3
茶会から一夜が明けた。窓の鍵はいつの間にか外されていて、開いた窓からひんやりとした空気が部屋に入ってくる。見上げた空にはどんよりとした灰色の雲がかかっていた。
「はぁ……」
朝食を済ませた私は、天気につられるように何度目かのため息をついた。
換気を済ませ、メアリが窓を閉めながらこちらを見てうんざりしたように言った。
「何よリンジー、辛気臭いわね」
「ごめんなさい、つい……」
気分を変えようと、朝食後に用意されたティーポットを手に取って、二人分のお茶を用意する。ソファに腰掛けて、メアリにもお茶を勧めると彼女は少し迷った後で、隣に腰掛けた。
深く腰掛けるようにして座り心地を堪能したメアリが、お茶をすすりながら聞いてくる。
「そんなに公爵との食事が憂鬱?」
「……私そんなに分かりやすいかしら?」
図星だった。今朝、執事のマーティンが朝食を持ってきたメアリと一緒に部屋へ来て、午後は公爵と軽食ををともにするようにと言ってきたのだ。
茶会の前に言っていた例の話し合いの場だろう。公爵の態度は随分軟化したし、このままではいけないと頭では理解していたが、二人きりだと思うと気が重かった。
加えて、昨夜はうっかり帰り道に馬車で呑気に寝てしまうという失態をおかしていた。メアリに揺り起こされた時には彼の姿はなかったが、寝顔を見られたかと思うとなんとも恥ずかしかった。
「それもあるけど、昨日寝てしまったのも気まずくて」
「あぁ、昨日は完全に寝入ってたものね。リンジーったらすっかり――」
追い打ちをかけるようなメアリの言葉に、顔がかっと熱くなり、手で覆うようにしながら辞めてくれと懇願した。
にやりと意地悪く笑ったメアリが、また一口紅茶を口に含んだ。
「それにしてもお茶くらいでそんなんで大丈夫なの? 結婚するんでしょう?」
「そうなんだけど……。元々働くつもりだったわけだし」
ぐちぐちと言い訳めいた言葉を口にすると、彼女はふぅん、と少し考え込んだ。
「見方を変えてみたら?」
「変えるってどういう風に?」
「めそめそ悲しむんじゃなくていいところを探すのよ」
「いいところ……」
考えもしていなかった。確かに嘆いているよりもずっと生産的でいいかもしれない。
今回の結婚のいいところ……お母様が安心する?いや、あの様子だと家族にはただ心配をかけているだけだろうか。紅茶のカップで手を暖めるようにしながら考えているとメアリがじれったそうに口を開いた。
「もう、簡単に浮かぶことじゃない。まず王都の一等地に住めて、朝昼晩の豪華な食事にデザート付き、その上、旦那も男前!」
商売人のように言う彼女がおかしくて、あっけにとられた後に吹き出すと、彼女も笑いながら続けた。
「それに下世話な話、無理やり手を出してくるお方にも見えないし」
なんともあけすけな話に目を白黒させていると、紅茶を飲み終えたらしい彼女がテーブルの上を手早く片付け始めた。
「リンジーはなんというか、令嬢として尽くされてるほうが似合ってるし安心するけどな」
席を立ち、笑顔で付け足したメアリはウィンクを残して部屋を去っていった。
いつもより軽い昼食を済ませ、勉強を進めたところで、とうとう執事に呼び出された。憂鬱な用事ほど、早く訪れるように感じるのは気のせいだろうか。にこやかなマーティンに伴われ、初めて屋敷の庭園に出る。
広々とした広大な庭は手入れが行き届いていて、夏の花が咲いていた。しかし空は相変わらずどんよりとした曇り空で、灰色が濃くなっているような気がした。今にも降り出しそうだが、庭でお茶をするつもりだろうか。
「こちらでございます」
不思議に思っていると、執事が行く庭園の外れにガラス張りでドーム状の建物が見えてきた。
「まぁ、温室があったのね」
「左様でございます。公爵のお母上が丹精なさってたもので……」
説明に耳を傾けながら歩みを進める。温室には南方の珍しい植物があるらしい。
ガラスの戸口を開けたマーティンがふと立ち止まり、中へ入るように促す。
「あなたは同席でないの?」
てっきり彼もいてくれるものだと思っていたので二の足を踏んでしまう。
「リンジー様……大丈夫ですよ、こちらに控えております。坊ちゃんをお願いします」
少し眉根を寄せた執事が安心させるように言って、深々と頭を下げた。それ以上何も言えなくて、私は温室内に足を踏み入れた。
温室内は外よりも温かくて少し湿気も高い気がする。観葉植物で仕切られた通路を行くと、すぐに食事の用意の整ったテーブルが見えた。すでに席についている公爵は新聞に目を通していたようだ。
「ごきげんよう、お待たせしました」
「おはよう、いや、わざわざ出向いてもらってすまない」
立礼して向かいの席に腰掛けた。互いににこやかにしながらも、どこかぎこちない雰囲気がテーブルに漂った。
テーブルにはお茶の用意がすっかり整っていた。カップやソーサー、ティーポットなどの食器は全て統一されていて、真っ白な陶器に深い青の絵付けが入っている。
中央には間隔をあけて皿が三段に重なっている。一番下の皿にはキュウリや鶏肉を挟んだサンドウィッチ、真ん中の段にはスコーン、一番上の段には色付けされたクリームでかわいらしく飾られたカップケーキなど焼き菓子が並んでいる。ケーキスタンドとは別に、スコーンにつけるジャムとクロテッドクリームのたっぷり入った容器が置かれていた。
「それで……昨日はよく眠れたかな」
「えぇ。馬車ではその、申し訳ありませんでした」
自分から蒸し返して恥ずかしさに縮こまった。
「いや、そういうつもりでは……私は君を困らせてばかりだな」
ため息をついた公爵が、自嘲気味に笑ったような気がした。
「それより、食べよう。せっかくのお茶も冷めてしまう」
切り替えるように言った公爵が、お湯の入っているらしい銀のケトルに手を伸ばす。公爵にお茶を淹れさせるわけにはいかないので、慌てて止めてケトルを手に取った。
茶葉を入れたポットにお湯を注ぎ、じっくり蒸らしてから温めておいたカップに注いでいく。何が面白いのか、公爵が一連の動作をじっと見つめてくるので、学校で先生にお茶を淹れているときのような緊張感が走った。明るいオレンジ色の液体がカップを満たしていくと、ふわりと華やかな香りが漂った。柑橘系のフレーバーティーだろうか。
「どうぞ」
公爵のカップに最後の一滴を注ぐと、お礼を述べた公爵がカップを手に取って優雅に傾けた。緊張しながら見ていると、おいしいと呟いた公爵が柔らかく微笑んだ。
安堵しつつ私も紅茶を味わった。さわやかな香りが鼻腔をくすぐる。落ち着いたところで公爵がティースタンドに手を伸ばした。私に気を使わせまいとしているのか、気にせず好きなものをとるように告げられ、その言葉に甘えてサンドイッチから食べ始めた。
「あら、これ……」
サンドイッチのおいしさに気をよくして、甘味にも手を出そうと皿に伸ばした手をふと止める。よくよく見ると、最上段のクッキーやパウンドケーキは侯爵領のある北東部でよく食べられるものだ。スコーンも、茶会で見るようなこじんまりした上品な大きさではなく、素朴でごろっと大きい。
「あぁ、メアリに君の好みを聞いてね」
気に入らなかっただろうか、不安そうに問いかけてくる公爵に慌てて首を振った。
「いえ、うれしいです。久しく食べていなかったので」
お礼を言って、どっしりと重いスコーンを皿にとった。半分に割り、クリームをたっぷり塗ってジャムをのせる。実家でもスコーンはよく軽食に出てきたのだった。私とアーサーお兄様は、クリームをたっぷりのせるのが好きで、特にお兄様は外では遠慮してできないと、こんもりクリームを盛っていたっけ。
こってりとしたクリームとさくさくの生地に舌鼓を打ちながら、そんなことを思い出していると、公爵がやにわに口を開いた。
「君に謝らなければいけないことがある」
一体何のことだろうか。慌てて口の中のスコーンを紅茶で流し込んだ。
「実は君の兄上、カイルのことだが――。いや、応接間の件ではなくて」
もしやまた無茶をしたんだろうか。心配していると公爵がこちらの様子を見て慌てて付け加えた。
「実は、宮殿の舞踏会の夜に君と彼が一緒にいるところを偶然目にしていていたんだ」
「兄と私……」
あのベンチで話していた時のことか。そういえば、あの日は月がきれいに出ていた。誰かに見られていたなんて全く気付かなかった。
「その、それを見て、君が恋人と逢引きをしているんだと勘違いしたんだ」
苦しそうに言い切った公爵の言葉で、私は目を丸くしながらも、初対面以降、豹変した彼の態度にようやく納得がいった。羽目を外していた私たちをみたら、そう思うのも無理はない。私と兄のことを知らない人なら尚更。
「そうだったんですか……」
「君にすぐに聞けばよかったんだが、兄上が訪問に来た時までずっと愚かな思い違いをしていて……」
宮殿で再会して以来、公爵の様子がいやに冷たかった理由がやっと分かった。
「君と兄上には本当に失礼なことをした。申し訳ない」
『許します』、そう言えばきっと公爵は楽になる。嫌な思いはしたけど、結局誤解は解けたし、今さらどうしようもないことだ。そもそも誤解されるような行動がきっかけで……。そう自分に言い聞かせても、なぜかたった一言が出てこなかった。
頭では分かっていても、ふつふつと汚れた感情も湧きあがっていた。公爵は謝罪をしてすっきり終われるかもしれないが、私が悲しいと思った気持ちも一緒に消化しなくてはいけないんだろうか。家族のことなら簡単に調べが付いたはずなのに、せめて聞いてくれればすぐに誤解は解けたはず。
ただ置かれた状況を嘆いていただけの自分を棚に上げて、狭量な考えをする自分が嫌になって、卑怯な私は押し黙った。
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