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予期せぬ婚約者の登場に、屋敷はもちろん、宮殿も上を下への大騒ぎだった。ただでさえ業務が立て込んでいるときに、行く先々で好奇の目にさらされ、詮索や噂話をされるのは甚だ煩わしかった。表面上はそつなく交わしたが、それ以上に頭を痛ませたのはリンジーの扱いについてだった。
宮殿から連行するように連れてきた初日は、今後のことで頭がいっぱいな様子の彼女に素っ気なく接してしまった。以前にリンジーが密会していた金髪の男のことが頭によぎっていた。一晩経ってみれば、かわいそうなことをしているとは思ったが、事が事だけに簡単に自由にさせるわけにもいかず、幽閉状態が続いていた。
意図しない結婚を強要した分、不自由はさせまい。望むものは与えようと決めたが、一向に浮かない彼女の顔が気に障った。
侯爵家を訪ね、彼女の両親の前で手を握られたときは、どくりと胸がうずいた。一緒にいるうちに、上手くいくかもしれない。彼女の両親ほど仲睦まじくはなくても、そこそこの関係が築けるんじゃないか――。そんな愚かな願いは、馬車の中で、この世の終わりかのような顔をしている彼女をみて立ち消えた。
彼女の想いは今もあの金髪の軍人にあるのだろう。それなのに彼女の様子にいちいち左右される自分が滑稽だった。結婚を覆そうとあがく侯爵家への怒りも相まって、感情に任せるまま紙切れを引き裂いて、泣き出した彼女を前に後悔した。
声も出さず、縮こまるようにして涙を流す姿が痛々しくて、見ていられなくて視線をそらした。慰めようかとも思ったが、もう何をしても遅いとため息が漏れた。
公爵夫人に必要な教養を学んでもらうようになってからも、彼女との関係はじわじわと一歩ずつ後退していくようだった。自分を避けるように怯え、視線が合わないことに苛ついて、嫌味や小言が口をついた。反論もせずに傷ついた様子の彼女の姿にせいせいするはずなのに、謝って慰めたいような、矛盾した思いを抱える自分に戸惑った。
不穏な雰囲気のまま迎えたダンスの練習で、オリバーは取り返しのつかない失態をおかした。リンジーの細い肩をつかんで怒鳴りつけたときのことを思い出すと、自業自得ながら胸が痛んだ。見る見るうちに顔色が青ざめた彼女がふらりと意識をなくして倒れこんだときは肝が冷えた。
意識を取り戻し、医師を呼ぶと言った時の彼女のあまりの取り乱しように、公爵はなにかがおかしいとようやく気付いた。子どものように泣きじゃくって懇願する彼女を落ち着ける方法も分からず、ただ執事の言うがままその場を後にした。
冷静になって彼女と距離を置いたことで、公爵はどうやらリンジーが男性を避けようとしていることに思い当たった。護衛が近づいたときはいつもぎこちなく、決して視線を合わない。
唯一、多少は心を開いているらしいマーティンとも、顔つきは穏やかだが不自然にならない程度に、しかし常に一定の距離をあけている。男性が苦手だとすれば、護衛を変えてほしいという申し出も、彼女の母親が知己の自分と踊らせたことも納得できる気がした。
だとするとあの時の金髪の男性との関係は一体どういうことなのか。彼だけは特別なのか。彼女はそもそもどう結婚のことを思っているのか。――話し合うべきことはたくさんあったが、今さらどの面を下げて話しかければいいのか。
ダンスでの一件以来、リンジーは気の毒なほど勉強に打ち込んでいた。その成果は着実に出ていたが、公爵が話しかけようとすると、これまで以上に怯えた様子を見せるようになり、それ以上言葉が続けられなかあった。リンジーをまた泣かせてしまうことを、オリバーは馬鹿みたいに恐れていた。
膠着状態のまま日が経つにつれ、リンジーは人形のように感情をなくしていった。公爵にはもちろん何も望まないし、以前はマーティンの世間話にもぽつりぽつりと返していたのに、それも減っていった。
空き時間には窓から外を眺めているらしい。護衛からの報告を受け、世を儚んでしまうのではないかと不安でたまらなくなって、焦って鍵をつけさせた。あとからそのことを知った執事はもの言いたげな顔をしていた。
カタン、とくとくとく――。物音がして顔を上げると、マーティンが空になったグラスに琥珀色の液体を注いでいた。
白い髭を蓄えたその丸顔が赤らんでいることに気づいて、公爵はゆっくり立ち上がって酒瓶を棚に仕舞い込んだ。よく食べ、よく飲み、よく笑うこの男は、最近増えてきた体重を心配した家族から、節制を促されているのだ。
しまわれる酒瓶を恨めしげに見ていた執事が口を開く。
「お兄様のことを恋人だと勘違いなさったことは、もう詫びたのですか」
「いや……まだだ」
痛いところを突かれて言葉に詰まる。
そう、あの件でようやく公爵は自分が馬鹿げた間違いをしていたことに気付いたのだ。遅い時間に帰宅したあの日、応接間にリンジーが客と会っていると聞いて、話を続ける周囲を振り切るように、応接間に押し入ったのだった。
部屋には予想通り、軍服を着た見目のいい金髪の男がいて、その胸に身を預けるようにした彼女が驚いた様子でこちらを見ていた。その姿にかっと頭に血が上った。やっぱりリンジーと男は繋がっていたのだ。あろうことか、屋敷に連れ込んだのか。
暴言を吐いて、その言葉に怒った男に殴られたことよりも、彼が発した『妹』という言葉の方がオリバーに衝撃を与えていた。周りが騒然となっても、彼の怒りに満ちた言葉が脳内に反響して動けずにいた。
二人は兄妹だった……。欠けていたパズルのピースがぱちりとはまったような気がした。そういえば――、公爵はのろのろと思い返した。こちらを睨みつけていた男の瞳は、彼女と同じ鮮やかな緑で、歪んでいても華やかなその顔つきは侯爵夫人のフランチェスカによく似ていた。
周囲のことにろくに気が回らないでいると、じんじんと熱を持っていた頬にそっと冷たいものがあてられた。ふと気づくと横に心配そうなリンジーが布を当てていることに気付いた。申し訳なさと決まり悪さに、やっとの思いで立ち上がって部屋を後にしたのだった。その後のことはよく覚えていない。
翌日、頬を腫らせたまま仕事に行った。怪我の理由については事前に根回ししていたが、国王陛下だけはどういうわけか、全てお見通しのようだった。
「いやぁ、よく腫れたね。色男が台無しだ」
なにがおかしいのか、けらけらと声をたてて陛下が笑った。
「彼女の身内は怒らせると面倒だよ。彼女、男性にトラウマがあってね」
やっぱりそうか、押し黙っていると陛下はなおも続けた。
「侯爵家は伏せているけど、昔――」
「その先は結構です」
家ぐるみで隠したことなら本人も知られることを望んでいないだろう。勝手に聞くのは不公平だと思った。
焦って止めると、陛下がふぅんと呟いた。
「聞ける日が来る公算があると」
「……善処します」
思えば初めから、自分に向くことのない彼女の笑顔に、勝手に嫉妬していたのかもしれない。そんなことを思っても、どうしようもないほど深い溝が生まれていた。恐怖の対象から寄せられる好意は苦痛でしかないだろう。
国のために働くと決めた以上、結婚は覆してあげることはできない。せめて、これからは彼女を尊重して、できるだけのことはしようとオリバーは人知れず誓ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
茶会の翌日、連日晴れていた空には重い雲がかかっていた。今日は何もない休日。溜まった領地の書類仕事はあるが、午後はあけていた。
「昼食後、お茶の用意してくれ。リンジーにも誘いを」
「かしこまりました。お茶とお菓子は何がいいでしょうねぇ」
朝食中、予定を確認する執事に言いつけると、昨日の深酒などなかったかのように平然としたマーティンがうきうきと言った。
「……メアリにでも聞いてくれ」
彼女は何が好きなのだろうか。婚約者の振りは上手くなっても、何一つ個人的なことは知らなかった。
(前途多難だな……)
公爵は心の中で呟いて、昨日の酒と低気圧で重い頭をなんとかしようと、熱い紅茶を飲み干した。
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