傾国の美女(上)
「どうぞ」
クロドはくわえ煙草のまま、片手間でおしぼりを放りなげた。
慌てて受け取った令嬢の名は、ジュリアナ・グレイ。彼女の身分を宿泊名簿より付け足そう。古より闇を司る魔法使いの血胤を守りしグレイ公爵家の長女。王太子との婚約を破棄され、王宮の出入りを禁じられた憐れなご令嬢である。
「ちょっと、わたくし立派なリピーターよ。丁重に扱いなさい」
「悪役令嬢の度重なる
「なんですって!」
キャンキャン吠えながらもカウンターの席についたジュリアナは、これみよがしに片頬におしぼりを当てた。
「さあ、あれからわたくしになにがあったのか尋ねなさい」
「昨日の今日で? だいたい察しがつくわ」
呆れ果てたと言わんばかりにジュリアナの顔面めがけ煙を吐く。
「ゲホッ、ゴホッ、けむい! クサい!」
「いいから、痛みがひいたらすぐに帰れ」
ブツブツとグチをこぼしながら煙草の火を消す。
「ミルクセーキは?」
「二度とやらんと言ったはずだ」
「今日は飲めるまで帰りません」
どの口が言っているのか。見やれば絶妙に唇を突き出し、えくぼを作っている。腹が立つほどあざとい。
「帰らないならせめて、大人しくしていろ」
そう言いながらクロドは受付へ向かうとその場を通り過ぎ、外へとまわった。その手に宿泊名簿はない。代わりに腕に真っ白なクロスをかけ、身だしなみと共に息を整えた。ジュリアナや、昨日の令嬢と出迎えかたが異なる。
「時間だ」
おもむろに魔法円のなかで片膝をつき、頭を下げた。次に上がったクロドの顔は彼のものだが、彼自身のものでもない。今しがた転移してきた姫君へ送る、最上級の微笑みを携えていた。重心を探るようにからだをふらつかせる姫君の耳もとで囁く。
「なんと御労しいことか」
「あ、なたは……?」
「わたくし、ヴィラン・バケーションハウス支配人のノワ・クロドと申します。さあ、こちらへ」
クロドは寄りかかってきた姫君を受けとめ横抱きにすると、カウンターからほど近い、ラウンジのソファへと優しく下ろした。
あんぐりと口を開けた間抜けづら代表のジュリアナを横切り、おしぼりと水の入ったグラスを持って姫君のもとへと舞い戻る。
ジュリアナは心のなかで叫んだ。
差別だ!
無理もない。
ジュリアナは年齢的にもまだ垢抜けず、美女というよりは美少女の類。だがソファに横たえる姫君は、爪の先から髪の毛一本までが壮美であった。金糸の髪はビロードのように光り輝き、身にまとうリバーレースの豪奢なドレスより魅力的な白磁の肌。語り手が身分を明かす前から姫君と呼んでしまうほどの美しさである。
クロドは手慣れた様子でクロスに水をふくませると、姫君の唇にあてがい、そのままおしぼりで姫君の細指と、履いている紅いガラスの靴を丁寧に拭き上げた。
颯とクロスを外してから、再び跪く。
「ご宿泊理由をお伺いしてもよろしいですか」
「しゅく、はく……?」
「当ハウスはあなた様の御心を癒すために存在いたします。おつらいことがあったのでしょう。わたくしめに、どうぞお話しください」
「つらい、こと」
束の間の静寂が風となってラウンジをすり抜けていく。
「わたくし、その……婚約破棄、されましたの」
ジュリアナは頬にあてていたおしぼりを口もとへとずらした。
あらやだ婚約破棄ですって!
自分を棚に上げ、クロドの「はん」を楽しみに待ったのだが。
「詳しくお聞かせいただいても?」
クロドの顔に嘲笑の色は一切ない。さらには新しく水を入れ直したグラスを差し出した。
ジュリアナはおしぼりを膝へ落とした。
差別だ!
それでも口ごたえはできない。差別が認められるほどの美しさであるし、ソファまで一定の距離がある。
「……いいわ」
姫君はさりげない所作に続くようにグラスのなかの水を飲み干すと、幼子のように話し始めた。
「私の名はマリエルよ。春の
クロドの肩に手を添え、壮美な顔面を鼻先までもっていく。
「こんなに美しいのに」
笑むために上げた口角は、まるで女神が細筆で塗ったように、淫靡な曲線を描いた。
「許せないでしょう? 私がいちばんではないなんて。だから、この笑い顔をしまったの。国一番の踊り子を観ても、世界一美味しいケーキを食べても、私は笑わなかった。皇子は慌てたわ。あの人、私の笑い顔を愛していたから」
「あなた様の笑みを垣間見れた今は、皇子のお気持ち、痛いほどわかりますよ」
土足禁止の緋毛氈に溶けこんだガラスの靴をみつめながら、クロドは微笑んだ。
「それから?」
「それから、ふた月ほど過ぎたある夜会でのことよ。私を笑わせる術がなくなり苛立っていた皇子は、そばに寄ってきた側室候補を、あやまって階段から突き飛ばしてしまったの」
「ほう。皇子が」
「私、笑ったわ……! とっても、おかしかった!」
はしたなく声を上げているのに、マリエルの笑い声は小鳥のさえずりよりずっと耳に心地よい。
「皇子もたいそうお喜びになられた。やっとあなたの笑い顔が見られたって。だから私、また笑うことをやめたわ。そうしたら、皇子は次の夜会も、またその次の夜会でも、私への愛の誓いのように側室候補たちを突き飛ばした」
「なんと……! 彼女たちに、ケガは?」
まるで深傷であることを願うように、クロドは尋ねた。
「最初の側室は足をひねり、二番目の側室は両足をくじき、三番目の側室は骨を折り歩けなくなった。皇太子妃なんて、大階段だったから打ちどころが悪くって」
息をひき、腹をかかえて笑う。
「転げ落ちて死んだわ。彼女の父親がねじ切れた首を必死で追いかけて、また転んで。傑作だったわあ……! あはははははは」
頑是なく手を叩く。そのしぐさがゆっくりと、ゼンマイが切れるようにとまった。
「はぁ……、それで私は婚約破棄。処刑も決まったわ。ただ可笑しいと思うものを、笑っただけなのに」
「処刑法は? やはりギロチンですか」
「そうよ? 罪には、罪を」
紅いガラスの靴を脱ぐ。
ガラスは透明だった。彼女の血に濡れ、紅色に見えていただけだった。
彼女のちいさな足は、指の付け根から先がすべて切り落とされていた。
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