08.決断

「フロー様!」


 扉を開けると、ツェツィーリアが嬉しそうに声を上げた。


「うふふ。私、フロー様に聞いて欲しいことがありますの!」


 花のように咲く笑顔。幸せそうな彼女にフローリアンはゆっくりと近づいた。


「なに、ツェツィー」

「ふふ。実は、イグナーツ様からデートのお誘いを受けましたのよっ」


 いつもならきゃあきゃあと話し合うはずの報告。しかし今日は、ツェツィーリアが幸せであればあるほど、ドスンと胸にのしかかってくる。


「わたくし、殿方とデートなんて初めてですわ! しかもイグナーツ様となんて……嬉しくて死んでしまいそう……」


 両手を胸の前で握りしめ、うっとりとデートを想像しているその愛らしい姿。

 彼女はずっと、イグナーツのことが好きだったのだ。そのデートをどれだけ、どれだけ楽しみにしていることか。

 何があっても、ツェツィーリアの気持ちを優先させてあげたい。王弟フローリアンとの婚姻など、彼女は望んでいないのだから。


「フロー様? どうしましたの?」

「ツェツィー……」


 いつもは一緒に騒ぐはずのフローリアンが黙っているので、変に思ったのだろう。

 なんと伝えれば良いのだろうか。この顔を、絶望に染めたくはないというのに。


「……フロー様?」

「王子殿下、王太后様がお見えになりましたが」


 コンコンというノックの音と共に、ラルスの声がした。入室を促すと、母のエルネスティーネ、侍女のヨハンナ、そしてツェツィーリアの祖母である女医のバルバラが入ってくる。

 パタンと扉が閉められると、全員が中央に集まった。


「フローリアン、ツェツィーリアに説明は?」

「……まだです」

「そう。私もまだ二人に説明していないから、一緒にしても?」

「はい、お願いします……」


 凛とした母とは対照的に、フローリアンは身を縮めた。不安げに見つめてくるツェツィーリアの瞳に応えられず、目を逸らす。

 そんな中、エルネスティーネは口を開いた。


「ディートフリートが……陛下が、ツェツィーリアをフローリアンの婚約者にと言い始めました」

「……え?」


 その言葉に、ツェツィーリアはポカンとエルネスティーネを見上げた。フローリアンの胸と胃が痛みを発し始め、ぎゅっと服を掴む。


「わたくしが……フロー様の、婚約者……?」


 ツェツィーリアは身分的にも自分が婚約者になるとは思っていなかったのだろう。フローリアンを女だと知っているから余計にだ。


「決定じゃないんだよ、ツェツィー! 僕やツェツィーが強く断れば、兄さまだって無理強いはしない、と思う……っ」


 フローリアンの言葉に、反応する者はいなかった。

 皆、わかっているのだろう。

 王と伯爵の間で決定してしまえば、それには逆らえないこと。

 そして秘密を知っているツェツィーリアを婚約者にすることが、ベストだということは。


「……ツェツィー……」


 たった今、イグナーツにデートに誘われたと花のように笑っていた顔が、今は凍りついている。

 どう声をかけるべきだろうか。言葉が、出てこない。


「……わたくしが……王妃と、なるのですか……」

「ツェツィーリア……あなたがどうしても嫌だというなら、無理強いはしません。ディートフリートに、ツェツィーリアは王妃に相応しくないと告げましょう。けれど……」


 ずっと能面のように変わらなかった表情を一転、エルネスティーネは眉尻をほんの少し動かした。


「願わくば……フローの王妃となって支えてあげてもらいたいの」

「母さま! それは……!!」


 反対しようとすると、エルネスティーネの強い瞳が飛び込んできた。

 いつからだったろうか。母の涙を見なくなったのは。

 まだまだフローリアンが幼い頃は、エルネスティーネの涙を幾度か見た気がする。フローリアンもそうだが、総じて涙もろい家族なのだ。それがいつの間にか、母の目から涙が消えてしまっていた。

 ツェツィーリアを見ると、彼女は奥歯をグッと噛み締め、焦点の合わない瞳は壁を貫いている。

 どれだけつらい決断を迫ってしまっているのか。心の中でどれだけの葛藤があろうか。

 イグナーツとの未来がようやく開けた、矢先に。


 ツェツィーリアの肩が、いつもより大きく揺れて息をしている。何度も細かく吐かれる息は、絶望をどうにかして逃しているように感じて。

 そんな姿を見たフローリアンの方が、胸から込み上げてしまった。


「……ごめん……ごめん、ツェツィー……僕のせいで……っ」


 ぽろぽろと涙が溢れてくる。つらいのは、自分ではないと思っていても止まらない。

 その様子を見たヨハンナが、悲しそうに頭を垂れた。


「殿下のせいではございません。その罪は、男として育てることをお止めしなかったわたくしにございます。どうぞお恨みになるなら、わたくしめをお恨みください」


 ヨハンナもまた苦しそうで。しかし恨んだところで何も状況は変わらない。


「ツェツィーリア、ごめんね……こんなことになるなんて……」


 女医のバルバラが、孫娘の耐える顔から目を逸らして、嗚咽を漏らし始めた。

 友人として連れてきてくれた当時は、婚約者になるとは思いもしていなかっただろう。


 仲良くなんて、ならなければ良かった。

 そうすれば彼女は、幸せになれたというのに。


 愛する人と結婚し、子を成し、幸せな家庭を築けたはずなのに。


「……ツェツィー、ごめ……ごめん……っ」

「フロー様」


 泣き崩れるフローリアンの耳に、凛と澄んだ声が届く。


「泣かないでくださいませ、フロー様。大丈夫ですわ」

「……ツェツィー?」


 顔を上げると、いつもの優しい笑みをまとった彼女が、フローリアンを真っ直ぐに見つめていた。


「心配なさらなくても大丈夫。わたくしは……フロー様の婚約者となりますわ」

「……っ、ツェツィー!」


 彼女に断られていたらどうしようもなかっただろう。ほっとすると同時に、重い罪悪感がのしかかる。

 しかしそんなフローリアンの罪を打ち消すかのように、ツェツィーリアは脳髄まで安らぐような優しい声で言った。


「わたくしは、いつでもフロー様のお味方ですわ。一生そばにいられる親友なんて、すてきじゃありませんこと?」

「……うっ、ううーっ」


 女神のような声と言葉に、フローリアンは何も考えられずに嗚咽を漏らす。

 それでもツェツィーリアは優しい笑みを崩さない。


「それで良いのですね、ツェツィーリア」

「はい、王太后様」

「ひくっ、ま、でも、ツェツィー、は、イグナー……」

「ああ、これですの?」


 ツェツィーリアが常に付けているブレスレット。それをピンと引っ張った瞬間、ぷつんと千切れる音がした。

 フローリアンの目の前で、繋ぎを失った石は見る間に飛び散る。

 硬度の低いアパタイトは、ひび割れる音を鳴らしてばらばらと床に落ちた。


「なにを……っ! これは、ツェツィーの……っ」

「未練なんか、ございませんことよ。わたくしは、だいすきなフロー様の王妃になるんですもの」

「…………〜〜〜〜っっ」


 声にならない声が漏れる。

 一体、彼女はどんな思いでこれを引きちぎったというのか。

 絆を強め、繋げるはずのアパタイトは、形を失い意味を成さなくなってしまった。

 床で光る青い宝石は、まるでツェツィーリアの代わりに泣いた跡のようで。

 石に見向きもしない彼女の心を思うと、張り裂けそうになる。


「ツェツィーリア。あなたの覚悟、確かに受け取りました」


 エルネスティーネが先に、ツェツィーリアの思いを受け入れた。


「王太后様、ツェツィーリアはフロー様の良き妻となれるよう、精進いたしますわ。どうか今後とも、よろしくお願い申し上げます」

「頼みましたよ、ツェツィーリア」


 エルネスティーネの声が、かすかに震えを見せた。毅然としている母の胸の内は、もしかしたら罪悪感で潰されそうになっているのかもしれない。

 そして、そんなエルネスティーネに対して微笑みを保つツェツィーリアが痛々しすぎる。

 二人が泣いていないのだからこれ以上泣いてはいけないと、フローリアンは涙を急いで拭き取った。


「それでは、王に伝えて参りましょう。来なさい、ヨハンナ、バルバラ」


 そう言ってエルネスティーネたちは部屋を出て行った。

 二人っきりになっても、ツェツィーリアは笑みをたたえたままだ。


「ねぇ……本当にいいの? 婚約者って、いつか結婚するってことだよ?!」

「うふふ、わかっておりますわ。全て承知しております」

「でも、ツェツィーにはイグナーツが……」

「なんの問題もありませんわ。婚約していたわけでもありませんし、侯爵家と王家なら、誰だって王家を選びますもの」

「そうかもしれないけど、でも!! デート、できるって……デートなんて初めてだって……っ」


 そこまで言うと、フローリアンは言葉を飲み込んだ。ツェツィーリアの瞳が、だんだんと潤み始めていたから。


「ツェツィー……」

「大丈夫ですわ……このようなことは貴族社会ではよくあることですもの。ほんのちょっとだけ、夢を見てしまっただけですわ。もとより、お父様の決めた人のところへ嫁ぐ覚悟はできていました。それが、フロー様だっただけのことですわ」


 そうは言ってくれたが、フローリアンは女なのだ。嫁いだ相手に恋することもできない。他の誰かに恋することも許されない。


「……ごめん……僕が、男だったら……」


 たとえ、イグナーツとうまくいかなかったとしても、彼女を男として慰めてあげられた。女としての幸せを与えてあげられた。

 フローリアンとの結婚は、女としての幸せを全て捨てるということなのだ。


「フロー様、それは言いっこなしですわよ?」


 苦しくてまた涙が込み上げそうになるフローリアンに、彼女は言った。


「信じてもらえないかもしれませんが、わたくしは嬉しいのです」

「……え?」


 意味がわからず聞き返すと、ツェツィーリアは今まで見たことのない優しい顔で言葉を紡ぎ始める。


「わたくし、フロー様のお話相手にしかなれず、いつも悔しい思いをしておりましたの。ですから、こんなわたくしでもお役に立てることがあって、嬉しいのですわ」

「……っ、うう……ツェツィー……」

「フロー様は、相変わらず泣き虫さんですわね」


 泣いてはいけないと思っていても、次から次へと涙が溢れ出す。

 ツェツィーリアの優しさが胸に響いて。

 そして、申し訳なさでいっぱいになって。


 慰めるべき立場だというのに、逆に慰められてしまっている。


「ごめんね……ごめん……」

「謝るより、お礼の方が嬉しいですわ」

「うん……ありがとう……ツェツィー」


 いつもの笑顔を見ていると少し落ち着きを取り戻し、涙を拭いた。

 今頃エルネスティーネはディートフリートに伝え、ツェツィーリアを正式な婚約者とするための取り決めがなされていることだろう。

 まだ子どもである自分たちには、もうどうしようもない領域で。


「……僕たちもここを出ようか」


 移動しようと足を動かすと、嫌な感触がした。慌てて足を避けると、ひび割れたアパタイトが目に入った。


「……フロー様、わたくし、もう少しだけここに居ても構いませんでしょうか」

「え、じゃあ僕も……」


 言い終える前にツェツィーリアは首を横に振る。口元は笑っていたが……目は、今にも涙が溢れ落ちそうで。


「三十分だけで、結構ですの……どうか……お願いしますわ……」


 必死に笑顔を取り繕おうとするツェツィーリア。頭をガンと殴られたような衝撃が走り、フローリアンは扉を目指す。


 悔しくないわけがない。つらくないわけがない。泣きたくないわけがない。

 泣き喚くツェツィーリアの隣にいてあげたかった。慰めてあげたかった。

 けれど、できない。

 彼女を不幸にしてしまう自分に、そんな厚顔なことは。


 急いで部屋を出ると、ラルスが目を丸めている。


「あれ、王子。ツェツィーリア様は?」

「……少し一人にしてあげて。ツェツィーが自分から出てくるまで、絶対に誰も通しちゃダメだ」

「っは」

「僕は、少し部屋で休むよ……」

「わかりました」


 あとはラルスに頼んで、フローリアンは自室に入るとベッドに倒れ込む。

 大事な大事な友人なのに、慰めてあげることさえもできない。

 何もしてあげられない。


「くそおおお!! なんで、なんで僕は男に生まれなかったんだよぉおお!!」


 女になんて生まれてくるべきではなかったのに。

 みんなみんな、フローリアンが男であることを望んでいるというのに。


 女である自分の体を、こんなに忌々しく思ったのは初めてだった。

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