後片付け 千歳と彼

 夢が辻から引いた水はいつの間にか消えていた。ロビーは元の薄暗さを取り戻している。

 見回し、荒れ果てた室内の様子に、千歳は少しがっかりした。

 夢が辻の景色が都合良く現実と重なって、破壊されたロビーが元通りになるのではないかと期待したのだが、そう上手くはいかないらしい。

(まあ、そうだよな)

 瞬き暗転。

 次に映ったのは片膝をついて心配そうに覗き見る恭弥の顔だった。千歳を労う言葉を口にしているが、やけにくぐもって遠く聞こえる。

 恭弥の着衣は所々破れ汚れていた。所用で外したと宇佐見は言っていたが、焦げ後のような箇所も見えるので、どこか別の場所で戦っていたのだと、ぼんやり理解した。

(怪我がなければ良いけど)

 後ろには白瀬が立っていたが、こちらは表情こそ険しかったが、特に変わったところはない。

 神妙な顔つきをしているのが意外で、何だか笑ってしまいそうになったが、力尽きた千歳には適わなかった。

 二度瞬き、声が聞こえる。

 後始末と千歳の搬送の二手に分かれようと恭弥が口にしている。搬送にジルが名乗りを上げ、護衛として弦之が恭弥に指名された。稔が片付けに立候補したためらしい。

(ジルと一緒にいるのが嫌なんだろう)

 視界は暗く、耳だけが音を拾う。

 電車を使った方が良い。そう澤渡が提案した。

 こんな時間に電車が運行しているのかと疑問に思い、そう言えば、澤渡は螺旋電車と呼ばれる組織に所属していたと思い出した。

 襲撃の恐れがある。警戒に越したことはない。それに――、と何やら意味深長に言葉を切り、聞き取れない低い会話が続いて、地上だと厄介なことになると結んだので、地下鉄を使うのだろうと千歳は推察した。

 自分の足で歩いた記憶はある。

 ジルが使っていた連盾と呼ばれる道具を脇の下に挟み、それを歩行補助具にして歩いた。

 ジルは横になるようにと何度も勧めてきたが、千歳は自分で歩くとやんわり頑なに断った。

 意地を張っていると言うより、ここで横になると、意識を失いそうで怖かったのだ。

 視界に入るのは足下ばかりだった。

 フラつく足取りと上履きが見え、床の素材が変わっていく。

 ショッピングセンターの光沢ある床から、アスファルト、次いで古い石材へ。

 足音が反響する狭く薄暗い通路のような場所を歩き、漆黒の隙間をまたいで電車の乗降口へと足を踏み入れる。

 電車の内装は覚えていない。

 目は開いているのに周囲は真っ暗で、時折自分の膝が見えるくらいだった。

 そう言えばポン吉はどうしただろうと考えると、右のこめかみ付近に湿った感触が押し当てれらた。温かく蠢く気配がして、ふんふんと鼻を鳴らす音がする。位置的にジルに抱っこされているのだろう。主人の意を汲んで、自分の存在をアピールしているようだった。

 無事ならそれでいいけど、髪に鼻っ面を押し当てるのは勘弁しろと、千歳は文句を付けた。声に出せたかどうかは定かでないが。

 規則的な振動に身を委ねていると、若い女性の声で、

 ――次は、――前、――前、お降りのお客様は――……、

 時々流れるアナウンスはやけにはっきり覚えている。

 気付くと外気が頬を撫でていた。よく知った匂いがする。顔を上げるとスタジオ・ホフミの社屋が見えた。

 安心してどっと気が抜け、それ以降の記憶は無い。

 悲しいかな、そこで力尽きたらしい。

 そこから先は、また夢だった。


 ふと気がつくと元の場所で立ち尽くしていた。

 元の場所? と自問して、あの女の会社の前だと自答する。

 あの女と決別するために、ここまでやってきたのだ。

 それから何だっけ? と首を捻っていると、側で人の声がした。

 それが自分への呼びかけだと気付いて顔を向けると警察官がいた。

 険しい眼差しを向けられ、ようやくここへ至った状況を思い出した。と言っても、半ば夢心地なのに変わりは無い。

 ぼんやりしながら警官の質問に受け答えしていると、視線を感じて顔を上げた。

 ビルの窓から誰かがこちらを見下ろしている。あの女かと思ったが、背広姿の男性だ。

 顔は判別付かないが、警戒しているのは何となく分かる。

 どうやら不審人物として通報されたらしい。

 それはそうだろう。こんな寒空の下、何時間も立ち尽くしていては、奇妙に思われても仕方ない。

 おまけに手には剥き出しのカッターナイフを握っている。

 言い逃れは出来ないだろうと覚悟するが、手に物を握る感覚がない。寒さのせいかと手を開いて閉じ、手ぶらだと認識した。

 驚いて、警官の応答もそっちのけで地面を見回すが、緩んだ手から滑り落ちたわけではないらしい、どこにも見当たらない。

 警官はいっそう不審がって厳しく質問をするが、それより頭痛がして、何を話しているのか聞き取れない。

 こめかみに手を当てると、不意に視界が傾いだ。立ちくらだ。倒れかけたのを、警官に両肩を挟んで支えられ、近くの植え込みの縁へ移動させられると、腰を下ろすよう言われた。

 視界がちらついて、目を開けているのに何も見えない。

 体をくの字に折り曲げ、隣でしゃがむ警官に、自分の名前と、入院先の病院名を告げた。

 タクシーを呼んでくれと依頼をしたが却下された。

 無線で応援を呼ぶ警官の声を、ひどく薙いだ心で聞いた。

 重い体に反して、心は底が抜けたようにすっからかんだった。

 脇目も振らず、一直線に突き進もうとする衝動は収まり、寒さばかりが身に染みる。

 固く凝り固まったいたものがほどけて広がり、気持ちがだらしなく弛緩するのを感じた。

 彼を迎えに来たのは救急車だった。

 回転する赤いランプと白い車体が見えたときはひどく申し訳ない気持ちがしたが、すでに警官にも世話になっている。腹をくくるつもりでストレッチャーに乗せられ横になり、そこで意識は途絶えた。

 翌朝目覚めると、そこは自分の病室だった。

 彼に外出許可を与えた医者は、ひどく腹を立てているようだったが、そこは顔には出しても口にはしなかった。

 不機嫌に理由を問われて、散歩をしたかったと、しどろもどろに返答して、いっそう不愉快にさせてしまったのは失敗だった。

 あの女への復讐については、当然口にはしない。

 自分の身を守るためというより、その頃にはすっかり興味を失って、何故そんなことを思い立ったのかさえ、首を傾げるほど褪せていたからだ。

 医者は色々と質問した後、安静にするよう厳命した。

 素直に従ったのは、医者の無言の剣幕に恐れをなしたことあるが、軽く風邪を引いためだ。

 時期的に季節の風邪を心配されたが、喉がひりつき、鼻がぐずる程度で平熱だ。

 大人しくベッドで天井を見上げる彼の目に、黒い靄はもう映らない。

 思うのは、ネオンサインに輝くあの人物と歩いた昼日中の街並み、そして映画館。待っていた人物。

 彼のことだけだった。

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