02.もう一度、あなたと
かちゃり、と拭き上げたお皿を元の棚に戻す。
ユリアーナは、ユーリと名を偽り、国境沿いの宿屋で働いていた。
あれから、二十三年。
ユリアーナは四十歳になっている。
「そんな事も、あったわね……」
時折、あの時のキスを思い出しては口元を綻ばせる。
あれが最初で最後の恋だったのだろうと思いながら。
貴族としての年数より、下町の娘として過ごしてきた年数の方が遥かに多くなった。
もう娘と言える年でもなくなってしまっているが。
ユリアーナの栗色の髪は、王都を出てから真っ白に変わってしまった。
当時はそれでも綺麗だと言ってもらえたが、四十歳となってしまった今ではただの
二十三年前と比べて、当然顔も老けた。
王都を追い出された母はすっかり気落ちしてしまい、なんとか励ましながらもユリアーナは働いていたが、その母も数年前に病気で他界している。
「ユーリ、あなたもう四十なんだから、お見合いでもなさいな。十七の時にここに来てから、働きどおしじゃないの」
宿屋のおかみであるケーテにそう言われるのも、一度や二度ではない。この言葉に返す文句は、二十三年前から今も同じだ。
「この国の王であらせられるディートフリート様がご結婚されたときには、私もお見合いしようと思っています」
「まーたそんな事を言って。あの王さん、結婚する気なんてなさそうじゃないか」
恰幅の良いケーテがぷりぷりと怒っているのを見て、申し訳ないと思いつつもユリアーナは微笑んだ。
そう、ディートフリートは、結婚していない。
王になった今も、まだ。
彼は、二十八歳で若き王となった。
地下水路を整備し、街道を整備し、誰にでも平等に教育を受けられるようにと奮闘している。農家や伝統技術を支援し、国外輸出にも力を入れ始めた。
元婚約者の欲目かもしれないが、ディートフリートが王となってから、国民の不満が少なくなったように思う。
唯一ある不満といえば、王がまだ独り身でいることくらいだろう。
早く世継ぎを、と叫ばれる中、ディートフリートは我関せずというように国政に夢中になっている。
だから、ユリアーナも結婚しなかった。
ディートフリートの「待っていて」という言葉。
もう年数が経ちすぎて、とっくに時効だろうなとは思っている。
最初の五年はその言葉を信じて夢見てしまうこともあったが、今ではもう諦めた。
けれども結局、ディートフリートを忘れる事はできなかった。彼が結婚した暁には自分もと思っているが、ディートフリートは四十歳になっても独身を貫いているのだ。
申し訳ない、と思うのは、
ユリアーナの事など関係なく、独身でいるだけかもしれないというのに。
どちらにしろ、世継ぎの事を考えると、もうユリアーナとどうこうなるということはないだろう。
四十を超えて妊娠する人もいるが、その数は少ない。若い女を迎える方が良いに決まっているのだから。
ふと顔を上げ、窓に映る自分の姿を眺める。もう外は真っ暗で、自分の顔がよく見えた。
「あなたも年を取ったわね、ユリアーナ……」
真っ白になってしまった髪。きらびやかな世界とは縁遠い服。
もし会う機会があっても、かつての婚約者だとは言えるわけがない。言っても信じてもらえないほどに、姿が変わってしまっている。
「ディー……あなたはこんな私に縛られてはダメ。この国の……王なんだから……」
言葉に出すと、なんだか滑稽で。
ユリアーナは一人、泣きながら笑った。
「ユーリ? ちょっといい? お客様なんだけど」
おかみのケーテが部屋の扉をノックしていて、ユリアーナは急いで涙を拭いて扉を開ける。
「お客様がいらしたんですか? こんな時間に?」
「お貴族様っぽいのよねぇ。お忍びで来られたんだと思うわ。悪いんだけど、お疲れのようだから、お風呂の用意をしてきてちょうだい」
「分かりました」
お貴族様と聞いて、ユリアーナは湯船に水を張ると、火を起こして焚き付けた。
ある程度火が燃えると、ケーテのお手伝いをしようと食堂の方に顔を出す。
するとライトブラウンに少し白髪の交じった男の人が、ケーテと話をしていた。
「……そう、今は四十歳だ。髪は栗色で、細身。身長はそれほど高くなくて……」
「うーん、知りませんねぇ。四十歳の女の子ならうちにもいますが、
ケーテがユリアーナを見つけ、こいこいと手招きしてくる。ユリアーナは言われるがまま、お客の前に立った。
「あんたと同い年の女の子を探しているらしいよ。栗色の髪で、名前はユリアーナというらしいんだが、知っているかい?」
ユリアーナの名前に、ピクリと体が反応する。
そしてお客の顔を確認した瞬間、ユリアーナの体は硬直した。
変装してはいるが、間違いなくこの国の王……ディートフリート・ヴェッツ・ラウツェニング、その人だ。
ユリアーナは思わず顔を逸らした。
こんなみすぼらしくなった姿など、絶対に見せたくない。知られたくない。
がっかりさせるに決まっている。
「もしそんな女性に心当たりがあれば教えて欲しいのだが……」
別れた当時より、もっと低くなって威厳のある声になっている。
震えそうになる手はギュッと握って隠し通す。
「いえ……そのような女性は、存じ上げません……」
「お役に立てずにすみませんねぇ〜」
ケーテがそんな風にディートフリートの相手をしてくれたが、何故か彼の視線はユリアーナに張り付いたままだ。
なるべく顔を見られないようにと、ユリアーナは俯いた。
「すまないが……あなたの名前はなんと言ったかな?」
「私は……ユーリと申します」
「姓は」
「ありません。ただの、ユーリです」
「生まれはどこだね」
「王……いえ、この町の隣の村でございます。すみません、私……お風呂に木をくべないといけませんので、失礼いたします」
ユリアーナはスカートを摘み上げてカーテシーをすると、その場から逃げて風呂場へと向かった。
パチパチと燃える木は、まだ新しい木をくべる必要もなくごうごうと燃えている。
はぁはぁと勝手に息が上がる。心臓が張り裂けそうなほどバクバクと鳴っていた。
ディートフリートは、ユリアーナを探していたのだ。
彼は、あの時の約束を守るつもりなのだろうか。
誰とも結婚せず、ずっとずっとユリアーナの行方を追っていたのだろうか。あの忙しい王政の合間に。自分自身の足を使って。
「……ディー」
嬉しくないわけはない。
会いたかった人に、ずっと好きだった人に、ようやく会えた。
けれど、身分が違いすぎる。
ディートフリートは今やこの国を統べる王。こちらは片田舎の宿屋で働く、名字すらないただのおばさんになってしまった。
ディートフリートのライトブラウンの髪は、白髪が交じっても艶やかでふわふわとしていて。
男らしく、威厳があって紳士的で。
こんな自分と釣り合うわけがないと、ユリアーナは唇を噛んだ。
せめて、もう少し若い時に迎えにきてくれていたなら。
子供を産めるかどうかも分からないこの年齢で、『私がユリアーナです』と名乗り出るわけにいかない。
彼は一般人ではない。世継ぎの必要な、この国の王なのだから。
ユリアーナは、そのままそこで木をくべながらお湯が沸くのを待った。
ちょうどいい湯加減になると、仕方なく先ほどのお客……ディートフリートを呼びに行く。よく見ると、近くにいるお付きの騎士は昔と変わらない面子で、少しだけ嬉しくなった。
「では、私は風呂に入ってくる。お前たちも気安くしていてくれ」
「は、ありがとうございます」
そんな騎士の言葉を背後に、ユリアーナはディートフリートを風呂場に案内する。
「私は湯加減にうるさくてね。ここで火の調節をしてもらえるかな」
「はい、もちろんそのつもりでございます」
お客が風呂に入っているときには、二度ほど湯加減を聞きに行くのもユリアーナの仕事だ。
ディートフリートが風呂場に入って扉を閉めると、ユリアーナは窯の前に腰を下ろした。
ざばんという水の流れ落ちる音がする。
「お湯加減はいかがでしょうか」
「うん、ちょうどいいよ。いい気持ちだ」
ディートフリートの幸せそうな声を聞けて、ユリアーナの口元は自然と弧を描く。
もう二度と会えないと思っていた人が、ついそこにいる。それだけで胸がぱんぱんに膨らんだ。
「君はここに勤めて長いのかね」
風呂の中で反響した声が、外に通る。
「はい、もう二十三年になります」
「仕事は楽しいかい?」
「そうですね。いろいろありますが、おかみさんも良くしてくださるし、楽しいです」
「このままここで働き続けたいと思っているのかな?」
「ここ以外で働いたことがありませんので、これからもお世話になりたいと思っています」
「そうか」
なんて事のない会話に幸せを感じながら、ユリアーナはディートフリートの質問に答えた。
もう二度と、こんな会話をする事もないだろう。だから、しっかりとその一言一句もらさず、心に刻みつけた。
「少し、私の話を聞いてくれるか?」
風呂の中から、低くも優しい声が聞こえてくる。ユリアーナが「よろこんで」と答えると、少し明るくなったディートフリートの声が聞こえた。
「私には昔、婚約者がいてね。同い年の、栗色の髪をした、可愛くも凛とした女の子だった。私はその子の事が、本当に大好きだった」
好きという言葉を聞いて、胸が痛くなる。ここにいる、と叫びたくなる。
「ある日、その婚約者の父親が亡くなった。その後で、彼は重い罪を犯している事が分かった。おそらく……罪を犯した真犯人に、はめられたのではないかと私は見ている」
知っている話ではあったが、ユリアーナは眉を寄せた。
一般人に、ディートフリートはいつもこんな話を聞かせているのだろうか。
名前も身分も伏せているとはいえ、こんな事を言うのは少し軽率ではないだろうかと。
ディートフリートはユリアーナの気持ちなどつゆ知らず、話を続けている。
「私はずっとその真犯人を探し続けた。目星はついたが、確たる証拠がなければ何もできない。結局、別件で地位を剥奪するくらいしかできなかった。こんな自分を不甲斐なく思うよ」
ディートフリートの落胆の声。彼はずっと、ホルストの無実を信じて動いてくれていたのだ。
それだけでもう、ユリアーナの胸は熱くなる。
「そんな風に信じてくれた人がいて、その方も救われたのではないでしょうか」
「だと良いのだけどね……私は、その娘とは婚約破棄をしてしまっていてね。真犯人を見つけ出し、彼女の名誉と地位を取り戻したら、結婚しようと思っていた。だから別れ際、彼女に『待っていて欲しい』と無理を言った」
「……」
真犯人を見つけ出したら。しかし、それは叶わなかった。
ユリアーナの地位は変わらずこのまま。王とは天と地ほどの身分差があるままだ。
王都に入る事すら許されない。犯罪者の娘という立場が変わる事は、もうないのだから。
しばらくの沈黙の後、また風呂の中から声が出された。
「時に君は、結婚しているのかな?」
「私……ですか? いいえ、独身です」
「恋人は?」
「そんな人はおりませんが……」
何故そんな話になるのかと、ユリアーナは首を捻らせた。
チャポンとお湯の跳ねる音が聞こえる。顔を洗ったのか、少しすっきりした声に戻った。
「悪いが、もう少しだけ待っていてくれるか、ユリア」
「は……え?」
「待たせてばかりで悪い」
「あの……勘違いをなさっているのでは……私はユーリで」
心臓がバクバクと鳴り、目の前は白く霞む。
誤魔化すべきなのか認めるべきなのか、頭が回らない。
すると、風呂の中からハハハと明るい笑い声が聞こえた。
「私が君を分からないとでも思っていたか?」
「……気付いて……たんですか?」
ユリアーナが認めると、さらに一段声が高くなった。
「実は最初は分からなかったよ。半信半疑ではあったがね。でも君のカーテシーを見た瞬間、ユリアーナだと確信した」
「あれだけで……ですか?」
「ユリアの挨拶は、世界で一番美しい挨拶だからね」
かあっと顔が熱くなる。
こんなおばさんになってしまって、様相も変わってしまったというのに。
ユリアーナだと気付いてくれた事が、こんなにも嬉しい。
「まだ、今は何もできない。でも、逃げずにここで待っていて欲しい。必ず私はもう一度ここに来る」
「ディー……」
たまらず昔のように呼ぶと、ディートフリートは嬉しそうな笑い声を上げた。
「久しいね。そう呼んでくれるのは、ユリアだけだ」
少年のように喜びの声を上げるディートフリート。
胸が膨れあがるようにこみ上げて、ほろりと涙がこぼれ落ちる。
「まだ、待っていて……良いんですか?」
「ああ。もう少しだけ」
「私、おばさんだけど、良いんですか?」
「私だっておじさんだよ」
「そんな事ありません! とても素敵です!」
「君も素敵だよ、ユリア。その
綺麗という言葉を聞けて、ぽろぽろぽろぽろと涙が頬を下って行く。
胸がいっぱいとは、こういう事を言うのだろうと思いながら。
「待ちます……ディーを、いつまでも」
「そんなに長くは待たせないよ。さあ、そろそろ出るか。のぼせそうだ」
そんな声とともに、ざっぱんとお湯から出る音がして。
そのあとは『お客と宿屋の従業員』を互いに演じて過ごした。
***
それから数ヶ月後。
この国を揺るがすようなニュースが駆け巡った。
現王であるディートフリートが、十八歳年下の弟に王位を譲って引退するというのだ。
ディートフリートが即位した時よりも若い、二十二歳での即位である。当然、周りからは文句も出た事だろう。
それだけでなく、ディートフリートは王族離脱を表明した。
貴族にすらならず、一般人になるというハチャメチャぶりだ。
何かをするつもりだろうとは思っていたが、まさかここまでやると思っていなかったユリアーナは、めまいがした。
少なくとも昔のディートフリートならば、責任を重んじてこんな事をするような男ではなかったはずだ。
その激震が走った翌週、ディートフリートが嬉しそうにユリアーナの働く宿屋にやって来た。
変装をしていなかったのでケーテにもすぐバレて、元王が来たと宿中大騒ぎだ。
「もう私は……いや、僕はただの一般人になったんだ。そう騒がなくても大丈夫だよ」
ふわふわと笑うその顔は、昔のディートフリートそのままで。
何から言って良いものかとユリアーナの声は震える。
「ディー……何も、王族を離脱しなくても……っ」
「そうしないと、君とは結婚できなかった。それとも、王族でなくなった僕なんて、興味ないかい?」
「そんなわけはありません!! 私は、ディーが王族だから好きになったのではないんですから」
「僕も同じだよ。王としての使命は、弟がようやく引き継ぎを決心してくれた。僕は、できる事をやったと思っている。今は、君との約束を果たしたい」
一歩前に出たディートフリートは、ユリアーナの手を取った。
「長い時を待たせてしまったね。どうか、僕と結婚して欲しい」
待ちに待った瞬間だというのに。どうしても素直に言葉が出てこない。
「私なんかでよろしいんですか? 私はもうおばさんだし、子供だって産めるか分からない」
「なら僕も同じだな。もう王族ではないし、今の僕は無職だよ。仕事を探さなきゃいけないな。贅沢な暮らしとは縁遠いだろう」
ディートフリートが明るく言うので、ユリアーナは思わず笑ってしまった。
無職と言っても彼は有能だ。どんな仕事でも、そつなくやってのけるのは分かっている。
くすくす笑うユリアーナを見て、ディートフリートは再度。
「こんな僕だけど、ユリアと結婚したいんだ」
その言葉に、ユリアーナはこくりと頷く。
「はい。私、ディーと結婚します!」
「ユリア!」
グイッと手を引かれ、体を引き寄せられたかと思うと。
いつかのように優しくキスされた。
かあっと熱くなる体。
ゆっくりと離された唇は、優しい弧を描いている。
一般人は、結婚前にキスしても良いんだよねとディートフリートは笑って。
宿にいた人たちが、わぁっと祝福の声を上げてくれた。
ユリアーナはその温かい腕の中で、ゆっくり、ゆっくりと幸せを噛みしめた。
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