準備

 ジルとの他愛ない時間を過ごしていたポン吉だったが、唐突に、ピクリと耳を立て動きを止めた。

「どうしたの?」

 何かを探るように宙を嗅ぐポン吉を見下ろしながらジルが尋ねると、途端に霊獣は彼の腕から飛び出し、床へと降り立つ。窓へと走り、縁へ飛び乗った。

 外を凝視するポン吉の丸い背を、困惑しながら眺めていると、ごぽっと、窓の外からくぐもった水の音がする。同時に窓の右側から透明な球体が群れをなして流れ来た。シャボン玉にも似たそれは、窓の中央部でたむろし、やがて上へと上っていく。

「……何?」

 ジルは身を固くした。水の気配がする。雨が降り出す前の、湿った匂いも感じる。

(魔物?)

 水の気を帯びた異形が移動すると、雨を呼ぶ。山暮らしの長いジルは、その姿を何度か目撃したことはある。

 だが、そうった異形は、主として崇め奉られるほどに強大で、大抵は人の寄りつかない山奥にひっそりと生息している。郊外とは言え、街中に出没することはまずない。

 気泡の消えた窓を警戒しながら眺めていると、ポン吉が縁から飛び降り、ジルの元へ戻ってきた。ジルを見上げながらポン吉は、不機嫌そうに前の片脚で床をバンバンと叩く。何かを催促するような仕草だ。

 突然態度を変えた霊獣を困惑しながら首を傾げ眺めていたジルは、はっとなった。

「千歳に何かあったの?」

 肯定するように、ポン吉は鼻を鳴らした。


 千歳の身に何か起きたのは間違いなさそうだ。すぐにでも部屋を飛び出したいところだが、万が一に備える必要がある。

 幸いポン吉は、苛立ってはいるようだが、切羽詰まった様子はない。装備を調える時間はある。

 ジルは持ち込んだ木箱を、側面の被せ蓋を上にして置くとストッパーを外して開けた。

 蓋の裏には手甲と折り畳まれたたすき紐がくくりつけられている。ジルは手早くたすきを掛け手甲をはめると、木箱に収納された道具を引き出した。

 それは紐で両端を連結した板材の束だった。

 幅九センチ、縦六十センチ。両端を紐で連結した一見非常用の折り畳み梯子に見えるそれは、連盾と呼ばれる術者の道具だった。

 板材の両端には握りの付いた筒状の持ち手、操作ハンドルがあり、内部には紐が収納出来るようになっている。それを操り、板材の角度や隙間を調節することで、鎧戸や扇のように形状を変化させ、攻撃をいなし防ぎ、攻める際は連続で打撃を与えるなど攻守に用いる。

 板材には地面から一定の高さで浮遊するよう術が付与されているので、物品や怪我人の搬送から、高低差のある場所移動に梯子として使用出来るなど、汎用性は高い。

 反面、強度には若干難がある。

 ジルは連盾を開いた。縄梯子状の紐の長さを、隣り合った板材が重なるよう詰める。長さはおよそ二メートル程。両端の持ち手を動かすと、板材に施された術が反応、僅かに発光して、連盾が大きく波打つ。再び間隔を広げ、もう一度詰めるを繰り返し、操作が行き届いている事を確認して、頷く。

「いつもは書物の運搬にしか使ってないけど、補強してきたから大丈夫」

 大道芸に使うすだれのようにも見えるそれを再び木箱へ収めると、背負子になっている背負い部分のストッパーを、木箱をすぐに切り離せるよう調節する。

 その間もポン吉は、まだかまだかと急かすようにその場をぐるぐると回っている。

 木箱を背負い胸ベルトを締め、ジルは頷く。

「――準備完了。ポン吉君、行くよ」

 合図すると、足下の霊獣は応えるように鼻を鳴らした。


 ――同じ頃。

 四階アトリエフロア、廊下。

 ミドリに呼び出された恭弥は、彼女から手渡されたニットターバンと画用紙に視線を落とし、深刻に眉を寄せた。

「窓から出て行ったみたい」

 素っ気なく言ってミドリは、我関せずと言った体で腕を組む。だがその表情は、千歳を止めることが出来なかったせいか、少々きまりが悪そうだった。

「止める暇なんてなかったから」

 言い訳するように付け加え、ミドリは横目で恭弥を伺う。

「これを千歳君が持っていたんだね?」

 端の丸まった画用紙を見つめたまま、恭弥は固い声で確認する。てっきり姿を消した状況を聞かれると思っていたミドリは、意外そうに目を瞬く。

「ええ、ずっと握りしめてたけど」

 言いながら、思い返すように顎に手を当て、

「何か変だった。持ってることに気付いてないって感じかな?」

 千歳の様子がおかしい事には気付いていたが、詮索したところで口を割りそうにない雰囲気だったので、ミドリは放って置いたのだ。

「茫然自失って感じだったけど、何かあったの?」

「……ちょっと面倒が続いてね」

 疎く尋ねるミドリに、恭弥は画用紙を凝視しながら答える。ミドリは怪訝な顔をするが、咎められる心配はなさそうだと、内心ほっとしながら、

「今回の行き先は都心みたい。追いかけるのは大変よ」

 言って、ミドリは開け放たれたままの扉の奥、窓を見やる。

「毎度毎度、派手に痕跡残してくれるから行き先が分かるのは良いけど。そろそろ自分で帰って来るよう言ったら?」

「そうだね……」

 千歳への過保護に物申すミドリに、恭弥は上の空で返事をする。

 相手をされていないことにムッとして、ミドリが言葉を継ごうとするが、エレベーターホールの方から掛けてくる小さな塊に気付いて、面倒臭そうに目を細めた。

「ケモノまで来たよ」

 走り来るポン吉を冷たく見つめ、ミドリはしょうがないと言った面持ちでしゃがむと手招きをする。

「ほらこっち。おいで」

 ミドリの手間で急ブレーキを掛けたポン吉は、恭弥とミドリを交互に見ながら、前脚で床をバンバンと叩く。必死で訴える霊獣に、ミドリは嘆息した。

「はいはい。千歳がまた一人で行っちゃって言いたいんでしょ? 分かってるから」

 膝に置いた手に顎を乗せ、ポン吉の訴えを聞くミドリ。素っ気ない態度ではあるが、口調は優しい。

「ミドリ君、ゲストルームの宿泊客全員を応接間に集めてもらうよう、位高殿に連絡して貰えるかな」

「え、師範?」

 ミドリは嫌そうな顔を恭弥に向けた。千歳と同じく、ミドリもまた、堅苦しい礼儀作法の師範を苦手としているのだ。

「まだ受付にいらっしゃると思うから、内線は通じるよ」

 恭弥は、ミドリの心情など頭にないようで依頼は事務的だ。

「あー……、はぁい」

 ミドリは不承不承立ち上がった。急を要するため、断ることが出来ないのは分かるが、ミドリはつい愚図ついてしまう。

(アイツ、ほんっと面倒なんだから)

 内心、千歳に文句を言いながら、内線を使うため室内へ戻るミドリだったが、再び、今度は誰かがエレベーターホールから走ってくるのに気付いた。振り返り、眉をひそめる。

(誰?)

 銀髪を揺すりながら走り来るのはジルだったが、ミドリは初対面だ。

 ミドリは思わず壁の死角へと身を忍ばせた。人見知りというわけではないが、年相応に身だしなみには気を遣っている。見知らぬ相手に、部屋着、それも絵の具で汚れた着衣を見られるのは、どうあっても避けたい。

 だが、様子が気になるのも確かなので、受話器を取る傍ら、扉の隙間からそっとミドリが覗き見をしていると、恭弥の元へとやって来たジルが視界に入った。

(女、いや、男よね?)

 どっちだ? と、眉根を寄せるミドリ。彼女の覗き見などお構いなしに、二人は会話を始めた。 

「すみません、ポン吉君は……、あ、いた」

 恭弥に問いかけながら、ジルはその足下に座る霊獣を見つけて安堵の笑みを浮かべる。

「良かった。置いて行かれたかと思った」

 ジルはポン吉に笑みを向けるが、すぐに懸念を浮かべて恭弥を見る。

「あの、千歳に何かあったんでしょうか?」

「恐らくは」

 手元に視線を落としたまま、あっさりと肯定する恭弥に、ジルは表情を固くする。

「そんな悠長に構えている場合ではないのでは?」

 少々非難じみた口調のジルに、しかし恭弥は動じなかった。と言うより、先程からずっと、手に持った画用紙に気を取られて、心ここにあらずといった風だ。

(何か揉めてる?)

 扉の陰からこっそり覗き見しながら、ミドリは、やーねえ、と他人事に顔をしかめる。

 と、開け放たれた扉から、ポン吉がするりと入ってきた。外の様子に気を取られていたミドリは、脇を通り抜けたポン吉が、床に散らばった絵の具を蹴散らす音でその侵入に気付いた。

 振り返り、ミドリはぎょっとして、

「あ、こらっ、勝手に入らないで」

 慌てて止めようにも、霊獣は素早く部屋を縦断して窓の下へ到達、振り返ると、外の二人を呼ぶように鼻を鳴らした。

「ちょっと、何呼んで」

「失礼します」

 仁王立ちして怒るミドリの横から、ジルが声をかけた。音もなく近づかれて、ミドリは飛び上がるほど仰天した。

「はっ、はい」

 生真面目に顔をしかめるジルに、ミドリはおっかなびっくり頷く。軽く会釈を返し、ジルはミドリも彼女が描いた動く絵にも興味を示さず、ポン吉の元へと向かった。

「ここ?」

 窓を示すポン吉に従い、ジルは横スライドの窓を押し開け、外の様子を伺い、目を見開く。

「……どうなってるの?」

 呆然と呟いた。

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