【KAC 88歳】渡されたもの

風瑠璃

祖母からのバトン

平均寿命の話をしよう。

男性で約81歳。女性で約87歳。正確に言えば小数点までつく数字になるが、おおよそはこの数字だ。

多くの人が亡くなるけれど、全体で見ればこのくらい生きているとも言える。

少子高齢化と嘆かれる現代において、この数字がいいのか悪いのか。数字だけで断言できるものではない。


戦国時代が50年まで生きればいい方であることを考えればかなり凄いことだ。

医療の進歩があり、平和であるからこそ長く生きられる人が増えているのだろう。


何が言いたいか?

簡単だ。俺の身内に平均を超えた人がいるということだ。

この間、88歳。米寿の誕生日を迎えた祖母。


激流とも言えるほどに荒れくれた時代を乗り越え、自分のやりたいことに時間を使えるようになり、それでもまだ足りないと平均よりも長生きする。この国の平均寿命を延ばしているハイパーな人の一人。

祖母たちが作った時代が土台となって今がある。それは普段目に見えるものではない。自然とそこにあり、自由に使うことができる。

時代は、勝手に作られるものではないのだ。



「あと何回。この道を歩けるか」


病院へと向かう道。俺は空を見上げながらポツリと呟いた。

88歳を超え、入退院を繰り返す祖母。体は痩せ細り、色々なところに管が通され、心臓の鼓動だけが生きていることを示す。

そんな祖母のお見舞い。忙しい両親に代わって、暇な俺が行くことに不満はない。

ただ、いつも近くにいた人が遠くで動けなくなっていることに胸が痛む。


あんなに元気だったのに。


思い出せば思い出すほどに心は悲鳴を上げる。まだ居なくなった訳でもないのに、こんな状態なのかと自分に叱咤する。

辛いのは、苦しいのは祖母のほうなのだ。笑顔を見せなければ心配をかける。


「まっ起きてる方が珍しいんだけどな」


お見舞いと言っても祖母は基本的に寝ている。目を覚ましても、俺のことなんて眼中にはない。虚空を眺めているだけだ。

話しかけても反応はなく。時折話すのも寝ていた時のことばかり。

俺の役割は花の水を変えたり、洗濯物の回収をしたりする程度だ。顔を見せても喜んではくれないことに絶望したのは最初だけ。

今となってはただの作業でしかない。


この道を引き返せばーーこの苦しみから解放されるような気もする。


88年。長生きしたほうだと言える。上には上がいるのは分かってるけど、もう充分に苦労をしただろう。


機械に繋がれて延命するだけなら、いっそ······


「ダメだな」


アハハと笑みを浮かべておく。

乾いた笑みは言葉ばかりで表情に変化を感じない。

この国では許されることではない。もうダメだからと諦めることは許されない。

最後の一雫まで振り絞り、空へと還っていく。

今の祖母にはロスタイムのような時間を与えられているようなものだ。発達した医療がなければ、こんなに命が長らえなかったろうから。



「来たよ〜」


努めて明るく声を出す。

病院特有の消毒臭は苦手だ。命の終わりを迎える場所であることを身に刻み込んでくる。

ここで元気になる人もいるから偏見であることは分かっている。だけど、お迎えを前にしている祖母を見ていると、この臭いが連れて行ってしまうのではないかとも思ってしまうのだ。


目を閉じてピクリともしない祖母。反応がないのはいつも通りだ。パパッと終わらせて帰ろう。長居しても迷惑になる。


「じゃあ、帰るから」


一通りのことを済ませ、祖母に再び向き直る。

穏やかな寝顔。このまま目覚めないのではと思わせる姿だけど、多くの音がまだ生きていることを示していた。

痩せ細った腕が布団から出ている。それを見ているだけでポロリと涙が零れた。

思い出が流れ出てくる。


この手で撫でられたことを、叱られたことを、引かれて帰ったことを、


思い出す事柄を飲み込むように涙を拭う。


「明日も来るね」


まだ、会うことができるのだ。感傷に浸るのは早い。


「しーくん?」

「ばぁ、ちゃん?」


背中を向けたが、聞きなれた呼び方に思わず振り返った。

いつも虚空を見つめる瞳が、俺の方に向けられている。


「ああ。今日も来てくれたんだね。ありがとう」

「ばぁちゃん。俺は、俺はーー」


堪えていたものがポロポロとこぼれ落ちていく。

聞きたかった声に感情が止められない。手を握りしめ、許しを請うように膝をついた。


「いいんだよ。いいんだ。あたしは、来てくれるだけで嬉しいよ」

「でも、俺は」


何も力になれない。苦しんでいるのが分かっているのに。


「いいんだよ。これがあたしの運命さ。しーくん」

「なに?」

「バトンは、ちゃんと受け取ったかい?」

「バ、トン?」

「そう。あたしから、ちゃんと受け取ったかい。あたしは、ちゃんと渡せたかい?」


何の話をしているのか分からない。

真剣な眼差しの祖母は、ふっと柔和な笑みを浮かべると瞳を閉じた。

まるで満足したかのような姿。体に力が入る。壊れ物のように優しく握っていた手をベッドへと戻す。


また、寝てしまったようだ。


明日も来るよ。心の中で呟いて外へと出る。



最後に話してから、どれくらい経ったか。

火葬場。空へと向かう煙を見つめながら、息を吐いた。


バトン。


祖母から受け取ったものは多い。記憶として頭に焼き付いている。

だけど、その中のどれを言ったことなのか検討もついていない。


俺はちゃんと受け取っているのだろうか?

受け取ったならば、次へと渡せるのだろうか?


「まだ、分からないよな」


でも、受け取っていると信じたい。そして、次へと渡せると願いたい。

このバトンが、途切れぬことがないように。祈るばかりだ。

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【KAC 88歳】渡されたもの 風瑠璃 @kazaruri

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