晴れた心が映えソーダ

SOLA

第1話【クリームソーダ】

「映え映え映え映えうるせぇ!!!だから蠅って言われてんだよ!」

 爪先がとんがったパンプスでトイレに置かれているゴミ箱を勢いよく蹴ると、ごぁーんごあーんといい音が響くおた。ステンレス製のゴミ箱は丈夫で裕子が蹴ってもヘコみもしない。蓋が振り子運動をしてぐらんぐらんと揺れるだけだ。

「あいたたた……」

 むしろ蹴った方の爪先が痛いし。裕子としては、うずくまったまま黒いパンプスの先を黙って手で押さえつける世界で一番馬鹿馬鹿しい状況を表現する日本語をどなたかご存知ないか問い合わせたいし、なんならこの状況を例える新しい四字熟語を募集したいところだ。痛みが引いた頃には怒りの要因であったスマホを見るのが虚しくなり、付き合いの「いいね」を押す気力はとっくに消え失せていた。

 

 「DMやりやすいっすよ」「繋がりませんか」なんて周囲に言われて流されるように登録した写真投稿&共有サイトは開くたびにこちらが望んでもいない情報が降るように流れてくる。


 裕子自身は別に見なくても平気なのだが、「いいねを押してくださいね!」と後輩にやんわり脅迫される日々に少し辟易しつつあるのも事実だ。十年以上も前にSNSが普及し始めた頃から断ってきたが、結局DMじゃなくても、仲の良い人間となら電話番号を使ったメッセージでやりとりできているし。

 ただ、裕子としてはそんなに頑なすぎるのも良くないかと反省して、これを機に新文化を取り入れてみたのだがーー。さすがは自分。入会して三日も経たずに退会したくなっていた。

 そりゃまぁ確かに最初はワクワクと楽しかった。有名人を見かけるとなぜかテレビよりも勝手に親近感を抱いたのも事実だ。自分の知らない世界を知ることや新製品、生活の知恵、新たな情報を発見することが楽しかったのに、それが優先になるあまりリアルの生活をおろそかにしてしまってーー二ヶ月も経てばめんどくさいが八割。

 いっそきっぱりと退会してしまえば楽だとわかっているのだが、その勇気がでず、ボタンを押してはつながってますよアピール、なんてなぁなぁの人間関係だけは続いていて、なんだかやめるにやめづらい。

 新鮮味が薄れて興味もないのにダラダラとやめどきがわからない。もしかして不倫もこんななのかしら?


 裕子がもう一度件のアプリを開けば、新着表示には会ったこともないの誰それが食べたらしいランチのパスタや新作のフラペチーノが溢れている。バゲットが絶妙だの一緒に飲んだワインがどうのこうのといった有益になりそうな情報は一切なし!ただただリアクションに困るだけの女子特有の報告と自慢話は裕子が一番嫌いなタイプなのに!


 誰が飲んだドリンクの報告とかどうでもいいし、自分一人でカフェに行ったらスマホなんて忘れてゆっくりしてたい。一人で焼肉して酒飲んでるときなんて論の外!いちいち報告する必要もないでしょうに?

(そりゃまぁ投稿しなかったら死刑って言うなら別だけど……)

 (なんで投稿しないからって説教くらわなきゃいけないわけ?)

 (ひとりを楽しんでなにが悪いの?)

 「いいね押してくださいね!」「先輩!なんか投稿してくださいよぉ!」なんて話しかけてくる後輩が悪いわけでもない。その後輩が中心になって話題のキッカケを作ってくれているのも事実だ。

 ついつい必要最低限の仕事の話題になりがちな自分にとって、後輩が周囲と広く浅く会話するコミュニュケーション能力や技術はむしろ見習うポイントだし。

彼らの圧を精神のベンチプレス扱いするのも自分の器が小さいせいでーーーー

 「はぁ」

 ため息を吐きながら鏡を見れば、随分と眉の下がった自分がこちらを見つめている。

(まただ。また自分を責めて疲れてる)

 以前の職場では人間付き合いに疲れて病気になって。せっかく前の仕事を辞めて転職したのに、これじゃあまた繰り返しじゃない。


 鏡に映る自分はあの頃よりも確実にシワを刻んでおり、高いファンデーションや大人っぽい色の口紅を塗るようになったというのに、根本はなにも変わってない。

無理して、苦しいのに大丈夫です、なんて嘘をついてへらへらと笑って。本当は誰かに助けて欲しいのにそれに蓋を続けて病気になったあの頃のまま。

 今の裕子にSNSを退会する勇気はない。だから代わりに、スマホのサイドボタンを長押しして電源を切ってみせた。今はそれで精一杯。

 スマホを白い鞄にしまって、代わりにオレンジピンクの口紅を取り出したら塗り直して。 

心からの笑顔ではなくっても、無理やり口角を上げてみせれば、鏡の向こうの自分はなぜだか釣られて笑ってしまう。

 さぁ、「元気の出るおまじない」をしたら、ご飯を食べに帰ろう。


***********

 

がたん、ごとん、と揺れる電車はゆりかごのよう。体を任せているうちに気持ちよくなってしまい、まぶたを閉じずにはいられない。「電車は大人のゆりかご」とは上手いこと言ったものだ。ノーベル文学賞を授けるとしたらどこそこの国の大統領よりも、誰ウマな言葉を発したこの人ではなかろうか?


 夕ご飯は何を食べよう?

 冷蔵庫には一昨日の夜に多めに茹でておいたブロッコリーとほうれん草がまだあったし、冷凍庫に蒸すか茹でるために買っておいた鶏肉がある。お風呂に入っている間に茹でて放置するだけの蒸し鶏を作ろう。それをシンプルに塩胡椒や醤油で食べるのだ。茹で汁に冷蔵庫のハンパ野菜を入れれば贅沢な具沢山スープが出来上がるから、明日の夜まで食べられる一品の出来上がり。

お風呂から出たらマッサージをして、ご飯を食べながら日記を片手に今日の反省会をしなきゃ。そうしたら明日の支度。資料はできているけれど、明日の朝起きてから最終確認しやすいように準備して、カバンとパンプスを拭いて、スーツの用意をして、それからそれからそれからーーーー


(あぁーーーー)

 (やだな)

 急に電車の窓ガラス越しの夜闇に溶けたくなった自分にぞっとし、両腕で包み込むように自身を抱きしめてみせた。

 (なにかーーなにかーーーー優しいものが食べたい)

 家に帰りたくないとか、会社に行きたくない、なんて贅沢は思わない。だけど、餌のためのご飯は作りたくない。お腹は空いているのに、考えてるのは食べたいかどうかじゃなくて、栄養とかカロリーとかそんなのばかりで。自分で自分を管理している筈なのに、自分で自分を投獄してる。

 最後の晩餐なんて大したことは言わない。だけどもし、あと十分後に死んでしまうのなら、私が食べたいものは蒸し鶏と野菜スープじゃないし、きっと私の食べたいものは冷蔵庫の中にはない。

 「次は××、次は××。お降りのお客様はーーーー」

 裕子の住んでいる地元駅はあと二つ先だ。だが彼女はドアが閉まる直前に脚を動かし、光の箱からこぼれおちた。

 「降りちゃった……」

 ふり返ると扉が閉まり、がたん、ごとん、と光る箱が進みだす。箱は裕子にふりかえることもなく、住宅の小さな灯りの中をまた走りだし。闇の中で小さくなった。たった今まで自分が乗っていた電車を自分が普段降りる駅に見送るのはなんだか不思議な気分。どこかで寂しくすら感じるのだから、人間は身勝手なんだろう。

 都内といえど、住宅街の木曜日の夜はしぃんと静かで、それでも時間がまだ早いせいか、駅のホームには酔っ払いの姿も若者の姿もない。

 改札機が一つだけの小さな駅を通れば、自分の知らない街。たった二駅隣だけど、ドラッグストアが乱立し、あらゆるコンビニが乱立してはいろんなことが地元駅で間に合ってしまう昨今では、隣の駅なんて余程の用がない限り来ることもない。


 なにか食べたい、と電車を降りた。

 なにが食べたい?と自分に問うが、浮かばない。


 カツ丼?牛丼?焼肉、中華、パスタ、ハンバーグ、ラーメン、目に入るたびに「美味しそう」と思うのに、浮かんでは消える海面のあぶくのように食欲が消え失せる。

 なんだか違うのはどうしてだろう?

 「わかった!チェーンじゃないのよ!」

 足を止めてパン!と両手を鳴らすと、くるりと踵を返してもと来た道を引き返す!

 (多分ある!)

 あまり使わない駅でも「なんとなく」の土地勘はあるものだ。踏切の向こうを少し歩けば、ほらーー!カンが当たった!数軒の飲み屋が並んでいる!


 銀座や歌舞伎町のように選び放題ではないが、チェーンでない小さな居酒屋が裕子を誘う‼

昔から愛されてます!と言わんばかりに古くすすけた木造が良い感じの焼き鳥屋、隣には揚げ出し豆腐やアジフライ、本日入った魚などのメニューを入り口に貼った、いかにも酒も肴も美味しそうでしょ?と自己紹介してくる漆喰塗りの居酒屋。その隣にはアヒージョからハンバーガーまでの洋食が売りの若者向けなちょっとオシャレな外観のバル、家族で入れそうな昔ながらの中華料理屋の横には原色黄色地に真っ赤なハイビスカスののれんがかかっている沖縄風居酒屋が軒を連ねている。

「そう!これ!!これなのよ!これなんですよ!」

 どれもこれも裕子の飲み心をピンポイントで誘ってくる!

「えぇー、うぅー、どぉしよー」

 頭を抱えて真剣に悩む裕子は今なら「世界で一番幸せな悩み選手権」で優勝できるに違いない!

 二十時近いが、そんなもの関係ない。心の栄養は一粒一万円のサプリメントより大切だもの!牡蠣のアヒージョも食べたいところだが、明日もまだ会社はある。ニンニク系は週末に心おきなく堪能したい。町中華でギョーザやピータン豆腐に紹興酒も浴びたいが、安西先生、今はどちかというともっと濃いお酒が飲みたいです。ーーなんて自問自答、熟考に熟考を重ねた末に、沖縄風居酒屋に入ることにした。

 「私は『豚の角煮』と『もずくの天ぷら』の文字に勝てる一人暮らしを知らない」

とかなんとかカッコをつけながらカラフルな暖簾をくぐる裕子は世界一カッコいい。「自分では作らないものを食べたい」という己の声をよく聞いていると解釈して良いのだから。


*************


 背後ではありがとうございました、と元気な店員の声。「ごちそうさま、美味しかったです」と裕子が笑顔で扉を閉めた。

「んぁ〜!!最っ高!!」

 ご機嫌な酔っ払いは店の中まで聞こえるほど大きな声で叫ぶ。

 我が人生悔いなし!素晴らしい選択だった!心おきなく堪能した!もずくの天ぷらにたまたま注文できたゴーヤの天ぷら、偶然入っていたジーマーミー豆腐、イイ感じに味が甘しょっぱくってほろほろの豚の角煮のおかげで泡盛を二杯も飲んでしまった!もし全身が胃袋だったら「爪の先まで沖縄県です!」なんて自己紹介できる!

 風呂は明日の朝でいい!今夜は化粧を落として寝てしまおう!


 沖縄民謡や歌手には詳しくないが、ほどよく酔って気持ちの良いこんな日に「島唄」を歌わないではいられないのは四十路前の特徴だろうか。駅に向かいながら歩く足は、店に入る前よりもずっと軽いのだからーー「美味しい=正義」で間違いなし。


 家路を辿る間にも、何軒もの灯りの横を通り過ぎる。ひとつひとつの灯りが誰かを待っていて、その家その家に物語がある。

 残業の夫を待っているかもしれない、塾帰りの子供を待っているかもしれない。バイト帰りかもしれないね?その家の奥方はもしかしたら笑顔を装って不倫をしているかもしれない、子供はいじめられているかもしれない、あるいは優等生のいじめっ子かもしれない。旦那さんはモテモテで家族を愛してやまないかもしれないし、実はその逆でサラ金でキャバクラに通う人かもしれないしーー。

 どんな家にどんな物語があっても愛おしい。東京では星空は見えないけれど、広い夜宙(よぞら)の下で誰かの帰りを待つ無数の灯(ほし)が優しい。


 頬を撫でつける生温い風は東京独特だ。自分の出身地である田舎の風はもっと中身がなく厳しかったもの。やさしい風はじき春が終わるのを告げようとしている。


 ご機嫌に裕子が駅方面に歩いていると、数十メートル先が妙に明るいことに気がついた。

 「?」

 灯りに誘われるまま歩いてみるとーーガラス戸に想い出食堂と書かれ暖簾がかかった居酒屋だか食堂を発見!少し屈んで店内を覗いてみれば、コの字型カウンターに女将が立っている。メニューは見あたらない。が、裕子には【豚汁定食】の張り紙がわかる。

(小学館に許可とってあんの?大丈夫?)

 なんて疑問よりも「気になる!」が八割!

(酔っぱらった勢いだ!行け!ゴー!)

 勢い良くガラ!と音を立ててドアを開けて店内をぐるりと見渡せば、どこか懐かしい木製のコの字カウンターに椅子が並んでいる。壁には昔ながらのカチコチ振り子時計が、この空間を令和から昭和にタイムスリップさせる。

 カウンター上には大きめのガラス製の金魚鉢の中で泳ぐガラスの金魚たちが店を涼しく演出しながらも裕子を歓迎してくれるし、カウンターの中の女将が着ている涼しげな水色の麻着物のおかげで、見ているこちらも涼しく感じるからだ。

 後ろで結った黒髪がどこか艶やかで、こちらに微笑いかける熟れた唇は同性でもどきりとするほどの色香を醸し出している。


「あのぅ……ここって食堂ですか?それとも居酒屋?」

「どちらも、ってとこかしら?お酒も出す食堂ってとこかしらね?」

「メニューは?」

「お客様がおっしゃったもので、その日に作れるものならなんでも」

「お酒は?」

「注文はお一人さま二回まで」

「やっぱり!」

(なにこれなにこれなにこれ!!)

「えぇー!来てよかった!たまたま見つけてここに来たんです!嬉しい!」

 裕子が飛び跳ねそうなほどはしゃいでいるのだが、女将は魔女のようにニヤリと笑ってみせる。

「ただし。一見さんにはこちらにお任せしてもらってるの」

「へ?」

「お客様から注文はナシ。こちらでお出しするメニューを召し上がってもらうのよ」

「え?そ、それでお金とるんですか」

「あら?お値段以上の時間を過ごしていただけると思っているけど?」

「じゃあお願いします!!」

 裕子が椅子に座ると白湯と盆に載った熱めのおしぼりが渡された。

「あっつっ!あっつっ!」

 つまんでもかなりあつい!とても持てそうになんてない!熱い熱いと涙目の裕子に女将が微笑んでみせる。

「顔にあててもいいのよ?おしぼりのマスカラなんて洗えばいいだけだもの。こちらは見ていないわよ?」

「え」

 いやいやそんな禁断のーーいやいやこれでもまだ私ってば三十dーーあ!はい!やります!

 あち、あち、とおしぼりを開いてバフンと勢いよく顔に押し当てればーーーー

「ふあぁぁっぁぁぁぁーーーー」

 いやらしいような快感を連想させる声を出して叫んだら、お風呂に入ったようにトロけてしまった。


 顔だけお風呂に入ったみたい

 おじさま方がやるの、正解だわぁ

 てか、これ、やらない方が間違いじゃない?

 あぁ、これ、毎回やりたい

 あつあつのおしぼりを出されたら顔を拭かないと罰金とかもう法律で決めちゃえばいいのに


 「あとは家に帰るだけでしょう?鎧ならここで脱いでいってもいいんじゃない?」

 化粧にヘアクリーム、ストッキング、五センチのパンプス。ガッチリ素材の丈夫な闘うカバン。ここ数年、鎧を着込みすぎていたことを、それに疲れ果てていたことを見透かされている。

 白湯の横にはサワー用のジョッキに氷無しの水がなみなみと注いであって。酔っ払っている自分に対する優しさに視界が滲む。こんな風に優しくされたのは久しぶりだ。ジョッキを手に取ると、ぐびぐびぐび!!と勢いよく水を飲んでは「あああああ!」と叫ぶほど大きく声を出した。


 男まさりに仕事をすれば結婚するなら可愛げがある子がいいと言われて。出会いを期待して通ったスポーツジムでもらった言葉は「痩せていても筋肉のある女は嫌」とか上から目線のお説教。

 同世代の悩みは育児や家事の話がメインで、愚痴に見せかけても家族への愛に溢れている。仕事のことを抜きにした自分の悩みなんて本当に自分のことしか考えていなくてとてもじゃないが言えなかった。


 同年代は家族で出かける穴場の公園やピクニックでのお弁当や節約テクニック話のほうが盛り上がってて、自分へのご褒美の海外旅行の話なんて興味がなさそうだし、頑張って稼いで買った高いワンピースも家族でペアルックを着た写真の前では色あせる。

 不倫をしても、結局奥さんに敵わなくて、一晩限りのセックスをしても楽しかったのは二十代までで。三十を過ぎたら快楽よりもただの義務的な作業にかわってしまって。最近ではなんのためにカラダを重ねるのかわからない程、枯れてしまった。

 誰かと比べる人生に疲れ果てて、頑張り過ぎちゃいけないって自己啓発書なんか何冊も何冊も読んだのに、ぐるぐるぐるぐる空回りばかりしている。

 (いつまで続くの?)

 受験戦争は試験が終わるまでだから頑張れた。だけど人生は頑張るのが当たり前で、いつまでなんてわからないのが当たり前で。

 仕事に、人間関係に、頑張り続けなきゃいけない未来への不安に打ちひしがれてしまっているのに、立ち止まれば誰かに怒られるし、どう立ち直ったらいいのかもわからない。


 

 カランカランカラン。聞こえるのは氷の音だろうか?女将はなにを用意しているのだろう?

(みたい!) 

立ち上がってカウンターをのぞき込みたい衝動をおさえつけて、ゆっくりとあたたかな白湯を飲んで自分を落ち着かせてみせる。

 飲食店でこんなにワクワクするのはいつ以来だろう?まるで幼い頃に知らないレストランに連れて行ってもらったときのようなーーーー。


「お待たせしました」

そう言って出されたのは、エメラルドを思わせるほど緑色が美しい、キラキラ眩しいメロンクリームソーダだった。

「わぁ!」

 濃い緑の液体に氷が浮かび、その上には乳白色のラクトアイスと、毒々しいまでに真っ赤なさくらんぼが載せてある。

「なつかしい……」

 しゅわしゅわと音をたてて弾ける泡の音が可愛らしい人魚の歌のよう。

「『こーゆーの』って喫茶店のものですよね。まだカフェが今みたいに普通じゃなかった時代の……最近はレトロブームでまた見かけますけど」

「そうね」

「私ブームとか関係なく、小さい頃からこれが大好きで……父や母とお墓参りにいくときは必ずこのメロンフロートだったんです。両親はコーヒーフロートを仲間で飲んで、私のメロンソーダも両親に分けて……うわあぁ、なつかしい……」

「まずは召し上がれ。食べ終わったらあなたの思い出を聞かせてくれる?」


***************


 裕子と学が初めて手を繋いだのは映画館の帰り道。校則で映画に行ってはいけない、なんてことはなかったが、誰かに見られたら嬉しいのに気恥ずかしいようなお年頃。うっとり二人の世界にひたるような恋愛映画を観終えた後だったからーーではなく、緊張しながら歩いていた裕子が赤信号に気がついておらず道路を渡ろうとしたのを学ぶが危ない!と引き留めたことがキッカケだった。

 付き合って数週間。学校ではあまり話せないから学校の帰り道と家での電話だけが二人の世界。セックスどころかまだまだキスもしていない。手も繋いでいない。そんな初々しいお付き合い。

「お茶する?」

 カフェどころかコーヒースタンドだって日本では概念が存在していない時代。地元には全国チェーンのファーストフードがない時代。ハンバーガーもフライドチキンもドーナッツも隣の県まで行かなければありつけなかった時代。今じゃ日本全国当たり前に点在するコンビニが存在しなかった時代。デートでお世話になるのは静かな喫茶店が相場だった。

 カランカラン、とベルが鳴る重々しいドアを開けると、二人は一気にタバコと珈琲の香りに包まれた。カウンターは常連らしい客が居るが、お喋りに夢中でこちらの方など見向きもしない。

 子供がいない、大人の社交場に恋人と訪れる甘酸っぱさと緊張感に唾がこみ上げる。

 (あたしたちってどう見えてる?ちゃんとカップルに見えてるのかな?子供っぽくないかしら?)

 テーブル席に着くと、熱めのおしぼりと水が渡された。二人ともそれには手をつけない。裕子はテーブルの上に置かれたスタンドメニューを学ぶに渡そうとしたが、学ぶは手を振って断った。

「俺はアイスコーヒーって決まってるから」

「えぇ?コーヒーが飲めるの?」

「ま、ね?」

「すごいねぇ。カッコいい……」

 家では粉をお湯で溶く甘いレモンティーをよく飲む自分にとって、甘くない嗜好品を嗜む学ぶがうんと大人に感じた。本当は目の前の男が格好をつけてる子供だということに気づきもしない少女は、まんまと男の望む言葉を差し出すことができる。

「裕子ちゃんは?」

「えー、どうしよう?」

「なんか食う?ここケーキもあるみたいだけど」

 パフェはないが、喫茶店独特の冷凍のアイスケーキを数種類扱っているようだ。他にも軽食のハムサンド、ナポリタンの名前が連なっている。昼食は食べて出てきたし、自分だけなにか食べるのは恥ずかしいし。

「うーん。どうしようかなぁ?学くんは?」

「今のとこはいいかな。とりあえずコーヒー飲んでからまた注文しようかな?」

「そだね。あ、決めた!あたし、クリームソーダ!」

 (全然大人のお姉さんぽくないけれど、これが飲みたい!)

  お待たせいたしましたといって黒光りのテーブルの上には黒々としたアイスコーヒーと緑色が溺れるほど美しいクリームソーダが運ばれた。

「美味しそう♡」

 ほころばせる裕子を見て、学も微笑む。

「あたしね、昔っからコレが好きなの」

「わかる。美味いよな。俺も昔よく食ったよ。で、弟と食うとさくらんぼが取り合いになるのな」

「夏のお墓参りのあとってこーゆーの飲まない?」

「うん。たまにパフェの年もあった」

「え?もしかして喫茶店でカレー食べなかった?」

「俺ン家も墓参りの後はカレーかナポリタンだったよ」

 二人して全く違う場所で生まれ育っているのに、八月十五日は同じものを食べている。それが嬉しくて笑うと、一気に空気が柔らかくなった。大人のカップルに見えるかどうかなんかどうでもよくなって、等身大の会話ができることがとても幸せだ。

 細長いスプーンでアイスをすくって口に運び、ストローでちゅうと甘い液体を飲み込んだところで裕子ががりがりとアイスと氷の接触部分を削りながら口を開けた。

 「あたしね?ここが好きなの。このアイスが氷とくっついてシャリシャリになったとこ」

「へ?そんなとこある?」

「あるよぉ?」

「へぇー」

「昔読んだ漫画にあったの。小学生の頃に読んで以来、そこが好き。今思うと、高校生二人が将来について話しながら食べるシーンに憧れてたんだろうなぁ」

「あぁ。なんかわかるかも」

「ほんと?」

「俺はパズーのトースト。本当に女の子は空から振ってくると思ってたし、ギャングや海賊と闘うと信じてた。それはなくっても未だに光る石はあると思ってるし。そーゆーことだろ?」

「うん」

 全く違う漫画なのに、憧れたのは全く違う食べ物なのに、お互い食べ物を通して同じ景色(未来)を見てる。

好きになった人が、あたしの大切なメロンソーダを馬鹿にしないでくれる人で良かった。どうしてだろう。それがすごく嬉しい。


「あたし、ついついアイスを先に食べちゃうんだけど、学くんは?」

「俺もそうかな」

 ドキドキするのにどこかで安心するのはどうしてだろう?


 もう少しこの人と居たいと、この人に触れたいと思いーー震える指先でアイスを恋人の口元まで運ぶと、彼は嫌がらずに「それ」を口に含んだ。唇にスプーンの先端が触れる。直接触れない静かなキスに指先から全身に電流が走った。

 「人前だろ」「恥ずかしいだろ」などと言わずにいてくれたことが嬉しくて。美味しいと可愛らしく笑う唇に、もう一度恋をしたの。


 しゅわしゅわと耳障り良く泡がはじける音は恋の音。

 バニラアイスを先に食べ終えてジュースだけ飲むのは物悲しい。

 ジュースを飲み干して残ったアイスだけ食べても氷が邪魔で美味しくない。

 メロンクリームソーダはシーソーゲームだ。

 甘酸っぱくて爽やかで、甘ったるくって、飲んだあとは舌が痺れるほどねっとりと濃い後味。なのに、クセになってやめられない。

 スプーン越しのキスも、その次のデートの別れ際にしたキスもバニラの味がした。甘くてくどくて。彼とメロンソーダを食べると、もっと食べていたい魔法にかかる。


 「また食べに行こうね」の約束はそれからも数回守られたが、高校を卒業後の大学進学を機に別れに至った。裕子は遠距離に耐えられるほど強くはなかったし、学もそうだった。    

価値観があれほど同じなんてものすごく貴重な人物だったのだと気がつけたのは、彼の結婚を噂で聞いた十年以上後のことだった。「へぇ」と笑顔でうなずきながらも、どこかぽっかりと寂しい。


 今の自分の心に住む澱は何味だろう?メロン味?それともバニラ味?

 アイスクリームを先に食べて終えて、炭酸の刺激も抜けた毒々しい液体?

 それともジュースを先に飲み干してしまったせいでアイスと氷がくっついて醜く溶けているところ?

 もっと上手にクリームソーダが食べられたら。人生は違っていただろうか。


**************


「だから最近の『映え』とかにいちいちイライラしちゃうんですかね?本当に好きだったら、幸せだったら独り占めしたいじゃないですか。大切な宝物は見せびらかしたくないじゃないですか?『お役立ち情報』とか『共有欲』とか嘘でしょ。承認欲求を満たしたいだけでしょ?なんでそれにつきあわなきゃいけないの?もっと自由に好きなもの食べればよくないですか?」


 あのときのようなキラキラと輝くクリームソーダが食べられたら。だったらあたしはそれを脳内スクショで永久保存するし、誰にも見せない。自分だけの宝物にする。一生大切にするもの。


「あなたはまず自分に優しくなさいな」

 女将も自分用に一緒に作ったクリームソーダを飲んでいたのだが、それを客と自分の境目のカウンターに置いてみせた。

「自分に厳しいってね?周りに厳しいってことよ?」

「わかっては……いるんですけど……」

 うまくできなくて、とカウンターに肘を突いて手で目を押さえつける。


「ねえ?ちょっと見てくれる?」

 女将が裕子の目の前にグラスを置いて指をさす。ジュースは残り半分ほど。その上にはあと三口ぶんほどのアイスが浮かんでいる。

「アイスを先に食べ終えてもね?残ったジュースには溶けたアイスが混じってまろやかになって美味しいわ?先にジュースを飲み干したら?アイスにはうっすらジュースのシロップが染みてメロン味のアイスが楽しめる。残った部分を『残骸』って表現することが悪いとは言わないわよ?だけどそれを『新しく美味しくなった部分』て解釈すると、幸せになれるんじゃない?」

「誰もそんなこと言ってくれませんでした」

「今私が言ったわ?あなたが見落としてただけよ。世界はそんなもので溢れてるのよね」

 

 女将が久しぶりに食べたけど美味しいわね、なんて笑うのでこの話はこれでお終い。また来たいと張り切る裕子にまたいらっしゃいと女将は微笑む。「あなたが弱った時にまた会えるわよ」と言うけれど、裕子にその意味はわからない。


 電車に乗って地元の駅へ向かう時に、そういえば店の名前を聞いておけばよかった、と気がついたのだが、まぁいい。またこの駅に来ればいいだけの話だ。夏になったらビールに角煮かゴーヤの料理を作ってもらおうかな。いやいや夏と言わず、また来週にでもあの女将に会いたいと思ってる。

 だってきっと、また、立ち上がれるもの。あの店って「そういう店」だもの。


*************


 裕子がコピー室で資料を作っている間、髪の毛をふわふわとなびかせた後輩が他のコピー機を使いにやってきた。話題は昨日の夕ご飯について。昨日はサラダと目玉焼きのせハンバーグ丼を食べたけどガッツリすぎて女子力低すぎてヤバいですよねと言いながらも、ロコモコって言われちゃいました♡と笑っている。

(自慢にみせた自虐なのか、自虐に見せた自慢なのかは聞くまでもないので裕子は黙っている)

「先輩、昨日、なに食べました?どっか行きました?」

「んー?食堂?」

「へぇ!なに食べたんですか?」

「一軒目で泡盛と豚の角煮ともずくの天ぷらとか」

「しっぶwww」

「で、二軒目でメロンフロート」

「メロンフロート?」

「知らないでしょ。無果汁のメロンソーダにアイスが浮いてるの。喫茶店でしか食べら れない『昭和メシ』よ」

「いやいや、さすがに自分も知識としてなら知ってはいますけどぉ?流行ってますし。でもそれって飲みのシメですかぁ?」

「そ」

「えー?てかそーゆーのイノスタにアゲてくださいよぉ!」

「いやーよぉ」

「えぇ〜?」

 こんなに喋りながらも裕子はダブルクリップで左端を止める手を止めない。後輩はお喋りに夢中でコピーをする手が止まってしまっている。

「だって私だけの時間だもの。独り占めしたいの。誰にも見せたくないの」

 裕子が首を傾げて唇だけで微笑む。じっと目をとらえてふふっと微笑む妖艶な仕草は女でもどきりとさせるほど。自分の知っている先輩とはどこか違う表情に、後輩が黙っていると裕子が言葉をつづけた。

「私ね、もっと人にも自分にも優しくなりたいのよね。だからもう『いいね』は押せないの。ごめんなさい」

「はぁ?」

 後輩はポカーンと置き去りのままだ。裕子はトントンと端をそろえて、三回ほど部数を確認すると「じゃ、ね」と部屋を出て颯爽と歩き出した。

 コツコツと音を立てながらもどこか軽やかな足取りは、シュワシュワと音を立て弾け飛ぶあの泡のように期待と希望で満ちている。

 




 急にブランドのバッグは捨てられないし、ヒールも脱げない、いきなりノーメイクにはなれない。

 だけど、一枚ずつなら「嘘の仮面」を剥がすことならできるから。

 だからきっと私は大丈夫。

 私はきっと今日も明日も美味しいメロンソーダを食べられる。


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