偽りの魔女(上)
地図の最北端に位置するバルドレン王国は、世界と分断されたように岩山に囲われ、孤立している。航路は空に限り、水源は地下水のみ。洞窟からの抜け道を利用すれば徒歩で行き来は可能だが、岩山を抜ければそこは翼竜の渓谷。冒険者の八割が彼らの餌食となる。そして翼竜の棲家を見上げれば冥界の砦──グレイ城が、そびえ立っているのだった。
城主の愛娘、ジュリアナの悲鳴が渓谷に轟く。
「お兄さま……! おかえりでしたの!」
ジュリアナが嬉々とし迎え入れた紳士の名は、シリル。ジュリアナの八つ上の兄であり、バルドレン王国の外交官の傍ら、次代当主として冥界にて、闇の魔法の源である炎を管理している。外交官の仕事との両立で月に一度しか実家に戻れないことが彼の悩みだ。
歳の離れた可愛い妹にひと月も会えないなんて。
シリルはグレイ公爵家独特の強面の上で涙を決壊させ、再会を喜んだ。
「ああ愛しのジュリよ……! 息災であったか!」
「ええ、体は元気よお兄さま。ただ婚約破棄された今、グレイ公爵家の未来は暗転してしまったわ。私のせいよ、ごめんなさい」
「どうか自分を責めるな。責めるなら王子にしろ、今からこの兄シリルが息の根をとめてやろうぞ」
ニタリと笑うその笑みは、帰路に着くまでに二、三人を殺めてきた顔をしている。
ジュリアナは兄シリルの唇に人差し指を添えて、「メッ」と殺戮を制した。
これだから齢二十六にもなって恋人ひとりできやしないのだ。やはり血胤を守るには、自分が王家に嫁ぐしかないのかと思い入りながらも、談話室のなかへと兄の背中を押した。母のエルサがお待ちかねだ。
「婚約破棄の件だけでなく、下界の話しは度々耳に挟んでいたが──、これは一体、どうなっているんだ」
シリルがクッションを指さして言う。母は待ってはいたが、人をダメにする緩衝材に包まれての歓迎であった。
「シリル、はぁい」
アイマスクにしていた魔導書をはぎとり、むくんだ顔でご挨拶。手の届く範囲に三日ぶんの食糧と紅茶が置かれたサイドテーブル。お気に入りのブランケットの上では魔女の使い
ジュリアナが、かくかくしかじかと事の成り行きを説明すると、兄のシリルは母を小荷物のように肩にのせた。
「さあ、ジュリ。消える布とやらをクッションに被せなさい」
「お兄さま、感謝します。お父さまに頼んでもご自身が代わりに座ってしまうから困っていたの」
ジュリアナが織った絹布をクッションへとかぶせると、たちまち影ごとその場から消え失せた。
シリルが母をソファへ下ろしながら、空白を見据え感心する。
「ほんとうに消えてしまった」
「ビアンカという方の、特殊能力ですのよ」
「素晴らしいな。一度お会いしてみたいものだ」
「それは難しいかと」
兄と惹きあわせてみたいがビアンカは今、
ところで、ヴィランバケーションハウスはこの世界のどこに存在しているのか。バルドレン王国と同じ気候にあり、王国にはない海が近いようだが。ジュリアナの鋭い思考は、瞬く間に潰えた。
「これは、クッキーの匂い……!」
通常運転を再開した母エルサが、さっそく窯へ向かい生地を入れたのだ。
ハウスの位置は、次に訪れた際に魔法円を読めばいい。ジュリアナは自身の特等席へ腰を落とし、焼き上がりを待ったのだが。
「……ん? 城の鐘が鳴っている?」
荘厳な鐘の音が窓ガラスを軋ませる。敵襲と年末の役割が主であるが、友達の少ないグレイ城の来客の合図でもある。談話室の窓から城門が見えるため外を覗きこむと、そこに立っていたのはバルドレン王国王太子、アドリアンであった。
兄シリルが腰にささる刀を抜く。
「即刻、血祭りに処す」
「待ってお兄さま」
「なんだ。ジュリを振った男に情けは無用だ」
「断罪なさるなら、たくさん苦しませてからでないと。それに」
ジュリアナは花の笑みを浮かべた。
「せっかくのクッキーが冷めてしまうわ」
*
「そんなわけで、アドリーが会いに来ましたの」
ジュリアナはバケーションハウスに素足をつけるなり、おしぼりをもみくちゃにしてカウンターテーブルに叩きつけた。
その様子を見届けたクロドは名簿を閉じ、先ほどまで吸っていたシケモクに火をつけ尋ねた。
「婚約破棄したご本人が今になってなにゆえ?」
「最初はしおらしかったのよ? 顔を見ないから心配していたとか、元気そうでよかったとか」
「ほう」
「でもそのあとに、辛い思いをしていないか、なんて訊いてきましたのよ、信じられます? わたくしが傷ついているとすれば、すべての原因は彼にあるというのに。だからわたくし、言ってやりましたの。おかげさまで息苦しい王宮を離れられ、大好きな魔術を勉強できて、今最高にしあわせですわって」
クロドはまるで自身が言われているかのように顔を歪めた。
「そうしたらあの男、別に君に会いに来たわけじゃないとふんぞりかえったのです。ではなにしに来たのか尋ねたら、クッキーを食べに来たのだと、偉そうに!」
ジュリアナが指を差した籠のなかで、焼きたてクッキーが食べて食べてと踊っている。
「城から久しぶりにクッキーの匂いが流れてきたから、食べに来てやったのですって。王子が危険を侵してまで会いにきたのはわたくしではなく、お母さまの焼いたクッキーだったのです……!」
土産に持参したはずのクッキーを口に放りこむ。
クロドは胸の内に煙を行き渡らせながら思った。
王子の目的はジュリアナで間違いない。クッキーは虐げられたときのための、苦し紛れの言い訳だ。王家に生まれ、高慢に育った男は素直になれないものだ。クッキーの匂いが久しぶりと感じるのも、日常からグレイ城の様子を気にかけている証拠。いみじくもジュリアナは信じたわけだが。ああ言えばこう言ってしまうところがバルドレンの血そのもので、少し同情した。
「それで、王子をなぶり殺しにしたか」
「いいえ? 生殺しですわ。お望みどおりクッキーを鼻先まで持って行ってから、後は兄に任せてこちらに転移しました」
兄へ引き渡しては、なぶり殺しではないか。
「そうか、シリルが帰っているのか」
「あら、お兄さまをご存知ですの」
「
「お兄さまに?」
「ああ、最近量が増えちまってな──」
胸ポケットからまた一本取り出した煙草には、青い持ち手のフィルターにジャスミンと型押しされている。
「お兄さまが作るとなると……、さては吸うと紳士的になれる煙草ですわね? そうに違いないわ」
「失礼千万だなおい」
その代わりに泊めてやるからと鍵を差し出すが、ジュリアナは受け取らない。来客に、ラウンジの魔法円が光ったからだ。耳ざといビアンカもまた階段の手すりをすべりおりてきた。
「おふたりともくれぐれも、口出し無用でお願いしますよ」
大きめの紅茶のポットとティーセット、皿にならべたクッキーをカウンターテーブルにならべ、クロドは受付に立った。両手で持ち上げた分厚い宿泊名簿を受付に広げると、さっそくビアンカが口を出す。
「すごい量だな。常連客か」
「お気をつけください。今から現れるご令嬢は
ふたりは同時に生唾をのんだ。
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