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「さ、行ってらして。ショールは預かるわね」
てきぱきとしたお母様に背中を押され、広間の真ん中に出る。ちょうど一曲が終わり、男女のペアがぞろぞろと入れ替わる。人の波に乗って配置についた。きっと大丈夫、自分にそう言い聞かせた。家を出てから男性と接してもパニックになることなかった。さすがにダンスをするほどの近距離に近づくことはなかったが、案外克服できているかもしれない。
公爵の右手が私の肩甲骨のあたりに触れ、そっと身体を引き寄せられる。湧き上がる恐怖感に呼吸が早くなっていくのを感じながら、つないだ右手はそのままに左手を彼の右肩あたりに置いた。優雅な音楽が流れ始める。ゆったりとした基本のワルツだ。これなら兄と何度も遊びがてら踊ったことがある。
安心して踊り始めたのもつかの間、どうしても兄や父とは違う手の感触や寄せる体のたくましさにおびえ、足がもつれていく。ふわりと香る男性用の洒落た香水の匂いがいやに鼻についた。なんとか体を動かしていると、じとりと嫌な汗をかく一方で手足が冷め切っていくような感覚に陥った。
「ちょっと休もう」
こちらの異変に気付いたのか、公爵が動きを止めた。いつの間にか壁際に誘導されていた。
「……申し訳、ありません。わたし……」
少ししか運動していないのに息が苦しい。とぎれとぎれに謝罪する。あまりにも下手なダンスで恥をかかせてしまった、しかもこんな大きな舞踏会で。
「落ち着いて」
公爵の低い声が私の言葉を遮った。そのまま長椅子まで連れられて並んで腰かける。先ほどよりもあいた距離に安堵した。
「貧血だろうか……息を吐いて、そう、今度はゆっくり吸って」
握った手をあたためるようにさすりながら、呼吸を繰り返すよう促される。素直に何度か深呼吸をすると、段々と寒気がなくなり、恐怖感も薄れていった。あとに残ったのは恥ずかしさとみじめさだった。
ぼんやりと前を見つめていると、先ほどの赤毛の令嬢がパートナーと踊っている姿が視界にとまった。ペアの男性と何やら楽しそうに言葉を交わして、軽やかなステップで目の前を通り過ぎていく。
あんなに踊ったワルツなのに。こんなに着飾らせてくれたのに。彼女たちはあんなに楽しそうなのに――。一曲もまともに踊れなかったうえ、それが大勢の前で露呈してしまった。私はどうして普通の令嬢らしくなれないんだろう。諦めたはずの願いがまたもや散って行く。お母様はきっと心を痛めて、踊るよう仕向けた自分を責めるだろう。
暗くなった思考をなんとか振り切って、椅子から立ち上がる。
「ありがとうございました。こちらのわがままにお付き合いいただいたのに、大変失礼いたしました。もう母も満足したことと思います」
謝罪とともにドレスの裾を軽く持って一礼する。泣き出したい気持ちをこらえて精いっぱい謝罪を伝える。
緊張しながら返答を待っていると、少し間を開けて立ち上がった公爵が思いがけない言葉をかけてきた。
「この曲はあと半分くらいあるんだ」
「え?」
顔を上げて聞き返す。
「君はどうしたい? このまま終わって後悔しない?」
穏やかなバリトンが私に問いかける。このまま終われば確かに私にも家族にも苦い思いが残るだろう。でももしまた駄目だったら……? 口をつぐんだままの私にガーフィールド様が再び左手を差し出してきた。
「君はきっと踊れる。もう一回やってみよう」
彼の言葉にすがりたくなって、迷いながらもその手を取った。この人ならなにかを変えてくれるかもしれないと思わせる力強さがあった。
無様な姿をみせて開き直れたのか、はたまた深呼吸が効いたのか、再び踊り始めると今度はダンスに集中できた。周囲にも目を向ける余裕ができて、観客だけでなく踊っている人たちからも注目を浴びていることにようやく気付いた。
普段社交の場にでない自分が珍しいのか、若く有能な公爵が注目を引いているのか、その両方かもしれない。注目されることに慣れない私は、すぐに公爵に向かい合う形で視線を戻した。
そっと公爵を見上げる。恐怖心と緊張で全く見えていなかったが、感覚的にカイルお兄様とアーサーお兄様の間くらいの身長か。かっちりとした礼服がとてもお似合いだ。ダークブロンドの短髪で少し強面だが、噂になるのも分かる精悍な顔立ちをしている。
そんな感想を抱いていると、意思の強そうな、限りなく黒に近い茶色の瞳と視線がぶつかった。慌てて足元に視線をそらすとふっと笑い声が落ちてくる。
居た堪れなさに耐えていると、公爵が口を開いた。
「慣れてきたようだから、ちょっと難しいステップに挑戦しよう」
「えっ、お待ちください」
「待たない。ほらいくよ、1、2、3」
ばっさりと私の懇願を切り捨てた公爵が、 急な音頭で足さばきを変える。焦ったが巧みなリードについていくと自然と踊ることができた。段々と難易度があがり、楽しみつつも限界を感じる始めたころに、公爵のリードが基本的な動きに戻った。
「ガーフィールド様、とってもダンスがお上手ですね」
このころにはようやく話す余裕ができた。洒落た言葉は思いつかなくて、思ったことを口に出した。
「光栄だ。君はどうして今夜が初めての舞踏会なんだい?」
さらりと聞かれた質問にどきりとしながらも、あらかじめ用意した答えを返す。
「病気がちでしたので、家で療養生活を送っておりました。今は完治したんですけれど」
「それはよかった。療養はどちらで?」
「……領地の屋敷に」
ダンスのリードが急にまた難しくなる。
「北東部だったか。雪深いし寒さは辛くなかったのかな」
「いえ……あの、室内にこもっていましたので」
1、2、3、1、2、3――足元がめまぐるしく動いていく。
「そうか。それで今後は王都にいるのかい?」
「……その予定でおります」
今度は向きを変え、別方向に。公爵様はなんて器用なんだろう。
「それなら次の茶会にも出席するんだね?」
「え、えぇ……いえ、その」
次の茶会とは再来週に宮殿の庭園で開催される行事のことだろう。昼間に開かれ、選りすぐりの紅茶と菓子がふるまわれ、庭園に咲く色とりどりの花を楽しむのだ。
三日後には宮殿に入って働き始める私は客として参加することはない、のだが、基本的に侯爵家は参加するのが通例で、参加しないなんて言えば怪しまれるだろう。しかし、もし万が一、茶会に出席していないことが分かったら嘘をついたことになってしまうんだろうか?
ダンスに集中すると、今度は会話がおぼつかなくなる。考えがまとまらないままなんとか取り繕わなければと焦れば焦るほど言葉が出てこない。
不意にくっくっと公爵が忍び笑いをしていた。ぽかんと見あげると彼は言葉を続ける。
「すまない。からかいすぎたようだ」
「いえ……」
なんだ。こちらが重くとらえすぎていたようだ。もしかしたら事情があることを察しているか、母から聞いていたのかもしれない。馬鹿みたいに考え込んで、また醜態をさらしてしまった。
「悪かったね……ダールトン侯爵家は四兄弟と聞いているが今日は全員出席かな?」
「いえ、次男のカイルは軍の仕事に就いています」
「そうか、次男というと――」
話題が別の方向に移ってほっとした。自慢の兄弟の話だったらぼろを出すこともない。ようやく自然に会話ができた気がする。
そうこうするうちに管弦の調べが段々と音量を落とし、曲が終了した。少し息は上がっているものの運動した後の心地よさを感じる。
「ありがとうございました。これで後悔はなくなりましたわ」
「それはよかった。私も楽しかった。もう一曲お願いしたいくらいだが、母君ももういらしているようだ」
公爵は最大限のリップサービスまで残し、軽く一礼して人ごみの中に紛れていく。
後ろを振り返ると、怒ったような顔の姉と、殊勝にしながらも、どこかいたずらに成功したような子どものような表情をした母が待ち構えていた。
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