ニクいてんし、ん?

SOLA

想い出食堂 「ニクいてんし」



「さっむぅ!!!」

 寒い!寒い!!寒い!!!

 寒くて頬がヒリヒリする。突き刺すような寒さとはこのことだろうか。

 紗雪は背中を丸めて両腕を組み歩きながら、寒い寒いとブツブツ文句を言っていた。

 今日は急に寒さが振り返したのもあるし、ここのところ暖かくなったからと着ていたスプリングコートのせいもある!

 どうにも今年は春が遅い。三月にもなってまだ雪が降る!大昔に習った三寒四温なんて言葉は南半球に引っ越したのではないかと気象庁かテレビのお天気お姉さんに問い合わせてもよくないか?

 こんなに寒いならまだ豚汁を作ってもいいかもしれない。揚げ豆腐のあんかけもいいな。いやいやあんかけチャーハンなら見た目が豪華で副菜を手抜きできるかもしれない。

 あんかけチャーハンがあれば残りは具沢山なスープと副菜にでもしよう。野菜多めのスープならば子供に野菜も食べさせられるし、あたたかガッツリメニューは晃介もきっと喜んでくれる筈だ。副菜はどうしよう?ガッツリメインに対してサッパリな和風がいいだろうか?

 甘めのおかずにはさつま芋のバター煮でも作ろう。子供が食べられるし弁当のおかずにもなる。あぁ、でもそれだと晃介が食べたいものが減るだろうか?ならば肉のおかずがあった方がいいのか?それとも副菜を野菜がありながらもボリューミィにしてーーーー。

 (ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ!)

 呪文が鳴り響くたびにカラダがぴりぴりと戦闘モードにかわる。

 目の前であまりにゆっくり歩く老婆に対してこみあげるイライラが隠せず、チッと舌打ちをしながら早足で追い抜いてみせた。

(手伝ってとは言わないけど、せめて道の端を歩いてよ!)

 戦闘モードの紗雪のを邪魔するかのように、赤信号にひっかかったので歩みを止めた瞬間、横殴りの冷たい風がびょおおおおおお!と吹いた。

 さっむ!とさらに身を丸くする。春一番と呼ばれる風は幸せのサインと受け止めたいが、太陽が出ているかいないかで寛容度も喜び度も全然違うんじゃなかろうか?

 長めの信号が変わるのを待っている間、視界には沢山の色が飛び込んでは流れてゆく。赤色の外車、白色の国産車、白と青の配送車。紫色のトラック。大きなビルのポスターでは新生活の応援をするスーツ姿の女優が眩しく笑っている。

 角地に立つ喫茶店はガラス越しにもわかるほどあたたかそう。店の外から眺めている自分はまるでマッチ売りの少女みたい。店内でコーヒーや紅茶と一緒におしゃべりを楽しんでは笑っている女性客の笑顔を見た瞬間ーーーー視界は土砂降りの雨のように真っ暗でなにも見えなくなった。

(あぁーー家に帰りたくないーー)

 仕事も結婚も出産も全部自分で選んだことだ。仕事だろうが家事だろうが育児だろうが嫌なことがあっても全部全部自分の責任。自分のせい。それなのにどうして涙が溢れるのだろう。

 どうして他人の幸せを見て涙が溢れるのだろう。夫と娘がいて、お金にも困っていなくてーー自分だって充分幸せな筈なのに。

(どうして?どうして?どうして???)

 首元の黄色のストールを巻き直して口を覆い、スプリングコートの胸元を締め直そうとしたのだが、手がかじかんでうまくボタンが直せない。そうこうしているうちに信号は青信号に変わってしまい、止まっていた人が、車が動きだす。そうなると自分も立ち止まっておられない。本当は服装を直したいのに、むりやり周囲に合わせて脚を動かし始めた。

 まだ寒いとはいえ三月になったせいか、通り過ぎる女性たちの服は白色、黄色、桃と見ている人間も浮かれるほど華やかなものが目に入る。目に入るポスターは桜の写真のものが多く、夢や希望に向けた誰かを応援していてキラキラ眩しい。


 世界はこんなにもカラフルとキラキラで溢れているのに!

 どうして自分が見ている世界は灰色の雪景色なの?どうして涙が止まらないの?


(どこか あたたかいところへ逃げたい)


 紗雪は立ち止まると肩かけ鞄からスマホを取り出し、夫の電話番号に発信する。もちろん仕事がまだ終わっていない彼に通じないことは前提だ。だから三回のコール前に消してしまう。かかるかどうかなんてどうでもいい。必要なのは「かけた」という事実だ。

 理由も書かず一方的に「夕ご飯を作れない」とメッセージを送ってしまえば、保育園の夕方の迎えまで自由の身だ!

 身勝手でいい。だけど夕ご飯を作りたくない自分が泣きながら作ったところでドロヘドロのような餌が出来上がるくらいならなにもしたくない。


 さぁ、どこに行こう。なにをしよう?

 ショッピングをすれば気分は晴れるだろうか?買い食いをすれば気は晴れるだろうか?雑貨屋、本屋、靴屋、それとも化粧品……行きたい場所が浮かんでは案が消える。ともかく便利な駅周辺に向かって歩いている途中、銀行の横にふと小さな路地を見つけた。

 「?」

 人がひとり通れるーー人間とすれ違うことはできるけど、相手が自転車だったら壁にくっつかないと無理なほどの小道。その狭い小さな路地は木造長屋が数軒並んでおり、ここだけ昭和にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。もう何年もこの街に住んでいるのに全く気がつかなかった。

 「なぜか」はよくわからないが、紗雪はその道を無性に通りたくなり、駅へ向かうのをやめた。建ち並ぶ二階建て木造長屋からはテレビの音は丸聞こえで、早めの夕ご飯の準備をしているのか、あちこちから出汁や醤油の入り混じったいろんな匂いがする。

 よく見れば足元にはチョークか石で描かれた白い丸や文字が遊んでいる。誰のものか判らないが、忘れて放り投げられたままの縄跳びやシャボン玉のオモチャが散らかっている。車も通らない子供たちが安心して遊べる小道なんて久しぶりに見た。自分も幼い頃はこんなとこでめいっぱい遊んだものだ。

 自分の子供たちは算数を学ぶ駄菓子屋も、塀を登ってはジャンプするような道路での遊びも、スリルいっぱいで友達と協力しあう危険な大型遊具もないから可哀想だと夫と話したのはつい先日のこと。

 「素敵……」

 紗雪が道すがら落ちている天使たちのカケラに眼を細くして歩いていると、長屋の数件先で濃い目の紅色の暖簾をかけようとしている着物に割烹着姿の女性が目に入った。その女性の後ろの店は居酒屋だろうか?実際に店の前まで歩いてみれば、ガラス越しでもわかる。

 (あぁ きっと あたたかい場所だ)

 「開いてますか?」と紗雪が聞くと、「ちょうど開いたところよ」と女将が微笑む。目尻のシワとケバケバしくない赤い唇がとても艶やかで、自分にはまだない大人の女の色香とどこか安堵を感じた。


 ガラガラと音を立てて店内に入ると、ふわりとあたたかな蒸気に包まれる。レトロな白い石油ストーブの上ではシュンシュンとヤカンが沸いており、木製のコの字型カウンターと椅子からはこの店が何十年と続いてきた貫禄が伝わる。近所の夕餉や交流を支えてきたのかもしれない木のカウンターは、ツヤツヤテカテカとしている。

(これ、絶対アタリの店!)

 期待が膨らみ、高鳴る胸でワクワクと店内をぐるりと見渡すのだが、カウンターの上にも壁にもどこにもメニューがない。

 いや、あるにはあるーーだがあるのは『豚汁定食』のみ。その横には『お酒はお一人さま二回まで』という手書きの貼り紙のみ。

「あの、メニューは?」

 紗雪がカウンターに入ってきた女将に振り返ると、彼女は白湯を注いだ少し大きめの湯呑みを差し出した。

「特にないの。食べたいものをおっしゃっていただければ大抵のものを作るわ。フォアグラやキャビアなんてものはないけれど、揚げ出し豆腐や唐揚げとかーー待ってもらえれば皮からの餃子やカレーだって作るわよ?」

「えぇ!おもしろーい!全部お客さんの自由なんですか!?」

「ただ、仕入れにも限界があるからね?赤いタコさんウィンナーやアジフライの材料なんてある時にはあるけれど、ないときはお断りしてる。むしろ私の都合の方が多いのよ。それでもお客様にも譲歩してもらって、お互いにすり寄ってるの」

「なんか、いいですね」 

「そう?」

「飲食ってお店の都合だし、お客さんの要望を聞いてもらえることもあるけど、なんてゆーか、やっぱりお客さんの立場って弱いし、うーん、上手く言えないんですけど……」

 紗雪がそういうと、女将は魔女のようににんまりと唇だけで笑ってみせる。

「いいこと教えてあげる。ヒトはね、完全な自由を楽しむことはできないの。選択肢が多いと今度は考えることを放棄しちゃうのね?だからほんの少しの不自由を楽しむのよ」

 紗雪が女将のひとことに目を丸くしていると、女将がその瞳を捉えた。

「自分でなにを食べたいかわかってる?ないでしょう?ちょっと待ってて。今、あなたが食べたいものを出すから」

「え?は?えぇ?」

 くい、と彼女が顎で指した先。カウンター内の厨房では中華街で見かけるような大きな蒸篭がしゅんしゅん、と音を立てている!

「あたたかいものが食べたかったんじゃない?」

「なんでーー」

「主婦だとなかなかあたたかいものが食べられないものね。自分以外を優先して、席に座ってもやれ醤油をとって七味がなんだの言われて、子供の世話と夫の世話が終わってやれやれやっとで食べられる。ーーなんて頃には冷めてるのよね」

 まるで自分の生活がのぞかれているようだ!

「まぁ、あなたがあたたかいものに飢えていたのは違う理由みたいだけど」

「ーーーーっ」

 紗雪の笑顔が一瞬で消える。

(なんでわかるの?どうして職場にも、自分の親にも旦那にも言ってないことがこの人には解るんだろう?)

「……」

「……」

「……」

「……」

 沈黙は一分かもしれないし一時間かもしれない。シュンシュンとヤカンも蒸篭も湧くので店の中はサウナのようにあたたかい。

(それなのにどうして自分の心はこんなにも寒いの?)

「おまたせしました」

 女将が蒸篭から取り出し紗雪の目の前に出したのは、ふかふかやわらかな肉まんだ。

「わぁ!」

 ふかふかですべすべ。赤ちゃんのほっぺたのようにふくふくとしたソレを手に取ると、自分の手のひらよりひとまわりかふたまわりも大きくじんわりとあたたかな球体を優しく両手で包んだ。

「あったかーい……」

 肌より少し高めのあたたかな球体が冷える指先をじぃんと優しく温める。親指でチカラを入れて半分に割ると、湯気と一緒に中の具材が現れた。ホコホコの具材が、湯気が、匂いが「食べて!食べて!」と誘ってくる。


 豚肉と玉ネギのあいまった強めのニオイが鼻先をくすぐって。はぁ、と匂いに酔いしれて、ガブリ!と熱すぎのソレを頬張ると、「あふ、あふ」と口の中で転がしながら飲み込んだ。

 出された肉まんはコンビニなどで売られているそれよりかなり熱めだ。甘味のある皮の次にしょっぱめの肉が襲ってきて、熱々の肉汁のせいで口の奥が火傷をしてしまう!

 それでも美味しくて美味しくて止まらない‼

 あふ!あふ!(熱い!熱い)と涙目になりながらも、はがはが、バクバク、ガツガツが止まらないまま、とうとう、紗雪は休憩なしに最後の一口をゴクンと飲み込んで完食してしまった。

 肉まんと一緒に出されていた水をゴキュゴキュと音を立てて一気に飲み、空いたグラスをカウンターにドン!と勢いよく置くと同時に紗雪は「はぁーーーー!!」と天井を仰いだ。

 お腹が、全身があたたかい。ぎゅ、と握った指先に力がこもる。先ほどまで冷えきってマトモにボタンを触れなかった指先は嘘みたいに暖かさが染み渡っている。

 まるで自分が蒸篭で蒸されたホコホコの肉まんになってしまったみたい。


「美味しかった?」

 食べ終えたのを見計らって、女将が笑いかける。

「はい。熱かったんですけど、なんだか美味しくて、止まらなくて。こっちが肉まんになったみたいにポカポカしてます」

「よかったわ。私の意見の押し売りで悪いんだけど、肉まんてそれくらいの方が好きなのよねぇ?コンビニの肉まんてちょっとぬるくない?食べやすくしてあるのはわかるんだけど、小籠包みたいに熱々を泣きながら食べた方が美味しいと思わない?どうしてすぐに食べやすくするのかしら。別に食べながら車を運転するわけでもないでしょうに」

「ふふッーー同じことを言った人がいました」

 紗雪が少し冷めた白湯を両手で包みながら微笑むと、女将が嬉しそうに微笑む。

 「聞いてもらってもいいですか」

 紗雪がおもてをあげると、女将はカウンター越しに客を見つめている。その沈黙が「いいわよ」と黙って促してくれているので、紗雪はゆっくりと唇を開いた。


 どうしてだろう。初対面の人に自分の過去を話したいなんて。

 でも、「なぜか」はわからないけれど、「そうしたほうがいい」と思ったのだ。


 ************

 「あ」

 生理が一週間こないから。「念のため」とか「確認のため」程度だった。検査薬を試したあとには先程までの「まさか」「よもや」は数十秒で「確定」に変わった。たった数分前までは気軽にテレビを見ていたのに。心臓がドキドキバクバクして、マトモに音が聞こえない。テレビを観ながらギャハハと笑う晃介の声は地球の裏側より遠い。

 「どうしよう」「言わなきゃ」と思いながらも「言ってもいいの?」なんて頭のどこかで声がする。「堕して」って言われたらどうしよう?晃介は喜んでくれるだろうか?

(怖い)

 言いたい。一人で抱えているのは苦しい。

 それなのにどこかから不安が襲う。彼は喜んでくれるだろうか?自分たちはちゃんと親になれるだろうか。

(どうしよう、どうしたら?)

考えても答えが出なかったので、パン!と両手で頬を叩いた後、笑顔で晃介に話しかけた。


「ちょっとコンビニ行ってくる」

「どうした?」

「んー、ちょっと、買い物?」

「さっき行ったじゃん」

「買い忘れがあって」

「そっか」

 アパートの扉を閉めるとひんやりとした冷気が頬に当たった。コートも着ずに出てきちゃったーーそう思った瞬間、紗雪の指先が腹に当てられていた。

 (私の都合で振り回してるのかな)

「ありがとう」

 お臍の下あたりをゆっくりと優しくなでながら、ごめんねの言葉を飲み込んで。また一歩足を踏み出す。

 ありがとう、ありがとう、と数十回数百回も繰り返しながら歩いているうちに不思議と家を出た時よりも足取りが軽くなっていた。

 (一人なのに独りじゃない)

 歩きながらありがとうと呟いているうちに不安は「たぶん大丈夫」になって、「たぶん大丈夫」は「来てくれてありがとう」に変わっていた。さきほどは自分の心のようにどんより暗く見えた曇り空も「雪が降ってなくてラッキー♡」なんて幸せの小道具の一つ。

 紗雪が渡り終えたところで信号が点滅しだしたので「え?あなたのおかげですか?」なんて自分しか知らない存在に話しかけてしまって。数分前の自分には想像できなかった楽しみを見つけてしまい唇が緩む。


 コンビニに入れば今度はふわりと温かな空気と唐揚げの醤油の焦げたいい匂い。 「店内揚げたてででーす」の声を横切ってスイーツコーナーでチョコレートケーキ二つ入りを手にして。お酒を買うのは躊躇われるので、代わりに炭酸のマスカットソーダを一本もつ。イチゴののったケーキやシャンパンでないのがなんとも私たちらしいじゃないか。

 会計を済ませてあたたかいコンビニを出た瞬間、頬を突き刺すような風のおかげで外が冷たかったことを思い出した。コンビニ前の駐車場に停められた車の中で営業の途中らしきビジネスマンがコーヒーを飲んでいる姿は正解だ。


「晃介は驚くかな?」

 周囲には見えない、私だけが知っているヒトに話しかけるが、返事はない。


「子供が欲しくて欲しくてたまらない」なんて夫婦じゃなかった。できなかったらできないときだったし、子供はいなくても充分楽しくて幸せだったんだもの。

 なにより二人で買い物に行っては映画を観て、ときどき旅行をして、ときどき飲み歩く生活は楽しかった。喧嘩の決着をつけるためにウノをやってゲラゲラ笑っているような、それこそ自分たちが子供のようなのに。そんな自分たちに子供を持つ資格などあるのか、なんて考えまでよぎった。だからこそ先ほどは不安に襲われてしまったのだけど。


 コンビニまでの往復十分。ありがとう、と呟きながら歩くうちに、妊娠は不安でもなんでもないのだとあたたかななにかが全身を包み込んでくれて。

 間違っても「ごめんね」と口に出してなくてよかった。

あなたも私も悪者じゃないもの。

もちろん臍の下の誰かさんからの返事はない。


 **********

「マジ?」

「うん、マジ」

「いつの?」

「一ヶ月だか二週間前だか?てかそんな日付って知りたい?」

 侮蔑の眼差しまじりの紗雪の眉寄せに晃介がブンブンと首を振る。

 報告前にグラスに注がれた一杯分の炭酸はシュワシュワと可愛らしい音を立てて弾け続けていたが、くちがつけられないまま次第に泡が減ってきた。チョコレートケーキの山はゆっくりゆっくりとなだらかになってゆく。おめでたいテーブルとは真逆に、男の瞳が鈍く曇る。

「嫌だったの」

「ちがう、あの、そうじゃなくて」

「『嬉しい、やったぁ、ありがとう!天使のラッパが鳴ったよ!』までは望んでなかったけどさぁ……」

 は、と呆れたように嗤いながらも鼻の先がツンとする。


 苦しい。嫌だ。彼の薄いリアクションも。

彼のリアクションに期待すぎていた自分のことも。

ハッピーなことしか考えていなかった花畑脳な自分のことも。


 「ごめん。寝るね」

 「あ」

立ち上がった紗雪に向けてなにか言葉を発そうとしたのだが、言葉はない。それが余計彼女をイライラさせた。

 「今日はもう話したくないし。明日のことはわかんない。でもおろすとかは朝から言わないでほしいかな。言うなら夜にしてくれる?じゃね、おやすみ」

 晃介に口を開く猶予を与えない紗雪の態度はあまりに一方的かもしれない。だけど紗雪としては、自分の爆発寸前の感情を堪えるのが精一杯で。晃介の言い分を聞く余裕なんて持ち合わせていられなかった。


 本当は悔しくって涙を流したいし、彼を殴りたい。

 あぁいっそタイムスリップできたらいいのに。

 彼に報告する前まで?

 コンビニに行く前まで??

 彼とセックスする前まで???

 彼と結婚する前まで????

 イライラして涙をこらえているのに、それでもこんなときにも歯を磨いてるし、頭の中では明日の朝食の段取りを考えている。

 (お味噌汁の具材はーー明日でもいいや)


 こちらの一動を気にしないフリをしながらテレビを見ている晃介への怒りを抑えながら横切り、寝室に到達。するりと布団に足を滑り込ませると、ひんやりふわりつるりぬるりとしたマイクロファイバーの感触が爪先を包み込む。涙が頬を伝うが、次次と溢れてくるのでティッシュをあててもあてても足りない。だらだらと流れるままに枕に垂らすと枕がひんやり冷たくて。


 本当は声を出して泣きたい。だけどそうすればきっと彼がやってくる。

 今、世界で一番喋りたくない相手だ。

 大丈夫?なんて聞かれたら大丈夫と言いかねない自分のことも嫌だし、あからさまに大丈夫じゃないのにそんな質問をしてくる無神経な彼のことを許せる自信がない。

 今、口を聞いたらヤツを枕でぶん殴る気にしかなれない。

それが解決じゃないとは解っているけれど、今はそんな気にしかなれない。

 自分の理想を押しつけていたことを指摘されたら?返す言葉もない。だから歯を食いしばって静かに涙を流すほかないのだ。

 今はなにも考えたくない。明日の朝ご飯のことも、仕事のことも、晃介のことも、自分のことすらも。

 「なんかーーこんなんでごめんね」

 お腹に手を当てて話しかけてみるが、返事はない。冷めたかった毛布はゆっくりゆっくりと自分の体温と同じになっていた。

 「明日はがんばるからさ?」

 小さな声が聞こえているのは姿の見えないヒトにだけ。



 明日の朝はあたたかいモノを食べよう。

 晃介好みのご飯とお味噌汁にはしない。

 ほんの少しだけ焼いたままの食パンをコーンスープに浸そうか?

 いやいや、早めに目が覚めたらクロワッサンを買いに行ってもいいかもしれない。

 そしたら珈琲を淹れよう。

 好きなモノを食べよう。

 今の自分には世界一その資格がある。

 


 まぶたを閉じれば、ひんやりとした感触が目尻を伝う。紗雪はお腹をかかえながら、ひっくひっくと泣きじゃくる。大好きなぬいぐるみを捨てられた子供のように。同級生のグループにはじめて仲間外れにされたときのように


 **********

 目を覚ますと、隣の布団に晃介がいない。障子越しにもテレビの音が聞こえるから起きていることは間違いなさそうだがーー

 (自分のことが嫌でリビングで寝たのだろうか)

 避けられてるのかなーー不穏な予感がよぎった瞬間、胃がざわつき喉が渇く。はぁ、とため息をついたのち、意を決して障子を開けると、台所を晃介が占領しているではないか。

 「おはよ」と言えば「おはよ」と返ってくる。

「あの、これ、食べていいから」

 のぞけば家の中で一番大きく深みのあるフライパンの中には明らかに二人前以上あるチャーハン。(タイマーしていた三合全てを使いきったのか?)

「じゃ、俺、行くわ」

「お弁当は?」

「チャーハンもってくから」

 自分はすでに食べ終えたのかスプーンと皿がシンクに置かれている。料理するのに使ったらしいボウルや菜箸もそのままだ。

 「行ってくるよ」

 既にスーツ姿の彼はろくに目も合わせず、通勤鞄、弁当袋を下げてそそくさと玄関を後にした。時計を見ればまだ六時半前。いつもの出社より一時間以上も早い。だが今の自分にとっては避けられてる悲しさよりも、先に家を出て行ってくれたおかげで顔を合わせずに済んだ安堵の方が大きい。

 さて。それではそのチャーハンをいただこうか、なんて台所を見ればーー

「洗いわんのかい!」

 シンクにそのまま残された茶碗や包丁、卵を溶いた後のボウル。それらを見れば怒りが湧く人もいるかもしれない。まぁね?ネットに投稿すればすぐにでも「奥さまお怒り案件」間違いなし。だけど紗雪にはそれらを鎮火させるゴミがあった。

だって「炒飯の素」がシンクの生ゴミ入れに入っているんだもの。この家でそれを使うのは彼だけ。紗雪は使わないし、彼は日頃からマメに料理をする人間ではない。だから。

 その調味料は家に常駐もしていないので、晃介が「食いたい!」と叫んだときにコンビニかスーパーに買いに走っていた。

(ということは朝早くにコンビニに行ったのだな?)

 「彼が食べたかったから」ではないだろう。三合ぶんのご飯でたっぷり作ったのなら、そのぶん食べるのが「晃介」という人間だ。それを自分がお替りできるほどたっぷり残してあり、ましてや昼の弁当に詰めたというのだから!彼なりの「昨夜はごめんなさい」だと解釈したい。


 洗い物や放ったらかしのシンクに対して不満を述べればキリがない。だけど自分と顔を合わせて緊張したあまり、それらを忘れてそそくさと出て行ったとも言える。甘いとはわかっていても、おそらく八割は当たっている彼の行動に減点はしたくない。

 減点するよりも、ネギと卵だけのチャーハンを感謝していただこうではないか。その方がきっと美味しい。

紗雪はお湯を沸かし、味噌汁用の赤い汁碗にインスタントの中華スープを入れた。


 コウスケチャーハンを大きな口でばふり、と頬張れば、アツアツでもパラパラでもない、炒飯の素と卵の味がする。お米と玉子の甘さにインスタントのしょっぱさと濃いめの胡椒の味。彼のチャーハンは超絶美味しいわけでもないのに、なぜか後を引いて、またひとくち、またひとくち、とスプーンが動く。口の中がデンプンで甘くなってきたので、ずぅ、としょっぱめのわかめスープで口の中を洗うと、そのぬくもりが全身に染み渡って心地よくって。


「これだけなら作れるよ」といつも笑う彼の笑顔が蘇りーーーーひとつぶ、ふたつぶ、はらはらはらりと涙が溢れた。彼はここにいないのに、一緒にご飯を食べている。それがおかしくって、ウザくって、嬉しい。


「ちゃんと話さなきゃねぇ」 

誰に向かったでもない言葉を宙に放つと、指の先まであたたかくなった気がした。

 朝ご飯がパンとコーンスープでなくてよかった。朝食が自分の食べたいものでなくて嬉しい、未来が思い通りにならなくて救われる。そんな日がある。


**********


 妊娠発覚=つわり開始でもない。昨日の今日だが会社を休んで医者にも行けてないのだし、判定薬は陽性でも昨日と何ら変わらない。だからいつもと一緒。十七時半には会社を後にし、帰宅して十八時過ぎから夕ご飯の支度にかかる。夕ご飯のオカズは明日のお弁当のおかずになるように、副菜はお弁当以外にも朝ご飯やあわよくば明日の夜にも食べられるように多めに作る。


 世界はニュートラルだ。

 妊娠が判明したからって冷蔵庫のサバは本マグロにはならないし、買ってあったほうれん草が勝手にお浸しになっているわけでもない。200グラムずつ冷凍してあった挽肉が霜降りA5ランクの高級和牛になっているわけでもなければ、昨日手付かずだったチョコレートケーキは溶けた姿形のまま再び固まっただけで、買った時のように綺麗な状態に戻るわけもない。

 世界は残酷でもなんでもない。自分が期待しなければいい。それだけの話だ。


「簡単でいいか」(簡単がいいな。)

 紗雪は大きなフライパン鍋で適当に切った大きさの鶏肉を、おにぎり用に買っておいたザーサイと一緒に炒めだした。鶏肉からじゅわじゅわと出てきた油とごま油が混ざり、香ばしくも芳しさが鼻先をくすぐり、胃袋を刺激する。このまま食べても充分美味しいのだが、それでは他におかずを作らなくてはならないので、ここは我慢。弁当用に一切れ二切れだけ皿に避けたあと、ザクザクと一口より大きめに切ったキャベツをたっぷりと上に乗せ、蓋をして水分が出てきたところでさらにモヤシとネギ、ニラをのせて。いったん火を止めたら余熱で少しだけ野菜に火が通るから、あとは晃介が帰ってきたときに温めながら塩と醤油で味を調節すれば完成!

「はい、楽勝!」

 簡単なのに美味しいと高評価をもらえた鍋は今年の新入りレパートリー。雑誌で見たレシピではオイスターソース、ナンプラーやカレー粉を入れていたが、味に保守的な晃介が最初から舌鼓を打つとは思えず、自分流に醤油ベースで味を整えたのがよかったらしい。オリジナルレシピがあるなんて幸せな結婚生活を過ごせているなによりの証拠じゃないか。

 鍋の横で茹でていたほうれん草は甘めの胡麻和えにして、今夜の副菜に見せかけた明日のお弁当のおかず用だ。鍋に入れる直前に避けておいた一握り分のキャベツには塩昆布を振り、電子レンジで二分弱ほど加熱して余熱で調理すればお弁当のおかずのもう一品ができあがり。


 約三十分の戦闘終了!この時間との闘いの緊張が解けた後にどっと力が抜けるのが心地よい。昔読んだ本には「イライラもやもやするときは料理が一番」なんて台詞があった。独身の頃は意味がわからなかったが、今ならまぁまぁ解る。きっとこれからはもっとわかるのだろう。

 愚痴や怒りや不満を誰に言うでもなく、行き場のない怒りは誰にぶつけられないし、自分で消化しなければならない。

 料理をしながら無心になっているうちに、食べてくれる彼の笑顔を考えているうちに。そんな負の感情はすっかり落ち着いてしまった。

 さて、晃介が帰ってこないうちに洗濯物でも畳もうか。それでも遅くなるようなら先に風呂を沸かしてしまおうか。などと段取りを考えていたところで待ち人来(きた)る!

 「おかえーーーー」

 「なぁ!ちょっと!出かけよ!!」

 「はぁ?」

 晃介は玄関先から家に入ってこようともせず、紗雪が外に出て来るのを待っている。これは誘うフリをした命令ではないのか?

 はっきり言って紗雪はお腹が空いている。アツアツの夕ご飯を待っていたというのに!何をどうするのだ?怒りがこみ上げるが感情的に怒鳴ってはいけないからと、紗雪は黙ってオフホワイトのダウンコートを羽織った。

  時刻は十九時過ぎ。冬は日がとっくに暮れて、外は真っ暗で。通り過ぎる車のライトが眩しい。

 「どこ行くの」

 「コンビニ」

 晃介は先を歩き、こちらを振り向きもしない。手も繋がない、たった一歩二歩の距離が遠くて苦しい。

 こんなとき腕を組んで可愛らしく甘えられたらいいのに。いったい地球のどこに置いてきてしまったんだろう。

 仲直りの仕方、意地を張らない、素直な心でーーよくあるり自己啓発本にありそうなタイトルが浮かんでは消える。

(もし今、そんな本が目の前にあったら燃やすか破ってやる)

 

晃介に導かれるままについてきたネオンが眩しいコンビニ。店内はに自分たち以外に若い男性が雑誌コーナーで立ち読みしているだけでとても静か。

 「肉まん、食お」

 「はぁ?」

 誘った割には『何食べる?』『全部美味しそうだね』『三種のチーズ入りピザとかヤバいよ美味しそう♡』なんてイチャイチャもさせてくれず、彼は一人でやや大きめの肉まんを一つ注文してしまった。(まぁ支払いをしたのも彼だけど)

 「食ってこーよ」

 晃介がイートインコーナーを指すので、紗雪は黙って隣に座った。


そろそろ怒ってもいいだろうか?

黙っていれば何様だろう?

妻は帰宅するなり休憩なしで夕食を作って待っていたというのに?

それを踏みにじっている自覚があるのか?

あぁん?あたしの作る夕飯食べたくないってか?

喧嘩売られているのか?

あぁ?だったらそのケンカ、買おうか?


頭の中の紗雪がファインティングポーズをとり、今まさにゴングが鳴らんとす!な瞬間!

「どっちがいい」

目の前に現れた肉まんは明かに綺麗な半分ことは言えなかった。失敗した肉まんは七三の割合で大きさが違う。誰かと食べ物を共有することがヘタクソな彼らしさに「ぶふ」っと肩で笑ってしまう。紗雪が意地悪心でわざと大きな方を指差すと、晃介は「はい」なんてあっさりと大きな塊を渡してくれた。

 「……ありがと」

 拍子抜けだ。「ふざけんな、バカ」なんて言われることを前提にしていたから。


 はぐ、と口にした肉まんはアツアツではないけれど、醤油の味が染みた肉と甘めの皮が紗雪の心を和ませてくれる。

(そうか、お腹が空いていたのかな)

 彼への怒りやイライラは空腹のせいにして、もうひとくち、ふたくち、と口にする。

 

昨日はコンビニのケーキを前に気まずくなって、今日はコンビニの肉まんで仲直りしようとしている。夜景の綺麗な高級レストランではなく、ありきたりな食べ物に救われるのが自分たちらしい。


 「コンビニの肉まんてぬるいよな。サービスエリアのやつはそれなりにあちぃのにさ」

 「食べやすくしてくれてんじゃない?」

 「わかってねぇよなぁ」

 「コースケは熱いの苦手じゃん」

 「俺は冷ますのが好きなの。最初から冷たいのは好きじゃない」

 「わかるような……わかんないような」

 「こーゆー肉まんって家で食うとさゆが熱くあっためるだろ?」

 「うん」

 「あのあちぃのを冷ますのがいいんだよ。待つのが好きってこともあんの」

 肉まんと一緒に買っていたブラックの缶コーヒーをグビリ、と飲みながらふぅ、と一息つくと、自分の妻に向かって振り返った。

 「先輩の受け売りなんだけどさ」

 「ん?」

 「俺たちって親になるんじゃないんだって」

 「はぁ」

 「子供が俺たちを親にしてくれるんだって」

 「うん」

 「実は俺、嬉しくないことはないんだけど、昨日とかパニックっつーか……ぶっちゃけちゃんと親になれるか不安のがデカくってさ。ーーごめんな。自分のことばっかで」

 「そんなことーー」

 ないよ、という言葉は飲み込む。彼への苛立ちがあったのは事実で、それに嘘をついてはいけないし。

 「期待したあたしがバカだっただけ」

 だから代わりに濃縮還元した嫌味をお見舞いしてみせる。晃介は怒らない。それなりに嫌味や暴言を言われることは覚悟していたのだろう。

 「でも妊娠してるさゆにンなこと言えるわけないしさ?だから職場の先輩に相談したんだ。今すんげぇイクメン!って感じなのに、その人も不安だった、って言ってくれてさ。

 で、さっきの話を言ってくれたんだよな。

 立派な親になんてなろうとしなくていいって。子供が来てくれたから親になっただけだって。だから笑えって。不安なんて百億年早いって。

 これってさ?子供に成長させてもらってるって言葉って俺たちにはまだ早いとは思うけどーー」

 「言いたいことはーーわかるよ」

 

あぁそうか。彼もあたしと同じだったんだ。あたしは先に一人でそれを乗り越えちゃっただけで。その不安を見せないように彼なりに頑張ってたのに、あたしは思い通りの反応じゃないからって彼に怒ってーー。


「あたしこそ。ごめん」

「いや、さゆ悪くねぇし」

「うん、そうだね。あたしはそこまで悪くない。やっぱ昨日、殴っておけばよかったとは思ってる」

「え」

晃介がぎょ、っとおののいている。

「当たり前でしょ?喜んでもくれないし、無表情だし……怖かった。悲しかった。ーー堕ろせって言われたらどうしようってそればっか考えてた」

「言ってない!」

「うん、そうだよね、それはごめん。あたしが勝手に悪い方に考えてたの。でもね?黙ってるとそーゆーことにもなるってことも知って?

 言葉が足りない限り、自分の都合のいいようには解釈なんてされないんだからーー」

 うつむいて涙声で目を合わせなかった紗雪が晃介の目をとらえたことで、ようやっと彼にも言葉が伝わったようだ。

「うんーーそれはーーごめん」

「でもね?チャーハン作ってくれてたからさ?今日出て行こうとは思わなかったんだよね?嫌われてないって思えたし……さっきも肉まんで伝わったよ」

「?」

「あたしに大きい方くれた。あたし、思ったより晃介に好かれてるかもって思えたの」

「あ、当たり前だろ!?」

「甘えないでよ。好きってね?言われなきゃわかんないんだから」

 涙が溢れるけれど、昨日のものとは違う。頬を伝う涙があたたかいし、まるでココアを飲んだように指先が、つま先がじんわりする。


 「ま、さ?気楽に行こうよ。しっかりしてピリピリするよりさ?ドジで失敗して笑ってるさゆのが可愛いじゃん?」

 「ーー褒められてる気がしないけど」

 笑った瞬間、肩の力が抜けたのがわかった。普段口下手な彼が自分のことを可愛いと言ってるのだ。ドラマのような溶けるほど甘くてキザなセリフではないが、これが現実。大サービスだと思わなきゃ!



「帰るか」

「だね」

 立ち上がって食べたゴミを捨てていると、晃介が店内に向かおうとしているので、紗雪が引っ張って引き留めた。

「なにするの?」

「なんか買ってくかと思って?」

「なにを」

「え?夕飯のおかずとか」

「あのですねぇ?もう夕ご飯とっくに作ってあるんです?なんならお弁当のおかずまで用意してありますけど?明日も仕事だし家に帰ってからもまだ家事という仕事はあるんですよ?今回の話し合いは大切な時間だったけど、正直な話、今すぐ帰って家事をしたいのよね?今更おかずと洗い物を増やすより、片付けや洗濯を畳むとかなにかを手伝ってくれた方がよっっっっっっっぽど嬉しいの!わかる?」

「ーーはい」

 努めて声を殺しながら怒れる紗雪の気迫がすさまじい。晃介が叱られた犬のようにうなだれた。

 「ありがとうございました」店員の声を背後に二人で店を出れば。真っ暗な闇色の中を灯が走る。それをキレイ、と思えてる。だから二人は大丈夫。


 コンビニにたどり着くまではあんなに遠かったあと一歩の距離。離れていた影はくっついてる。触れていなかった指先が繋がっている。きっとこれからもこんなことはあって、繰り返しで。

 自分たちのピリピリは「しっかりしなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」でイライラは「そっちもちゃんとしてよ」で「わたし(俺)ばっかり!」で。

 押し売りはきっとこれからもあるかもしれない。だけどそんなものは、今日みたいにひとくちふたくちでやっつけてしまうのが一番!なんて肉まん(¥168)が教えてくれたよね。


***********

「って夫のことなんですけどね」

「いい話じゃない」

「子供が生まれたらコンビニのイートインで食べることすらめっちゃ贅沢って身に染みました!子供を産んでからもね、時々お土産に買って来てくれたんですけど。帰るうちにとっくに冷めちゃうから家で温めるんです。

 私がアツアツのを食べてる間に子供を見てくれるから、晃介のは冷めちゃうんですけどーーそれを美味しいって言える人なんですよね」

「素敵な愛し方ね」

「あたし、忘れてました。彼のそーゆーすごいところ当たり前にしちゃってーーホントは素敵なんだって思い出せました」

 笑いながら涙をこぼす紗雪に女将がそっと風呂敷で包んだティッシュを差し出すと、静かな店内にはぶーん!と鼻をかむ音と、ぐしゅ、ぐしゅとすすり泣く声が交互に響く。

「ここのとこ、ちょっと無理しすぎてたみたいです。どっかで家事も育児も仕事も!って完璧主義だったのかな?」

「倒れちゃうわよ。あなたも、子供も、旦那さんも、ね?」

「そうですよね。あとーーもう少し言葉が欲しいって言ってみます」

「あなたが先にありがとうを伝えていれば大丈夫」

「ほんと、それですね」

 涙を流し終えた紗雪はありがとうございましたと言って500円玉をカウンターに置く。ガラガラと音を立てて引き戸を開けたあとに振り返り、もう一度ご馳走さま、ありがとう、と頭を下げて暖簾をくぐってこの店を出た。

 長屋の並ぶ小道を歩き終え、銀行横から大通りに戻ってしばらく歩いたあと、店の名前を忘れたことに気がつき、暖簾を確かめようと戻ったのだがーー先程歩いたハズの銀行の横のあの小道への入り口が見当たらない。 

 「あれ?間違えた?」

 首を傾げて頭を掻いていると子供の迎えの時間を告げるアラーム音がけたたましく鳴り出したので、ささいな疑問は一瞬でどこかへ吹き飛んでしまって!「やっば!」と紗雪は保育園に向かって走りだした。


***********


「ただいま」

「おかえりなさい」

「……どうしたの」

晃介が帰宅するなり驚いたのは食卓に肉まんが数個並んでいたからだ。そりゃあ食べないことはないが、日ごろ、夕ご飯に食べはしない。

「待ってて。今、晃介のもあたためてるとこだから」

「うん」

「今日、ちょっと疲れちゃって」

「うん」

 昼間のメッセージの理由を深くは聞かなかったが、頭の片隅ではなんとなくわかってた。自分の方が帰宅が遅いからと娘の送り迎えも家事も妻に投げていたのも事実だ。

「あなたのぶんはお弁当も買ってあるの。でもちょっと、私、こっちが食べたくって。……ごめんなさい」

「いんでない?」

 スーツを脱いでくるよ、と部屋を出て行き、紗雪としてあまりのはあっけなさに脱力してしまった。主婦として情けない、なんて怒られると思っていたのに。


(そっか、責める人じゃなかったんだ)


 自分で勝手に自分を責めてただけだ。

「まま?」

「うん。今日はスペシャル美味しいふかふか肉まんだよ!あったかくって美味しいんだから!」


「ふかふか!」と笑う娘をぎゅぅ!と抱きしめると、きゃはは!と嬉しそうに声を出した!紗雪が笑うと、娘も笑う。

なんだか娘こそふかふかの蒸し饅頭みたい。いつだってころころ笑ってあたたかい。


「ねぇ!うちの子、かわいいが過ぎるし天使通り越して点心なんだけど!」

部屋着に着替えて入ってきた夫に向け、娘を抱きかかえながら楽しそうな妻の笑顔に夫の頬が緩む。

「点心親子だな」と晃介が笑い、「え、やば、肥った!?」と紗雪が青ざめる。

 ピピピピと電子音が肉まんが蒸しあがったことを告げるから御飯の時間にしようか。美味しいね、と彼女が二人に笑えるから大丈夫。

 食卓に向日葵を咲かせられるなら、明日もまた歩けるから。

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