運命の輪
1
殴られた頬を冷やしていた公爵は、ほどなくしてゆらりと立ち上がり、無言のまま応接間を出て行ってしまった。
「お任せください」
追いかけるべきか迷っていると、執事のマーティンが私に目配せしてその背を追って行く。
もう一度兄のことを詫びるべきだと思ったが、私が下手に刺激するよりも、彼の方が上手く事態を収拾してくれそうだ。そう結論付けていると、軍の護衛が部屋へ戻るよう促してきたので、素直に従って自室に下がった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日、公爵は早朝から宮殿に出かけてしまったようだった。肩透かしをくらったような気持ちで食事を摂り、また勉強を続けた。手は動かすものの、兄の処遇や公爵の怪我の具合が気になってなかなか手につかなかった。
日が沈んでからも、公爵からは何の動きもなかった。もしかしたら今日はいらっしゃらないのかもしれない。夕食を終え、部屋でぼんやりしているとマーティンが部屋に顔を出した。丁寧にあいさつして要件に入る。
「オリバー様が、『今日は遅くなるができれば待ってほしい』と仰せでして……」
「そう、分かったわ」
宮殿から使者が送られ、伝言があったらしい。
公爵の宮殿での仕事については何も知らないが、私が宮殿に行った時の文官も慌ただしかったし、茶会が近づいて大変なんだろうか。
湯浴みを済ませた後、寝間着ではなくドレスに着替えた。ソファに腰掛けて、早く来てほしいような、やっぱり来てほしくないような複雑な思いで訪問を待った。なんとなく本を開いて膝の上に置くが、内容は頭に入ってこなかった。時計の針の音が部屋に静かに響いた。
長針と短針がもう少しで重なるかというころ、ようやく部屋の扉が叩かれた。侍女が扉を開け、執事のマーティンに続いて公爵が入ってくる。
公爵はソファの向かいの肘掛椅子に腰かけた。女性が連れられてくるのは初めてだ。扉を開けた後、執事の隣に控えるその姿を見つめて、思わず声を上げてしまった。
「メアリ!」
「リンジー、様」
小柄で少し気の強そうなはっきりとした目鼻立ち。いつも下ろしていた真っ黒でふわふわの髪は、今は後頭部できちっとまとめられている。同じ学校に通っていたメアリ・フォーゲルだ。公爵たちの後ろで神妙に控えていた彼女の表情も驚愕に染まっている。
「二人は知り合いなのか?」
少し間をおいてそう聞く公爵の声に我に返って顔を見合わせる。訓練学校へ通っていたことは公爵に言っていなかったし、できれば言わずにいたかった。高位の貴族女性においては、労働は周りがするもので、自身がするものではないからだ。
かといってうまい返答も浮かばない。黙っていても仕方ないかと、腹をくくって打ち明ける。
「私、侯爵領内の上級使用人を育成する学校を出ておりまして。彼女はその頃の友人で……公爵、そのお顔!」
ふと見上げた公爵の頬は痛々しく青紫に染まっていた。形のいい唇も、その端はほんのり赤みが残っていて、切れた跡が目にとれた。
「あぁ、そんなにひどいか」
別にもう痛みはない、気にした様子もない公爵が淡々とそう続けるも、口を開くと口元の傷がのびて、見ているだけで痛そうだ。
「ですからちゃんと包帯を巻いてくださいと申し上げましたのに」
公爵をじとっと見て、マーティンが不満そうに言うと、公爵は黙って肩をすくめた。
「本当に、兄が申し訳ありません。それで、その……兄はどうなるんでしょう」
「いや、君のお兄さんには何の処分もない」
恐る恐る尋ねると、兄はなんとお咎めなしらしい。ほっと胸をなでおろした。
「……君にはこれまでの非礼を詫びたい。申し訳なかった」
めずらしく歯切れの悪い様子だった公爵が、少し黙り込んでからそう告げて頭を下げた。
「そんな、お辞めください」
公爵に頭を下げさせていることが恐れ多くて、頭を上げてくれるよう頼んだ。
「君にとって辛い生活を強いていたと思う。メアリには君に付いてもらうし、護衛も女性に変更するよう働きかけているところだ」
顔を上げた公爵が、真っ直ぐにこちらを向いて言った。
「それは……お手数をお掛けします」
面倒なことをさせてしまっているとは思ったが、夢のこともあって、異性へと接するのがまた怖くなってきていたところなのでありがたかった。
「それから、その……できれば改めて君と話し合いたい。茶会の前はこちらが立て込んでいるので、終わった後にでも」
予想外の提案にぎくり、と顔が強張った。その様子に気付いたのか公爵が焦ったように付け加える。
「もちろん、無理にとは言わない。君は断ったっていい」
黒い瞳が少し不安げに揺れている気がした。
正直なところ、気はそそられなかったが、誘いをばっさりと断るのもはばかられた。それに、わざわざ頼まなくても言うことを聞かせられるのに、そうしないで選択肢をこちらに残してくれる誠実さに応えるべきだと思った。
「分かりました」
「ありがとう……ではまた茶会で」
ほっとしたように少し微笑んだ公爵が立ち上がり、執事を伴って退席していった。もう遅いから休むよう伝えられ、支度のためにとメアリが残された。侍女に支度を手伝われるのはこの家に来て初めてのことだ。
「メアリ……」
懐かしい友人に話しかけようと名前を呼んで、はたと思い当たる。彼女も私と話すことを禁じられてるんだろうか。命令に違反したことが分かれば新人はひどく怒られそうだ。なんと続けてよいものか分からなくなって二の句が続かない。
「なあに。未来の公爵夫人ともなると、もう平民とは口もききたくないってわけ?」
口ごもっている私に芝居じみた台詞が吐かれる。驚いてメアリを見ると、腰に手を当てた彼女が悪戯っぽく笑ってウインクを寄越した。
「久しぶりね、リンジー」
「えぇ! 本当に」
どうやら指示はないようだ。学校にいた頃のように、手を取り合って再会を喜んだ。
「メアリったら、ろくにあいさつせずに勤務先を決めて行ってしまったって、みんなさびしがってたわよ」
「あらやっぱり? まあでも王都にいるしすぐに会えると思ったのよね」
悪気なさそうに返事をするメアリは、会話しながら手際よく寝支度を整え始める。友人に着替えを手伝ってもらうのは恥ずかしかったが口を挟む隙もなかった。
「それにあなたには手紙出したわよ。子爵家に」
「あらそうだったの、ごめんなさい」
子爵家から侯爵家へ手紙は転送されたんだろうが、手紙と行き違うように私が公爵家へ来てしまったようだ。
「というかあなた、やっぱりダールトン家のリンジーだったのね」
「やっぱりって……気づいてたの!?」
「今日で確信したの」
驚いてメアリを見つめると、彼女はてきぱきと手を動かしながら、少し呆れた様子で続けた。
「リンジーが上級貴族の娘だってことはみんな薄々気づいてたわよ。身のこなしも違うし手もきれいだったし。でもやけに一生懸命だったから、触れないでいようって決めてたの」
まさか勘付かれていたなんて……。初めのうちは確かに浮いてたかもしれないが、すっかり馴染んだつもりでいたのだ。みんなの気遣いにも全く気が付かなかった。そうだったの……と呟くと、こちらの表情をみてメアリがからからと笑う。
「それで、その、私付きになったの?」
彼女はどこまで知らされてるんだろう。どう切り出したものか分からなくて公爵の言葉をただ繰り返して聞いた。
「そうみたい、急に夫人付きなんて言われてどきっとしたわよ」
「そうよね。……何か変な指示はなかった?」
そう聞くとメアリは少し首をかしげた。
「そうね……あなたと話すことは禁じないけど、会話の内容は一切口外するなって。あと扉にいつも護衛が控えてるって言われたわ。……何かめんどくさそうなことに巻き込まれてるのね」
「そうみたい」
首をすくめてそう言うと、みたいってなによ、と笑われて少し元気が出た。支度を終えたメアリが、今度は丁寧にあいさつして退室していく。
もっと話していたい気もしたが、きれいに整えられた寝床に横たわるとすぐに眠気が襲ってきた。心配していた兄の処分もないようだったし、久々に友人に会えて気が休まったのかもしれない。そう考えながら、私はゆっくりと意識を手放した。
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