再びシネマフロアへ
緊張した後頭部が弛緩するのを感じながら、千歳は苦く深く息を吐く。立ち上がろうとするが膝に力は入らない。地を這うのはゴメンだと、千歳は残った力を振り絞り、何とか中腰になると、フラフラと前進して眼前の壁に縋りついた。
壁についた手の横には、フレーム入りの映画ポスターが飾られている。派手なフォントの題名を視界に過らせながら体を反転させると、壁に背を預け、ズルズルと伝い落ちた。
ぐったりと座り込みながら前を見れば、薄闇に沈む高い天井に、弓なりに配置されたスポットライトとモニタが見える。その下は広いホールだ。
左手奥にポールパーティションに仕切られた通路と、到着点にはモニターを備えた機械、券売機が数台立っている。同じ並びの手前には軽食を提供するコンセッションのカウンターが設えられ、続くシネマホールへの入場ゲートが、アーチ型の屋根を突き出していた。
ホールを挟んで対面には、壁面を利用したグッズ販売の売店とワゴンが見え、その奥には案内所兼スタッフ待機所の四角い屋根が見えた。
角柱を囲むようにブロックタイプのソファが配置されたここは映画館、もっと言えば、数時間前、ヌエに追いかけられ逃げ込んだショッピングセンター内シネマフロア、そのロビーであることが分かった。
千歳が背を預けるのは、ロビーの一番奥、エレベーターに連なる壁面だ。右にはエレベーター昇降口、左は待合所らしく、背面のあるソファが並び、クレーンゲーム機が置かれている。
そこまで確認して、千歳はようやく落ち着きを取り戻した。
冷えた頭で、恭弥へ連絡を入れなければと、サコッシュに手を入れる。手探りで取り出した端末がやけに重い。支える手首が震え、自らの消耗を自覚させられて、気が滅入りそうだった。
力の入らぬ指で電源を入れようとする。が、予想はしていたが、画面は黒く沈黙して反応しない。意地になって何度か押すも、無駄に力を使うだけだった。
端末を握る腕をだらりと下ろし、千歳は深々と嘆息する。
もう一度サコッシュに手を入れようとして、やめた。
魔物の残骸を片づける術札の他、連絡用の術札も預かっているが、使う気にはならなかった。
紙飛行機型のそれは、相応の速度で宙を飛ぶ。紙飛行機が恭弥の元へ届くより先に、ポン吉が千歳の居場所を見つけるだろう。札の無駄遣いだと、千歳は投げやりに考える。
せめて時間ぐらいは知りたかったが、見える位置に時計がない。券売機の先に設置されたエスカレーターのさらに奥、僅かに垣間見える窓の外は黒一色。深夜である事意外は分からない。
夢が辻を通過すると、時間の感覚が狂う。
体感としてはほんの数十分だが、実際は数時間は経過しているだろう。
(やっぱり腕時計は必要かな……)
ピアノ演奏の邪魔になると付けないでいたが、我を折るしかないかと仕様なく考え、
(何やってるんだか)
千歳は苦く顔を歪めた。
アトリエフロアの窓から外へ出たことは覚えている。上履きのまま、ビジネス街の石畳を歩いたことも。
千歳とすれ違い重なったあの人物、男性。
彼の記憶と感情は、夢が辻では千歳のものだった。
堅実に積み上げた足場が呆気なく崩れる恐怖と焦燥。周囲の人々に対する砂のような諦観。それと意識できないまでに白熱した憎悪。……氷のような決意。
今は全て過ぎ去っている。
千歳に残っているのは、ノイズ混じりの古いフィルム映画のような映像だけだった。色褪せた記憶が他人の物だと、はっきり区別出来る。
千歳はいっそう脱力した。肩を落とし、床に両腕を投げ出す。
誰もが知っているようで知らない事実が割とある。
起きている時に夢は見ないもその一つで、どんなに夢見がちと言われようが、脳はしっかりと目覚めて機能している。
夢が辻はその名が示すとおり夢の世界だ。人は眠っているときの曖昧な意識でしか干渉できない。
予知を専門に扱う術者は夢が辻を利用するというが、幻よりも希薄なそこと接触するには、瞑想状態でなければ適わない。覚醒した意識化では、曖昧な夢を読み取る事が出来ないどころか、逆に強い意志の力で接触すると、夢が辻の方が崩壊する。
すぐに再生するとは言え、それほどまでに脆い夢が辻。
しかし千歳は目覚めたまま、しかも生身で入り込むことが出来る。
専門家でさえ困難を極める夢が辻へのアクセスを容易に行えるのは、神域で溺れた事が原因だった。
神域に満ちる神気と夢が辻の気は、非常に似ているらしい。千歳は、一時的ではあるが、その気に肉体の波長を合わせる事が出来る。
神域と同等の気を纏う、極めて霊性の高い存在へと、姿を変える事が出来るのだ。
と、言えば何やら聞こえは良いが、
(……つまり幽霊っぽくなるわけで)
壁抜けは出来る、体も浮くほどに軽くなる。人の眼にも映らなくなるといった特性を発揮するが、溺れて死にかけた特典としては微妙だ。何よりゴッソリと体力が削られる。
肉体の質を変化させるのだ。想像以上に体力気力を消費する。
こういった特性を損得で勘定したくはないが、有益に働いたことは、今のところ皆無だった。
そして、そこまで消耗して夢が辻へと入る理由は、実のところ千歳は自覚していない。
だが、正樹は千歳が夢が辻を彷徨う理由について、はっきりと言い切った。
――千歳は怖いことから逃げているんだね。
笑いながら断言する正樹の言葉は、無邪気な笑顔と共に千歳の胸をザックリ刺したものだ。
極限まで張り詰めた緊張を回避するための、一種の逃避行動らしいが、何故行き先が夢が辻なのか、他人の記憶を追体験するのかは分からない。
――本当に?
正樹は笑いながら問い返す。
――ねえ千歳。
――人が感じる今は、本当に今なのかな?
正樹はそう謎めかした。
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