イスラメイ

増田朋美

イスラメイ

暖かくて、もう春という言葉がふさわしい日だった。のんびりした日が続いて、これからだんだん暑くなって行くんだなと思われたその日。

いつも通り杉ちゃんが水穂さんに山菜そばを食べさせようとしていたところ。急に製鉄所の玄関が開いて、

「こんにちは、桂です。右城先生いらっしゃいますか。あの、急ですみませんが、レッスンしてあげてほしい人が居るものですから、連れてきました。先生、体調がよかったら見てあげてください。」

と、やってきたのは、桂浩二くんだった。

「ああ、いいよ、入れ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「よ、よろしくおねがいします。」

といいながら入って来たのは、浩二くんと、若い男性であった。

「右城先生、こんにちは。今日は暖かくて良い日ですね。あの、彼の演奏をみていただきたくて、連れてきました。きっと、右城先生のような、超絶技巧ができる人でないと、彼の演奏は理解できないでしょうから。ぜひ、彼の演奏を聞いてあげてください。」

浩二くんのように、定期的に誰かを連れて来てくれることは、実は水穂さんのためにもいいことだった。ずっと布団で寝ているよりも、こうして誰かの演奏を聞いたほうが、よほど体力が温存できると思われる。水穂さんは、よろよろと布団の上に起きた。

「じゃあ上村双葉さん、ピアノに座って、弾いて見てください。」

上村さんと呼ばれた若い男性は、はい、と小さな声で言ってピアノの前に座った。なんだか、とても怖がっているようで、自信をなくしているようだ。 

「そんな怖がる必要はありませんよ。ただ、演奏をよりよくするために、右城先生に見てもらうんですよ。」

「そうそう。それでいいの。事実は事実だけだ。怖いなんて思わなくてもいいんだ。お前さんの、演奏を聞かせてくれ。一体、何を演奏してくれるのか、たのしみだなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、彼は、 

「はい、バラキレフのイスラメイですが、まだちゃんと弾けてないので。」

と、恥ずかしそうに言った。

「そうですか。ゴドフスキーが有名になる前は、世界一難しいと言われていた曲ですね。」

水穂さんが、そういうと、 

「そうなんですよ。だから右城先生でないと見てもらえないんですよ。右城先生、上村さんの演奏を聞いてあげてください。」

と、浩二くんが説明した。水穂さんは、 

「わかりました。じゃあ、間違えてもいいですから、弾いて見てください。」

と、彼に言った。上村さんは、わかりましたと言って、ピアノの前に座り、イスラメイという曲を弾き始める。たしかに大変な超絶技巧を持つ曲で、不協和音も数多く、あっているのか間違っているのかよくわからない部分も多い。でも、上村さんは、一生懸命、イスラメイを最後まで弾いた。

「ほおー、すごいじゃないか。なかなか難しいと言われる大曲をよくやった。なかなか、大した腕があるな。もしかしてこれでコンクールにでも出てみたら、絶対受賞は間違いないぜ。」

と、杉ちゃんがでかい声で言って、拍手した。

「他に弾ける曲があれば、何でも弾けるんですかね。」

と、杉ちゃんが話を続けると、

「いえ、今はこの曲しか弾けるものがなくて。他の曲はちょっと弾けないんです。」

と、上村さんは答えた。

「はあ、それも妙だな。イスラメイが弾けるんだったら、何でも弾けると思うんだがな。まあ、たしかに、イスラメイの練習で他の曲がひけなくなるのも、有り得る話か。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「まあ確かにそうですね。なにせ、世界一難しいピアノ曲の異名を取った曲でもあるわけですから。これを練習するのは、大変な量をこなさないとだめだと思いますよ。一日二時間とか、三時間の練習では、追いつかないでしょう。もしかしたら、怪我をするほど練習しなければ行けないかもしれませんよ。そんな難しい曲なので、音楽大学では、あまり採用しないんですが、其のような曲をなぜ、やってみようと思われたんですか?」

と、水穂さんが、彼に聞いた。確かに、有名な大学に所属している音大生でも、この曲を採用する大学は少ない。それは、音大生の八割くらいが、女性であることも関係していると思われる。イスラメイという曲は、女性が弾くには、ちょっと無理だと思われるところもあるからだ。

「特に理由があったわけじゃないんです。ただ、やってみたくて弾いてみただけです。楽譜だってお金を出せば買えるじゃないですか。それで、やってみただけですよ。」

と、上村さんは、答えた。

「そうだけどねえ、この曲は誰でも弾けるっていうわけじゃないんだ。弾くにしては、たいへんな努力と時間が必要で、ショパンとか、シューマンみたいに、誰でも弾きたがるという曲でもない。気軽に楽譜を買って、弾いてみようという曲じゃないんだよ。それなのになんで、こんな曲をひこうと思ったの?よほど訳ありじゃない限り、弾かないよ。」

杉ちゃんがそう言うと、上村さんは、

「いえ、本当に、弾いてみたいと思っただけです。」

と、困ったような顔をして答えた。

「はあ、口は下手だねえ。そう感情的に言うだけでは、人間すぐには納得しないよ。なんで、お前さんがイスラメイという大曲を弾こうと思ったのか。それを、ちゃんと、理由を聞かせてもらわないと、僕達は、納得できませんね。」

と、杉ちゃんは、彼にそういった。杉ちゃんが言うのは、本当に気軽な気持ちで聞いているだけなのだが、上村さんは、困ってしまった顔をし続けている。まるで、文章を組み立てるのが、本当に、苦手なようである。

「杉ちゃん、彼を混乱させてしまうようなことは言わないでください。彼は、自分の感情を口にするのがとても苦手なんです。いわゆる、心の病気と言えるかもしれない。」

浩二くんがそうかばったが、杉ちゃんは、カラカラと笑って、

「そうか。それでは、余計に話してもらわなきゃならないな。誰も、養護する人はいないぜ。この世には。障害があったとしても、何でも、できるようにならなきゃいけないんだ。しかも、他人にはできるだけ迷惑を掛けることなくな。」

というのだった。

「杉ちゃん、そうかも知れないけど、そこまで言ったら可哀想です。そういうことが苦手なら、無理して言わなくても結構ですよ。でもとにかく、あなたのイスラメイは、上品に弾けていて、良い演奏だと思いました。あとは、そうですね、伸ばす音は伸ばすこと、強弱はしっかりつけてください。確かに、世界一難しい曲の異名を取った事もある曲ですので、練習するのはいいけれど、怪我に気をつけて。無理しないで、練習してくださいね。」

水穂さんが優しい顔でいった。杉ちゃんは、水穂さんにまた甘やかして、といいかけたが、浩二くんが、杉ちゃんやめてくださいと言った。

「そうか。まあ、そういうことなら、そういうことにしておくか。まあ、いずれにしても、これでぜひ、コンクールにでも出てもらいたいものだな。そうすれば、優勝間違いない。せめて、何時間くらい練習してるのか、聞かせてもらいたいなあ。受験生並みに弾いてるんだろう?それだけの曲が弾けるとなると。」

「杉ちゃん、もういい加減にやめてくださいよ。それ以上彼を問い詰めると、彼が可哀相じゃないですか。そうやって、彼に質問すると、彼の障害が明らかになってしまいます。確かに、一生懸命練習しているんだそうですが、ほんの三時間程度だそうです。」

浩二くんは杉ちゃんにそういうことを言った。せめて、そういうことは、ばらしてもらいたくないと思っていたのだろう。

「そうですか。まあ三時間であの曲弾いちまうんだったら、間違いなく天才だ。それに、発達障害が加わるとなれば、サヴァン症候群みたいなものだねえ。」

「杉ちゃん、そういうことは大っぴらに見せてはいけませんよ。ごめんなさい、杉ちゃんという人は、何でも思ったことを、口にしてしまうんですよ。ときには、傷つくことだって、平気で言っちゃうから、困ったものですね。ですが、悪い人ではありませんから、気にしないでくださいね。」

そういう杉ちゃんに、浩二くんは一生懸命、上村双葉くんのことを養護したが、

「大丈夫ですよ。そういう障害を持っているから、必ずバカにされるとか、そういうことが起きるとは限りません。少なくとも僕は、あなたの演奏はすごいと思いました。それは、障害独自のものであろうとなかろうと、あなたにとって、立派な財産です。それを忘れないでください。」

と、水穂さんは優しく彼に言った。

それと同時に。

「失礼します。ここに、上村双葉という男が来ているだろう。ちょっと、彼に話したいことがあるんだ。家族に話を聞いたら、ピアノのレッスンでこっちに行った聞いたからこさせてもらった。すぐ出してくれ。話を聞かせてもらう。」

と、玄関先で、華岡がそう言っているのが聞こえてきた。華岡さんだ、と杉ちゃんがでかい声で言うと、

「正しく俺だ。ここに、上村双葉という男が来ていると思うので、すぐ出してくれ。」

と、華岡はドスドスと足音を立てながら、四畳半にやってきた。

「どうしたんだよ。華岡さん。いきなり誰かを調べるんなんて、警察でも、急ぎすぎる事はやめたほうがいいぞ。」

杉ちゃんがそう言うが、

「其の中で、上村双葉というやつを出してくれ。」

と、華岡は強引に言った。

「まあ、上村というのはここにいるけど、、、。」

杉ちゃんが正直に答えると、

「上村双葉さんだね。あの、君の親友で、樫村まゆ子という女性がいるね。その彼女が、今日殺人の疑いで自首してきた。樫村まゆ子の話だと、被害者が死亡したとき、上村双葉というやつのところを訪れて、彼が、なんとかのなんとかという曲を弾いていたのを、聞いていたというのだが、それは、本当だろうか。ちょっと教えてもらえないかな。」

と、華岡は早口に言った。

「またあ、そうやって人をバカにするんだな。僕達はテレビも無いし、新聞も取ってないから、そんな事件がおきたことは何も知らないよ。ちゃんと事件の概要を話してもらわないと。」

と、杉ちゃんが言うと、

「わかったわかった。もうとっくに報道で知られていると思ったが、そういうことなら、言わなきゃいけないな。実はねえ、樫村まゆ子の、母親である樫村和代という女性の遺体が、樫村家の自宅で見つかったんだ。死因は、毒物によるものだった。遺書はないので、自殺か他殺か、俺たちは、迷っている。そうしたら、今日、樫村和代の娘である、樫村まゆ子が自首してきた。でも、彼女の供述も、はっきりしないんだ。特に、和代に毒物を与えて、その後どうしたか、がはっきりしないので、俺たちは、困っている。」

と、華岡は、頭をかじっていった。

「はあ、そうか、そんな事件があったのね。それで、その樫村まゆ子という悪女が、こいつをたぶらかしたと、お前さんたちは、睨んでいるのね。」

杉ちゃんは、上村さんを顎で示した。

「上村さん。まずはじめに、樫村まゆ子という女性と、どんな関係なのか、話してもらおう。」

と華岡が聞いた。ここで取り調べはよしてくださいと、水穂さんが言ったが、華岡は、それを無視した。

「ええ、ただ、高校生の時、同級生だったんです。」

上村さんはちゃんと答えた。

「それは、単なる同級生という関係だったのか?もしかして、なにか一線を超えた関係だったのか?」

華岡がもう一回聞くと、

「そんな事ありません。僕達は、大事な友だちでした。」

と、上村さんは答えた。

「大事な友だち。それは、10年前にとっくに高校を卒業しているのに、長続きする関係だったんだね。君の家へ、樫村まゆ子さんが訪問するのを、近所の人が度々目撃しているよ。本当に、高校の時の友達だったんだろうか?」

と、華岡がもう一回言うと、上村さんは、混乱したような、そんな焦点の合わない目で、樫村まゆ子さんは、といいかけた。

「上村さん、調べればわかることだ。どうせすぐに明るみに出てしまうんだ。そうなる前に。」

華岡は、いつもどおり警察らしくそういうのであるが、

「ちょっと待って下さい。彼には、障害があるんです。いきなり単刀直入に聞くのは、やめてください。そういうことも、考慮してあげないと。」

水穂さんがそれを止めた。華岡は、

「そうなのか?何も変わらないように見えるけど、、、。普通の人と。」

と、口ごもった。

「そうですけど、すべての障害が、見えるとは限りません。もし、まゆ子さんという女性と、上村さんが、恋愛関係にあったとして、彼が、事件に関わっているのかどうか、しっかり調べてあるんですか?また、変な言いがかりをつけないでくださいよ。」

浩二くんも、上村さんを養護した。

「いずれにしても、高校を卒業して10年経っても互いの家に行き来しているほどの仲なら、樫村まゆ子のことはなにか知っているはずで、君も共犯だったことは間違いないな。」

華岡は、上村さんを、責めるように言った。

「上村くんも、樫村まゆ子も、進学も就職もできなかったことは、もう彼の家族に聞いて話ができているんだ。」

「それは、どういうことですかね?ふたりとも、受験に失敗したのか?」

杉ちゃんが急いでそう言うと、

「おう、樫村まゆ子は、第一志望であった大学に落ちて、それ以降親から見捨てられている。そして、上村双葉は、ピアノの先生と相性が合わず受験ができなかった事も聞かされている。だから、親と、多かれ少なかれ、諍いがあっただろうし。そういうわけで二人の動機はちゃんとある。」

と、華岡は警察らしく言った。

「そうですか。ですが、其のようなことがあったからと言って、本当に其の事件に関わったと言うんなら、なにか証拠のようなものがあっていいはずです。それをしないで、ただ障害があるからと言って、直ぐに犯人に仕立て上げるのは、まずいのではないでしょうか?」

と、浩二くんは、華岡に対抗したが、

「でも、他に、樫村和代に、怨恨のあるやつは、いないんだよ。」

と、華岡は言った。

「俺たちだって、ちゃんと調べてるさ。彼女の家族関係だって当たっている。樫村まゆ子が、親や他の家族とうまく行かなくて、上村双葉の家に出入りしていたのは、もう抑えてあるんだし。それで、上村双葉が、変な名前の作曲家の作品を弾いて、樫村まゆ子を喜ばせていた事も知ってるんだ。だから、二人が、共謀したということは、十分に考えられる仮説だ。それに、他に、樫村和代を恨むようなやつはいないこともわかっているんだ。」

「華岡さん、申し訳ないですが、上村双葉さんが、殺人を犯すとはどうしても思えません。だって、彼はイスラメイが弾けるんです。あれを弾くには、大変な忍耐力が無いと弾けないはずです。ただ、弾ければいいという曲ではありません。」

水穂さんは、音楽家として、華岡にそういったのであるが、

「いや、それこそ、彼が、発達障害であると思われる点だな。普通の人が、弾けない物を平気で取り組むことが多いからな。」

と、杉ちゃんが口を挟んだ。

すると華岡のスマートフォンがなった。華岡は、急いでそれを出して、二言三言交わして、急いで電話を切った。

「よし、これで事件は無事に解決だ。樫村まゆ子が、犯行を認めたぞ。まゆ子は、あの事件の日、農薬の入ったお茶を、樫村和代に渡して家をでたと供述した。」

「本当に、そうなんでしょうか。まゆ子さんという女性が、デタラメを言っているだけなのでは?だって、上村双葉さんが、本当に関わっていた事も、はっきりしないじゃないですか?」

浩二くんは、そう言って、上村双葉さんのことを、養護しようとした。

「でも、障害者であっても、したことはしたことだ。それはちゃんと、はっきりしてもらわなきゃ。それに、変な名前の作曲家ではなく、バラキレフのイスラメイだとはっきりしてもらいたいな。」

と、杉ちゃんが、容赦なく言った。浩二くんは、杉ちゃん、そうやってなんでも口にすると、それは、傷つけることになると、そう言ったが、

「いや、それは、誰でも、同じことさ。いいことでも悪いことでも、同じことだよ。障害があってもなくてもね。できないやつばかり養護するのは、ある意味で人種差別につながるぜ。」

と、杉ちゃんは何も反応しなかった。

「そうですね。こんなに、僕のこと、助けてくれたのは、生まれてはじめてでした。みんな、僕みたいな人はいらない人みたいな扱いで、まゆ子さん以外の人で、こんなに見てくれたのは初めてです。」

いきなり、意を決した様に、上村双葉くんが一気に喋り始めた。

「確かに、まゆ子さんが、あの事件の日、僕の家に来ました。まゆ子さんはお母さんを殺害したといいました。でもそれは、まゆ子さんが、意図的にそうしたわけでもなくて、やむを得ずそうしたのだって、知ってたから、僕は、まゆ子さんに自首は勧めませんでした。」

「そうなんだね。じゃあ、まゆ子は、君の家に来たんだね。それで君は、樫村和代が死亡した時刻、まゆ子が、うちに来て、一緒にイスラメイの練習をしていたと口裏をあわせた。」

華岡がそう語ると、

「はい。そういうことです。でも、まゆ子さんは、そうするしか無いので。」

と、彼は涙を浮かべながら答えた。

「なんでそうするしか無いのかな?」

杉ちゃんが聞くと、

「だって、まゆ子さんは、そうするしかなかったんです。まゆ子さんは、もう行き場がなかったんです。大学を落ちて、家族みんなに捨てられて。もうここからいらないって言われたときのこと、皆さん分かりますか。わかるはずないですよね。一度、レールから外れたり、失敗したりすると、あの人はだめな人だって、外してしまうのが、日本の社会ですよ!」

上村さんは、本気で怒りを現している顔をして、そういったのだった。

「わかりました。わかりましたよ。大丈夫、誰にもわかってもらえないってことは、こいつがよく知ってる。」

杉ちゃんが水穂さんの背中をバシッと叩いた。

「こいつだって、出身地がまずかったので、誰にもわかって貰えない悔しい気持ちがあったんだ。それは、いけないことでは無いんだよ。それは、誰でも、言えないんだよ。」

「でも誰にだってあるんだという励ましは、何もこういう人には効かないですよね。」

水穂さんが、小さい声で、そう言うと、上村さんは、静かに頷いた。


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イスラメイ 増田朋美 @masubuchi4996

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