6

 


『リンジーあなた、もしかしてオリバーに恋してるの?』



 ――オリバーに、恋してるの?



 ――私が、公爵に、恋をしている。



 言葉を理解すると同時に、脳内がいくつもの疑問符で一杯になった。まさかそんな、いつから、なぜ――?


 混乱して返答できないでいると、背後から誰かが近づいてくる足音がした。振り返ろうとした瞬間、腰のあたりにその誰かの腕が回されて、思わず叫びそうになった。少し強引に私を引き寄せたのは公爵だった。


「オリバー!」

 コンスタンス様が目を丸くして声を上げた。

「そういうことだ。悪いが、俺も彼女しか見えなくてね」

 私の動揺を意に介さず、公爵はコンスタンス様に蕩けるような笑みを向けた。


 彼女は好奇心を隠しもせずに私たちの顔を見比べた。嘘に気付いただろうか。私は内心、何を言われるかと冷や汗をかいた。


「ごめんなさいね、リンジー。忘れてちょうだい。あなたが嫌でなければ、またお話ししましょう」

「そういう誘いは俺を通してくれ」

 私が何か言うより先に、公爵が固い声で遮るように言った。


「あらあら、嫉妬深い男は嫌われるわよ。それじゃ、お幸せに」

 そう言うとコンスタンス様は、修羅場を感じさせない優雅な微笑みを浮かべた。その美しさにやっぱり私は見惚れてしまうのだった。


 彼女にろくに返事もせずに、公爵はそのまま私の腰を抱くようにして歩き始める。こんなに近くに身を寄せるのは、演奏会の帰りの馬車以来だった。


 あの時は別に気にしていなかったのに、公爵への感情を自覚したら色んなことが気になってしまった。今日はずっと外にいたし、化粧が汗で崩れているかもしれない。


 汗と言えば体臭は大丈夫だろうか。こんなことなら、やっぱりさっさと許可をもらって香水を買いに行くんだった。対する公爵は落ち着いてるようだった。私たちを見て周囲が冷やかしてきても、笑顔で受け流している。


 胸が高鳴って緊張して堪らないのに、ずっとこうしていたいような、矛盾した思いが私の中でせめぎあっていた。人目がないところまで行くと、公爵はぱっと身を離した。

「すまない、誤魔化そうと思って……」

「いえ、助かりました」


 謝罪は彼がいぬ間に私が絡まれたことへなのか、体に触れたことへなんだろうか。多分両方だろう。


「コニ、コンスタンスとは何を話していたんだ?」

 普段はコニーって呼んでいるのか。そんなことに気をとられながら、私は何と答えていいか分からないまま、曖昧に口を動かした。


「えぇと、その……大したことは別に……」

 言い訳を考えていると、公爵の顔色が青ざめていった。


「どうした? まさか、何かひどいことを言われたのか!?」

 そう言うと公爵は、銃弾がかすめていない方の私の二の腕をつかんで問い詰めてくる。下手な誤魔化しは通じそうにない。


 打ち明けるべきか迷っていると、招待客がこちらへ歩いてくるのが見えた。公爵と辺境伯夫人の不適切なご関係は、間違いなく醜聞だ。人前で話せる内容ではない。


 咄嗟に公爵の腕をとって、くいくいと引っ張るようにしてさらに奥の方へと歩みを進めた。素直についてくる公爵を意外に思いながら歩いていると、庭の隅に東屋を見つけたので、向かい合わせに腰掛けた。


 周りに人がいないこと念入りに確かめてから、私は声を潜めて切り出した。


「その……コンスタンス様がおっしゃることには、公爵が最近くれなくなった、と」

『遊んで』というところをほんの少し強調して言うと、公爵は一瞬呆けた後、かっと顔を赤らめた。


 人間、自分よりも慌てている人を見ると、かえって冷静になるらしい。青くなったり赤くなったりする公爵を見て、私は徐々に落ち着きを取り戻した。


 彼女から二人に関係があったことを告白され、それを再開する許可を求められたと淡々と伝えると、彼は顔を覆って首を垂れてしまった。


 綺麗に整えられたダークブロンドの髪をぼんやりと見つめながら、公爵の心情を慮った。今彼が感じているのは羞恥か、後悔か。


(私に知られたくなかった? それとも――彼女は遊びと言ってたけど、あなたは本気だった?)


 そう問いかけたらどんな答えが返ってくるだろう。想像すると、胸の辺りがずきずきと痛んだ。


 自分の恋心を自覚すると、色んなことが腑に落ちた。側にいるだけで舞い上がったり、笑顔が見られただけで嬉しかったり……。もやもやの正体は醜い嫉妬だ。


 そこまで考えて、私は愕然とした。もしこれが両思いだったら、きっとその想いはもっと強くなるはずだ。


 私の理解を超えた関係だけど、その関係が割り切ったものでなかったとしたら、彼女との別れは辛いに違いない。


 公爵のつむじを見つめながら、私は自分の心とは裏腹に、関係を続けてもいいと切り出そうかと考え始めていた。それは決して、彼と彼が想う誰かのためだけではなかった。


(公爵にとって居心地のいい環境をつくっていれば、ずっと側に置いてくれるかも、なんて)

 あれだけ結婚が重荷だったのに、今はこのまま婚姻を成立させたかった。


 そんな関係、みじめだと分かっていても、せめて配偶者の座におさまりたかった。それがどんなに卑怯なことか分かっていても。


「その、立ち入ったことですが、もし関係を望まれているなら続けても――」

「やめろ!」

 続けても構わない、そう言おうとすると、公爵が弾かれたように顔を上げて大声を出した。


 私の発言は逆鱗に触れたらしい。怒りを孕んだ低い声に恐怖が蘇った。好きという気持ちと恐怖は両立するようだ。


 公爵は、しまったというような顔をして、声を落とした。

「すまない、その、彼女とは互いに割り切った関係で……」

「そ、そうですか」


 突然のことで、公爵も動転したのか口から出るのはずいぶんと明け透けな言葉で、気まずさに思わず今度は私が俯いた。


 割り切っていても互いに好意がなきゃ始まらないんじゃないだろうか。少なくともコンスタンス様の方は、好意があるから関係を続けたいのだろう。


 それに引き換え、彼の言葉を借りれば、私たちの婚約は『不本意』で『望んだわけじゃない』もので……白い結婚を通せるくらいには、なんの感情もないのだ。


 むしろ公爵には嫌悪感すら持たれているかもしれない。そう考えると、思わずため息が漏れた。


「とにかく私は婚約者が、妻がいるのに他の女性と関係を持つような……不実なことはしない」

 噛みしめるように言った彼の言葉は、夏の空に空虚に響いた。


 辺境伯夫妻が結婚なさったのは、確かだいぶ以前のことだ。向こうの事情は公爵の言う不実には当たらないのだろうか。私は曖昧に頷きながらも、そんなことを考えていた。


 園遊会からの帰り道、馬車に揺られながら、会話をする気にもなれなかった私は、ただ移り行く景色を眺めた。


 私は恋愛に夢を見すぎていたらしい。両親も姉も、メアリも、誰かを愛し、愛されるって素敵なことだと思ったが、現実には色んな愛の形があるようだ。


 それに、私が抱いているのはきれいな感情だけじゃない。相手の感情を無視した、自分勝手で卑怯な感情だ。公爵の過去も、自分の情動も知りたくはなかった。


 この日を境に、私たちの間には気まずい緊張感が漂うようになった。会話が減って婚約が決まってすぐの時のように視線も合わせなくなっていった。


 私は殊更訓練に打ち込むようになった。動物を操る訓練には疲労感が伴うので、余計なことを考えないで済むのがありがたかった。


 護身術の方も一通りのことを教わってからは、木製だが剣の使い方を教えてもらうようになった。


 そんなある日、少し困ったような顔をした公爵が、私宛の郵便物を手渡してきた。


「君宛てに、ドノヴァン夫人からだ」

「私に?」

 コンスタンス様が、私になんの届け物だろう。思い当たることがなくて小首を傾げた。


「あぁ。中身は確かめさせてもらったが、問題はなかった。受け取りたくないのであれば――」

「あ、いえ、受け取ります」


 公爵が引っ込めるような仕草を見せたので、私は慌てて手を出して受け取った。衝撃的な告白を受けた後でも、なぜだか彼女のことは嫌いになれなかった。


「わ、かわいい」

 包みを開けた私は、思わず小さく歓声を上げた。中には簡単なお詫びの言葉を綴ったカードと、洒落たガラスの小瓶が入っていた。


 瓶の中には香水が入っていた。蓋を外すと、ほんのりと苦みのある柑橘系の甘い香りがふわりと漂った。つけ慣れない私でも使いやすそうな優しい香りだ。彼女への思いは複雑なものがあったが、贈り物に込められた気持ちは純粋に嬉しかった。



 再び小鳥を扱うようになったある日、事態は大きく前進した。いつものように思ったところに誘導し、温室からも出して庭をぐるりと飛ばせていた時、なんとなく余裕がある気がして目を閉じた。


 空を舞う鳥に、意識を集中させると、ぶつっと何かが切り替わるような感覚に陥った。


 気がつくと眼下には緑が萌ゆる庭園が広がっていた。自分と公爵の姿も見下ろせた。耳元でひゅんひゅんと風を切る音もする。


 飛んでいるのだと、なぜだか分かった。小鳥の感覚のまま、何周か旋回していると、次第に視界が途切れがちになった。


 そのすぐ後、平衡感覚がおかしくなるような感じがして、ぶつりと感覚が切断された。目を開けると再び地上にいて、ふらついた私は倒れ込むようにして椅子に腰掛けた。


 ぐったりと肩で呼吸する私に、公爵が心配そうに水を差し出す。

「大丈夫か? 日に当たりすぎたんだろうか」


 だるいのは先ほど能力を使ったせいだと思ったが、確かに喉はからからに乾いていた。差し出される水を飲み下して、言葉を選びながら彼に説明した。


「ありがとうございます。……今、多分鳥の感覚が伝わってきたみたいで」

「それは……前侯爵ができていたような?」

 公爵にも祖父の話は伝わっているらしい。うまく説明の言葉が思い浮かんでいなかったので話が早くてありがたかった。


 その後は少しずつ試行錯誤し、二人で私ができることについて整理した。


 試してみた結果、対象の動物に動作の指示をした後に、感覚の共有が可能になることが分かった。体は動かせないというか、例えば翼を動かす感覚はなかった。


 どこかに移動させて、視界や聴覚を共有することはできても、その状態のまま、新しく動作の指示を出すことはできないようだ。接続が終わったあとには動作の指示も解除されるようだった。


 今後の練習次第でさらに出来ることは増えるのかもしれないが、体力の消耗も激しいようで、久々に反動が強く出た。


 私が十分に落ち着いてから、公爵が興奮した様子でつぶやいた。

「すごいな、リンジー。……陛下に伝えなくては」


 嬉しそうに言う公爵の、黒曜石のような瞳がきらりと輝いていた。心がかき乱されて、私は疲れたふりをしてそっと目を逸らした。

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