皇帝と王と隠者

1


 日が沈み、オレンジ色の残光が紺碧の空を照らすころ、庭園を後にした馬車は公爵家に向かって走っていた。


 ゆらり、かくん、揺れに合わせるように正面に腰掛けたリンジーの頭が危うげに揺れる。昼間からほぼ立ちっぱなしで疲れたのか、彼女はうたたねをしているようだった。


 起こすべきか、枕代わりにクッションでも渡すべきか。迷っていると、道を曲がった拍子に、華奢な体がぐらりと客車の壁に向かって傾いた。オリバーは咄嗟に、壁と彼女の頭の間に手を差し込んだ。


 そのまま彼の手ごと壁に身を預けて、リンジーはかすかに寝息を立てる。ほっと一息ついて見たその顔は、起きている時よりも少し幼く感じられた。手にかかるわずかな重みに胸がくすぐられるような思いだった。彼女を起こさないように、頭と壁との間にクッションを挟みながら、彼はゆっくりと手を引き抜いた。


 正面に再び腰掛けて彼女を見つめると、膝の上に置かれた日傘がいやでも目についた。寒い地域から出てきた彼女には、王都の夏の日差しはきつかったのだろう。穏やかに眠るその頬や鼻の頭、ドレスの胸元からのぞく白い肌がほんのり赤くなっている。多忙だったとはいえ、すっかり失念していた自分が腹立たしかった。


 しばらくすると馬車が止まった。邸宅に到着したようだ。抱えようかと手を差し伸べたところで、彼女の覚えた泣き顔が脳裏によぎった。手を止めて、御者に言ってひとまず執事を呼びつけた。


「お帰りなさい、オリバー様」

「あぁ。悪いがメアリと誰か女性をもう一人呼んでくれ」

「女性ですか?」

 不思議そうなマーティンに、リンジーが寝てしまったことを伝えるとすぐに得心がいったようで、即座に動き出した。


 マーティンの家は代々公爵家に仕えていて、彼も先代の頃から執事として仕えている。オリバーが赤ん坊のころからの付き合いだから、多少うるさいことは言われるが、公爵は彼に全幅の信頼を寄せていた。


 執事にその場を任せ、一足先に自室へあがった。軽食を部屋に用意するよう言いつけて人を下げて、ソファに座って領地からの書類に目を通す。決裁のいる書類に署名をし終えると、背もたれに体を鎮めるように腰掛けた。連日の会議に加え、社交の場が増えたことで疲れがたまっているようだった。


 散漫とした思考で茶会を振り返る。あいさつした面々と交わした会話を整理しようとして、ふとリンジーのことが頭によぎった。ベンチの近くで彼女といたときのことだ。


 彼女の顔の汚れを脱ぐおうとしたのは、自分の身勝手さで転ばせてしまったことへの申し訳なさからだった。……少なくとも初めはそうだった。ハンカチで触れた頬は想像以上にやわらかで、近づいたことでこれまでになく距離が縮まり、胸がざわついた。


 落ち着かない様子の彼女は、目のやり場に困っているようで視線が泳いでいる。視線が合わないことにほっとしたような、もどかしいような気持ちで黙々と手を動かした。


 汚れがとれた、そう告げると、ぎこちない笑顔を浮かべたリンジーがこちらを見上げた。日差しで少し火照った頬に、穏やかな緑の瞳がおずおずと見つめてくる。


 その瞳に吸い寄せられるような気がして、体が動かなかった。紅をひいた唇が自分の名前をつむぎ、体がかっと熱くなったような気がした。熱に浮かされるがまま、自分は何をしようとしたのか――。


(何を考えているんだ、私は)


 邪念を振り払うように、勢いよくソファから立ち上がる。酒でも飲みたい気分だった。棚からグラスと瓶を取り出して、注ぎながら自省する。ひどく傷つけた彼女を、これからは大切にしようと決めたはずだった。例え夫婦としては成立しなくても、誠心誠意尽くそうと。そんな決意も貫けない自分に腹が立った。


 琥珀色の液体がグラスの中ほどまで満たされ、オリバーは瓶をテーブルに置いた。仰ぐようにして酒を流し込んだ。強いアルコールにのどが焼け付くようだった。グラスを置くと、扉が叩かれマーティンが軽食をのせたトレーを手に入ってきた。


「おや、めずらしい」

「あぁ、今日は少しな」


 酒瓶に目を留めたマーティンがそう言いながら、テーブルにトレーの上のものを並べていく。いつもなら侍女がする給仕をそつなくこなす男の姿に、公爵はいやな予感がした。


「今日の茶会はいかがでしたか」

 リンジーのことを気にかけている執事は、今日のことについて探りにきたらしい。


 のらりくらりと生返事を返しながら、食事を進めると、ため息をついた執事はタイを緩めてどっかりと向かいの肘掛椅子に腰を下ろした。


「おい……」

「なんでしょう? 今日はもう仕事はないでしょう」

 当主に向かってあるまじき態度に、一応眉をしかめて見せたが効果はないようだ。マーティンはそのまま座り、どこからともなくグラスを出して一緒に酒を飲みだした。


 この様子だと、聞き出すまで居座るつもりらしい。公爵は重い口を開いて、淡々と話し始めた。基本的には忠実な不良執事だ。彼から話が漏れることはないと確信を持って言えた。


 婚約者のふりは予想外に上手くいった。馬車では不安そうだった彼女だが、こちらの心配をよそに庭園についてからは自然に振舞っていた。控えめでかわいらしいと周囲の評判も上々だった。無論、異様に勘の鋭い陛下には通用しなかったが。転んでしまうハプニングはあったものの、周囲には誰もいなかったのは幸いだった。総じてうまくいっただろう。


 転倒については意図的にふせて、お披露目は上手くいったことを伝える。笑顔で聞いていた執事だったが、公爵が呼び出された隙に、コリングウッド公爵の末娘に難癖をつけられたことを打ち明けるとその顔が見る見るうちに曇った。


 当てこすりの内容については、あとで聞かされたものだった。わざわざリンジーがいない時を狙って、親切面をした男が詳細を伝えてきたのだ。隠しきれない好奇心がありありと見えて、神経が逆なでされたがオリバーが笑顔で対応すると、男は肩透かしを食らったような顔で去っていった。


 リンジーが王立学園に通わなかったことや不揃いだった衣裳、侯爵家の過去にまつわること……難癖の内容をざっくりと伝えていると、耐えきれないとばかりにマーティンが口を挟んだ。


「おかわいそうに……。ですからヘレナ様にはご注意くださいとあれほど!」

「分かっている。しかし、株を下げたのはあちらだ」

 婚約段階とはいえ、公衆の面前で目上の人間に無礼な態度をとったのだ。彼女とその友人は、確実に評判を落としただろう。


 コリングウッド家は婚姻でその力を強めてきた。領土が近いこともあり、ヘレナとは何度か顔を合わせていたのだが、きれいな令嬢だとは思っても、その言動や年齢から幼さがぬぐい切れず、女性としては見ていなかった。


 しかし、近年は熱心に家族ぐるみで誘いをかけられ、主人を利用されたくないと執事から再三、注意するようにと言われていたのだ。あまり深く考えずに適当にかわしていたことがあだになった。


 納得したように頷いたものの、マーティンはまた心配そうに続けた。

「しかし、お家のことは……噂になるでしょうな」

「あぁ」


 お祝いムードに包まれていても、ここ数日は暗い知らせが続き、社交界にも緊張感が漂い始めていた。異分子への風当たりが強くなるなか、ヘレナの馬鹿げた言いがかりは、愚かな貴族の不安を大いに煽るだろう。


「坊ちゃんにはがっかりですぞ。ようやくきちんとした令嬢をお迎えになったと喜んでいましたのに――」

 どうやら執事の矛先は自分に向けられたらしい。ちくちくとした文句が次々と執事の口から出てくる。いわれのない追及ではなかったので、公爵は反論せずに黙って聞いていた。


「普段の気遣いはどうしたのです。思えば初めから、足の捻挫にもお気づきにならないで!」

 マーティンは相当ため込んでいたらしい。小言を聞きながら、ねん挫という言葉に、リンジーを連れてきてすぐのことが思い起こされた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る