07.婚約者
ラルスへの思いは秘めたまま、なるべく恋を自覚する前と同じように過ごしていた。
そんなある日のこと、フローリアンは王である兄ディートフリートに呼び出された。父ラウレンツは床に臥していて王の間にはいないが、兄の隣には母のエルネスティーネもいる。
「どうなさったのですか、兄さま。唐突に」
「うん。フローにもそろそろ婚約者を選ばなきゃいけないと思ってね」
婚約者という言葉に、額から嫌な汗が流れる。
ディートフリートはフローリアンを男だと信じて、疑ってすらいないのだ。つまりあてがわれるのは、女に違いないということ。
「ま、待ってください兄さま。若輩者の僕などより、兄さまの方が先なのでは?」
「私にはまだ結婚できない理由があるんだよ。それよりもフローには早く結婚してもらいたいと思ってる。良い人がいるなら、なおさらだ」
「良い、人……?」
フローリアンは首を捻らせた。良い人と言われても思い浮かぶ者がいない。ラルスには気持ちを伝えるどころか恋人がいるし、恋愛どうこうなりそうなひとなどいないはずだ。
「ノイベルトの方もとても乗り気でね」
兄の一言にフローリアンは凍りつく。
ノイベルト伯爵。それは、ツェツィーリアの父親のこと。
「ちょ、待ってください兄さま! 相手は伯爵ですよ?! 我が王族に迎え入れるには、いささか身分が低いと存じますが……」
「そんなことにこだわる必要はないよ。ノイベルト家は我が王家に貢献してくれているし、フローとツェツィーリアの仲も良好だ。聞いたよ、この前の舞踏会では彼女としか踊らなかったって?」
「そ、それは……っ」
「あはは、恥ずかしがらなくてもいいさ。あの舞踏会で、フローの気持ちは周りに伝わってる。早く婚約者として迎え入れて公表する方が、余計ないさかいや波風を立てずにすむ」
にこにこと嬉しそうに笑っている兄。弟が喜ぶと思って、これっぽっちも疑っていない顔だ。それもそうだろう、フローリアンがツェツィーリアを大切に思っているのを、ディートフリートはよく知っているのだから。
これは兄に言っても無駄だと思ったフローリアンは、エルネスティーネの方に目を向けた。この状況を助けてくれるのは、事情を知っている母しかいない。
「母さま……あの、僕は……」
「わかっています、フロー。ディート、この話はもう少し先に伸ばせられるのでしょう?」
「そうだね、少しくらいなら。でも早く決めてしまった方が私は良いと思う。世の中、何が起こるかわからないからね」
「……そうね」
どうなるのだろうと不安が胸を打ち鳴らし、エルネスティーネにお願いと心で語りかけ続けた。
「とにかく一度、私とフローとツェツィーリアで話をさせてもらえないかしら。王妃教育は大変なのよ。ツェツィーリアにその資質があるかどうかを確かめたいの」
「わかりました母上、そのようにしましょう。けれどあまり、フローの恋路を邪魔しないようにしてあげてくださいね」
「そうね……わかっているわ」
話がすむと、侍女や護衛の入室が許可された。
兄の護衛騎士のルーゼンとシャイン、母のお付きの侍女のヨハンナ、そしてフローリアンの護衛騎士であるラルスだ。
「陛下、先程ノイベルト伯爵が到着し、客間の方にお通ししております」
ヨハンナがそう言い、ディートフリートは頷く。
「そうか。ツェツィーリアも一緒か?」
「はい。陛下と伯爵が会談する間、いつものようにフローリアン様とお茶をなさりたいご様子でしたわ」
「そうか、ちょうど良かった。ノイベルトをここへ呼んでくれ。母上とフローリアンは客間でツェツィーリアと話してくると良い」
「兄さま、まだ婚約は……っ」
「わかっているよ、フロー。ちゃんとツェツィーリアの気持ちを確かめておいで」
王の言葉に幾分ホッとする。
この国では、女子供の発言権はあまりない。
親が婚約者を決めたと言えば、例えそれが嫌な相手でも嫁がなければならないものなのだ。
特に貴族や王族の結婚は、利権が絡んでくるので政略は必至である。
王の間を出ると、エルネスティーネがヨハンナに女医のバルバラを呼びに行かせた。
「フロー、先にツェツィーリアのところへ行って事情を説明しておきなさい。私はヨハンナとバルバラと共に、後から参ります」
「はい、母さま……」
そう言ったものの、気が重い。のらりくらりと歩いていると、意気揚々とした足取りのノイベルト伯爵が前からやってきた。
「王弟殿下! 例の件のこと、陛下からお聞きになりましたか?」
「さっき聞いたばかりだよ。寝耳に水だ」
「そうですか、良い返事を期待しておりますゆえ、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「このこと、ツェツィーには?」
「いえ、まだ娘には。正式に決まってから伝えるつもりでございます」
「……そう」
フローリアンはノイベルトにフイっと背を向けて歩き始めた。
つまり、ツェツィーリアはまだ、フローリアンとの婚約話が上がっていることを知らない。婚約が決まってから話すというのもよくあることだ。
そこに女の意思は、必要なしとされているのだから。
後ろを付いて歩いていたラルスが、静かに声を上げた。
「王子、例の件とはもしかして……」
「言うな、ラルス。まだ決定ではないよ」
「はっ、申し訳ありません。でも良かったですね。陛下も色々考えてくださってたんでしょう」
ニコニコと嬉しそうなラルス。逆にフローリアンはイライラが募ってくる。
さすがにその様子を見てラルスもおかしいことに感づいたようだ。眉を寄せて歩くフローリアンの顔を覗き込んでくる。
「……嬉しく、ないんですか?」
「……」
返事はしなかった。するとどうやらイエスという意味にとらえられたようである。
「殿下は、ツェツィーリア様のことが大好きですよね?」
「そうだね、大好きだよ」
「だったらどうして……」
「わからない? これは
イライラとしたものが棘となって、口から飛び出した。
急に棘を浴びせられたラルスは、驚いたようにフローリアンを見ている。
「……違いますよ王子殿下。陛下はフローリアン様のことを中心に考えてくださってます。政略というならば、他に利のある家柄もあるはず。なのに陛下はわざわざノイベルト伯爵の……」
「うるさい」
低く一蹴すると、ラルスはぴたりと言葉を止めた。
そんなことはわかっているのだ。兄の優しさは、弟である自分がなにより。
客間の前まで来ると、フローリアンはスッと息を吸い込んだ。
「ラルスは中には入らないで、ここで誰もこないように見張っていてくれ」
「しかし」
「ツェツィーと大事な話がある。母さまとヨハンナとバルバラだけは入れても構わないけど、それ以外の者は部屋に近寄らせるな。いいね」
言葉尻を強く断定し、ラルスが何かを言う前にフローリアンは客間へと足を踏み入れた。
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