水の底 誰かの記憶 光

 どれぐらい経っただろうか。

 帰宅する会社員たちの流れを影のように感じながら立ち尽くしていると、不意にくぐもった水の音がする。幻聴かと思いきや、瞬き一つの間に、風景が色を変えた。

 音が止み、人通りも絶える。

 水底のような、暗い青の世界だ。

 呆気に捉えて周囲を見回していると、通りの向こうから、誰かがやって来た。

 燃えるような髪色は金か緑か、残光を残しながら揺れ動き、真っ直ぐに見据える眼も同じ光を湛えている。黒い輪郭と相まって、人型の灯籠にも見えるその人物は、確実に自分を目指して歩み来る。

 思わず身を引くが、相手の方が早かった。気付けば、光る双眸は目前だ。

 ぶつかる、と、咄嗟に身構えるが、衝撃はこなかった。

 代わりに聞こえる声は、


 ――行くんだろう?


 強く地面を蹴り、浮上しながら、自分は何と答えたのだろうかと考え続けた。


 明るく眩しい場所を歩いていた。

 空は快晴、通りは人であふれている。

 開放されたテラス席でゆったりと過ごす人々を、この寒空に物好きなと奇異な目で見るが、明るい色の薄着を見て、今が春だと気付く。

 じゃれつく子供の手を笑顔で引く親子連れや、仲睦まじげに飲食店を選ぶ男女がいて、流行の服で着飾った若い女性達がお喋りをしながら歩いている。少年達が、ふざけながら駆け抜けていく。

 休日だろうかとあたりをつけるが、空中を踊る光がチラチラと眼を差すので、細かい景色を判別出来ない。

 地面を踏みしめる感触に違和感を感じて見下ろせば、光の合間に見覚えのない靴が見えた。形状から上履きではないかと推測して、歩きづらいのそのためだと納得した。

 上着も大きなゲージのニット地で、やたらとダブついている。

 長い袖から手を外に出すと、カッターナイフを握る手が橙色のガラス質に透き通っていた。カッターナイフを落とさないよう、慎重に指を開いてみると、見た目の硬質さとは裏腹に動きは滑らかだ。

 随分と奇妙な。

 不思議に思いながら、しかし深く追求する気にならなかったのは、単純にその色が気に入ったからだろう。

 琥珀に金が煌めく黄昏色は、あの日、彼女の笑顔を彩った輝きだ。

 手や指が普段より細く見えるが、些細な事だ。

 足は自分の意思に関係なく動き続けている。行きたい場所があるわけでもないので、動きに任せてそのまま進んだ。

 遠く、見覚えのある建物が見えた。

 地元のショッピングセンターだと分かったときには、建物の内部、シネマフロアにいた。

 ホール内、人々のざわめきがくぐもって反響しながら聞こえる。

 元より暗い室内、外よりは幾分視界は効くが、それでも不自然に光が差すので、行き交う人々の顔形は分からない。

 休日の映画館は混雑を極めていた。

 コンセッションやシネマホールへの入場口には長蛇の列が出来ている。ポップコーンのトレイを持った客が、入場ゲート前で上映時間を待っていた。横を通ると、香ばしく油っぽい匂いが鼻についた。

 正面、上映中の映画のポスターが貼られた壁面がある。

 規則的に並ぶフレーム入りのポスターは、面材に白く光が反射し、何が描かれているのかは判別出来ない。

 その中の一枚を背に、誰かが立っていた。

 こざっぱりとしたシャツとズボンに、気軽な姿勢の人物は、時折手にした端末を確認して、誰かを待っていることが窺える。

 光の反射で顔は分からないが、見知った誰かのような気がする。

 不意に顔を上げた相手がこちらに気付いた。驚き、怯んだように後ずさる。

 こちらを凝視しながら硬直する相手を見ているうちに、どうしてだか、無性に腹が立ってきた。

 のんきに休日を楽しむ相手が許せない。

 他人の幸福を妬むなど卑しいにも程があるが、八つ当たりしたい気持ちが押さえられない。ムカムカとしながら、床を踏み鳴らす勢いで相手に近づくと足を止めた。相手は恐れをなした様子で立ち竦んでいる。

 兄に似ていると、間近に接してそう感じた。

 就職を機に家を出た兄は、それから一度も帰省していない。盆も正月も帰ってこない兄に、両親は、あれだけ面倒を見てやったのにと愚痴を垂れっぱなしだった。

 相手を見て腹を立てたのは、そんな両親を面倒に思い、その不満を兄に似た相手へと向けているからだろうか。

 いや、違う。兄と似ているのは当然だ。何故なら、目の前にいるのは……、

 ずっと黙っていた相手が、静かに手を差し出した。掌を上にして、何かを要求する素振りを見せている。口が動き、言葉を発しているのが分かった。

 音なき言葉に突き動かされて、手に握ったカッターナイフを相手に突きつける。

 何か気の利いた皮肉をぶつけて、相手を傷つけてやりたかった。

 今、自分や彼女が置かれた状況を、どうにかして訴えたい。

 大変なんだ、誰も助けてくれないんだと。

 どうしようもない叫びを、聞いてくれる確信があった。解決策をくれるとさえ思っていた。

 怒りにまかせて喚き散らした気もするが、光に溶けゆく景色の中、カッターナイフを手渡したことしか覚えていない。

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