夢が辻
肺を空にするように大きく息を吐くと、千歳は膝から崩れ落ちた。
膝と手を床に付き、呆然と眼を見開く。どっと吹き出した汗が、額や首を伝うのを感じる。磨かれた床材に大粒の汗がボタボタと落ち、溜まりを作る。激しく脈打つ音が耳に響く。荒い呼吸は、震えて安定しない。
しばらく堪えていると、鼓動が落ち着いた。呼吸も安定する。
汗に濡れた服が冷たく素肌に張り付き、体温を奪う。寒さに身震いするが、体の芯は燃えるように熱い。
ひどく消耗していた。全身の力が床に吸い取られる感覚さえする。
袖から覗く指先が緑のガラス質に変じているが、握りしめていたカッターナイフの感触が手に生々しく残っていることの方が心に重い。
今、その手は空。何も握っていない。
大きく息を吐いて、
(……やってしまった)
四つん這いのまま項垂れ、千歳は激しく後悔する。
術者によると、人は経験から得た情報や知識といった記憶とそれに付随する感情を、脳の他、全身を巡る霊力にも蓄積しているという。
そして主に睡眠時、記憶を整理する傍ら、それらを余剰霊力に複製しては、体外へ排出しているとのことだ。
心身を健全に維持するための新陳代謝だという。
経験から得た情報、記憶は、それがどのような類いのものであっても生存には不可欠だ。
だが、記憶に付随する喜怒哀楽のうち、怒りと悲しみは、過ぎると生存そのものに悪影響を及ぼす。
だから心に濃く染みついた負の感情を、元凶となった記憶と共に霊力で希釈し体外へ放出することで、精神の安定を図るのだという。
好ましくない記憶や感情を丸ごと処分するのではなく、カーボン紙を用いて複写した手書き書類の、原本か複写かのどちらかを処分するような案配らしい。
経験は残るが、鮮明さは選択出来るといった具合だ。
体外に放出された霊力は、同じように放出された大勢のそれと混ざり、ほどけ、やがて個としての形や意味を失い、霊的な流動体として大気中に溶ける。
大気には、酸素や窒素など、科学で分類された物質の他に、山海や地中から吹き出した様々な気が元より混在している。霊的な流動体もその一部となり、共に流れ消え去るのが本来のあり方だ。
しかし都市部に林立する建物群、細部まで舗装された現代の街並みは、その構造から気の流れを堰き止め、そればかりか、まるで水槽のように、あらゆる気を溜め込んでしまう性質がある。
都市の規模や人口に比例するそれは、大都市ともなれば、その質量で大海を形成するまでに至る。
良い状態ではない。
角や辻に凝った気は、人の心身を圧迫し魔物を呼び寄せる。場合によっては魔の異空間さえ作り上げてしまう。
だが、濁らなければ、有益に働くこともある。
気は、日中、そこに生きる人々の活力や思念に触発され、奇妙に反応して、微弱なエネルギーを生み出す。光の粒にも似たそのエネルギーは、街の景色を乱反射しながら写し取り、街そっくりな虚像を作り上げる。
都市に重なる都市の蜃気楼。
幻ともいうべきそこは、人の未来を映すという。
発生したエネルギーが、源泉からして、人の記憶や感情が元になっているのだ。内部に溶け消えた人の情報を再構築しながら、より良い未来と、そこへ到達するまでの道筋を勝手に演算して組み上げ象る。
と、術者界の識者はそう難しく説明するが、平たく言えば、予見や未来視を幻として見せるのだ。
そして霊力を持つ以上、人は誰でも眠っている間に、そこから断片的な未来の情報を得ることが出来る。程度に違いはあるが、予知夢は大体これで説明がつくという。
都市という器に注ぎ込まれた人の記憶と感情を元手に、未来という新たな情報を生成、共有する。
自然災害や、社会問題など、様々な要因によって発生する不測の事態を予測、回避する為に、都市の住民が運営し利用するクラウドサーバーといったところだろうか。
文明の発達による弊害をちゃっかり利用するあたり、人類も相応に進化しているといえるのかもしれない。
人の情報と情動が交わる海の中、未来を夢見る蜃気楼の水没都市。
夢が辻。
術者はそう呼んでいる。
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