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「お兄様!」

 応接間に入ってすぐ、兄に駆け寄って飛びつくように抱きついた。力強い腕が抱き返してくる。軍服のボタンが食い込んで少し痛んだが、気にならなかった。固い抱擁を交わし、並んでソファに座る。


「一体どうしてここに? それに今までどちらにいらしたの? 何か処分があったの?」

 将軍は兄について責めはしないと言ってくれたがどうなってたんだろうか。知りたかったことを矢継ぎ早に質問を重ねた。


「ばか! 全部こっちの台詞だよ」

 怒ったような顔で兄が言う。何か辛いことがあったら、泣かないように顔をしかめてやり過ごすのが幼い時のカイルお兄様の癖だった。久しぶりに見た表情に胸が痛んだ。


 兄は王都の警備で忙しくしてたらしい。結婚の話を聞いて何度も公爵家に足を運んだがすげなく断られ、今夜こそ、と公爵のいない隙を狙って仕事帰りに来てくれたそうだ。言われて見れば、軍服は少しくたびれて埃っぽい。


「今日は定例会議があって、お偉いさんはみんな遅くまで拘束されるんだ」

「そうだったの……全然知らなかった」

「それで? 一体何があった?」


 どこまで答えていいんだろう――。開いた口を曖昧に動かしていると、応接室の戸口から控えめな咳払いが聞こえた。


「すまないが、席を外してもらえないだろうか」

「申し訳ありませんが、出来かねます」

 すっくと立ち上がった兄がいまいましげに執事を見て要求するも、丁重に断られる。


 なおも食い下がろうとする兄だったが、マーティンが毅然とした態度で言葉を続ける。

「本来どなたの訪問も許されておりません。リンジー様の想いを汲んで、特別にお通ししたのです。応じていただけないのであれば、お帰りいただくしかありません」


「しかし――」

「お兄様、およしになって。いいの、彼にはよくしてもらってるわ」

 疑わしげだったが、力強く頷いて見せると兄は諦めたかのようにどかっと私の隣に腰を下ろした。


「それで……警備は大変? 辺境よりずっと人も多いでしょう?」

「あぁ、そうだな――」


 少し黙った後、当たり障りのない会話を始める。家族の話は二人ともなんとなく避けた。初めはぎこちなかったが、兄は徐々に調子を取り戻して、愚痴をこぼしながらも、王都で見聞きしたことを話し始めた。


 行事が多いこの夏は、羽目を外してしまう騒ぐ人も多く、行き過ぎた人を取り締まったり、保護したりすることに一苦労らしい。ほかにも王都で流行っている菓子のことや、話題の演劇に付き合いで観に行かされたが爆睡してしまい、こっぴどく怒られたこと……。たわいもない日常を聞くのは随分気晴らしになった。私も働いていたら、休日はそんな風に過ごしていただろうか。


「お前はどうしてた?」

 聞き手に回っていた私は急に話題を振られて口籠った。外国語の学習をはじめたことなど、当たり障りのない話題はあったが、できれば今の生活と直接関連しない話をしたい気分だった。


 そういえば、とふと先日見た夢のことを思い出す。夢で見た記憶は、恐らく私が八歳ごろのことだ。カイルお兄様は私の四歳上、十二歳ほどなら、私よりも明瞭に覚えているかもしれない。


「ちょっと不思議な話なんだけれど、」

 そう前置きをおいて、昔のことを鮮明に夢見たと伝える。私が賊に襲われたことは公には臥せられていたので、家に飼い犬がいてにぎやかだったころのこと、とだけ話した。


 兄は驚いた様子で少し考え込んでから口を開いた。

「そういえば昔ロキシーが池に落ちたことあったな」

「…子犬の?」

 唐突な言葉に、なんとか記憶をたぐって問いを発した。


 そうだ、と兄が大きく頷く。

「覚えてないか? あいつったら勝手に庭を抜け出してさ、」

 話し続ける兄に、適当に相槌を打ち、頭の痛みをこらえて記憶を掘り起こす。


 猟犬は四匹の子犬を産んだのだった。私が名前を付けさせてもらえた。そう、上から、オスカーにベラ、マックス、そしてロキシー。


 ここまで思い出してようやく兄の狙いに気付いた。四匹と私たち兄弟は、たまたま生まれた順も性別も同じだったので、面白がって自分たちを犬の名前で呼びあうことがあった。臆病なロキシーが池に落ちたなんて大嘘だ。


「そうだったかしら、オスカーたちも心配したでしょ」

 話を合わせると、兄が笑顔で同調する。

「そうなんだよ。オスカーは枝を探して、ベラは人を呼びに行くわで大騒ぎ」


 つまり……アーサーお兄様は解決策を探してて、ジャクリーンお姉様は人脈を辿って事情を探っているということだろうか。ひとまず何の拘束も受けていないようで安堵した。


「マックスはキャンキャン吠えてるだけだったな、結局ロキシーは助かったけど」

 明るく続けるも、表情とは裏腹に、膝の上の兄の手は固く握りしめられていた。


「そばにいてくれてロキシーも嬉しかったと思うわ」

 三番目はいつだって四番目でそばにいてくれようとする。感謝を伝えたくて、兄の手にそっと片手を重ねた。


 そうだ、こちらから伝言してほしいこともあった。お姉さまから渡されたのに、没収された紙切れのことだ。伝え方を考えながら、口を開く。


「そういえばロキシーったら、ベラのおもちゃを欲しがってこっそり隠しちゃって。でも結局ばれて全部取り上げられたことがあったわね」

 間抜けだな、笑いながら兄が答える。通じていることを願った。


 半刻ほどたったころ、マーティンがそっと私に目配せしてくる。そろそろ時間のようだ。

「……辺境に行ってしまう前に会えてよかった。ね、最後にぎゅっとして」

 むっとした顔の兄が黙って乱暴に私の頭を胸元に抱き寄せる。寄りかかりながら涙腺が緩むのをこらえた。泣いたらだめだ、きっと兄は心配して帰ることを拒むだろうし、家族にも伝わってしまう。


 無言で別れを惜しんでいると、急に廊下がばたばたと騒がしくなる。身を離して確認しようとしたその時、勢いよく応接間の扉が開いた。勢いよく入ってきた公爵が、恐ろしい形相で私たちをにらみつけた。


「オリバー様」

「申し開きはあとだマーティン。お前がついていながらなんてことだ」

 公爵は慌てて間に入ろうとした執事を振り払い、ずかずかと歩みをよせて私の腕を掴んで兄から乱暴に引き離した。


「公爵、お聞きください! 私が勝手にっ……」

 マーティンは悪くないことを伝えようとしたが、つかんだ腕をねじ上げるようにされて、痛みに言葉が続けられない。


「黙れ! 少し大人しくしてたと思ったらやはり男を……この、あばずれが!」

 投げかけられたあまりにも強い侮蔑の言葉にぎょっとして硬直すると、横にいた兄がやにわに立ち上がって公爵につかみかかった。体勢を崩した公爵の腕から咄嗟に私は逃げ出す。


「貴様、妹を、愚弄するな」

 真っ赤な顔をした兄は、わなわなと震えてそうすごむと、拳を振りかぶる――。


「カイル、やめて!」

 叫んで兄に飛びつこうとするが間に合わなかった。


 そのまま兄は拳を突き出し、なんと公爵の顔面を殴りつけてしまった。拳を受けた公爵が床に倒れこみ大きな物音がした。廊下に控えていた軍人2人が慌てて部屋になだれ込み、怒りで震えたままの兄を無理やり連れて行く。


「公爵っ大丈夫ですか。あぁなんてこと……」

 床に倒れこんだまま呆然としている公爵のもとに駆け寄って、けがの様子をみる。殴られた側の頬がみるみるうちにはれていく。口元も切れてしまっているようだった。


「立ち上がれますか?」

 公爵は何の反応も見せず、黙ったままだったが、思い切ってその手を取って立ち上がらせ、ひとまずソファに座らせる。


 頭を打ってしまわれたのか、返答はなおもない。公爵の容態次第で兄への処分もきっと変わるはずだ。なんとかして被害を最小限に食い止めたかった。


「リンジー様こちらを」

「ありがとう」

 いつのまにかマーティンが、水と清潔な布巾を用意してくれていた。差し出されたそれを受け取り、布を濡らして固く絞って、そっと頬に押し当てる。冷たい布巾が触れると、公爵の顔が歪んだ。


 視線を中空に漂わせていた公爵が、少ししてから自分で布巾を押さえるようにしたので、私はその頬からそっと手を引き抜いた。


「兄が……申し訳ありません。なんとお詫びしたらいいのか」

「……兄、あぁ、いや」

 公爵がうろたえたように押し黙る。怒り心頭で言葉もでないんだろうか。不安で公爵をじっと見つめる。


「似てないな、君と……」

 ややあって、私と視線を合わせた公爵がぼそりとつぶやく。なんだか様子がおかしい。やはり頭を打たれたんだろうか。聡明な公爵にしては会話が要領を得ない。


「えぇ、その……次男は母親似なので」

 彼のつぶやきが、問いかけなのか独り言なのか分からなかったが、とりあえず馬鹿正直に答えた。


「あぁ…」

 公爵がなぜか絶望したようなため息を漏らしてうつむいてしまった。


「爺からすると自業自得ですな坊ちゃん」

 黙って見ていた執事があきれ返った様子で言う。優秀な彼はなにやら全てに合点がいったような様子だった。



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