はじめての宿泊
ハウスの扉を閉めると、クロドは煙草をくわえながら受付のマクシムを激励した。
「私の留守のあいだ、
飴ちゃんやビー玉のようなフォルムで音を奏でる小袋を渡すと、マクシムは眉をひそめて言った。
「まったく、いやほんとうに大変でしたよ」
どの口が言うのか。
手もとに置かれた呼び鈴に劣る働きぶりであったが。
ジュリアナとビアンカは呆れて物も言えない。
「ではもうひと袋。お仲間のみなさんにもおくばりして」
「わーい!」
「ビアンカ嬢も、どうぞ」
「私だって、なにもしていないよ」
「まあ受け取ってください」
たとえ中身が飴ちゃんであっても、受け取り側は嬉しいものだ。ビアンカは小袋を嬉しそうに手のひらにのせて、階段をのぼっていった。
「ジュリアナ嬢もどうぞ」
「ありがとう──、えっ、これは……」
ジュリアナの手のひらには、小袋ではなくダイヤモンドのアクセサリーがのせられた。
先端で白銀の鍵が揺れている。
クロドはくわえていた煙草を指で挟み、言った。
「見事な支配人ぶりだった。ブランシェの部屋の鍵だ。対価として受け取れ」
「ブランシェ様のお部屋の!? でも、私は」
「グレイ城の修繕は想定より難しいものだった。シリルの了承も得ているから、ひと晩くらい骨を休めておけ」
「お兄さまの? そういうことでしたら……、ありがたく、宿泊させていただきます」
「よし。マクシム、ジュリアナ嬢をお部屋に」
後片付けはやっておくからと、手の甲で追いやられたジュリアナは、ちいさなマクシムの手をとり階段を上がった。中庭の上に渡された踊り場を歩くと、階段は下りになった。ラウンジの階を通り過ぎ、どんどん下へ。
「お足もとにお気をつけください」
マクシムは胸ポケットからちいさなランタンを取り出し、灯りをつけた。外は陽の明るい朝だというのに、地下の闇が濃すぎて先が見えないのだ。
ふつうのご令嬢ならば足をすくませる場面であったが、グレイ公爵家の血胤であるジュリアナは胸を躍らせた。彼女はなにが潜んでいるかわからない闇をこよなく愛している。
そんなジュリアナに対してマクシムは、あけすけに嫌な表情を浮かべた。
「未だ答えることのできない大きな疑問は、女性は一体何を求めているのか? である」
ジュリアナもまた同じように表情をゆがめた。
まただ。マクシムの不可思議な妄言が出た。哲学的なようで、遠まわしに馬鹿にしてない?
「それはひとりごと? 答えが必要ならば、今は部屋の場所を知りたいのですが」
「着いておりますよ。こちらがダイヤモンド・ルームでございます」
右手に現れた扉に鍵をさし、奥へ押しこむ。
扉の向こう側に、ジュリアナは感嘆と声をあげた。
「わぁ! きたない!」
部屋のインテリアやアメニティに目がいかない。
ガラス張りの足もとの奥は海、珊瑚の森を泳ぐ魚の情景が広がっているが、そもそもガラスの上は足の踏み場がないほど菓子袋やちり紙が散らばっている。
もはや海洋ごみと言って過言ではない汚なさだ。
「清掃は!」
「見てわかりませんか? まだ入っておりません」
マクシムはどこから持ってきたのか、新しいシーツと枕カバー、それからおおきなゴミ袋を二枚、ジュリアナへ手渡し、言った。
「はじめての宿泊がダイヤモンド・ルームなど、前例がありません。私は認めませんからね!」
「あなたに認められなくても、別に構いませんが」
ハウスキーパーになった覚えはない。
「可燃ゴミと不燃ゴミはしっかり分けてくださいね。明朝回収に伺います、それでは」
華麗に踵を返し闇の奥へ消えると、その従僕はジュリアナに有無を言わせず、扉を閉めたのだった。
ガラス張りの床からゴミを取り除き終えたのは、ジュリアナが部屋へ立ち入ってからおよそ一時間後のことだった。壁かけ時計が無駄に壮大なカッコーのさえずりでディナータイムを知らせる。
「お腹すいた……」
つぶやくと同時に扉がノックされる。
おのれマクシムと勢いよく開けると、そこに立っていたのは支配人のクロドであった。その怜悧な顔の下には、湯気がとまらぬふた皿のビーフシチュー。
「さあ飯の時間だ、食べようぜ」
くわえ煙草で言う。
喋るたびにハラハラと落ちる灰は皿に入ることはなかったが、ガラス張りの床を汚した。
ジュリアナが片頬を吊り上げて言う。
「食べよう? まさか支配人のあなたが、わたくしの部屋で、わたくしと食事を共にするおつもりですの」
「実は少し話しがあってな。二十分後に予定客が入っているから、この休憩時間しかないんだ」
少し話しがあると言い訳をして、無神経に部屋へ入ってくる男は苦手だ。元婚約者のアドリーは毒ヘドロで追い返したが、時間は限られた二十分のディナータイム。相手は宿泊場所の支配人だ、客にやましい気持ちなど微塵もないはず。
「……食事中は、煙草を吸わないでくださる」
「わかった、わかった」
ジュリアナの許可を得たクロドは踊るようにして部屋へ入ると、火のついたままの煙草を胸ポケットにしまおうとした。すかさずジュリアナがソファテーブルに置かれた鈍器のような灰皿を差し出す。
「ちょっと! 煙草の火を消す場所くらい考えてくださる」
たまに胸ポケットからクロスを出すところを見かけている。衛生的にどうかと思うのだ。
「はい、はい」
新妻に小言を言われて喜ぶ男のように、によによと顔をゆるめて煙草を灰皿へ置くと、器用におしぼりでダイニングテーブルを拭きあげシチュー皿、それからパンとチーズをならべた。
「変なとこ几帳面よね」
「レディ・ジュリアナ、こちらへどうぞ」
「婚約破棄された令嬢にレディは失礼ってご存知?」
なにを言っても難色を示すことなく、四脚あるうちの真向かいの椅子に腰を入れる。
「マダムと呼ばれたいのなら、もう少し肉をつけないとな」
すきま風のふく胸もとを見据えて言う。
ジュリアナは本意でビーフシチューの肉にフォークを突き立てた。
「あはは、すまんすまん。浮ついて、つい本心が」
「本心」
「サイズの合うドレスは何枚か調えてあるから、すぐにマクシムに持ってこさせよう」
ハウスで採寸した覚えはないのだが。
ジュリアナはそれ以降、苦言を呈することはなかった。フォークで突いた肉を口に運んだ後では。
「なにこれ……! すごく美味しい!」
「だろう? 俺が作ったんだぜ。パンもほら」
ミドルサイズのフランスパンを手で豪快に半分に割ると、目にわかるほど湯気がでた。
「焼きたて!」
「食べてみろ」
受け取ったまま流れるように歯でちぎると、クロワッサンのような軽やかな歯触りのあとで、なかの生地が泡のように弾けて消えた。同時に鼻に抜ける、酵母の香り。葡萄だ。まるでワインを飲んだような後口。
「美味しい!」
「これが赤ワインで煮こんだシチューとよく合うんだ。浸して食べてみろ」
「そんなお行儀の悪い──はい、美味しい!」
「チーズは」
「ください!」
クロドがラクレットチーズにペティナイフを当てれば不思議と、ほどよく溶けたチーズがパンにのる。
「美味しい……」
ちょっと涙がでた。
城の修復に追われた日々からの、肩を張る支配人代理とゴミ掃除までの労働が、美食に拍車をかけていた。
「あなたのような人から、一体どうしてこんなに美味しいものが生まれるのかしら……」
「失礼だな、おい」
一度気がゆるんでしまうと、次には胸の隅っこにしまっていた不安心がふくらんでくる。純血の魔法使いの血胤でありながら、悪役へ仕立て上げられたセリーヌと自分を重ねた。
「わたくしは、セリーヌ様のような悪役令嬢になりたくない」
「お前は大丈夫だろ。御しやすいが、しっかりしたたかだからな」
クロドの本心を前にして、うなずくことも否すこともできない。
「城がなおったところで振り出しに戻るだけ。わたくしはこれから、なにをして生きていけばいいの」
「ご自由に。好きなことして生きりゃあいいじゃねぇか」
「わたくしは、グレイ公爵令嬢よ? グレイ家に生まれた娘は必ず王族に嫁がなければならない。それができないのなら、歴史に残る悪役を演じるまで。でも悪役ってなに? なにをどうしたら悪役と胸を張れるの?」
悪とは。
ジュリアナは、子どもでもわかる悪者の定義を涙まじりに、ヴィラン・バケーションハウスの支配人へ尋ねた。今どき善悪がわからなくて許されるのは、丸いツノに紅いリボンをした青い
さすがのクロドも呆然とした。
「悪役がわからない悪役令嬢とは」
善者にほだされ考えを改め、悪役をやめていく令嬢は数多い。いや、カウンターに座るほとんどの悪役令嬢の末路と言えるだろう。悪役を演じきり殺されるか、悔い改め惨めな余生を生きるか。
彼女たちのように逆風にさからうことに疲れたのなら少しはわかるが、ジュリアナにはそよ風すら吹いていないというのに。
「お前はもう黙って食べていろ」
シチューを一気に腹へ流しこんだクロドは席を立つと、備えつけのキッチンで湯を沸かし始めた。それからティーセットをならべながら、遠慮がちに言う。
「これから話すことは、耳に入れるだけでいい」
「ああ、少しっていう話し。言い訳ではなくほんとうにあったのですね」
お前の元婚約者も、大事な話しがあったと思うぞ? 素直になれない男の少しは、一大決心であることが多い。
そう言いかけて、やめた。
「お前はまだ若い。習わしに囚われ、見えていないだけで、ほかにも選択肢は多いにある」
「選択肢? 何度も言っているでしょう。グレイ公爵令嬢のわたくしに選択肢など──」
不満げにパンをシチューに潜らせるジュリアナへ、クロドははっきりと三つ目の選択肢を掲げた。
「そこで、だ。ここで働いてみてはどうだ」
「清掃係?」
露骨に嫌な顔をする。
「
角に寄せられたゴミ袋を一瞥して言う。
「お前はいまだ謎の多い闇の魔法に詳しく、禁忌魔法にまで精通している。その知識をここで活かしてみたくはないか」
「悪役令嬢の手助けに?」
「俺が教えてやれることもある。たとえば──、回帰薬やミルクセーキの作り方」
「それ、ほんとうですの!?」
シチューばかりに落としていた目をクロド一点に集中させる。
「それにカウンターに立っていれば、悪役令嬢たちの話しのなかから様々な国の情報が手に入る。気になる国があれば、労働の対価に転移させてやろう。その、王族はバルドレンの外にもいるからな」
「働きながら結婚相手を探せってこと?」
「別に、そうしろとは言っていない! あくまで選択肢のひとつとして言っている」
「わかってるわよ」
爽やかな柑橘の香りが広がる。
疲労をやわらげるシトラスの皮を削り、茶葉に香りを移している。
今すぐに口を潤したくなったジュリアナは紅茶のオーダーに、おおきな口を開けて声をあげようとしたが、
「今すぐに返事はいらない。頭の片隅にでも置いておけ」
クロドに止められ、大人しく食後の紅茶を待った。
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