18(エイティーン)

YUKIII

第1話(完結)

18(エイティーン)



◆Before◆


 スモーク色の壁面ガラスの向こうから聞こえてくる、豪勢なシャワー音。ギターの弦のようにピンと張り詰められた空間で、さっきからダブルベッド相手に右往左往している私。白い長袖ブラウス。短めのプリーツスカート。片方がズレ落ちたルーズソックス。瞳でスイングする重厚なマスカラ。何でこんなことになったのだろう。先週誕生日を迎えたばかりのどこにでもいる18歳が、ベッド脇のミラーにほの暗く映る自分に混乱している。テーブルの上のコンドームが、ARE YOU READY?と露悪的に微笑みかけてくる。

 少なくともあと20分後には制服のネクタイが解かれるのかと思うと、不安と嫌悪感でさっき食べた生クリームが逆流してきそうだ。すぐにでも逃亡したいのに、こんな時に限って足はむやみに硬直している。

 海遊館でジンベイザメを見てはしゃいで、プリクラのペンギンフレームの中で肩を寄せ合い笑って、シースルーキャビンのてっぺんで浪速の街を背景にロマンチックにキスされて、北欧風の洒落たカフェでマンゴーパフェを仲睦まじく分け合って、カラオケでブルーハーツのリンダリンダをリクエストして、そこまでは良かった。順調だった。高校生らしい純粋なデートをお互い楽しめていたはずだ。  

 なのに。急に口数少なくよそよそしく裏道を歩き出して、リサーチしていたかのようにラブホの門なんてくぐるもんだから。全くもって予想外。人に見られて恥ずかしくない下着どころか、心の準備さえできていない。

 土管みたいなピアスを鼻から下げた三流大学生とつき合っているクラスメイトは、先月初体験を済ませたとフレンチネイルの指先でCancamの誌面を流暢にめくりながら休み時間自慢していたけれど、羨ましいどころかそんなのまだ自分には無関係だと余裕で聞き流していた。なのに。突如自分の身におとずれたこの上ないアクシデント。激しい動揺が、刻々と平常心を砕いていく。 

 イヤ。イヤ。イヤ。無理。無理。無理。この期に及んで往生際が悪いのはルール違反? 有名私立男子校の制服を纏った聡明で優しい彼氏とそういう関係になるのを今更拒むのはマナー違反? けど。つき合ってまだひと月。合コンで知り合ったその日の夜にメールで告白されて、決定的に好きではないけれど決定的に嫌いではないから半ばノリでつき合ったようなもの。デートも今日でまだ3度目。勉強ばっかしてる真面目な男子高校生のはずが、意外や意外。雄的な積極性を持ち合わせていたとは! 病気で苦しんでる人を救いたいから将来は医者になりたい。2回目のデートのカフェテリア、真剣な眼差しが尊かったから一瞬ありかな?って感じたのは事実だけど。一目瞭然。今この瞬間この直感が全面拒否してるってことは、この人じゃない。このタイミングでもない。イヤ、イヤ、イヤ! 無理、無理、無理! 絶対にありえん! そもそもブルーハーツをもっと上手に歌いあげる人と初体験をしたい。逃げるなら今だ! 不安と焦燥で悪あがきする私はもはや、バスルームの中の善良なゾンビに怯えるパニック映画の主人公だ。

 気づけば、通学バッグの中の携帯を掴んでいた。ワンコールで繋がった画面からは、3つの甲高い声が波のように一斉に押し寄せてくる。

「あんた何してるん!?」

「真っ昼間から制服でラブホとかオモロ~!」

「イヤやったら逃げてきーや!」

 四六時中一緒にいる悪友たちの声を聞き、嘘のように緊張がほどけた。咄嗟に電話を切り、テレビ台の上のメモ帳に謝罪文を書きなぐり、重い扉を開けて全速力で階段を駆け下り、初夏の太陽が待つ外界へと飛び出した。世界の終わりのように思えた卑猥なシャワー音を置き去りに。

 ラブホの正面玄関では、手持無沙汰の親友たちが待ち構えていた。両方のルーズソックスがズレ落ちた不格好な私は、3人の名を呼びながら勢いよく制服に飛びつく。話を聞くと、中間試験最終日の今日、カラオケの誘いを断った私を怪しく思い、校門を出た直後からずっとストーキングしていたそうだ。相変わらずの奇行だが、そこはかとなく愛を感じる。だって、さっきまでのピンチはなかったかのように、今この指はこんなにも安心して制服の歪んだネクタイを直せているのだから。何だか不甲斐ない。重いマスカラが涙で溶けていくのが自分でも分かった。で、観覧車の中でキスしたんやろ? 正直に白状しろや。ドS3人衆にうっさいわ、と毒づく私は今更ながら居心地の良さに感謝する。

 浪速の夕暮れ空。駅を目指して歩きながらひとりが言った。クリームソーダーみたいな空やな。それを聞いた残りの3人はおいしそう~、とケタケタと笑いながら空を仰ぐ。きっと私たちはどこにでもいる18歳。幼くて気まぐれで純真で好奇心に満ちたポップな感情の泡が、今日もシュワシュワと心を弾ませる。少しの苦さと刺激を携えて。今からどこ行く? アメ村? 天王寺? なんば? 恋愛よりも初体験よりも、今はまだこのふざけた友情物語にどっぷりつかっている方が百倍おもしろい。




◆After◆

 

 初体験の相手はシド・ヴィシャス。

 彼との出会いは、高校最後の夏休みだった。深夜バスに飛び乗ってディズニーランドやお台場を4人で満喫した弾丸卒業旅行。その最終日にノリで入った渋谷の美容室。ファッション誌に度々登場するその店でシャンプーとブローを担当してくれたブルーのモヒカンの若者が彼だった。音楽の話で意気投合した私は、お会計の際ちゃっかり連絡先を交換しちょくちょく他愛のないメールを交わす仲になり、正月明けには「つき合おうよ。」と電話で告白された。その頃クラメイトの誰より早く大学の推薦入試の合格通知を手に入れていたこともあり、返事は即OK。気分はもう夢見る大学生。大阪東京間の550キロの距離が、余計にロマンチックを加速させた。

 待ち望んだ高校最後の春休み。卒業式を終え、高校生でも大学生でもない18歳の私は今、高円寺という街の狭小ワンルームの中にいる。若者の恋と夢を夜な夜な運ぶ深夜バスは、ジェットコースターのようにスリリングに行きたい場所へと連れて行ってくれた。

 「帰って来るまでレコード聞いたり映画見たりして待っててね。」

 早朝、玄関扉の前で頬にキスされた私は、ご主人様の言う通りにした。煙草臭いソファーにもたれ「シド アンド ナンシー」を見ながら思う。今頃お客さんのシャンプーしてるんかな。桃の香りを纏った器用な指先がシャンプー台の上の無防備な私の頭皮をかき乱している時、その高鳴るドキドキが後々心を潤してくれる栄養剤になるなんて、その時は想像すらできていなかった。埃を被った数百枚のレコード。年季の入った革ジャン。履きつぶしたマーチンのブーツ。パンクロック愛に満ちたこの部屋が、チェルシーホテルの豪華な一室みたいに思えてくるから恋って不思議だ。私も今夜、シドとナンシーみたいな破壊的な愛を育むのか。

 さすがに今回ばかりは親友たちもストーカーを断念した。だけど案の定、卒業式と私の東京一人旅が近づくにつれ、口々に好き勝手言った。確かに見た目はシド・ヴィシャスみたいでカッコいいけどさあ。高校中退して夜間の美容専門通いながら美容師目指してるってどうなん!? そんな男に処女あげてもいいん!? 来月から大学生活始まるのに大阪と東京の遠恋なんて続くわけないやん! そもそもそいつのこと何も知らんやん。ヤラれるだけヤラれて捨てられるんがオチやわ! 昼休みの度総攻撃を受ける羽目になってしまった私は、それでもやはり恋へと進んだ。トキメキながらも酔いしれながらも手探りながらも東京行の深夜バスに飛び乗った理由は明解。心が行けと言ったから。

 やがて、主が帰宅した。時計の針は21時を回っていたけれど、限られた時間を惜しみなく味わうように私たちは夢中で寄り添った。ピストルズの勝手にしやがれ!!を聞きながら一緒に宅配ピザにかじりついて、ザ・スミスのザ・クイーン・イズ・デッドを聞きながら狭苦しいユニットバスで髪の毛を赤く染めてもらって、クラッシュのサンディニスタ!を聞きながら生まれて初めての煙草と濃いアルコールでハイになって。バズコックスのオール・セットを聞く頃には、窓から侵入してくる春の夜風を背筋に受けながらキャミソールの紐が解かれていた。

 途切れを知らないキスに心を奪われながら、今、華奢な腕の中にいる。嗅ぎ慣れない柑橘系ソープの匂いにトキメキと不安が拡散されていくのは、ピート・シェリーの甘い歌声のせいだろうか。黄土色のマーチンを片手で器用に脱ぎ捨てた彼は、デニムスカートの先のラバーソウルを剥ぎ取り、巧みな力加減でソファーに私を押し倒した。「恥ずかしいから電気消して。」浪速からやって来た女子の健気なお願いが耳に入らないくらい、彼は既に目の前の身体に集中している。首筋から胸元、太ももの裏から足のつま先まで。指のはらを巧みに操って隅々まで冒険する熱い手は、あの夏のシャンプーを想起させる。甘く溶けていく心はまるで生クリームみたいだ。

 下着が床に転がるまでの時間はあっという間だった。BGMは鳴り止み、2人の熱い吐息とソファーが軋む音が響くだけ。全裸の私は真上に覆い被さっている扇情的な目つきに一瞬怯む。シーリングライトより力強く輝いている愚直な眼差しがARE YOU READY?と一目散に迫り寄る。手を伸ばせば届きそうな欲望の渦。早く早く!と急かされるような刹那のロマンチックに息を飲む。覚悟は充分にあるけれど、初めてのことに挑む時はやはり勇気がいる。ごわごわした感触のすらりと伸びる指先が奥深いところを行ったり来たりしていて、何だかもう怖気づいてくる。

 「もしかして初めて?」

 汗ばんだ裸の上半身をタトゥーの入った両腕で支えながら、いささか驚いた表情を浮かべている彼が問いかけた。溢れ出る涙を指で拭いながら私はこくりと頷く。

「言ってくれたら良かったのに。なるべく痛くないように優しくするからね。」

 そっか。この人は初めてじゃないんか。微かに削り取られたロマンチックの欠片がチクリと胸を刺したけれど、春の柔らかな夜風に身を捧げるように紳士的な彼を信じることにした。予防注射もピアスの穴開けも胃カメラも。子供の頃から痛いもの全般は本当に苦手やから可能な限り優しくお願いします。懇願する子供じみた顔を見て「可愛いね。大丈夫だから力抜いて。」と余裕綽々の彼。対照的に、緊張で全身こわばっている私。どこかちぐはぐな恋人同士に与えられた真夜中のミッションは、もはや完遂するしかない。

 間髪を入れず、熱くて固いものが侵入して来る。手探りするように、初めはゆっくり穏やかに。深呼吸するように、徐々に丁寧に奥深く。何かを壊すように、最後は力任せに行ったり来たり。両足を広げて歯を食い縛りながら華奢な背中にしがみついている私の顔は、きっと痛さで歪んでいるだろう。ああ。パンクロックの神様。本当の恋は痛みで始まるのか。パチっと何かが千切れ飛ぶような衝撃が走り、過熱した2つの身体はようやく結ばれた。

 ソファーの布地に滲んだ鮮血は恋の証。安堵のため息を漏らした彼は、私の身体を精一杯労わるように優しく抱え起こした。使命感と汗でへたったブルーのモヒカンが天井の光を浴びて勝者のように煌めいている。気恥ずかしく俯く私に月光のような微笑みを贈った彼は、白濁液の入ったコンドームを片手で俊敏にねじり閉じてゴミ箱に投げ捨てる。手馴れた動作にまたロマンチックが微かに削り取られたけれど、それでも私は十分に幸せだった。

 「世界で一番愛しているよ。」

 シド・ヴィシャス顔負けの粋なセリフが部屋に舞う。恋した若者の嘘のないパッションが確かに伝わってきた清い時間だった。何だかすごく晴れ晴れしい気分だ。

 だけど。運命はいつだって急。終わりが来るから人はそれを運命だと飾り立てる。親友たちの予言通り、大学に入ってすぐ私は別の男性に恋をした。東京の彼とは電話であっけなく円満グッバイ。涙さえも潔かった。

 恋に恋をする。夢に夢を見る。それが特権だった18歳の自分に触れる度、愛おしくてあったかい気持ちになるのはなぜだろう。




 





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