第4話 会議→闇討→天空船製作

 平たいもちもちした麵をすする。口いっぱいに魚介系のスープの優しい味が広がり、思わず笑みを浮かべてしまう。美味い。足が火傷も、三原の説教で耳が痛いのも忘れられそうだった。

「聞いてますか。あなたが身を犠牲にする必要のない場面で、過剰攻撃をした話をしていましたが」

 三原は怒髪天をつく勢いだ。彼は、俺が蛇御用達の病院に運び込まれた直後に、駆け付けた。料理を作ってくれたまでは良かったが、その後、烈火のごとく怒り出したのだ。

「当然でしょう。土御門さんにも頼まれていますからね」

 その場にいない土御門に、俺は恨みの念を送る。彼は教主に報告するために、病院を後にしていた。

 今、目の前にいるのは、怒りながらも自分の分のお代わりをよそう三原と、そんな彼に呆れる医者だけだった。

「病室にお鍋持参は君が初だねぇ」

「先生も食べますか」

「頂くよ」

 そう言いながら受け取る彼は、固そうな手を差し伸べた。火傷だらけの両腕を持つ、目つきの悪い男だった。白衣を着て眼鏡をかけており、眉間には取れない皺がにじんでいる。間延びした、特徴的な話し方をする。

 治療してもらったことは理解している。両足の痛みは軽くなっており、明日には歩けるようになると、彼から診断を受けた。

 それでも、俺は彼、椚翔太に気を許すことはできなかった。

 椚はこちらを見て、やれやれと首を振った。

「僕が着いた頃には、あれは暴れていた。僕は多忙でね。あの村で蛸のリュウを飼いならしていることを、気づかなかったのさぁ」

「その両腕の火傷痕は」

「僕は、炉の整備をする科学者でもあるんだ。職業病みたいなものさ」

 彼は土御門の前で言った言葉を繰り返して、麺をすすり出した。

 俺は、山の民の村で起きたことを思い出す。あそこで、最後に大声を出していた大人は三人。少年へと戻ったのは二人。生き残った最後の一人が彼だった。

 椚はソーキそばのようなものの汁もこぼさず、器用にすすった。

「そんな態度を取っていて良いのか。この港町で言えば、一番の腕を持つはずの僕に」

「炉の管理をする科学者じゃなかったのか」

「それもするし、医者もする。病気がないこの島では、医者一本で食べていくことはできなくてねぇ」

「病気がない?」

 椚は小ばかにした笑みを浮かべている。

「こんなこともわからないのかぁ~? 時期外れなら、元の世界と合わせて何年生きているんだぁ~?」

「うるせえ。ここが異世界だからか」

「そうだぁ。異世界というか、異界だから。港町の様子を見て感づきなぁ~。無駄に長生き、おっと、この島では長生きは禁句かぁ」

「こいつ、殴っていいか」

 三原は穏やかに首を振った。

「だめです。物理学を覚えている時期外れは、今はもう、彼一人だから」

 変な言い方だった。首を傾げる俺に、三原は再度、首を振る。

「彼も時期外れですよ。藤原さんの目的のために、話を聞くべきでは?」

 俺の目的。弟と妹の待つ世界に帰ること以外ない。科学者に参考となる情報があるというのか。

 いぶかし気な俺に、椚は楽しそうだ。

「良いんだよぉ~? 頭を下げてもぉ」

「っ絶対ぇやだ。俺はもう、お前が嫌いだ」

「藤原さん」

 顔を背けた先には、土御門が無表情で仁王立ちしていた。彼の迫力に場が静まり返る。

 こてんと、彼は首を傾げた。

「どうした。話を続けていいぞ」

「いや、もう良いです」

「俺が邪魔したみたいじゃないか。続けろ」

「いや、面倒臭いなお前」

 ショックを受けたような顔の土御門を、椚は指さして笑おうとする。

 三原はそれを止めながら聞く。

「それで、何の御用です」

「ああ、蛇の面々に紹介したいんだが、動けるか聞きに来た」

 俺の視線を受けて、椚は肩をすくめた。

「鎮痛剤漬けで良ければぁ」

「仕事なら仕方ないな」

 俺の言葉に、三原は信じられないという顔をした。そういえば元の世界でも、弟妹と同じ問答をしていた気がする。仕事なら、無理やりでも動くしかないのは、万物共通だと思うのだが。

 弟によく似た表情をなだめるため、三原の頭を撫でてやる。彼は弟と同じように、憤慨と喜びが混じった表情をした。



 土御門の先導に着いていった先は、先言った場所と異なる、教主の別宅であった。

 大広間に集められていたのは、十一人の十代と二十代の男女だった。顔を隠した者も少なくない。俺と土御門を淹れれば、十三人。蛇の全構成員だと、土御門は言った。

「昨日も言ったかと思うが、新入りだ。藤原、挨拶」

「ああ。藤原綱吉です。召喚術が二種類使えます。どうぞよろしく」

 拍手をしたのは、三人だけだった。雰囲気は悪い。ただ、それは俺への敵視が原因ではない。

(過労、先の見えない仕事、悲観主義。前の世界の会社みたいだ)

 蛇の面々は全員、疲れ果てていた。原因は、土御門がすぐに口にした。

「藤原は今朝、初任務で新たな噴火口を発見。大型リュウの撃破に貢献した。皆も助け合って励んでいこう」

「副隊長ぉ。去年の三途渡りの頃から数えて、十個めぇ、もう無理ぃ」

 発言したのは、お面を側頭部にひっかけた小柄な人物だった。少年にも少女にも見える。長い髪をきれいにまとめている、性別不詳の人物だった。武器を持っていないが、背筋の伸びた、美しい座り姿だ。

「よろしくぅ。正直この島では、記憶も年齢もぐちゃぐちゃだから、敬語とか、気にしなくていいよぉ」

「そうか。なら遠慮なく」

 俺からすれば、十代の見た目に敬語を使うのは違和感がある。

 言葉に甘える俺を、土御門が制止しようとする。

「駄目だ。新入りは敬語を使え」

「そんなん気にしているの、クソ真面目な副隊長だけですよ、くそが」

「お前、悪態吐いたか?」

「いいえ。忙しいから早く寝たくて、本音が漏れただけです」

「わたしもぉ」

「お前ら……」

 敬語で毒舌なのは、青い目をした白髪の壮年男性だった。腰には鎖で結ばれた草刈り鎌が何本も下げられている。

「俺は歳食ってるが、下っ端戦闘員だ。よろしく」

 他の面々は、黙り込んだままだった。胡坐をかいたまま、眠っている者までいる。彼岸花たちの話を聞くに、激務に疲労の限界にまで達しているのだろう。

 俺は他の言葉を待たず、会釈をして座った。

 先を促す視線に、土御門は渋々と口を開いた。

 戦況はぎりぎりの線を渡っていて、正規の噴火口の他にできた十一個の噴火口、別名「横穴」を、手分けして巡回するだけで、一日は終わるとのことだった。

「いつも言っているが、もう無理だ。警備隊に噴火口の存在を明かして、警備を手伝わせよう」

「噴火口は神聖なものだと教義にある。教えてはならないと、先代の教主様の遺言だ」

「十一個をリュウ倒しながらとかぁ。もうやだぁ」

「そうだ新入り。お前の召喚術は、期待できるか。自動巡回ロボットみたいな」

「俺から離れることはできない」

「望み薄、だな」

 夕方から始まった侃々諤々の議論は、夜の帳が下りても終わらない。俺は前の世界の社内会議を思い出す。

 教義を守ることはもう限界にきているが、踏ん切りのつかない副隊長に、俺は声をかける。

「そういえば、隊長はどこだ。もういっそ、彼に決めてもらうのはどうだ。ここで議論しても仕方なくないか」

 下から睨めつける目に付け加える。

「それとも、隊長は彼女、だったか?」

「ちょいちょい、綱くぅん」

 小柄な蛇隊員が俺に囁きかける。

「隊長は女の人。たいそう美しい人だった。あと、土御門副隊長の地雷」

 土御門は目に見えて不機嫌になっていた。どちらかと言えば、拗ねているような顔は、彼の端正で大人びた顔に似合っていない。

「あの人の話はするな」

「隊長はずいぶん前に、少し狂ってから成仏しちゃったぁ」

「狂った?」

「うん。熱心に火山を調べる人だったんだけどぉ、この島の根本的な謎がわかったんだって。それで、先代の教主様を襲撃したりねぇ」

「どういうことだ」

「それ以上は誰も知らない」

 俺は彼岸花の動かない面をじっと見る。

 教主と火山につながる、乙別離大島の根本的な謎。どれも、夢のなかの祈祷師の調べさせようとしていることだった。

「そんで、隊長が好きだった副隊長は、隊長の成仏が信じられなくて、隊長の席を開けっ放しって訳ぇ」

 乙別離大島の成仏は、行方不明と同じだ。しかも、少年少女に姿を変えていないとの保証は、どこまでいってもない。

 別れのつけられないその法則は、ひどく残酷な異世界に感じてきた。

 暗い気持ちを蓋するように、挙手をする。

「横穴をふさいでしまうのはだめか「駄目だ」」

 言い終える前に、土御門の声が被さった。

「流離山に新たな手を加えるのは教義に反する。言葉を慎め」

 数人の憎悪のこもった目に、口を慎んだ。俺の感覚と彼らの感覚は異なっていた。

 土御門はまだいい。彼はただ、秩序を好んでいるだけだった。

 問題は何人、流離山に対して、自然信仰を抱いて崇拝しているらしいことだった。彼らの痛くなるほどの凝視に、俺は後悔する。

(マナーブックくらい読んでくるべきだったな)



 結局、会議が終わったのは、真夜中のことだった。

「この世界、月がやたら大きいな……」

 答える声はない。全員、明日に備えて別宅に宿泊することを選択した。明日、初任務が忙しかったからと俺だけが休みをもらい、帰路についていた。

 長い、一日だった。家に帰りつくまでは仕事中だ。元の世界では多忙な仕事をしていたため、帰り道でも仕事の構えをすることは、もはや魂に染みついた習慣でもあった。

 右からのこん棒を交わす。同時に、気配を消して左に現れる男の頭を掴む。そのまま、左の男の額を、右の男の前頭葉に叩きつける。二人がよろめいたと同時に、左右のジャブでこめかみを打つ。

 周囲に人気はない。倒れる男たちは、二人で全員だった。俺は息を吐いた。

 弟妹たちを育てるのに苦労したのは、俺が大学生の頃だった。時間もなく、ろくな稼げる仕事もない。その時の経験が異世界で生かせるとは思ってもみなかった頃の話。

 リュウという怪物相手でなければ、十分通じるのは予想通りだった。

 襲撃者たちの懐を漁るも、身分証の一つもない。顔に見覚えはない。さらに、物取りにしては健康そうだ。しかも、この島では、お金も取らない市場もあるし、仕事にも困らない楽園だ。

「こいつらは、いったい、何の目的があったんだ」

「教えてあげようかぁ~? お前も火山をふさぐ案を出したのだろぅ~?」

 不愉快な語尾を伸ばす喋り方に、踵を返しそうになる。しかし、直後に聞こえてきた金属音に、俺は振り返らずにはいられなかった。

 医者が白衣を翻して、薬瓶をばらまいていた。

 男一人が、それを止めようと、ナイフを投げて瓶を破壊している。

「椚、現行犯逮捕だ」

「僕が! 襲われているんだよ! 誘拐されそう! 助けろ!」

 俺が渋々、一歩踏み出そうとしたとき、風向きが変わり、薬の匂いを強く吸ってしまった。その匂いは、元の世界でいう、混ぜるな危険の薬物を全て混ぜたような、酸っぱくて鼻のなかがぬるぬるしていく匂いだった。

「硫化水素とか嘘だろお前、危ないな」

 息を止めて、左手で襲撃者の側頭部を殴る。面の下で揺れる瞳が、俺の顔を捉える。

「面」小柄な蛇隊員がひっかけていたものと同じ面だった。

 顔面に右から大きなフックを当てる。男の守りに入った腕がしなる。左手のジャブを打つふりをして、胸倉を掴んで固定する。右腕を思い切り後ろに振り上げる。

 今度こそ狙い通り、面は砕け、小柄な襲撃者は気絶した。背格好は見るほど、彼岸花に似ていた。

 俺は、砕けた面の欠片に手をかける。

「面、はがさない方がいいよぉ」

 手を止めて、立ち上がる横に、椚は立った。

「それらが、あなたの想像通りの人だったとして、どうする気だぁ?」

「まずは辞職。次は再就職だ」

「社畜根性根付いているなぁ。原因究明は?」

「面倒。触らぬ神に祟りなし」

「この小さい島で、触らずにいられるとでもぉ?」

 大きすぎる月は、夜道を隅々まで照らしている。出来る影は濃い。なぜ月がこんなに大きいのか、見当もつかなかった。

「こいつらは、あなたの火山の発言を聞いて、自動的に襲っただけだぁ。周囲、特に堅物の土御門の目が届いている範囲で襲ってこないさぁ」

「どうかな」

 乙別離大島に慣れていない俺には、行動が予想ができなかった。

「このまま何食わぬ顔で仕事を続けたほうが、あなたの目的に適うのではないかぁ?」

 三原さんに夢の話を聞いたと、椚は言った。

 俺は疲れ切った頭で考える。

(このままだと、いつ来るかわからない襲撃におびえることになるんだよな)

 それにしても、きれいな月だった。

 ぼうっとしていたのは数秒だった。ざざざ、と砂を蹴る音に目を戻せば、なりふり構わない様子で、襲撃者たちが逃げ去って行くところだった。急急如律令を唱えても、追いつけない速度だった。

「疲れた」

 俺はすべてを後回しにして、帰って寝ることにした。長すぎる、一日だった。

「おかえりなさい。遅かったですね。ああ、椚先生は山村が燃えて、家がなくなったから、しばらく、私たちと一緒に暮らすことになりましたよ」

「じゃ、そういうことで。しばらくよろしくぅ」

「もう勝手にしてくれ……」

 俺は、家に帰ってすぐに寝てしまう。もう何も考えたくなかった。にやにやと見ている椚の視線が不快なことも、所属する組織への疑問も、もう何もかも、嫌だった。



 夢を見た、ぐっすりと眠ったはずなのに。俺は不快に思いながらも、夢のなかの身を起こす。今日も鉄の匂いが濃い。

 祈祷師は、腰まで血の池に浸かっていた。見る度に、彼は浸水していく。俺は声をかけた。

「初仕事にしてはハードな一日だったぜ」

 物憂げな表情で、祈祷師は黙り込んでいる。口を開いたのは、たっぷりかけてからだった。

「事態は深刻に悪化している」

「増える噴火口のことか? 火山第一で手を加えようという提案に対する襲撃のことか?」

「両方だ」

 濡れた手で、祈祷師は髪をかきむしった。

「俺は教義に『火山に気をつけろ』とは書いたが、敬えとは書いていない」

「その言い草、お前が初代教主みたいだな」

 顔をあげた祈祷師は、サプライズをばらした子どものような顔をしている。

 俺は青筋を立てずにはいられなかった。

「なぜ勿体つけるんだ。端的に答えを言えよ」

「それをしたら、封印が解けないんだよ」

 また、知らない事実が出てきた。ため息を吐く俺に、彼は、だから言いたくなかったと騒いでいる。

「何度も言うけれど、だからなんで、お前の言うことを聞かなきゃいけないんだ」

「弟と妹に会いたいのだろう」

 そうだった。これがある限り、俺はこの怪しげな謎解きに付き合わなければいけない。

 俺はざぶざぶと血の池に入っていく。

「拷問して、聞きだしても良いんだぜ」

「何をいまさら。地獄以上の拷問があるかよ」

 目の前でこぶしを振りかぶる祈祷師は、ただ、それを見つめるだけだった。



 俺のこぶしは、寝ていた布団をしたたかに叩き、日の出前の俺の目を覚ました。ぼーっと白む空を見る。水を飲んで二度寝しよう。そう思っているうちに、眠りに落ちていく。

 二度寝の夢は祈祷師は出てこなかった。俺が電車に乗っている夢だった。ひどく懐かしく思えた。


 ※


 朝の廊下は、南の火山島であっても涼しい。じめっとした風はまだ冷たく、薄手の浴衣を俺はかき寄せる。

 ぐっすり寝たからか、十代の体だからか、真夜中に寝たにも関わらず、元気に腹を鳴らしながら俺は歩く。もう日は高く昇っていた。

 今朝は三原が見当たらない。ゴンも首輪と散歩紐もない。散歩の時間なのだろうか。

 俺はうろうろと家を探して歩く。ふと、台所を覗き込んで、げっと声が漏れた。

 台所では、ごそごそと食べ物を漁る成人男性がいた。

「まったく、僕は科学以外に脳がないと、この島の人はわかるんだ」

「椚。俺、蛇所属で逮捕権があるんだぜ。現行犯か」

 台所に機械兵のいびつな影が差す。椚は振り返りもせず、両手をあげた。

「居候のお出ましかぁ。昨日の夜から、お前を待っていたんだから、感謝してほしいんだが」

「泥棒にする感謝はないね」

 台所の水洗い場には、下ごしらえとして、水の張った桶に数種類の野菜があく抜きに漬けられている。今日の汁物も具沢山だ。

「そんなことをしてて良いのか、藤原綱吉ぃ。時期外れには時間がないのに」

「時間がない、とはなんだ」

 ちらちらと射す日差しの熱量の上がっていく感覚がする。日が昇り出す様子は、異世界においても同じらしい。

 椚の眼鏡に日が反射し、うっとおしく感じた。

「時期外れの記憶は永遠ではない。本人の一番大事な思い以外、次第に忘れていくしぃ、三途渡りに参加したら忘れさせられる」

 聞いたことのない話だった。教義の冊子にも載っていない内容だった。椚は静かに言う。

「自分は科学以外を忘れつつある。それに、港に住んでいた時期外れが、三途渡りの参加を境に、前世を忘れる瞬間を何度も見たぁ。だから、僕は山村に住んでいる」

 頭がぐわんぐわん揺れた。天国のような島に、長居をする気はいまだになかった。けれど、悠長に金を稼ぎ、教主の出島許可を得るのを待つことはできなくなった。

 出島許可を得るためには、三途渡りの参加は必須だと、教主は言った。

「結局、この島から誰も出す気はないんだよ、あの教主はぁ」

 忌々しそうな彼の言葉に裏付けるように、俺の記憶のほつれを見つけてしまう。

「弟と妹の志望校が思い出せない」

 最愛の彼らの人生に大事なキーワードが、思い出せなくなっていた。

 自分もそうだったと、椚は憐れむ表情をした。

「日記に書くことをおすすめする。少しは抗えるから」

 椚の顔は苦悩するようで、病室で人を嬉々として馬鹿にしていた顔とは思えなかった。ぱっと顔をあげた彼の顔は、元の馬鹿にする顔に戻ってはいたが。

「まあ、うじうじしているつもりはないがぁ~!」

「なぜ」

「天上には、何でも望みが叶う天国がある! そこから帰るんだぁ!」

「どう信じろと」

 信じない俺に、椚は意外だと言いたげな顔をした。

「異世界転生だなんて、不可思議な現象を信じるのに、この話は信じないのかぁ?」

 異世界転生は、元から知っている知識だった。乙別離大島に天使が来るのは、ほとんど初対面の科学者から聞いた言葉だ。信頼の下地が違う。

 俺は、元から、俺と家族しか信じていない。

 睨む俺を、椚は説得をする。

「三途渡りで、天台漁団という天使を名乗る集団が来るのは知っているな」

「それは知っている」

「彼らは、本当に天使なんだよ」

 天使は三途渡りで島の人間の記憶を奪うために来るのだと、彼は言った。

「僕も、天国からやってきた人間だと聞いたら、驚くか」

 異世界に来てから、驚くことばかりだった。

「天国に僕と一緒に行って、弟と妹と会う方法を探さないか」

「なぜ俺を手伝おうとする」

「山村の彼らを救ってくれたからだよぉ」

 科学者はぽつりぽつりと語り始めた。

 十七世紀のヨーロッパで大学の教授をしていたこと。燃素という、物質の燃焼原理を調べていたこと。

 気づいたら、何不自由ない天国のような場所に現れた椚は、そこで出会った人々と研究を続け、元素という概念を知った。

 科学者として、元の世界に帰ってこの概念を広める義務があると、椚は思った。

 そこで、帰るために画策していた途中で思惑の行き違いがあり、刑罰としてこの島に落ちたのだという。

「行き違い。それに、落ちた?」

「帰る方法を急ぎすぎて、マッドサイエンティストと思われて。そして文字通り、自由落下ぁ」

 時期外れですらない出現方法に、島の住民は嫌悪を向けたのだという。

「塩の貯蔵倉庫に落下したのも悪かった。資産をつぶしたも同然だったからぁ」

 しかも天国から来たことを自称する、得体の知れぬ人物に、三原のような人物は現れなかった。

「教主に紹介なんてとても、とても。何日山をさまよったかわからない。あの山村に家を作れたのは幸運だったねぇ」

 椚の日常は一変した。山村の記憶ない人々の生活を救うために、科学を使う日々。研究していた頃には得られなかった充足感。

 技術の好評で、塩造りの炉の管理の仕事を得た後も、椚は山村を出ることはなかった。

「僕は山村の人々が、焦っているのは知っていた。あの村には自衛手段がないからねぇ」

 増える噴火口、横穴は、山村に影響を与えていた。

 リュウに殺され、無間地獄に陥る場面が増えてきた。村を率いていた村長が記憶を失った日、皆が決意を固めた表情を見せた。

「今にして思えば、村長も時期外れだったのだと思う」

 椚には迷惑をかけられないと、村民はついぞ、蛸のリュウを飼う計画を、椚には教えてなかった。

「そして、昨日が来た」

 俺と土御門が山村を見つけ、蛸のリュウを討伐して村民を救った。

 土御門たちは俺の言葉がなければ、山村に利のある行動をしなかったのだと、椚は言う。蛇がするのは、教主に有益な行動だけなのだと。

 俺の脳裏に、昨晩の襲撃者が浮かぶ。彼らは教主の別宅で見た、武器と服装をしていた。

「僕が救えなかった彼らに何かをしてくれたのは、お前だけだぁ」

 そう言うと彼は、深々と頭を下げた。立ったままのお辞儀ではない。膝をついての土下座だった。

「ありがとう」

「だから俺に天国への切符を渡したいと?」

 椚は姿勢を戻して、頷いた。今まで気がつかなかったが、彼の目元は赤く、腫れぼったい。ハイテンションな科学者は、家の中ではただの、義理堅くちっぽけな男に見えた。


 俺の前には二つの道がある。


 一つは夢に出る祈祷師の言葉通り、乙別離大島の謎を解き、帰る方法を教えてもらう方法。

 これは乙別離大島の言い伝えにも残る、由緒正しい方法だ。ただ、根拠が夢の中で、どこまで進んでいるのか、答えがあるかわからない。

「この島の根本的な問題、椚は心当たりはあるか」

「挙げればきりがない」

 科学者は即答した。活発な火山活動、排他的な社会、宗教の自由がなく、島民が出られない等など。

 祈祷師から帰還方法を聞き出すには、彼の言う根本的な問題を見つけたうえで、解決しなければいけない。

「無理では?」

 椚の言うことも最もだった。

 もう一つの道は、目の前の男が提示した。

「天国に渡る、空飛ぶ船を一緒に作らないかぁ!」

 何でも願いが叶う天上に行こうと、彼は言った。祈祷師と同じく、得体の知れない言葉なのは間違いない。

 しかし、船づくりは既に佳境だと言う。

「あとはジェットエンジンの作成と取り付けだけだぁ。お前の召喚術なら、安全に取り付けることも、実験を代行することもできる。開発期間を大きく短縮できるぅ」

 行動している実感は得られそうな申し出だった。

 俺は逡巡してから、口を開こうとした。

「騙されるな。兄さ、いや、藤原さん」

 背後から大声をあげた三原の顔は、逆光で見えない。

 ゴンがうなりをあげている。

 いつの間にか彼らは、俺と椚の話を聞いていたらしい。

「教義にさえ反しなければ、蛇は味方で、乙別離大島は楽園です」

 だからやめろ、と三原は言う。

「空を飛ぶことも、教主の許しなく島を出ることも教義で禁止されています」

 教義に規定がある。つまり、想定されていた? 思ったよりも椚の言うことは夢物語ではないかもしれない。俺はがぜん興味がわいてきた。

「どうしても帰りたい。手段を選んでいられない」

「どうして、そんなに頑張るんですか」

「俺が兄だからだ」

 そう言うと、三原は嗚咽を漏らした。

 俺にはどうして彼が泣くのか、さっぱり理解が出来ない。

「おい椚、俺はお前に協力するぜ」

 ゴンが吠えるのを止めながら言った言葉に、椚は目を輝かせた。

「蛇を脱退し、山で作業を行うということですねぇ?」

「いや。蛇で働き続けて謎の解明を目指すし、港のそばの三原の家に住み続ける。俺はこれから、祈祷師と科学者の両方に二股をかける」

「なぜ」

「リスクヘッジだ」

 どちらを実現させたとしても、俺に損はない。どちらがダメだったとしても、帰還方法の解明には近づける。

 椚は呆れたようだった。

「自分に都合が良いですねぇ」

「椚には悪いが、なりふり構っていられない。ダメならこの話はなしだ」

「いいですよぉ。そう来なくっちゃ」

 ゴンが居間を駆け、暴れまわる。まるで今の俺の言葉に抗議しているかのようだった。

 畳がささくれ立っていくのに、三原は止めない。顔を覗き込めば、彼は何かをこらえる表情をしていた。その顔は、ふてくされる弟の表情によく似ている。貧乏なのはわかるが医学部に行きたい、と告白したときの顔だ。

「言いたいことがあるなら言えよ」

 猛然とした勢いで、三原は首を振った。それ以降、数分間、誰もしゃべらなかった。

 俺は手を叩いて、台所に立つ。

「飯にするか。三原、この下ごしらえから見るに、豚汁を作ろうとしていたんだよな」

 答えはない。ゴンと椚は格闘しながら、庭へ出て行った。食事ができるまでかまってやると言った椚の言葉を、ゴンは否定するように鳴いていた。

 三原はぽつりと言った。

「こんなことなら、椚なんて泊めなければよかった」

 恨みが込められた言葉は、三原らしくない嫌悪感を感じさせる。

 しかし、それを言わせたのは俺の決断のせいだった。

 答えることも出来ず、俺はざるにあく抜きをしていた野菜をあけた。

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