ふたりのはじまり(一)
「さあ、ジュリアナ。シマさんへ乗って」
「シマさんに?」
近づけば顔をねぶられやしないか。
今もジュリアナをみつめてよだれを垂らし、息をハッハッさせている。
「シマさんも嬉しいんだよ、お前に触れられることに」
「わたくしに……?」
「さあ、世界を周遊するとしよう。ほら、ブランシェも」
ブランシェは腹を抱えて笑いながら、ジュリアナを先頭にしてシマさんへ乗り上がった。
「あははっ、あの女も使い用だな! これから戦乱の世がはじまるぞー!」
「悪役っぽい、去り文句ですわね」
「俺たちはヴィランだからな」
最後尾にクロドがまたがる。
ジュリアナは、マントをかぶり生首だけとなった家族へ今一度手を振った。
「婚約式典で冬の魔女の封印を解き、聖女の力を奪ったわたくしも、立派な悪役令嬢ですわね」
「嬉しそうだな、おい」
「ええ! だって、わたくしが望んでいたこと、すべて叶えられたのですから!」
親公認の婚姻相手も決まったことだし。
ブランシェ越しに熱い視線を注がれ、クロドは危うく滑り落ちそうになった。
シマさんへ優しく語りかける。
「今日の俺はすこぶる気分がいいぞ。シマさん、氷で固まったお客さんを溶かしてさしあげろ」
「キュウン」
シマさんは愛らしい鳴き声を奏でながら、世界樹の根もとを火の海にして、空へと羽ばたいた。
実は、問題はここからである。
クロドは世界周遊と言ったが、それには然るべき理由があった。
「悪役令嬢が休息を望まなければ、ハウスに戻れない? あなた支配人ではないの」
「所詮、雇われだからな」
ブランシェが風をうけながら気持ちよさそうに言う。
「私には今この瞬間が最高の休息だよ。どうすんだい」
「安心しろ。ジュリアナの判定基準は低い」
なにしろ日記を読まれる不安心だけでハウスに転移できる。
「このまま飛んでりゃ、疲れて転移すんだろ」
「その前に捕まらないかい?」
ブランシェが振り返りながら言う。
どこから集めたのか、何千人というヘルトユートの軍勢が雪の原に嵐を起こしていた。
最前衛でユートが猛々しく叫ぶ。
「馬鹿め……! 目の前は鉄壁のスプリングフィールド! 炎の神シマルグルも太刀打ちできまい!」
「わぁ、ほんとうだ」
城の城壁から天へと光魔法の結界がのび、どんなに高く飛んでも越えられないようになっている。
さすが、鉄壁のスプリングフィールド。
だがシマさんが真っ直ぐ進むその先に、光はない。ちょうどシマさんの翼ぶん、隙間があいている。その城の屋上ではスプリングフィールドの双子、ガーネットとマーガレットが手を振っていた。
「はやくお通りなさい」
「今度うちにも遊びにきてねー!」
あっさりと城壁を越える。
鉄壁のスプリングフィールドを越えられないのは、ヘルトユートの軍勢だった。双子がシマさんのすり抜けた結界をふさぐ。
「第一王子ユート二〇世、今すぐに撤退なさい」
「諦めないと、春の魔女の涙を砕くわよ〜?」
「なっ、なぜ我が国の至宝を持っている! さては盗んだな!?」
「返してもらったのです。元魔王、クロドから聞きました。元々は我々の祖先が遺したものだと」
双子は王子ユートへ、千年前の悲劇を語った。春の魔女と秋の魔女のおとぎ話しだ。
ジュリアナは本の中身を思い返して、心を切なくさせた。
「あの物語、勇者の英雄譚のようで、誰も救われない悲劇だわ。みんな勇者に振り回されて。特に秋の魔女が、一番かわいそうよ」
「他人事じゃあないんだがな」
妙な空気が風に溶けていく。
国境を越え、城壁も見えなくなったころ。
のらりくらりと、もうひとりの追っ手が追いついた。
バルドレン王国王太子、アドリアンだ。
「いやだ──っ! 魔王に奪われるくらいなら、無理矢理にでもジュリを取り戻す!」
ちいさな飛行船は誰にも気づかれずに、城壁の隙間をスレスレで通り抜けていた。
「なかなか骨のあるヤツだな」
「執念深いというか、諦めが悪いというか」
ジュリアナの言葉がクロドの胸に突き刺さる。
「すまんな、弟バルドレンの遺伝だ」
「どうする。私が凍らせて落とそうか」
「よせ、ブランシェ。つながったばかりの手を汚すな」
クロドは胸ポケットから鏡を取り出した。
鏡のなかに映るは、ヴィラン・バケーションハウス。偽りの魔女クレマンが呑気にうたた寝をしている。
「おい、ばあさん! 起きろ!」
「フガッ、だぁれがばあさんだ! ずっと起きとるわい!」
年寄りのあるある文句を繰り出すが、魔女としてはまだまだ現役である。
「クッションから離れる日が来たぞ。念願のぴちぴち美少年だ」
「どれ、見してみぃ」
鏡に飛行船を映す。
アドリアンのちいさな顔は、クレマンの老眼によく見えた。
「いいね! 推せる!」
次の瞬間、アドリアンは飛行船ごと消え失せた。クレマンのまやかしの森へ誘われたのだ。アドリアンが無事にクレマンの家へとたどり着けたら、厚いもてなしが待っていることだろう。
それから疲れ知らずのジュリアナは、炎の神シマルグルに乗ったまま、クロドとブランシェと共に世界をまわった。
ところで三か月間、ユート二〇世と育んだ(浄らかな)語らいのなかで、ジュリアナはしっかりと日記をしたためていた。日記と言っても、今日はユートと街へお出かけに〜などといった甘味は一切なく、この国は海がないから攻めやすいねとか、あの国へ侵攻するならこの魔法かな、などという策略ばかりだ。嫁いだ末に役立つだろうと思っていたその情報を、丁寧に破っては、各国の統治機関へ投下した。
「キャハ……! あちらのお城、さっそく戦の準備に入りましたわよ!」
「ほう。オータン領は西側の海岸線が攻めやすいのか」
「帰ったらディアナ様の判断を仰ぎましょう」
夫婦のはじめての共同作業だ。
「世界は、こんなにも広かったのか……」
千年封印されていたブランシェにとっても、忘れられないひと時となったのだった。
そして、春。
「はぁ、お腹すいたー」
魔法円から現れたジュリアナは、受付奥からおしぼりを引っ張り出し、手を拭きながらいつものカウンターチェアへ腰をいれた。
「ひとん家でモーニングを楽しみにしているご老人か」
カウンターで紅茶を淹れるクロドがひとツッコミ。
「ご老人? おこちゃまではなくて」
目をしぱしぱさせたビアンカのふたツッコミではじまる、朝のルーティングである。
船の揺れに、並べたティーカップがひとりでに左へ流れていく。
「おっと、今日も激しいな」
片手でせきとめ天井を仰げば、髑髏のライトが赤く点滅している。
ヴィラン・バケーションハウスは大海を漂う大きな船だ。拠点はないが、調べればだいたい、ヘルトユート王国の海域に浮かんでいる。
先ほどの大きな揺れは、爆撃による振動だ。
マリエルがヘルトユート王の側室となってからというもの世は戦乱の時代、海も安全ではなくなった。
「今はビアンカの布を船にかぶしてしのいでいるが、さすがにディアナの子どもが産まれたら、陸にあがらないとな」
「そういえば、彼女は?」
いつもなら紅茶がはいるころに、ディアナがバックヤードから焼きたてのマドレーヌを運び入れるのだが。
「今日はデニッシュで我慢してくれ。クリームも添えてやるから」
「具合でも悪いの」
「昨夜から陣痛が始まった」
ブランシェが階段を駆け下りてくる。
「クロド、湯を沸かせ! 産まれるぞ!」
「毛布は私に任せろ!」
ビアンカがデニッシュの食べかすを散りばめながら、カウンターを離れる。クロドは「やれやれ、ようやく人質の誕生か」と、剣呑なことを言いながらも、絶妙なぬるま湯で浸した湯桶を差し出した。
ジュリアナも手伝おうと立ち上がるが。
「闇の魔女は縁起が悪い。遠慮しとくれ」
と、ブランシェに一蹴され、クロドとふたりきりラウンジに取り残された。
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