第三章-川上次郎と東雲奈月の場合-

生きるとは、前へと進むことだと、信じて来た。

この両脚で大地を踏み抜いて、目指すべき場所へとまるで導かれるかのように進むのだ。

では、その脚を失ってしまった者はどうすればよいのだろうか。

匍匐前進でもして泥にまみれながらでも進むべきなのか。

その問いの答えを探していると、こう思う。

ああ、私は今『どこ』に居るんだろうなぁと。


車椅子は嫌いだった。

視線を感じるのが嫌というのもあるし、何より自分の不自由さを痛感させられるから。

これに乗ってまで外に出たくはない。人前にも出たいと思わない。

走り回ることが出来なくなってしまった私に、価値などあるのだろうか。

そんなことを考えていると、隣室の一〇一号室から笑い声が聞こえて来た。最近これが増えた。

岬の話によれば、最近引っ越してきた日向とかいうガキのせいらしい。最初は「どうせ関わることもないだろう」と興味もなかったが、こうも連日騒がれるとイライラする。

日輪荘にうるさいやつは夏目と月見里だけで充分だろう。

私は重く感じた髪の毛をかき上げた。

「チッ……うぜぇな、髪……」

近々岬か日葵に切らせるか……とか考えていると、ちょうど部屋の扉が鳴らされた。

「東雲、俺だ」

「……お前かよ」

川上次郎……私の大嫌いな男だった。だがなぜかあいつは私を気にかけてくる。どうやら岬にそうするように頼まれているらしい。確かに、私は自分でも思うほど関わり辛い女だと思う。

岬と日葵だけでは心許なく、川上が日輪荘の男の中で最年長だからという人選だろう。

別に誰だって嫌だが、こいつだけは本当に勘弁して欲しかった。

「……何の用だよ」

「日葵がクッキーを焼いたらしくてな、それを届けに来た」

「……そこに置いとけ」

「いい加減その言葉遣いはどうにかならんのか、雪乃や日向はきっと怖がる」

「……あんなガキ共と関わることなんてないだろうし、別に良いだろ」

「百歩譲って関わらないのは良いとして、いつまで部屋に引きこもっているつもりなんだ」

「……そんなこと、私が決める」

「そうだな、すまない。クッキーここに置いとくぞ」

その言葉を最後に扉の前から川上の気配は消えた。

私にあんなことを言うが、あいつこそ普段なにをしているのだろうか。しょっちゅうここに来ることを考えると恐らく無職なんだと思うが。

あんな楽観的に生きていそうな男に、なにを言われても響くわけがない。

私は車椅子を動かし、自室の扉を開けた。扉を開けてすぐ横にガーデニング用の棚がある。

私宛の食事などはここに置いていかれる。高さが丁度良く、取りやすい。

日葵が作ってくれたというクッキーを取り、すぐに部屋の中に戻ろうとした。だが、戻る前に誰かの視線を感じて、そちらの方を睨みつける。

「あっ……あの、二週間前ぐらいに引っ越してきた日向と言います。まだ挨拶をしていなかったので」

「……チッ」

私はそいつを睨んだまま大きく舌打ちをする。日向とやらは大袈裟なほど怖がっていた。

こいつが最近、日輪荘を騒がしくしている張本人か。思っていたよりは大人しそうな子供だが、私がこいつと関わると碌なことがなさそうなので、今のうちに脅しておく。

「私に関わるなよ、ガキ」

「僕も出来れば関わりたくないですけど、残念ながらそういう訳にもいかないんです」

「出来れば関わりたくないだ? 喧嘩売ってんのかよガキがよ!」

「今さっき私に関わるなって自分で言ってたじゃないですか……」

我ながら理不尽な怒り方だが、ここで面倒な女だというイメージを植え付ければもう関わろうとしてこないだろうと思った故の行動だった。

「……で、なんなんだよ。『そういう訳にもいかない』ってのはよ」

私は露骨に苛立ちを向けながら次の言葉を待つ。こういう煮え切らない男は嫌いだ。

「岬さんに『日向くんは奈月ちゃんのお話相手係に任命!』と言われまして……」

「は? なんだよそれ、どういう意図なんだよ」

「さあ……岬さんの考えてることなんて、日葵さんですらわからないでしょう」

「それは、そうだろ……」

「『それはそうだろ』って、どうしてですか?」

「いや、忘れろ」

そうか、こいつは知らないのか。口が滑りそうになった。

「とにかく、話し相手なんていらねぇ」

「と言われましても、これからは僕と日葵さんで晩御飯を持ってくるので……」

「なるほど、会話を拒否するなら餓死しろと」

「そこまでは言わないですけど……大家である岬さんの指示なので逆らえないです」

「別に逆らってもなにもされねえだろ、あの天然ボケ女の岬だぞ……」

ここで話し続けてこれ以上人が増えても困るので、そろそろ切り上げる。

「じゃあな」

「はい、また夜に」

その言葉にはなにも返さずに、車椅子でバックしてから扉を閉めた。

苛立ちながら日葵のクッキーを頬張る。味の良し悪しなどわからないが、日葵の作るお菓子はいつでも美味しい。いつもなら食事は日葵が持って来てくれるのだが、今日は川上が持って来て、晩飯は日向とかいうガキが持ってくるという。岬の指示らしいが、あいつは一体何を考えているんだ。

私はクッキーを咀嚼しながらパソコンの前に移動する。こんな狭い部屋の中から一切出ずに暇を潰すとなると、ネットサーフィンぐらいしかない。これまでの人生でインターネットに触れる機会はほぼなかったと言っても良いので、それに慣れることが出来たのはこの怪我のお陰かもしれない。

ふと無心で開いた動画サイトのトップに表示された私におすすめの動画とやらが目に入って、反射的にブラウザを閉じた。好きなものも、不自由な今は見たくない。


そのまま夜が来るまで小説を読んでいた。これまで読書とは無縁だったが、怪我をして引きこもるようになってから読むようになった。著作権の切れた小説がネット上で公開されているので、それが主だ。当時の文豪達の文章の色とでも言うのか、言葉の選び方に感銘を受けた。

料理と同じく、私には中身の良し悪しを見分ける程の教養はないが、文章を書けるということはとにかく凄いと思うようになった。

そんなことを考えながらパソコンのモニターをぼんやり見詰めていると、自室の扉が叩かれた。

時間も忘れるほど集中していたが、もう晩飯の時間だ。自分が空腹だということに気が付く。

「そこに置いておけ」

扉の前に居る人物が何か言う前にそう言い放つ。話通りなら日向が持ってきたのだろう。

「東雲さんったら、そんなこと言わないでください〜」

この声は日葵だ。日向が持ってくるという話はなくなったのだろうか。

私はちょうど日葵に散髪を頼もうとしていたことを思い出し、その話をする為に部屋に入れようと思い扉を開けた。

「こんばんは、東雲さん」「よう」

そこには日葵だけでなく、日向と川上も立っていた。

「チッ……余計なのがついて来てんな」

「そういうこと言うと晩御飯あげませんよ」

「やっぱり脅しじゃねぇかよ」

「すみません……とりあえずお邪魔してもいいですか?」

私は深い深いため息をついてから三人を部屋に入れた。無駄な押し問答を続けるくらいなら、さっさと部屋に入れて食事を受け取り、あとは無視すればいいと思った。

「はい、どうぞ〜」

食事をとる時に使っている車椅子用テーブルを日葵が設置してくれる。日向がその上に料理を乗せた。私はまた「チッ」と舌打ちをする。

「怖いですよ……」

「慣れろ日向、俺なんかよく『死ね』と言われているぞ」

「何をしたらそこまで嫌われるんですか……」

「知らん。なあ東雲、なぜだ?」

川上がそう聞いてきたので「なにもしてねぇからだよ」と一言で返した。無視をするつもりだったが、返さずにはいられなかった。

「何もしてないから? どういうことだ?」

「お前、無職だろ? いつも暇そうだし。事情があるならともかく、お前みたいに楽観的に無職やってるやつを見るとイラつくんだよ」

そう言って箸を持ち、食事を始める。日葵が困ったような苦笑いをしていた。

「無職ではなくフリーターなんだが」と川上が答え、日向と日葵がそれに驚いていた。

「初めて聞きました」

「たまにどこかに行ってるなぁとは思ってたけど、バイトに行ってたんだ……」

「お前ら、俺があてもなく町を徘徊してるとでも思ってたのか」

川上のその呟きに、日向と日葵は同時に頷いていた。

「まあとにかく、ずっと引きこもってる東雲には言われたくないな」

「私は大学生だっつーの……」

そこで会話も止まり、各々食事に集中し始める。食事中、何度か日向と目が合った。岬に言われたことを律義に守るために、なにか話題を振ろうと考えているのだろう。だが話どころか顔すら今日初めて合わせた女と話せと言われても困るだろう。少しだけ日向に同情する。

「えっと……東雲さん、野球かなにかやられてたんですか?」

「あ?」

「いやその、グローブらしきものが見えたので……」

日向の視線の先を追うと、私物のグローブが投げ捨てられたままだった。うっすらと埃をかぶっている。余計なものに気付きやがる。

「日向くん、東雲さんはずっとソフトボールをやってたんだよ」

何も話さない私を見て、日葵が代わりに説明してくれる。

「そうなんですね。じゃあ治ったら復帰するんですか?」

「……どうだろうな」

私は日向の問いに曖昧な返事をした。自分がこれからどうしたいか、自分でもわからない。

「自分が本当にやりたいことを改めて考えてみろ」

黙り込む私に、川上が偉そうにそう説いてきた。私はまたも無視することが出来ずに反応してしまう。

「偉そうに……お前にだけは言われたくねぇ」

「誰に言われたかじゃない、何を言われたかで判断しろ。東雲の幼いところだぞ」

「……チッ」

私は言い返す言葉が咄嗟に出てこなくて、川上を睨みつけて舌打ちをするだけだった。

それから食べ終わるまで全員が無言だった。私はこの気まずい空気が嫌いで、だからこいつらと食事の場を共にするのが嫌だった。なぜ岬はこいつらを私の部屋に寄こしたのだろうか。

「ごちそうさま……東雲さんも食べ終わってますね。じゃあ食器片付けますから」

「ああ、それから今度髪切ってくれ。長くなって鬱陶しい」

「えー? せっかく似合ってるのに。ねえ? 日向くん」

「僕に振りますか……そうですね、とてもいいと思いますよ」

「日向くん、褒め方が陳腐すぎるよ! もっと愛を伝えるみたいに言ってみて!」

日葵がなにやら無茶振りをして遊んでいた。私はどうでもいいと言うようにお茶を啜る。

「愛を伝えるって……まあ『人は本当に愛していればかえって愛の言葉など白々しくて言いたくなくなるもの』って、かの文豪も作中で綴ってますから……」

私は日向のその言葉にハッとした。その文言を私は聞いたことがある。

「なにそれ? 東雲さん、そんなの聞いたことあります?」

「……太宰治、『新ハムレット』のオフィーリアの台詞」

そう答えた私に三人とも視線を向けてくる。人の視線が苦手なので反射的に目を逸らす。

「知っていましたか」

「小説を読む時間は余るほどある……」

「いや、それにしても作中の台詞まで覚えているのは中々に異常だけどな。日向も引用の仕方が渋すぎる」と、川上が珍しく語気を強めていた。

「あれ、川上さんも知ってるんですか?」

「これでも小説家志望だからな。太宰は一時期読み耽ったよ」

「「「えっ⁉」」」

川上の言葉に、私を含めた全員が驚いた反応をする。私もつい声を出してしまったほどだ。

「なんだ、これも言ったことなかったか。まあお前らの前で書いたことはないからな」

「なんだろう、意外っちゃ意外だけどイメージ通りな気もするよ……」

「日葵の中で俺は一体どんな人物像なんだ」

そう話す三人を尻目に、ひとり考えていた。川上が小説など書けるとは、私には思えない。

「東雲、なんだその『こいつに小説なんか書けるわけないだろ』みたいな顔は」

「まさにそう思ってたところだよ……」

これまで読んできた小説の傾向のせいで、私の中で小説という物のハードルが高くなっているのはあるかもしれないが、それを差し引いてもこの語彙も一般常識もなさそうな男に執筆などできるとは思っていない。

「川上さん、実際に書いたものを見せてくれたら信じてもらえますよ」

「あっ、私もみたーい!」

二人の言葉を受け、川上は決まりが悪そうな表情で顎を触り始めた。

「それがだな……今まで一度も作品を完成させたことが無くてな、未完のものしかない」

「別に未完のものでもいいですよ、読んでみたいです」

「いいや、完成していない作品を見せるぐらいなら真面目に働いた方がマシだ」

「今は真面目に働いていないんですか……?」

「言葉の綾だ。とにかく最後まで書ききれないことが俺の課題点だな」

「なら尚更誰かに見せてアドバイス貰ったりした方が書けるんじゃないかな?」

日葵の言葉を受け「うーむ」と腕を組み部屋の中を歩き回り始めたので、いい加減釘を刺した。

「おい、歩き回るなら自分の部屋でやれよ。三人ともさっさと出ていけ」

「わかった、日葵の言う通りみんなの意見を貰うとしよう。良い方向に転がるかもしれない」

「無視すんじゃねぇ」

「なら明日の晩御飯の時ここに持って来てくださいよ、みんなで読みましょう」

「当たり前のように明日も来るつもりじゃねぇか」

そんな具合でこの部屋に住む私の意見は完全に無視され、三人で勝手に話を進めていた。

まあ正直もうどうにでもなれという気持ちも芽生え始めていたが。

そうして、明日川上の書いている作品をこの部屋で読むという予定が決まった。

「そういう訳なので、東雲さん、また明日きますね」

そう言い残して三人は食器を持って部屋から出て行った。一人になりどっと疲れが出てくる。

私は車椅子を動かし、部屋の隅へと移動する。日向が見つけた薄く埃を被ったグローブだ。

それを持ち上げ、軽くはたいた。もう暫く手入れもしていない。定期的に磨くのが当たり前だったのに、もうあの頃の熱を失ってしまったのだろうか。

車椅子をもう一度動かし、窓辺まで移動してからカーテンを開いた。庭先に咲いている向日葵を見ていると、そこに人影を見つけた。あれは恐らく夏目だろう。あんな場所で、しかも一人でなにをやっているのだろうか。ふと目に入った夏目の表情はとても浮かないものだった。

「あんなやつにも悩み事はあるんだな……」

そう呟いてから、私は膝の上のグローブをそっと撫でた。

夜の向日葵というものはどうしてこう、もの悲しい気持ちにさせられるのだろうか。


ソフトボールは、物心ついた頃からやっていた。両親は野球好きで、息子が生まれたら野球をやらせたかったらしい。私を身籠って、性別が判明してすぐ女子野球をやらせるか女子ソフトをやらせるかの話し合いをしたと聞いた。なので私の意思とは関係なく、私はソフトボールを始める運命だった。

とは言っても、ソフトボールは好きだった。頑張ると両親が喜んでくれるのが嬉しかったというのはあるが、それ以上にこのスポーツの魅力にごく自然と魅入られて行った。

そして何より、ソフトボールを続けることで出会った仲間達や大人達。同じスポーツを愛する人との出会いや交流はとても心地よいものだった。

そして私はどうやら、才能があったのだろう。チームの誰よりも伸びるのが早かったし、大人達にちやほやされた記憶しかない。もちろん努力も怠らなかったが、それ以上に両親が用意してくれた好環境の影響が大きいと思っている。

当然のように、強い女子ソフト部がある中学に入学した。周りの大人達にそう勧められたし、私もそれが正しいと思ったから。その学校は確かにレベルが高くて、その後の私の人生で長きを共にすることになるライバルであり親友、理恵と出会ったのもその頃だった。

理恵は私と同じショートというポジションの選手で、同年代では圧倒的な上手さを誇っていた。

同じポジションを希望する者同士、ごく自然に友人になった。そして良きライバルとして高め合う関係になる。

中学時代、試合のレギュラーは基本的に理恵で私は補欠だった。順当だったと思う。

そして高校も同じ学校を選んだ。高校でも私たちは同じポジションを希望したが、この頃から私はセカンドというポジションを任されるようになる。ショートと同じ内野だし、理恵と同時に試合に出れるのは楽しかったが、やはり自分はショートを守りたいんだと強く思った。

そして三年生になる頃には、私は理恵からショートのレギュラーを勝ち取ることになる。

ずっと理恵の背中を見て練習してきて、ライバルである以上に憧れでもあった理恵を越えたと監督に言われた時は素直に嬉しかった。彼女はセカンドを守るようになったが、「すぐに奈月からショートを奪い返してみせるから!」と彼女もショートに拘りを持っていたようだ。

だが、卒業するまで彼女がショートに返り咲くことはなかった。

大学も同じところを選んだ。それが最善だと信じて疑わなかった。

当然その大学も女子ソフトが強い学校であり、東日本ではほぼ敵なしと言っても良い程だった。

私も理恵も、大学のレベルの高さに驚いた。高校時代のように二人で二遊間を守るなんて夢のまた夢、三年生に進んだ頃、ようやく私だけ試合に出れるほどになった。理恵も努力していたが、三年生時、彼女は一年間通して補欠だった。

四年に上がる頃には、理恵との会話はほぼなくなっていた。彼女は決して大学ソフトのレベルについてこれなかった訳ではない。彼女は上手い。他のポジションさえ希望すればすぐにレギュラーだったろう。だが、彼女はあくまでもショートに拘った。私との競争に拘った。

「理恵、サードとかどう? 理恵ならすぐ適応できるでしょ」

久々に彼女と二人きりで話せたとき、私はポジション変更を提案した。昔みたいに一緒に試合に出たかった。だが彼女がそれを飲むことはなかった。

「あたしさ、絶対にショートが良いんだ。奈月にはわかんないだろうけどさ、意地っていうものがあるの。それを今更、曲げられないよ」

「おい、夏の大会まで時間がないぞ……監督が今から大きくメンバーを変えるとは思えねぇ。私との競争に拘って、四年間レギュラー出場ゼロでいいのかよ……!」

毎年夏ごろ、大学選手権大会というものが開催される。東日本予選を勝ち抜けば、全国大会へと進む。その大会こそ私たちがこの約四年間本気で挑んできて、そして未だに一度も突破することが出来ていない大きな大会だった。この大会は、私のこれまでのソフトボール人生で最も大事と言っても良い大会だった。

「……天才はいいなぁ」

「……誰のことだよ?」

理恵の呟きを、私は聞き逃すわけにはいかなかった。

「奈月のことに決まってるじゃん。出会った頃は同じくらいだったのに、簡単に抜かれちゃったもん」

彼女のその言葉に、私は怒りを抱くことはなかった。それ以上に、悲しかった。

それから暫く、理恵と話すことはなかった。彼女は練習には顔を出し、私からレギュラーを奪おうと奮闘していた。監督へのアピールも徹底していたようだ。

だが、大会のメンバーが発表された日、理恵の名前が呼ばれることはなかった。理恵は悔しそうでも悲しそうでもなく、ただ無表情で空を見上げているようだった。

その次の日、全く知らない女の子に話しかけられる。

「あの、さっき女の人に『練習前に話したいから講義後にあの踊場に来て』とあなたに伝えてくれって言われたんですが」

間違いなく理恵だと思った。『あの踊場』というのにも心当たりがある。二年生ぐらいまで、よく二人で会うことが多かった場所だ。常に人気が無く、秘密の話をするに最適の場所だ。

私は久々に理恵と話せることをとても嬉しく感じて、わざわざそんな場所に呼び出す回りくどさや違和感に気付くことはなかった。

講義後、階段を駆け上がり踊場へと急いだ。

「はぁ……はぁ……理恵、まだ来てないのか?」

肩で息をしながら、理恵が来たら何を言おうか考えていた。結局彼女は、これまでの四年間の集大成と言っても良い大会に、私のせいで出場できないのだから。

だが彼女は私をここに呼び出して話をすることで、自分の中で決着をつけたいのだと思う。

それには付き合うのが、ライバルであり親友でもある私の役目だと思ったから。

瞬間、背後から肩に手を置かれる。一切気配を感じなかったので軽く驚いてしまう。

「おい理恵、脅かすな……」

最後まで言い切る前に、私の脳は必死に違和感を訴えていた。身体がふわっと浮くような感覚。

後ろを振り返り、その人物の顔を確認できたときには既に手遅れだった。

理恵に後ろから押されたのだと理解するまで、永遠のようで、一瞬だった。

「ぐっ……がぁっ……‼」

階段を、身体のあちこちをぶつけながら転げ落ちていく。私は咄嗟に両手で頭を押さえたらしく、頭への損傷はなかった。だが転落が終わる最後、無意識に脚で勢いを殺そうとしたらしく、両脚が異常な方向へと曲がった。

「ああぁっ……‼ ぐぅ、ああ……!」

両脚が千切れるのではないかという痛みが広がっていく中、階段の上に立つ理恵の顔が見えた。

彼女は「わ、私は悪くないっ! 悪いのはアンタだ!」と叫び、走り去っていった。

私は痛みを呻き声で押し殺しながら、友の去り際の言葉を反芻する。

そうか、彼女はここまで追い込まれていたんだ。そして追い込んだのは、私だ。

そう思うと胸が握りつぶされるような痛みに襲われ、後悔が押し寄せてくる。

その胸の痛みは、両脚の痛みなんかよりずっと痛くて、潰れそうだった。

その後、誰かが偶然近くを通りかかって私を見つけてくれたその後も、私の頭の中は理恵のことだけが浮かんでは消えて行った。


それからの時の流れはあっという間だった。

私の脚は当分使い物にならない状態になっていたので、当然大会のメンバーからは外れた。

私の穴を誰が埋めたのかは聞きたくなかったので聞かなかった。ただ私達のチームが昨年以上の結果を残せないまま敗退したということだけ聞いた。

私の夏は……いや、私の世界はその日、終わったんだ。

唯一無二と言っても過言ではなかった親友に傷つけられたという事実は、私が心の扉を閉めて塞ぎ込むようになるには充分すぎる理由だった。

あれから暫く経ったけれど、今でも理恵の言葉とあの表情が、夢に出てくる。

私は彼女を恨んでいるのだろうか?

彼女にどうして欲しいのだろうか?

私は何をすればいいのだろうか?

私は今、「どこ」に居るのだろうか……。

自分にとってすべてだと思っていたものを同時に二つ失った今、私は私という人間について考える。生きるとはなにか、とか考えてしまう。

その問いに、答えはあるのだろうか?

ふと気が付けば、隣には朝がいた。

車椅子に座ったまま眠りに落ちてしまったようだ。足元には落としてしまったグローブが転がっている。

私は今日も今日とて、かつての文豪たちが紡いできた物語を咀嚼する。

暫くすると日葵が部屋を訪ねてきて、朝食を置いて行った。朝は日向ではなく、従来通り日葵が持ってくるようだ。しかしいつもなら部屋の前の棚に置いていくのに、戸締りをせずに寝てしまったからか、ごく自然に部屋の中に入ってきた日葵に心の中で文句を言った。

「東雲さん、今夜は楽しみですね」

「……何がだよ」

「川上さんの書いてる作品の鑑賞会ですよ〜」

「一つとして楽しみな要素がねぇんだよ……」

「あはは、まあそう言わずに。それまでの時間、たまにはお散歩でもどうですか?」

「……気が向いたらな」

私の声が聞こえていたのかいないのか、日葵は「後で食器とりにきますね」と言って部屋を出て行ってしまった。

しかし、散歩か。もうどれほど外に出ていないか覚えていない。

町を歩くのは未だ抵抗があるが、日輪荘の庭の中ぐらいなら息抜きに良いかも知れない。

元々アウトドアな人間がこうも部屋の中で燻っていると、一種の禁断症状のように身体が太陽光を欲してしまう。外へ駆け出したいと思ってしまう。それは当分、叶わないが。

私は朝食を食べたあと、思い出したようにグローブを磨いた。専用のクリーナーを少量スポンジにとり、薄く伸ばすように全体に塗る。少し待ち浮き上がってくる汚れを布巾などで拭う。

多少埃を被っていたとはいえ、それまで定期的に手入れをしていたので厄介な汚れはなかった。

そして磨き終わったタイミングで再度部屋に来た日葵に食器を渡して、私は大きく伸びをする。

久々に、庭に出てみる。少し陽の光を浴びたらすぐに戻ってこよう。誰かと鉢合わせて話しかけられても疲れる。

私はそっと部屋の扉を開けて周囲を確認。誰も居ないことを確認し、車椅子を前に漕ぎ出した。


部屋から一歩踏み出すと、眩しい光が私を照らす。太陽に指をさされたような気がして、細めた目で空を睨みつけた。

ここに留まり続けると誰かが来ると思ったので、日輪荘の裏手の方に移動することに。

あそこはほとんど人が来ることのない日輪荘の穴場的な場所だった気がする。

一〇二号室の前にある、私の為だけの簡易スロープの上を渡った。

その緩やかな下り坂を降りるときの勢いを殺さないまま、裏手側まで直行する。

日輪荘の裏手側に辿り着いたとき、既に先客が居ることに気が付いた。

後ろ姿しかみえないが、あれは確か成瀬とかいう男だったと思う。

音は出していないつもりだったが、人気を感じたのか男はこちらを振り向いた。

「ん……あんたか、久々に見たな」

「……お前、仕事じゃねぇのか」

私は以前、仕事から帰ってくる時の成瀬を窓から見かけたことがある。その時の成瀬とは表情というか、纏っている雰囲気みたいなものが全く違うものになっている気がして、気になってつい質問を投げかけてしまった。

「盆休みってやつだ」

「それだけか?」

「質問の意味がよくわからん」

「いや……いつかお前を見かけたときはもっと、死ぬ直前って感じだったからな……」

「あぁ、そういうことか。今の仕事、辞めることにしたからな。それで多少気が晴れた」

「……へぇ」とだけ返して、あとは何も言わなかった。会話がしたかったわけではなく、ただ気になったことを知りたかっただけだから。

お互い何も言わずになんとなく向日葵を眺めていると、後方から呼び声が聞こえた。

「あー! 成瀬先輩こんなところにいた!」

後ろを振り向く。声の主は月見里だ。

「えっ、東雲先輩⁉ なんか久々に会った気がします!」

「その先輩って呼ぶのやめろ……」

元々月見里のノリは得意ではなかったが、以前よりも明るさに拍車がかかっているような気がする。彼女にも成瀬のような人生の転換期が訪れたのだろうか。以前までより明るさに厭らしさのようなものがなくなっていると感じた。勝手な主観だが。

「そういえば聞きましたよっ! 今夜、東雲先輩の部屋で読書会をやるって!」

「そんな大層なもんじゃねぇよ……そもそも私は許可してないぞ」

「私も参加するのでよろしくお願いしますねっ」

「ここの住人は会話のキャッチボールが出来ねぇのか?」

月見里はそう言った私のことは気にも留めず、成瀬の方を向き直っていた。

「成瀬先輩! 日向先輩と私を大きな公園に連れて行く約束はどうなったんですか!」

彼女の言葉を受け成瀬は「やれやれ」と小さくこぼし、困ったような、でもどこか嫌ではなさそうな顔を見せた。

「じゃあ、行くか?」

「わーいっ! 日向先輩を呼んできますね!」

そう言って彼女は走り去っていった。成瀬もこの場から去ろうとしている。

歩き出した成瀬に「大変そうだな」と言った。すると彼は「そうでもねえよ」と返した。

その場に一人取り残された私は、堂々と咲いている向日葵に囲まれながら「眩しいな……」と呟いていた。


久しく浴びていなかった陽の光を存分に堪能した後、自室へと戻った。

そしていつも通り、夜まで小説を読んで過ごした。良い言葉というものは、心の栄養になる。

夏まっ只中の町が暗闇に沈んでいく頃、隣の部屋がまた騒がしくなり始める。何人かで料理を作っているらしい。この声が聞こえてくると読書に集中できなくなるので、終了の合図だ。

少し待ち、部屋の扉が叩かれる。別に入れたくもないが抵抗するほどの気力もない。

「開いてる」と短く言った直後に扉が勢いよく開かれる。

「こんばんはっ、東雲先輩!」と月見里が一番に乗り込んできた。

「本当に来たのか……」

「どういう意味ですかそれ!」

その後すぐに日向と川上も入って来た。微塵も遠慮を感じないのはどういうことだろうか。

「お邪魔します。もうすぐ晩御飯できるみたいですよ」

「日向先輩っ、今日は楽しかったですね!」

日向と月見里は今日成瀬と行ったという公園の感想を言い合っていた。しかし中高生にもなって公園なんかで遊んで楽しいのだろうか。まあ外見はまだまだガキだが。

隣から「出来たから運んで〜」という日葵の声が聞こえてきて、日向達はそれを受け取りに行く。その様子を見てなんとなく「家族みたいだな」と思って、その考えをすぐにかき消した。

いくら家族のようなことをしようが、こいつらは他人でしかない。精神面が弱って私らしくないことを考えてしまった。

私の分の晩御飯を持って戻って来た日向達と目が合って、すぐに逸らした。

「さて、日葵先輩も来たことですし早速読書会を始めましょう!」

「雪乃ちゃん、ご飯食べてからにしようよ」

「はーい」

月見里の楽しそうな様子を見て、川上が渋そうな顔をしていた。

「そんな楽しみにされると見せるのが申し訳なくなってくるな……」

「大丈夫ですよっ! そんなこと言ったら私も文章の良い悪いなんてわからないから、先輩の参考になる感想言えるか不安ですし……」

「むしろそういう読者の純粋な意見は参考になるぞ」

「なら良いんですけどね」

「ほら、みんな冷めないうちに食べちゃってよ」

日葵のその言葉を合図に、私達は一斉に食事を始めた。

食事中も主に月見里と日葵を中心に会話が弾んでいた。日向と川上がたまに口を挿む。

私は基本無視を貫いたが、たまに話題を振られると自然と答えてしまっていた。

これまでもそんなに話したことがないはずなのに、案外普通にこの状況を受け入れ始めている自分が少し怖かった。いや、それを言うならこいつらが凄いのかもしれないが。

みんながほぼ同じタイミングで食べ終わり、月見里が待ちきれないというようにソワソワしていた。それを見て川上が持って来ていた革製の鞄から原稿用紙を取り出した。

「おーっ! それが例の小説ですね、川上先輩!」

「今どきパソコンじゃなく手書きなんですね」

真っ先に反応した月見里と日向に、川上は原稿用紙を手渡していた。

「パソコンはどうもなれなくてな……コピーもやり方わからんから順番に読んでくれ」

「日向先輩、一緒に読みましょっ」

「うん、二人ぐらいなら同時に読めそうだしね」

二人は隣に座り合って川上の小説を読み始めた。反応を見るに、本当に楽しみにしていたのだろう。読み始めると会話もなくなり、真剣に読み込み始めた。

二人のその様子を見て日葵が「ゆ、雪乃ちゃんと日向くんは本当に仲良しだね……」と少し困惑したような様子で零していた。確かに月見里の日向に対する距離の詰め方は完全に露骨だが、まあ私には関係ない。

川上は自分の作品を他人に見せたことが無い、と言っていたのが良くわかるほど気まずそうに日向達を見守っていた。日葵はみんなの空になった食器を片付けている。

私は別に楽しみでもないし読む気もないが、恐らく全員が読み終わるまでこの部屋に居座り続けるつもりだろうから、迅速に読み終わって欲しい。

そんなことを考えながらなんとなく部屋を見渡すと、川上と目が合った。

「なんだよ」

「落ち着かなくてな。特に読書通っぽい日向と東雲の感想は容赦がなさそうで身構えそうだ」

「なら安心しろ、私は読む気はない」

「なぜだ」

「普段から文豪たちの美文、名文を読んで目が肥えてるからな。この感性を穢したくない」

私の言葉に川上が反論しようとする前に、日向が声を上げた。

「その心配はないですよ、東雲さん」

日向の方に視線をやると、どうやら読み終わったようだった。

「日向、どうだった? 忖度など必要ない、正直に頼む」

「これは、大変なことですよ」

「大変と言うと……?」

「とても、美しいです」

日向のその感想を、川上はゆっくりと反芻しているようだった。黙っている川上を見て、月見里も感想を告げる。

「えっと、難しい言葉とかが多くて完璧には理解しきれてない部分もあったんですけど、私も綺麗な文章だと思いました。未完成なのが悔やまれます」

彼女も彼女なりに真剣に感想を伝えていた。

「へぇ〜二人がそんなに褒めるなんて、私も早く読みたい!」と言って、日葵は二人から半ば奪うように原稿を取り上げた。

「東雲さん、一緒に読みます?」

「……いや、私はいい」

「そうですか」と言って彼女も読み始めた。川上は未だに二人の感想を噛み締めているようだ。

「あの〜、川上先輩? 私達なにか変なこと言っちゃいました?」

「……いや、初めて貰った感想にしては上等過ぎてな、味わっていた」

「率直な感想を述べたまでです」

「日向、それは嬉しいんだが、出来れば駄目だった点も聞きたい」

「そうですね……駄目とまでは言わないですけど、『生きるとはなにか』という主題が大きすぎて畳むのに苦労しそうですよね……」

「そこを突かれると痛い」

「この問いかけは、作中で主人公なりの答えは出すんですよね?」

「うむ……出すつもりだが、肝心のそこが全く思い浮かばんのだ」

「『思い浮かばんのだ』って、この作品で最も大事な要素な気がするんですけど……」

「自分で書いておいて何だけれども、生きる意味なんてこれまで生きてきて一度も考えたことがないからな……日向、参考にさせてくれ」

「高校生の人生観を頼りにしないでくださいよ……」

「日向は例外な気もするけどな。なら東雲、参考にさせてくれ」

全く関係がないようにお茶を啜っていたところに無茶振りをされた。月見里が「私にも聞いてくださいよ!」と怒っていたが、誰も反応していなかった。

「……誰がお前の創作に手を貸すかよ、死ね」

「生について聞いて死を提示されるとはな……」

そんなやり取りをしている内に、日葵も読み終わったらしい。

「読み終わったよ」

「どうだった?」

「思ったんだけど、この主人公どことなく東雲さんっぽいかも」

日葵がこちらを見ながらそう言った。

「あっ、私も少し思いました! 主人公、クールで辛辣な美女ですもんねっ」

「美女って……なんだよ急に」

急に月見里がそんなことを言ったので、少し狼狽えてしまった。

「東雲先輩も読んでみてくださいよっ」

「私はいい……読みたくない」

「本当は少し気になってるんじゃないですか?」

そう言ってくる月見里の含み笑いには苛立ちを覚えるが、実際ほんの少しだけ気になり始めているのも事実だった。日向達がここまで手放しに賞賛する程の文章。すっかり本の虫と化し、常に文章に飢えている私が読んだらどう感じるかには興味があった。

「……そんなに言うなら読んでやってもいいが」

「あはは、じゃあ東雲さん、どうぞ」

日葵に原稿を手渡される。枚数はそんなに多くはなく、仮に長編小説のつもりで書いているのだとしたら序章にも満たない程度だと推し量った。

全員が私に注目しており落ち着かなかったが、それを指摘することすら億劫だったので仕方なくそのまま読み始めることにした。普段はネット上ばかりで、紙の小説は新鮮だった。

そして私は、一文目から心を掴まれた。短くも美しく、印象的な言葉選びだった。

私はページをめくる手を止めることが出来ない。良い文章に出会ったときの興奮のようなもの。

内容はこうだった。追っていた夢を諦めざるを得ない状況に追い込まれた主人公の女性が、自身の存在や認証に疑問を抱き始め、『生きるとはなにか』という長い迷路のような自問に迷い込んでいくという、いわゆる純文学作品だ。つまり、私の好みだった。

だが文章は、これからというところで途切れており、途端に現実に引き戻される。

顔を上げると、月見里と日葵の二人は雑談に興じていて、日向と川上の二人は私が読み終えるのを待っていたようだ。川上が感想を聞きたそうにしていたので、面倒ながらも口を開く。

「……未完成の作品に言える感想はねぇぞ」

「なら文章はどうだった?」

「……文章は、まあ、綺麗だと思う」

「東雲に褒められたのは初めてだな」

「いいからさっさと最後まで書き切れ。次はちゃんと完成してから読ませろ」

「ふむ、そう言うなら助力してくれ」

「……助力って、例えばなんだよ」

「この作品の主人公は東雲に重なる部分がある。お前の人生観というか、生きるということへの一つの答えみたいなものを教えて欲しい。この作品に足りないのはそこだけなんだ」

「そんな人類永遠の問いかけに、答えなんてあるのかよ?」

「お前なりの答えで良いんだ。これはあくまでも、このキャラクターの物語なんだから」

「私なりの答え……か」

川上に手を貸すと言うことは考えられなかったが、それ以上にこの物語の結末を見届けたいという思いが強まっていた。そして、この作品の主人公を他人だとは思えなくて、彼女を迷路から救い出してあげたかった。それが私にしか出来ないのなら、助力もやむを得ない。

「……その代わり、ちゃんと終わらせろよ、その物語」

私の言葉に川上は驚いているようだった。そしてすぐに薄笑いを浮かべて、「任せろ」と言った。

こうして、私と川上の共同制作の日々が始まった。


助力を約束した日から、川上は私の部屋に来て執筆をするようになった。

時には書いた文章を私に見せて、その反応で良し悪しを判断しているようだった。

日向たちと晩御飯を共にすることも、気づけば当然に感じるようになっており、月見里と日葵のやかましさにもすぐに慣れた。完全に私の部屋が遊び場にされている気がするが、まあいい。

川上が書き、私がそれを読み、主人公に感情移入していく。そして私も私なりの答えを探し続ける。だが生きるということへの答えなどそう簡単に出せるはずもなく、頭を悩ませる日々が続いた。私が答えを提示しなければ、あの作品は終わりを迎えることが出来ない。


そうして悩み続けていたある夜、息抜きをしようと庭先に出て向日葵を鑑賞することにした。

すると、男性の話し声が聞こえてくる。なにかを言い争っているようだった。

「わかったってば……近いうちに一度帰るよ……」

暗闇に目が慣れ始め、その人物が夏目だと言うことがわかる。久しく見ていない気がした。

「わざわざ外でコソコソと、何の電話だよ」

「ん? 東雲か……いや、家族と話してた」と、携帯電話らしきものをポケットにしまった。

「お前は携帯を持っていないって月見里が言っていたが」

「最近買った……というか、持たされた、親に」

「……チッ」

「おいおい、俺いま舌打ちされるようなこと言ったか?」

「お前はつまんねぇことで呑気にヘラヘラ笑ってろよ……辛気くせぇ顔しやがって」

「あぁ、そんな顔してたか、俺」

「……日向と月見里の前で今の顔はすんなよ」

「あぁ、その二人には特に見られたくないな……ってか、今日はやけに親切だな」

「お前が陰気になったら、日輪荘は終わりだろ……」

「どうかな、今は海斗も居るしなぁ……それより姉さん、川上の執筆に一役買ってるらしいな」

「姉さんってなんだよ気持ちわりぃ。成り行きで仕方なく手を貸してるだけだ」

「そりゃいいや、完成したら読ませてくれよ」

「私じゃなく川上に言え」

「それもそうだな」と言って、夏目は自分の部屋に戻り始める。その顔はいつもの夏目だった。

どんなに事情を抱えていようが、それを見せたがらない人間は多い。夏目もそうだ。そんな奴に限って普段他人の心配ばかりしてるってんだから、救えない話だ。

そして私も部屋に戻ることに。また意図せず人と会話してしまった。


その次の日の朝、いつものように川上たちが部屋に来るのを待ち続けていたのだが、お決まりの時間を過ぎても彼らは来なかった。今日は来ないのだろうかと考えているとようやく扉が叩かれる。扉を開けると、川上と月見里が思案顔で立っていた。

「あっ東雲先輩。先輩にお客さんが来てますよ」

「客? 私にか」

「はい、理恵さんって言ってましたけど……」

月見里の言葉に、私の思考は一瞬停止した。理恵という知り合いは一人しか居ない。

「それで、その理恵さんなんですけど……なんか心中穏やかじゃなさそうというか……」

「あぁ……まあ、とりあえず会って来るよ。どこに居る?」

「今は大家さんの部屋で待ってもらってますよ」

その言葉を聞いてすぐ、私は二人にどいてもらって部屋から出る。

その途中、川上に話しかけられた。

「なにかあったら俺達を呼べ」

「はっ……余計な世話だな」

川上にさえそんな心配をされるような顔をしていたのだろうか。だが、実際落ち着いては居られなかった。なぜ彼女が日輪荘まで私を訪ねて来たのか。会ったら何を言われるのか。私は彼女に、どんな感情を抱くのだろうか。

一〇一号室の前まで行くと、扉の横に日葵が立っていた。

「東雲さん……私、ここに居るからね」

そうか、日葵にだけは話したことがある。彼女も理恵の訪問を警戒しているようだった。

日葵に車椅子を押してもらって、一〇一号室に入る。岬がお茶を淹れていた。

「奈月ちゃん、お友達が待ってるよ」

「岬には色々と言いたいことがあるからな、覚悟しとけよ」

「あら、怖い怖い」

全く怖がっていなさそうな岬の含み笑いを横目に見ながら、居間に通ずる引き戸を開いた。

そこには、ちゃぶ台の前に腰を降ろしている理恵が居た。彼女は私に気が付いてハッとする。

「……奈月、ひ、久しぶり」

「あぁ……久しぶりだな」

当然だが気まずい空気の中、岬が私の分のお茶を机に置いてくれる。

「奈月ちゃん、私お買い物に行ってくるから。お二人でごゆっくりどうぞ〜」

そう言って岬は部屋を出ていく。外で日葵が待機してくれているが、少し緊張する。

「あのさ、大会はダメだったよ……今年も勝てなかった」

「聞いたよ。監督は歴代最強のメンバーだって息巻いてたけど、所詮地方大会レベルだったな」

「……奈月が居れば、勝ててたかもね」

理恵が小さく零したそれが、皮肉なのか本音なのかはわからない。ただ、それを言ったときの理恵の表情は、怯えたような、委縮したようなものだった。

「理恵は、試合に出れたのか?」と私は気になっていたことを聞く。

「……出なかったよ。打診されたけど、断った」

「なんでだ? 出ればよかったのに。せっかくのチャンスだったろうに」

「……あはは、出れないよ」

この話は避けた方が良いと思って、私の方から話題を変える。

「最近、小説を読むのにハマってな。おすすめを教えてやる」

「えっ……うん、教えて」

困惑する理恵を半ば置いてけぼり気味に、好きな作品を思い浮かぶだけ口にした。

「奈月、古い作品がすきなんだね。どれも聞いたことあるよ」

「古いのが好きって言うか、著作権が切れてて無料で読めるからな……」

「あはは、奈月らしいや」

ようやく理恵らしい笑みを見せてくれた気がした。

それから私たちはソフトボールとは極力関係ない話題を続けた。どんなドラマが面白いだとか、最近聴いている音楽だとか、他愛もない話を。話している途中で彼女の固い雰囲気も次第に解れていき、最後には以前のような空気で話せるようになっていた。

「あはは……あ、私そろそろ帰らなきゃ……」

そう言って理恵が何故か申し訳なさそうに腰を上げる。帰るのを渋っているようだ。

「そうか、そこまで見送るよ」

「うん……車椅子、押すよ」

理恵が車椅子を押してくれた。部屋を出ると日葵がすぐそこで待ってくれていたが、私と理恵の様子を少し見てその場から離れた。気を使ってくれたのだろう。

その場に誰も居なくなったのを確認して、理恵が歩みを止めた。

「……理恵、どうした?」

理恵は何も言わず、私の後ろでただ立ち竦んでいる。

彼女が何かを言い出せるまで待とうと思った。

青空の下、向日葵に見守られながら座り続けるこの時間は、悪いものでもない。

……どれぐらいの静寂だったろうか。理恵が私の目の前に立った。

「理恵、用事があるんじゃないのか」

「……その前に、言わなきゃいけないことを言わないと、帰れないよ」

理恵は瞼を赤くして、覚悟を決めたようにそう言った。別にいいのに、踏み込まなくても。

「私、とんでもないことをした。奈月の全てを、奪ったんだ」

彼女は所々に息継ぎを挿みつつ、なんとか言葉を捻り出しているのが伝わってくる。

「奈月に嫉妬して、友達だったのに、裏切った、傷つけた……」

次の瞬間、彼女は我慢しきれずに泣き出した。

「取り返しのつかないことをしたんだっ……う、うぅ……!」

そして彼女は、私の目の前で足や手をつき、そして頭も地につけた。土下座というやつだ。

私は何て言えばいいかわからなくて、彼女の言葉を最後まで聞くことにした。

「私がしたことは、傷害罪だよ……っ、いや、殺人未遂かもしれない! とんでもないことして、そこから逃げて、奈月がずっと目指してた最後の大会、奪っちゃったんだ……っ、奈月、私を……訴えても良いよ……一生かけても償えないかもしれないけど、私……っ!」

「理恵、ありがとう」

彼女の言葉を聞いていられなくて、私からそれを遮断した。

「ありがとうって……なにさ」

「お礼を言いたかった。理恵のお陰で知れたことが沢山あるんだ……だから顔上げろ」

理恵は上半身を起こして、困惑したままの顔をこちらに向ける。

「私、実は自分の意思でソフトボール始めたわけじゃないんだ。親の意向でやらされ始めて、他にやりたいこともないからなんとなく続けて来た。勿論ソフトは好きだ。続けたお陰で理恵にも会えた。でも、怪我してから考えるようになった、私という人間の存在を」

私の言葉を、理恵は一語一句聞き逃さないようにしている。

「私、きっと社会人チームに入ってソフトを続けるんだろうなって、そうやって生きていくんだろうなぁって思ってた。でもさ、私ソフト辞めることにした」

「えっ? どうして……?」

「やってみたいことが出来たから」

「……ソフトボールよりも?」

「ああ。この怪我がなかったら、きっと私は『なんとなく』で生き続けていただけだ。それに気が付かせてくれたのは理恵だから。人って、痛みから学べることもあるんだな……」

「でも、私がしたことは……」

「いいんだよ面倒くせぇな。足なんか動かなくても、人は前に進めるんだよ」

「奈月……私のこと、軽蔑しないの……?」

「大会より親友の方が大事だ」

私の言葉を聞いて、理恵はまた泣き出してしまう。彼女が泣き止むまで、頭を撫でた。

泣き止んだ理恵と、今度一緒に出掛ける約束をした。車椅子で人目のつくところに行くのは、まだ抵抗があるけれど、理恵が押してくれるならきっと平気だ。

去っていく彼女を見送って、背中が見えなくなるまでそこから動かなかった。

「話は付いたのか」と話しかけられる。気付けば川上が横に立っていた。

「聞いてたのか? 悪趣味だな」

「いや、お前の友達の声が大きすぎる。部屋に居ても聞こえて来たぞ」

「まあスポーツ女子だからな……そんなことより、小説を書けよ」

「後はラストシーンだけだ。お前が生きる事への答えを出してくれるの待ちだ」

川上の言葉を受けて、私はずっと考えていたことを整理する。そして、それを言葉にする。

「きっと、生きるって、『許す』ことなんだ……」

「許す……さっきみたいに謝ってくる人をか?」

「それだけじゃない、この世界のあらゆることを」

「規模が大きすぎてよく分からんな」

「……これじゃあ、ラストシーン書けないか?」

「いや、良い作品になりそうだ」と言って、川上は笑った。

「……なあ、お前はどうして小説を書くんだ?」

「人生の辛い時期を、物語に支えてもらったからな。俺も同じように誰かを支えることが出来るような物語を紡いでみたいと思った。だが、この作品が最初で最後かもしれんな」

「それは困る」

「というと?」

「……小説の書き方を教えろ」


生きるとは、前へと進むことだと、信じて来た。

この両脚で大地を踏み抜いて、目指すべき場所へとまるで導かれるかのように進むのだ。

だが歩き続けていれば、人は必ずどこかで一度は躓き、転ぶことになるだろう。

転べば傷が出来る。それは当然痛くて、傷跡も残るかもしれない。

だがこれから先、私は転ぶたびにこう思うのだろう。

ああ、私は今『ここ』に居るんだなぁと。

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