今は亡き妻へ

朱ねこ

素直に生きること

 妻を亡くして、もう十年が経った。

 妻よりも長く生き延びている私は、今日八十八歳になった。


 右腕には針が刺さり、ホースを通して袋の中の薬が血液に乗って体内に行き渡る。

 私一人で体を動かすことはできない。


 飾り気のないベッドの中で私は妻のことを思い出す。死を待つだけの何もできない時間で私は家族のことを、妻のことを考えるしかなかった。


 その退屈な時間は私に後悔の念を抱かせるのだった。


 私が二十四歳の時、家の都合により七歳下の妻と結婚させられた。


 当時の私には想い人がいた。あんなにも好いたのは彼女が初めてだと思っていた。

 しかし、彼女にも婚約者がいた。私は彼女に好意を告げることはせず、駆け落ちに誘うこともしなかった。

 努力家で明るい彼女を困らせたくなかった。


 年下の妻はいつも怯えるように顔色を窺い、文句を言わない大人しい女だった。

 飯はお世辞にもうまいとは言えず、へたくそで一切れがでかく食べにくい。掃除を始めてはバケツをひっくり返したり、物干し竿にうまくかけられず洗濯物を地面に落としたり、不器用で注意不足で放っておけない女だった。


 天国でも何かやらかしているに違いない。


 妻との間には子供が三人も生まれた。長女、長男、次男の順だ。

 自分の子供とは可愛らしいものだった。私は私の父と同様に子供に厳しく教育した。


 そのせいか長男は反抗的でぐれてしまい大変だった。そんな長男は二児のお父さんだ。

 長女はふくよかで優しい旦那と結婚し、教師になるという夢を叶えた。目元が妻によく似ていて、思いやりのある子だ。

 次男は末っ子だからと兄と姉に甘やかされ、自分にも甘く他人にも甘い子に育った。今もフリーターで独身だ。私も人のことは言えないが、老後が心配になる。


 妻は子供たちの成長をよく見守り、時に助言を与え、時に褒めていた。

 私に冷たく当たられていたにもかかわらず、私がほしいと思ったタイミングでお茶を入れてきたり、書斎に毛布を持ってきたりと私にまで気遣いを欠かさなかった。


 私は妻の謙った態度が嫌いだった。


 ある日、私は妻に聞いた。なぜ、そこまで献身的になれるのか。妻は「私にはこれくらいしかできませんから」と答えた。


 当時の常識では、妻は外で働かず家を任されることが普通だった。家事は不得意で間抜けだが、十分に妻としてやっている。私にはそう見えていた。

 妻にとっての妻の役目とは何か聞けばよかったのかもしれない。

 価値観の違いなのか、妻のことが、妻の意思が理解できなかった。


 妻が倒れたときは肝が冷えた。病院に行けば間に合うのかと思いきや妻はすぐに逝ってしまった。妻は体調不良を隠していたようだ。

 妻の最期に立ち合い、まさか私が涙を流してしまうとは思わなかった。


 妻がいなくなり、子供たちが出て行った一戸建ての家には寒い風が吹いているように感じた。

 もう二度と日常を取り戻せない。音のない家の中で激しい喪失感に襲われたことは忘れられない。


 私は最期まで素直に生きることはできなかった。いや、妻の最期だけは違ったか。

 生きている間に言えなかったことが心残りだ。

 今はもう亡き妻に伝えたい。


『愛している。ありがとう』


 目を閉じると、温かいものに瞼が包まれた。

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