亡くなった。飲酒運転の車と衝突し、即死だったらしい。
父曰く、僕は泣かなかったらしい。らしいというのは、事故が起きてから暫くの間のことをあまり覚えていないからだ。元々あまり感情を表に出さない人間だったが、母を亡くして尚変わらない自分が怖かった。子供っぽく泣きじゃくってもよかったろうに。ただ、父の泣いている顔を生まれて初めて見てしまった僕は、誰かに甘える気にもならなかった。
せめて自分は強くあろうと思ったのかも知れない。そう思っていたとはいえ、何故涙が出ないのか不思議だった。僕はいよいよ人の心を失ってしまったのかとさえ思った。
だが、今日理解した。実感が湧かなかったのだ。納得したくなかった。事実から目を背けていただけだ。日輪荘に来てから、何度も母を思い出す。そろそろ逃げてばかりじゃいられないのかもしれない。
晩ご飯を食べ終わり各々が部屋に戻り始める。僕は岬さんに気になっていた質問をすることに。
「あの、僕の部屋の壁に大きな穴が空いていたんですけど……あれっていつになったら直してもらえるんですか?」
「え? 夏目くんといつでもお喋りできて寂しくなくていいでしょう?」
「お喋りどころか部屋に堂々と居座られて困るんですが」
「寂しくなくていいでしょ?」
岬さんに満面の笑みでそんなことを言われると納得しかけてしまう。ともかくこれ以上彼女と話すのは恐らく無駄だ。そのうち勝手に直させてもらおう。僕は諦めて自室に戻ろうと部屋をでる。
「それじゃあ、ごちそうさまでした」
「あのね、日向くん」
岬さんに呼び止められた。彼女の方を振り向く。
「きみの顔を見る限りね、本当に夏目くんのことを嫌がっているようには見えないのね。だから、直さなくってもいいかなって。あっ、でももし夏目くんに嫌なことでもされたら言ってね?
まあ、そんなことする人じゃないと思うけど」
「……はい」
案外、そうかも知れない。
部屋に戻ると夏目さんが僕の部屋でくつろいでいた。
予想通りだった。
「蹴っても良いですか?」
「踏むなら良いけど」
「どういう線引きですか……」
悪ふざけもそこそこに、それまで横になっていた夏目さんが上体を起こし、僕に向き直る。
その表情はそれまでの抜けたものとは違い、真剣そのものだった。
僕も自然と背筋を伸ばしたまま床に座り、言葉を待つ。
「なあ海斗、一緒にやって欲しいことがあるんだ」
「お笑いコンビの結成ですか……?」
「急にボケるな。いやそれも楽しそうだけど、そうじゃない」
ボケのつもりじゃなく、夏目さんなら本当にそうなんじゃないかと思って言ったのだが(ツッコミが出来る人材を求めていたみたいなこと言ってたし)、まあいいだろう。
「俺と一緒に、ここの住人達の傷を癒して行って欲しいんだ」
言われた瞬間は意味がわからなかったが、少しずつ理解していく。
「傷……心の、ですか?」
「そうだ」
心の傷。
それは比喩だ。
物理的に心に傷がついている訳ではない。だが物理的外傷と同じように、痛みを伴う。
それこそ、今まさに自分もその痛みを抱えている。いや、人間としてこの世界に産まれ堕ちた以上、誰しもが抱えているモノなのかも知れないが。
「どうだ?」
夏目さんの声で思考が途切れる。受け取ったボールは返さなければならない。
それがコミュニケーションという名のキャッチボールだ。
「そもそも、あの人たちは傷ついているんですか?」
「そうか、そこら辺も聞かされてないか。いいか、海斗」
夏目さんのこの真剣な表情を向けられると、僕は黙ってしまう。
彼にはそんな魔性の魅力がある。
「ここ日輪荘は、心に傷を負った人間しか入居できないアパートなんだ」
その言葉の意味を考えるために、また僅かな沈黙が生まれる。
「傷ついた人しか住めないアパート……ということですか?」
「だからそう言ってるだろ? みんな訳アリだ……」
知らなかった。ここが、日輪荘がそんな場所だったなんて。
そして何よりも、さっき晩御飯を共にした雪乃や川上さん達。彼らが内に傷なんてモノを抱えているという点が信じられなかった。
僕よりずっとまともで、普通の人間にしか見えなかったから。
「そんな風には見えなかったか?」
「勝手に人の思考を読まないでください……」
「お前が顔に出しすぎなんだよ……。でもなぁ海斗。見えないんだよ」
僕はここで口を挿むべきではないと思い、夏目の次の言葉を待つ。
「心の傷なんてさ、目には見えないだろ?」
「そうですね……見えません」
「みんな、隠すのだけは上手いからなぁ……」
そう話す夏目さんの表情の意味が、今までで一番わからなかったからだろうか。
彼のその表情がどういう意味なのか知りたかったからだろうか。
次の瞬間には、自分でも驚くぐらい自然にこう言っていた。
「やりましょう、二人で。みんなの為に」
僕のその言葉を聞いて、夏目さんは笑顔で頷いた。
それが僕と夏目さんのコンビ結成の瞬間だった。
「ただ、癒すといっても具体的にどんなことをするんですか?」
「まずはネタ合わせだな。どんなに芸歴が長い芸人さんもみんなやってる基礎中の基礎だ」
「……」
「海斗? ここでツッコんでくれなきゃ困るんだが?」
今からでも断ろうかと一瞬本気で思ったが、「もう少しだけ夏目さんに付き合ってあげよう」なんて考えている自分自身に、僕は何よりも驚いていた。
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