緊急事態
秋の深さを物語るよう、木々が静かに葉を落とす夜更け。ジュリアナは真紅のドレスを翻し、ヴィランバケーションハウスの
「……ったく、元気そうじゃねぇか」
クロドの態度に変化はないが、おしぼりの温度は上がっている。季節の移り変わりを肌で感じながら、カウンターチェアへその身をおさめた。
「悪役令嬢がうなじを温めるな、肩こったおっさんか」
「悪役令嬢……、わたくしが」
いつもと同じ角度でうなだれるものの、ひどく思い悩んでいる。クロドは温かい紅茶を注ぎ淹れ、ジュリアナへ差し出した。宿泊はきっとしないだろうが、いつもの決まり文句を紡ぐ。
「……ご宿泊理由を、おうかがいしても?」
ジュリアナもまた、敢えて指摘はしない。いつもより増して落ちこんでいるのだ。紅茶を飲む気分にもなれなかったが、マナーとして一度口をつけた。カモミールの爽やかな香りが心を洗うようにすべり落ちていく。
まるで今日この日のために煎じたような紅茶だ。もうひと口飲みこんで、ゆっくりと話しはじめた。
「わたくし、ディアナ様からご提案いただいたとおりに、国を離れましたの」
「ではお引越しが終わったのですね」
「そりゃあもう、バルドレンから天と地ほどの距離に」
クロドは微妙な顔をした。
世界は横に広いが、天と地の距離はそうでもない。
「ヘルトユート王国の国境でしょう? わたくしが推薦したのですから、存じ上げておりますよ」
「なんでまた、あんな大国のそばに」
「なんと言っても、世界樹がございますからね。世界樹の根は冥界とつながっておりますから、転移門を介さずとも行き来できます。お兄さまのシリルどのなら徒歩圏内ですよ」
世界樹へ渡るには城の入場許可証と通行券が必要だが、シリルはその取得のために王城で再就職を果たしているし、万が一のための透明マントの糸を、ビアンカが今紡いでいる最中だ。
「ジュリアナ嬢にだって、最高の環境でございますよ。ヘルトユートには、世界樹の恩恵に浴する魔法使いがたくさん住んでおります。読んだことのない魔術書も、それこそ膨大に」
「そう。魔術書が……」
一番に喜びそうなことを言っても、反応が薄い。
欺瞞の泉に住んでいれば、変な男にも引っかからないだろうと思い薦めたのだが。
クロドは言葉遣いを素に戻し、話しを急かした。
「ほんとうに、どうした。なにか問題でもあったのか」
「では訊かせていただきますけれど、お兄さまへは城の引っ越しを薦めておいて、なぜわたくしへはハウスの従業員にならないかと誘ったのです?」
ジュリアナはクロドの言葉の矛盾を責めた。
先に引っ越すことがわかっていたら、きっとそれだけで前向きになれた。新しい選択肢へ、淡い期待を抱くこともなかったのに。
クロドはなぜか顔を赤くさせた。
「か、かぞくの住処とお前の人生は別だろ? うちで働くなら、住み込みじゃなくてもできるし」
「今さらなにを……っ、お兄さまの転職先も、クロド。あなたの推薦なのでしょう!」
「いや? あのシリルがまともに就職できたことすら、未だに信じられないが」
悪の組織代表グレイ公爵家が正義代表ヘルトユート王国に受け入れられるとは到底考えられない。
「名を偽って、街のギルドがいいところだろ」
「第一王子の、秘書よ!」
「秘書……!? あの強面が?」
クロドは声をあげて笑ったが、ジュリアナは愛らしい顔をゆがめたままだ。
「引っ越して早々に出席した社交界で、王子に頼みこまれたのよ。君がそばに立っているだけで、周りの大人に軽んじられずにすみそうだからって。外交官の経験も活かせるから、是非にと」
「……グレイ公爵家と知っていて?」
「ええ。お兄さまとは外交官時代に何度もお会いしていたらしいわ。その頃からわたくしのことを気にかけてくださっていたようで」
「ん?」
雲行きが怪しくなってきた。クロドは落ちてきた前髪を耳にかけると、ティーカップに口をつけた。ジュリアナに出した紅茶だ。
「ちょっと! それわたくしの!」
「ヘルトユート王国の第一王子が? お前を?」
「そうよ。それで、今回の引っ越しでしょう? 事情をすべてわかった上で、わたくしに会いたいと申し出てくださったの」
「会うだけ」
「今宵の誕生パーティーで、結婚を前提としたお見合いを」
「……け? こん」
「わたくしが王族と婚姻できるよう、クロドが段取りしたのではないの」
ジュリアナにとって、宿泊理由に該当する話しのはじまりだった。クロドもまた、二の句を継げぬまま。
──
突然、機械的なアナウンスと共に受付のベルが宙に浮き、振り子のように揺れてけたたましく鳴りはじめた。後を追うようにバックヤードからは耳をつんざくような警笛が鳴り響く。天井の髑髏は黄色い灯りを点し、ラウンジを明るくした。
「クソっ、このタイミングで!」
「なにがあったの? 火事?」
「たまに来るんだよ、このハウスには。百年に一度現れては、世界の秩序をかき乱していく──」
クロドひとりでは立ち行かない、悪魔のような存在がたった今、この時間に訪れるというのか。ちいさな従僕たちも、震えながら受付前に揃い立った。
「異世界転移者が」
魔法円の光の柱が消え、現れたのは純白のドレスに身を包んだ、黒髪の美しいご令嬢。
明かりが戻り警笛の鳴り止んだ受付で、クロドは深く、一礼して迎えた。
「ヴィランバケーションハウスへようこそ。こちらへご記入をお願いいたします」
令嬢は力なくペンを受け取ったが、根本から裂けるようにして割れた。
「やだっ、ごっ、ごめんなさい! わたし、まだなにもしていないのに──」
「いえ、それよりお怪我はありませんか? 名簿は私が代筆いたしますので」
「痛くないわ。少し、びっくりしただけ」
世界樹の枝で作られたペンは、その世界のものではない異物に触れると自壊してしまう。
クロドは新しいペンを取ると、ペン先を名簿に添えた。
「ではお名前からどうぞ」
「私の名前は、ハルカ。
「は、ぶふ!?」
「なに? なんの音」
「ハウスで飼っている犬でしょう。苦手でしたら、外へ出しますが」
「犬かぁ、別に、平気。それはそうと──、ここは、なに? また神さまの気まぐれ?」
ハウスを見渡すハルカの視界の隅に、真っ白な犬の尻尾が映った。従僕たちが慌てながら力任せにカウンターの奥へと詰めこむ。ジュリアナはその下敷きになっていた。
クロドが彼女の視線を奪うように、おしぼりを差し出す。
「神さまとはまた、不思議なお話しですね。まるでお会いしたことがあるようだ」
「それが、あるんだなあ」
おしぼりのぬくもりにホッとしたように肩の力を抜く。受付に頬杖をついて、カウンター側を見やった。
「紅茶のカップ。ほかにもお客さんがいるの?」
「ええ、もちろん。ハルカ様も、よろしければこちらへどうぞ」
そそくさとカップを片づけ、カウンター席へ誘う。
「それで、先ほどの神のお話しですが──」
「ああそう! 私ね、高校の入学式だってのに朝寝坊しちゃって。急いでたから、赤信号で横断歩道渡っちゃったのよ。そうしたら、神さまの乗っていた車にぶつかっちゃって」
「ストップ」
知らない単語と「ちゃっ」のパレードに、クロドは目の裏をチカチカさせた。
叡智を知る存在でありながら千年という時をかけてきたクロドを序盤で挫けさせる。
それが異世界転移者だ。
物分かりがいいのもまた異世界転移者。
「ああ、ごめん! 私のもといた世界では歩行者と乗り物が衝突しないように交通ルールがあるの。ルールを無視して道を走っていたら、たまたま神さまの乗る乗り物にぶつかって、死んじゃったってわけ」
「神が、あなたを轢き殺したと? そうおっしゃったのですか」
「そう! 神さまもたまたま乗ってたんだって。興味本位で人間の乗り物に乗って、事故って人間を轢き殺してしまうなんて、ほかの神さまに知れたらたいへん! だから異世界にとばして、なかったことにしたんだって!」
クロドは「そんな馬鹿な」を飲みこんだ。
ハルカの話しをすべて鵜呑みにして聞き入れていたら日が暮れてしまう。
「つまりは神の力により、異世界──、我々の世界に転移されたのですね」
「させられたのよ。その代わりにあらゆるチート能力を授けられたわ」
「恐れ入りますが、ハルカ様の
「ああ、いつものあれね。どうぞー」
すかさず右の魔眼でスキャニングをはじめるが、変換したデータが???の羅列で、クロドの頭上にも疑問符がとんだ。
理解しないほうがいいやつだ。
クロドは紅茶を淹れると、リセットボタンを押すように、お迎えの言葉を羅列した。
「改めまして、ヴィランバケーションハウスへようこそ。当ハウスでは、お客様の御心身が充分に癒されるまで、バカンスをお楽しみいただけます。再起に必要なアメニティ、アクティビティはすべてこちらで御用意させていただきますので、安心しておくつろぎくださいませ」
「癒されるまで、ねぇ。……ふぅん」
ハルカは、シュガーポットから手づかみで角砂糖を取り出し、ぽちゃん、ぽちゃん、ティーカップへ落とし入れてそのまま口をつけた。紅茶を啜る音が小気味よく響く。
淑女とは言えないその所作を、クロドはわずかな微笑みを携え、眺めているだけだった。いや頭のなかは絶賛、疑問符との戦争中だ。
ハルカは、ほう、とひと息吐き、やがて囁くようにして言った。
「……しばらく、ここにいようかな」
「はい?」
「だって音をたてて紅茶を飲んでも、クロドは怒らなかったじゃない。私、魔法を使う仕事は楽しいからいいんだけど、王宮のマナーとか、しきたりとか、そういうの疲れちゃって」
「いやご宿泊は、理由を詳しくうかがってからでないと──」
はっ、と肩を強ばらせる。
足もとにいるシマさんが、ジュリアナの鼻息にくすぐられ限界だ。
「フットマン、ハルカ様を今すぐに客室へお連れして!」
美顔の従僕たちが連ね、聖女ハルカの手をひいていく。
かくしてヴィランバケーションハウスは、とんでもないお荷物をかかえこむことになるのだった。
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