エピローグ 児玉塚正樹

「美味しかったよ。ありがとう」

 正樹は片手に持っていた丸盆を美代子に渡した。盆の上には空の平皿が置かれている。徹夜明けの朝食にと、美代子が握り飯でも用意していたのだろう。丸盆を受け取った美代子は、一礼すると食器を片付けに奥へと下がった。

 その背を見送り、正樹はじっと自分を見つめる千歳へ首を巡らせる。

 優しく整った面立ちに、朽葉色の眼差しは思慮深い。その目で千歳を見つめ返しながら、

「よく眠れた?」

「……はい」

 聞きたいことは山ほどあったはずが、まだ寝ぼけているのか、頭が上手く回らない。

 鈍い反応の千歳に、正樹はにっこりと笑った。

「じゃあ、千歳。眠気覚ましの散歩に付き合ってくれるかな?」

「え?」

「いけません」

 正樹の提案を聞きつけた美代子が振り返り、すかさず却下する。相手が誰であろうと、態度を変える彼女ではない。

 盆を置いて戻ると、咎めるように正樹を見ながら、

「しばらくは安静にさせてください」

「軽い運動は必要だよ」

 正樹は柔らかく笑った。ごく自然な口調には、不思議と人を説得する力がある。

「ずっと部屋にこもりっぱなしじゃあ、そちらの方が体に毒だ。僕も一緒だから心配することはない。

 ――ちゃんと帰って来るよ」

 最後の言葉は千歳に向けて発せられたものらしい。「ね?」と、確認を取ってくるので、千歳は慌てて頷いた。

 美代子は千歳を黙って見つめ、小さく嘆息すると、

「……分かりました。あまり遅くならないようにしてください」

 美代子に念押しされて、千歳はただ頭を縦に振るだけだった。

 エントランスへ下りると、夜勤明けの警備員に挨拶をして会社を後にした。

 澄み切った大気は冷たく、吐く息は白く上がる。脳髄まで凍えそうだ。一瞬で目が覚めた気がして、千歳は身震いをしながら上着の前を合わせた。

 一番寒い時期の、それも早朝だ。快晴だが、陽光が大気を暖めるにはまだ時間がかかるだろう。

 ポン吉は千歳の影に隠れてしまった。そろそろ人通りが増える時間だ。

 姿を見られると面倒とはいえ、外気と隔たれた影の内部へ逃げ込んだ霊獣に、千歳は少々恨みがましく足下を見下ろす。

 並び歩く正樹が、うーん、と背伸びをした。

「実は殆ど徹夜明けみたいなものでね。新鮮な空気が吸いたかったんだ」

 そう話す正樹の横を、軽トラックが排気ガスを噴かせながら通り過ぎていく。

「……新鮮ですか?」

「郊外とは言え街中だ。この程度は許容範囲内ということで」

 困ったように笑いながら、正樹は千歳に目を向け、

「千歳は夢が辻を抜けると、途端に殊勝になるね」

「そうですか?」

「口数は極端に減るし、顔つきも何だか神妙だ」

「……はあ」

 そりゃあ、一応反省はしているので、と口の中で呟く。

 正樹がこのタイミングで姿を見せたのは、二人きりで話すためだろうと考えているが、何から話せば良いのか分からない。

(色々ありすぎたせいだけど)

(社長から切り出すのを待った方が無難かな?)

 正樹の横顔を盗み見しながら、あれこれと思惑を巡らせる千歳をそっちのけで、彼の上司は朝の散歩を上機嫌で満喫している。

 会話は途絶えがちだが、正樹は始終にこやかに笑いながら、

「朝はいいね。冬は特に好きだ。夜明けが遅いから、日の出も見やすい」

 などと、浮かれた様子で好きに喋り続けるので、黙っていても気詰まりは感じない。

 適当に相槌を打ちながら、結局言い出せずに正樹の向かう方角へと足を進める。いつもの散歩コースだった。

 馴染みのパン屋にさしかかり、自然千歳はそちらに目が行く。

 青色の庇の下、店名がペイントされたガラス壁の向こうには、焼きたてのパンが棚の上にぎっしりと並んでいた。客の姿も多い。地元でも有名な人気店、相変わらずの盛況振りだ。

 自動ドアが開くたび、ビニール袋を提げた客と共に、焼きたてパンの良い匂いが鼻孔を過った。

「あれ? 入るんですか?」

 当然のように扉へ向かう正樹に、てっきり素通りすると思っていた千歳は慌てて追いすがる。

「朝食、まだだったんですか?」

「美代子君のおにぎりを頂いたよ。だからおやつ用。千歳もここのパンは好きだろう?」

「それは、まあ」

 好きは好きだが、食事を買える店が近所にはここしかないので、必然世話になることが多いだけだ。

 肝心な話を一向に始める気配を見せない正樹に、千歳は煙に巻かれた気がして少々ムスッとしながら、

「――好きですが」

 口調がやけにひねくれてしまった。言ってから、これでは不貞腐れた子供みたいだと慌てるが、正樹は鷹揚に頷くだけで、気を悪くしなかった。

「美味しいし、種類も豊富だ。じゃあ、入ろうか」

 スタスタと正樹は自動ドアをくぐり、店内へ入ってしまった。

 相変わらずのマイペース振りに、千歳は肩を落とす。

(自由に生きているよ……)

 恭弥には、愛想も物分かりも良い顔をする千歳は、しかし正樹が相手だと途端に態度が尖る。

 断じて正樹のことを嫌っているわけではない。どうしても刺々しく接してしまうのは、

(付き合いが長いからだ)

 正樹と知り合ったのは、千歳が十歳の時だった。その頃の千歳の面影を、正樹は今も引きずっている節がある。

(――御神託の話、自分からする気なさそう)

(こっちから聞けとでも?)

(と言うか、どう切り出せって話ですよ)

 考える内に、徐々に不機嫌になった千歳は、そんな自分に気付いて嘆息する。

(何か当たり散らしてるみたいだ)

 この辺りが、正樹に未だ子供扱いされる所以なのかもしれない。

(へそを曲げてる場合じゃない)

正樹から話を聞かなくてはならないのだ。胸につっかえるような蟠りを、今は切り替え、千歳は遅れて店へと入った。

 正樹は、名前は広く知れ渡っているが、顔や素性の露出は最低限だ。特に近年は裏方へ回ることが増えたため、こうして店に顔を出したところで騒ぎが起こることはない。

 顔立ちや物腰からひとかたならぬと見られることはあるが、そこは控えめな視線を投げかけられる程度で済む。

 千歳も抜かりなくペンダントの仕掛けを作動させているので、目立つ心配はないが、

(なんかこう、釈然としないというか)

 正樹が堂々と髪の色を晒している姿と、周囲の客がその点についてあまり気にしていない姿を見ていると、もやもやと胸が落ち着かない。

 弦之の時も感じたが、自分が自意識過剰になっているのではないかと、ひっそり思い悩む千歳だった。

 トレーとトングを手に取ると、焼きたてのパンの匂いにつられてポン吉が影の中からこっそり顔を出した。

 周囲を見回し、売り場に置かれた焼き芋機を見つけて大興奮、買ってくれとせがんで、千歳のズボンの裾を引っ張る。

「こらっ」

 小声で窘めるが、ポン吉は目を輝かせて裾にしがみつき、引く気はない。

 潤んだ眼でおねだりをする霊獣に、千歳は小さく嘆息した。

「……分かったから、頭を引っ込めろ」

 パン屋に入ったときからこうなることは予測出来た。このおねだりをふいにして、一昨日サンドイッチを強奪された千歳としては、二度目はご免だった。

 焼き芋は量り売りだ。しかもそこそこいい値段である。

「小さいので我慢しろよ」

 釘を刺しつつ、選んだ一本をトレーに乗せると、ポン吉は嬉しそうに鼻を鳴らして影に沈んだ。全くもって、調子の良い霊獣である。

「ポン吉君はおねだりが上手いなあ」

 笑う正樹のトレーには、既に菓子パンの山が出来ていた。

「トングをカチカチさせる者がいると言うが、僕は今までお目にかかったことがないんだ。あの話は、実は都市伝説なのかもしれない」

 レジに並ぶ間、正樹が周囲を見回しながらやけに神妙に話すので、聞きつけた前に並ぶサラリーマン風の男性が、支払いをしながら失笑していた。

 連れの言動に、千歳が少々恥ずかしい思いをしながら目をそらすと、隙を突いて正樹は千歳の持つトレーの下に片手を差し入れ持ち上げた。

「へ?」

 呆気にとられる千歳を余所に、正樹は男性と入れ替わりにスタスタとレジへ進み、自分のトレー共々台へ乗せる。

 完全に隙を突かれた千歳は、まとめて会計をしようとする正樹に、慌てて、

「じ、自分で払いますからっ」

「散歩に付き合って貰ったから、これくらいはね」

 そう笑って、手早く支払いを済ませると、小分けした袋の一つを千歳に差し出した。

 スタジオ・ホフミの社屋が移転してから、こうして正樹と一緒にパン屋を訪れることは何度かあったが、年少の者相手に世話を焼くのが好きなのか、正樹は必ず奢ろうとする。

 十代前半の頃ならともかく、今は稼ぎもある。何度も甘えるわけにはいかない。遠慮もある。

 支払いは自分で済ませようとする千歳だが、毎回正樹の方が上手だった。

 手渡された袋を、不満と気まずさをない交ぜにした顔つきで持つ千歳に、正樹は「行こうか」と笑みを向け促した。

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