水の底 誰かの記憶 悪夢

 病院で目覚めると、年を越していた。

 医者からは二週間意識を失っていたと告げられたが、それより彼女が気になる。

 尋ねると、転院したと告げた後は、プライバシーに関わると言って、それ以上の返答は避けた。

 殴打された後頭部の傷は殆ど完治していた。検査でも異常は見つからず、なら退院はすぐに出来るかと思いきや、何故か体が動かない。

 医者によると、栄養失調に近い極度の衰弱状態だと言う。生活習慣を細かに尋ねられ、難しく顔をしかめる医者に、暫く入院するよう言い渡された。


 端末の使用は許可されていたので、あの出来事がニュースになっていないかを調べてみると、表だった報道では、路上での喧嘩として、小さく扱われているだけだった。

 だが、ネットではとんでもない事態になっていた。

 あの日、彼女を助け出したライブハウスの様子が、動画サイトのあの女のチャンネルに投稿されていたのだ。

 見られていると感じたのは、機械の目だったらしい。

 室内の物品を滅茶苦茶に投げる様子が映し出されたショート動画のタイトルは、話し合いをしようとしたらキレられた。

 平素なら見向きもされないだろう、頭の悪いタイトルだが、再生回数はそろそろ七桁へと到達しそうな勢いだ。

 次いで投稿されているのは、身なりを整えたグループメンバーによる、大切なお知らせと題した近況報告だった。神妙な作り顔で語る内容は、被害者は自分たちだと、涙ながらに延々と訴える、いわゆるお気持ち動画というやつだ。

 再生回数も五桁に上り、関心の強さを示しているが、コメント欄は非表示であるため、どのように取り沙汰されているかは分からない。

 彼女の方はと言うと、閉鎖されたチャンネル以外の、他のコミュニティサイトは健在だ。あの日を境に情報は更新されていないが、コメント欄は解放されている。書き込まれているコメントの内訳は、応援、疑問、非難で等分といったところか。

 年末年始に世間を激高させる脱税事件があったらしく、注目が分散されたのは幸いだったが、関心を寄せる者は依然多い。

 現状、経緯を知らない者がこれらの情報を見て、一連の事件をどう判断するかは分からない。他にも情報はないかと探してみるが、匿名掲示板が下世話な憶測を飛ばす程度で、役に立ちそうな物はなかった。

 ただ、ライブハウスで暴れる自分の姿は、顔と共にはっきりと映っている。

 試しに自分の名前で検索をかけてみると、映像にまつわるかなりの情報が表示され、身元が割れていると知れたが、ネットの反応を検索する気にはならなかった。想像力が貧困とは言え、悪し様に罵られていることぐらいはさすがに分かる。

 現実でもこれから荒れるだろうと、他人事のように考えた。


 面会謝絶が解かれ、早速両親が来た。

 見舞いではないと、予め予想はしていたが、実際その通りだった。

 顔を見るなり激高して怒号を飛ばす父親と、その後ろで冷たい視線を送る母親を、ひどく遠くに感じながら、彼らの怒りが収まるのを待っていると、見かねた医者が、他の患者に迷惑だと仲裁に入った。

 追い返された両親は、翌日、入院に必要な品を持って来ると、社会人なのだから後始末は自分でつけろと厳命し、それ以降、姿を見せなかった。


 警察が事情を聞きにやってきた。

 ライブハウスの経営者から、器物損壊の被害届けが出されたと言った。

 証拠としてあの映像が提出されたが、受理はまだされていないらしい。

 ライブハウスでの出来事を聞くだけ聞いて、引き上げていった。


 会社から上司と人事担当者がやってきた。

 見舞いもそこそこに硬い顔で、事情がどうあれ、これだけ騒ぎになってしまったからには処分は免れないと告げ、帰って行った。

 見舞い品の菓子折は、開封せずサイドワゴンの下へ収納した。


 彼女の両親が来たことが一番堪えた。

 娘の問題に巻き込んで申し訳ないと頭を下げる彼らは、傍目にも憔悴しきっていた。

 彼女について尋ねると、やつれた笑顔で、心配ない、大丈夫だと繰り返すだけで、詳細は口にしなかった。

 その言葉が、彼女の容態ではなく、彼らの望みであると、容易に察しが付いた。


 自分の足で歩けるようになるまで、更に一週間かかった。

 重い体を引きずりながら、病院の洗濯室で着替えを洗う。

 ベンチに座り込み、回る乾燥機をぼんやり眺めていると、右から左へ波打つように黒い靄が流れる。刹那膨らみ、嘲笑う人の顔を象ると急速に萎んで空気中に溶け消えた。

 目覚めて暫くしてから見るようになった幻だ。普段は病室の天井に渦巻き、移動先でも自らの存在を示すように眼前を漂う。

 それが学生時代に見た黒い靄と同質の物だとは分かるが、対策を取る気力は湧かなかった。

 今後の身の振り方を考えることさえ、ひどく億劫なのだ。

 体のどこからか空気漏れしているような倦怠感。思考は組み立てようとする端から崩れ落ちていく。

 何もかもが、悪夢の中の出来事のようだった。

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