太陽に手を伸ばす教皇
1
夏の盛りを迎えた昼下がりの王都には、強い日差しが降り注いでいた。独立記念式典まで一週間をきり、いつにもましてにぎやかな中心地から少し離れた裏通りで、帽子を目深にかぶった恰幅のいい男が、周囲に気を配りながらさびれた空き家にそそくさと入っていく。
階段を上がった男は廊下の端の扉を開けて室内に入ると、ようやく帽子を脱いだ。赤みがかった金髪を手でかき上げて空気を通すようにしながら、彼は部屋を見渡し、部屋全体に積もった埃とこもった空気に顔を歪めた。
男は手近なところにあった椅子を引き寄せて、座面の汚れを払ってから浅く腰を下ろした。少しすると廊下からきしむような足音がして、老人と若い男が部屋へやってきた。
額に玉のような汗を浮かべた人のよさそうな老人は、でっぷりとした腹を抱えるようにしてよたよたと歩みを進めている。好々爺の世話を焼く若い男は、対照的に細身で汗一つかいていなかった。黒い長髪を束ね、襟元まで詰めた神官の衣服に身を包んだ男にはどこか禁欲的な雰囲気が漂っていた。
「ナイジェル殿下、約束通りお一人のようですな」
若い男から受け取ったハンカチで額の汗を拭いながら老人がにこやかに先客へ話しかける。
皇弟ナイジェルは神官を一瞥して、不機嫌そうに答えた。
「デシリスク殿。接触は避けるように言ったはずだが。それにその恰好……頂けませんな」
「なぁに。まさか教皇がほっつき歩いているとは思われますまい」
そう言うと、教皇デシリスクは神官が汚れをぬぐった椅子にどっかりと腰を下ろした。木製の椅子が急に掛かった負荷に耐え切れず、悲鳴のような音を上げた。
「それに、この近くには孤児院がありましてな。万が一ばれても言い訳が立つ。……それにしても埃っぽいな、レイ」
その言葉を聞くが早いが、黙って横に控えていた神官がさっと部屋の隅へ行って窓を開けた。
何かをひっかくような甲高い不快な音とともに、勢いよく窓が開いて、新鮮な空気が部屋に吹き込み、空いたままの扉へと抜けていく。空気中をゆっくりと舞う細かな埃の粒が、日の光を受けてきらきらときらめいた。
どこからともなく舞い降りてきた白い鳥が、窓枠に止まった。追い払おうとした神官に、教皇が放っておけと声を掛ける。
涼しい風を受け、息を整えた教皇が皇弟へ向いて咎めるように話し出した。
「それより……私が国へ入るころには始末を終えているはずでは? 失敗とはどういうことですかな」
なじるような口ぶりの教皇に、落ち着き払った様子で皇弟が答えた。
「なに、まだ機会はある。それに狩猟でのことでは思わぬ収穫があった」
「収穫?」
「三男の能力の持ち主が分かったのだよ。我々は思い違いをしていたようだ」
合点がいかない様子の教皇の横で、それまで気配を消していた神官が口を開いた。
「現場にいたのはガーフィールド家の婚約者になった、侯爵家の例の末娘。能力を受け継いだのは彼女でしたか」
若者の言葉に鷹揚に頷いた皇弟が続ける。
「まさか娘に、しかも末っ子に引き継がれてるとはな……。婚約はダールトンへの圧力だと思っていたが、本人の身柄を確保したのだろう」
理解のいったらしい教皇が素っ頓狂な声を上げた。
「なんと! しかし、それでは国王側に勘付かれたのでは……共倒れはごめんですぞ!」
「なに、ただ動物を思い通りにするだけの力。動物のいない場で狙えばいいだけのことだ」
なおも食い下がろうとする老人を手で制止して、皇弟は立ち上がって室内を大股で歩きだした。
「計画はその神官に話した通り。式典の日に決行だ」
手振りを交えて話す男の言葉に徐々に熱が込められていく。
「式典後の移動の瞬間を狙う。すでに御者は手配してある。適当な理由をつけて大聖堂へ向かわせて――そこで殺す」
決定的な言葉が埃っぽい部屋に響いた。青い瞳に射抜かれた教皇がひるんだ様子を見せる。
「人が出入りしない地下に連れ込めば、物音がしても気づかれまい。あなたがいれば信頼するでしょう」
主の動揺を感じ取った神官が疑問を投げかけた。
「しかし二人も行方をくらませばすぐに気づかれるでしょう。さすがにすぐに追手が来るのでは?」
「追手が来るより先に殺す。例の毒を飲ませてな」
皇弟は風で舞った髪を払いのけながら、間髪入れずに答えて冷たく笑った。
「教皇の証言があれば、万事問題はない。計画通りに終われば、暗殺の達成と同時に王国に攻め入る理由もできよう」
皇弟に耳を傾けていた教皇はふむ、と少し考え込んだ。横に控える神官にこそこそと耳打ちをして何事かを確かめてから、腕を組んで渋る様子を見せた。
「つまり、こちらも危険を冒さねばならないわけですな。やはり当初とはだいぶ話が変わってくるようだ」
物欲しげに卑しく笑うその顔からは、好々爺の仮面がいつの間にか外れていた。
「分かっている。約束していた国教の義務化に加え、王国の土地の半分を教皇領として差し出そう。帝国の統一に手を貸せ」
思わぬ報酬をちらつかされ、生唾をのんだ教皇は一呼吸おいて穏やかな笑顔を見せた。
「そういうことなら……。長い目で見れば両国民、ひいては信徒のためにもなるでしょう」
粛々と言った教皇は、皇弟のもとへ歩み寄り手を差し出した。新たに結ばれた契約の証に、二人の間で固い握手が交わされた。
「それにしても……殿下は恐ろしいお人だ。自分の甥を手にかけるとは」
おどけた老人が芝居がかった様子で言う。
「正当な継承者が王位につくだけのこと。デシリスク殿には、二人のために祈りを捧げてもらわなくてはな」
開け放たれた窓を背に、肯弟はせせら笑った。強い光を受けて、赤毛がぎらぎらと輝くようだった。
室内の雰囲気を変えたのは窓辺で休んでいた鳥だった。静かに羽を休めていた小鳥が、不意にうるさいくらいにさえずりだす。
「この、忌々しい鳥め!」
皇弟が腕を振り上げると同時に、白い鳥が逃げるように青空へ飛び立っていった。
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